第1話 ひかりの日常



 チュンチュン、と小鳥のさえずりが聞こえる。カーテンの隙間からこぼれる朝日が目にまぶしい。

「ふわあ~。よく寝た~」

 布団の中で大きく伸びをしたあと、ひかりはゆっくり体を起こした。

 まだ頭がぼんやりとする中、ひかりはベッドから下りて、窓に近寄ってカーテンを勢いよく開けた。

「わあ、良い天気。でも、今日もすごく暑くなりそう……」

 強烈な日光に目を細めつつ、ひかりはそんな感想をもらす。

 夏休みが明けて二週間ばかりが過ぎたが、陽射しはまだまだ真夏といった感じだ。暦の上ではもう秋だろうに、これも地球環境が変わってきているせいなのだろうか。

「早く涼しくならないかな~。暑いのってあんまり好きじゃないし。あ、でもその代わりアイスはおいしいから、悪いことばかりじゃないか」

 などと、どうでもいいようなことをつぶやきつつ、ひかりは腰を反らして伸びをした。

 みなもとひかり、十歳。

 四ツ谷小学校に通う、どこにでもいる普通の女の子だ。

 好きな食べ物はドーナツ。嫌い食べ物はピーマン。

 趣味は恋愛小説や恋愛マンガを読むことと、お母さんといっしょにお菓子を作ること。それから、一人で妄想して遊ぶのも大好きだ。

 最近だと、主に好きな男の子のことで。

「今日は、翔くんといっぱいお話できたらいいなあ」

 意中の彼の姿を思い浮かべながら、ひかりはうっとりした顔で呟く。頭の中では、彼との甘い妄想でいっぱいだ。

「ひかり~。いつまで寝てるの~。遅刻しちゃうわよ~」

 好きな男の子と妄想の中でデートをしている途中、階下から聞こえてきたお母さんの声に、ひかりははっと我に返った。

「え? 遅刻……?」

 だらだらと冷や汗を流しながら、ひかりはギギギと油の切れたロボットのごとく、ベッドのそばにある目覚まし時計を見た。

「いやあああああ! 寝坊しちゃった~っ!」

 悲鳴を上げながら、ひかりは慌ててパジャマを脱ぎ始めた。



「も~、お母さん。どうして起こしてくれなかったの~っ?」

 急いで小学校の制服に着替え、顔を洗って髪を整えたひかりは、台所にいるお母さんの元へと行って、そんな不満をこぼした。

「何度も起こしに行ったわよ。でも全然起きないんだもの。大体ひかり、ちゃん目覚ましセットしてなかったの?」

「うっ。えっと、昨日はつい忘れちゃって……」

「だったら自業自得じゃない。本当にこの子は昔からそそっかしいんだから」

 気まずそうに目を泳がせるひかりに、お母さんは呆れたように肩をすくめた。

「ひかりももう十歳なんだから、もっとちゃんとしなきゃダメよ。このままだとお母さん、おばあちゃんになってもひかりの面倒を見なきゃいけない気がするわ」

 言って、お母さんは最近白髪が悩みらしい黒髪をため息混じりになでた。

早くにひかりを産んだため、まだ三十代前半と若いが、少しずつ歳を刻むように白髪やしわが増え始めている。大人は大変だ。

「……大人になったら、もっとしっかりした女の人になってるもん。いつまでもお母さんに迷惑かけないもん」

「はいはい。ほら、リボンが曲がってるわよ」

 ふてくされたように口を尖らせるひかりに、お母さんは苦笑を浮かべつつ頭についた両サイドのリボンを直した。

 ピンクの水玉模様のリボン。去年お母さんに買ってもらったもので、今では毎日のようにつけている、ひかりの大のお気に入りだ。

 このリボンを買ってもらったばかりの頃は、すごくうれしくて何度もお母さんやお父さんに見せびらかしていたっけと去年のことを思い浮かべて、ひかりはなんだかこそばやゆい気持ちになった。

 大人になったらちゃんと自立して親孝行するつもりでいるが、なんだかんだお母さんのことは大好きだし、当分はこんな風に甘え続けてもいいかな、とも思うひかりなのだった。

「はい、これでよしっと。あ、それと、おばあちゃんのお守りは持っているの?」

「うん。ちゃんと首から下げてるよ」

「そう。ならいいわ。……っていけない! もうこんな時間!」

 そばにある壁時計を見て、お母さんが焦ったような声を上げた。

 見ると、始業時間が間近に迫っていた。ここから小学校はさほど遠くはないが、今からでも家を出て走らないと遅刻は確実だ。

「わわわ! い、急がないと遅刻しちゃう~!」

「ひかり、はい水筒! それと、ソファーに置いてあるランドセルも忘れずに持っていくのよ?」

「わかってる~!」

 お母さんから水筒を受け取って、ひかりはランドセルがあるリビングへと向かう。

宿題をする時などは自室に置いてあるのだが、明日の準備をする際、お母さんに忘れ物がないようリビングでチェックしてもらっているのだ。忘れ物が多いひかりにとっては、もはや欠かせない習慣となっている。ちょっとばかり情けない気もするが。

「ひかり、おはよう」

 リビングに向かうと、お父さんがソファーに座りながら、読んでいた新聞紙からのほほんと顔を上げた。

 お父さんは市役所勤務の公務員で、この時間はいつも新聞を読んでゆったり過ごしている。市役所が歩いて数分とかからない場所にあるので、時間に余裕があるのだ。じつに羨ましい話である。

「お父さん、おはよう!」

「はは、今日はお寝坊さんだったのかい?」

「うん、そうなの。だからすごく急いでるの!」

 話しつつ、ひかりはソファーに置いてあるランドセルを手にとって背負った。

 そんなひかりの様子を、お父さんは微笑ましそうに目を細めてながめる。

 お父さんはとても穏やかな性格で、怒ったところもあまり見たことがない。

また、お母さんと同い年なのに、すごく若々しく見えるのも自慢の一つである。

「朝ご飯は食べていかないのかい?」

「うん! 学校に間に合わないから!」

「そっか。車に気を付けて行くんだよ?」

「わかってるー!」

 お父さんにそう返事をしつつ、ひかりは玄関へと向かう。

「あっ。そうだ!」

 途中引き返して、ひかりは戸棚に置かれている一枚の写真立てに、そっと手を合わせた。

「おばあちゃん、おはよう。今日も学校に行ってくるね」

 数年前に他界したおばあちゃんに、ひかりは静かに声をかける。

 写真の中のおばあちゃんは、自宅の庭の前で穏やかに微笑んでいた。こうしていると、今にもおばあちゃんに話しかけられそうな気さえするのだから不思議なものだ。

 おばあちゃんはひかりが生まれた時からこの家にいて、よく面倒を見てくれた。おじいちゃんはお父さんが小さい頃に早くに亡くなり、女手一つでお父さんを育てていたので、余計に孫であるひかりがかわいかったのかもしれない。

 でも、甘えさせるばかりでなく、時には厳しくしつける時もあった。

 叱られて泣いてしまったこともあったが、そのあとはそっとひかりを抱きしめて、ずっとなぐさめてくれた。

 そんな厳しく、けれどすごく優しいおばあちゃんのことが、ひかりは大好きだった。

 なので、毎朝おばあちゃんに声をかける習慣を、一度も欠かしたことがない。

 きっとおばあちゃんも、天国からひかりのことを見守ってくれているだろうから……。

「ひかりー! 急ぎなさーい! 本当に遅刻しちゃうわよ~っ!」

「はーい! じゃあ行ってきまーす!」

 元気よく両親とおばあちゃんにそう告げて、ひかりは家を飛び出した。



 ひかりの通う四ツ谷小学校は、小高い丘の上にある。夏場は比較的涼しいが、冬場はいっそう寒くなるのが困りものだ。あと、長い坂を上らなければならないところも、悩みの種でもある。

 そんな坂続きの道を必死に上ったひかりは、汗だくになりながらも朝のチャイムが鳴る前にどうにか小学校にたどり着いた。

 くたくたになりながらも、ひかりは自分の教室……五年二組の戸を開けた。

「ふえ~。どうにか間に合った~」

「あ。ひかりちゃん、おはようございます」

 と、教室へと入ってきたひかりを見て、そばにいたおさげ頭の女の子が声をかけてきた。

「おはよう、奈絵なえちゃん。足がもうガクガクだよ~」

「……ひょっとして、またお寝坊してしまったのですか?」

「うん。目覚ましセットするの、うっかり忘れちゃってね~」

 奈絵の質問に答えつつ、ひかりは自分の席に向かってランドセルを置いた。そして椅子に座り、だらしなく机の上でうつ伏せにもたれかかる。

「あ~。疲れた~」

「ふふ。お疲れさまです。間に合ってよかったですね」

 いっしょに付いてきた奈絵が、ひかりの疲労困憊とした様子を見て、可笑しそうに口元をほころばせた。

「本当だよ~。遅刻しちゃったら罰として宿題が増えちゃうんだもん。それだけは絶対に阻止しないと」

「そういえばひかりちゃん、よくお寝坊はしますけれど、不思議と遅刻はしたことがありませんでしたね」

「まあね。足は早い方だし、全速力で走ってきてるしね。そのかわり、朝ご飯は食べられなかったけれど」

「まあ、それはいけません。保健室に行って事情を話せば、なにか食べ物がもらえたはずですけれど……今からでも私が代わりに行ってきましょうか?」

「ううん。もうじきチャイムも鳴っちゃうし、またあとで行くよ」

「そうですか。あまり無理はしないでくださいね?」

「うん。ありがとう、奈絵ちゃん」

 心配そうに眉を八の字にする奈絵に、ひかりは微笑を浮かべて礼を言った。

 奈絵とは小学校に入学して以来の付き合いで、何度も同じクラスにもなっている大親友である。

 とてもお行儀が良くて、優しくて、頭もすごく良くて。これまで、奈絵にはどれだけ宿題などで助けられてきたことか。

 それがすごく申しわけなくて、昔、奈絵に謝ったことがあるのだが、

「気にしなくていいんですよ。お友達なんですから、助け合うのは普通のことです」

 と、にこやかに言ってくれた。

 それを聞いてひかりが猛烈に感動し、奈絵とは一生の友達でいようと心に誓ったのは、言うまでもない。

「なあ翔。休み時間になったらサッカーしようぜ!」

「いやいや。ここは野球だろ、野球」

「ちょっと~。翔くんはあたしたちとおしゃべりする予定だったのよ。急に割り込んでこないでよ」

「んだよ女子。翔は男なんだから、おれたちといっしょに遊んだ方が楽しいに決まってるだろ」

「そうだそうだ。女子は引っ込んでろ!」

「なによ~。男子ってこれだから嫌いなのよね。バカだし汗臭いし、女子ってだけですぐ邪険にするし! あ、もちろん翔くんは違うのよ?」

 と、ふいに聞こえてきたクラスメートたちの騒々しい声に、ひかりは思わず体を起こして、騒ぎの中心──斜め前の席を見やった。

「みんな、落ち着いて。じゃあこうしようよ。女の子たちとは先に約束していたから、今回はそっちを優先して、その次の休み時間になったらサッカーか野球をしようよ」

 男の子六人と女の子三人に囲まれている中、翔と呼ばれた少年は、至って冷静にそう提案して、さわやかな笑みを浮かべた。

 篠宮しのみや翔。

 去年、都会からこの田舎の小学校へと転校してきたクラスメートで、サラサラ黒髪ヘアーが特徴の美少年だ。

 それだけでなく、成績は優秀。スポーツ万能。老若男女問わすだれにも明るくて優しい、まさに完璧を体現したかのような男の子なのである。

 なので、翔を密かに想っている女子は、クラスや学年問わずとても多い。ああして女の子たちが翔のそばにいるのも、少しでも彼と親密になって、あわよくば、カップルになろうと狙っているからだ。

 そしてそれは、ひかりとて例外ではなく……。

「どうしたのですか、ひかりちゃん。急にぼーっとして……」

「……な、奈絵ちゃん? う、ううん。なんでもないの」

「あ、ひょっとして篠宮くんに見とれていたのですか?」

 奈絵に見事言い当てられ、ひかりは思わず「うっ」とのけ反った。

 翔を好きになったきっかけは、はっきり言って単なる一目惚れだ。去年たまたま廊下を歩いて翔とすれ違った時に、彼の姿を見てハートを射抜かれてしまったのだ。

 ちなみに奈絵には、翔が好きだということを前もって伝えてある。

 というのも、現在奈絵はお付き合いをしている男の子がいるみたいで──見るからにとてもおとなしい子なのに、なんだか意外である──いろいろと相談にのってもらったことがあるのだ。

 しかしその甲斐もむなしく、今もなお、ろくに話もできていない関係が続いている。

 いや、近くを通れば挨拶ぐらいは──たいてい翔からだが──するし、決して仲が悪いわけではないのだが、ただのクラスメートという関係から、なかなか進展できずにいるのだった。

「気になるのなら、ひかりちゃんも遊びに誘ってみたらどうですか?」

「む、無理無理! だってなにを話せばいいかわからないし、それにみんなもいるし……」

 奈絵の提案を、ひかりは全力で首を振ってことわる。

 基本的にはだれとでも話せるひかりではあるが、翔を前にすると胸がドキドキしてしまい、頭が真っ白になってしまうのだ。

 見かねた奈絵がいっしょになって翔に話しかけたこともあったのだが、結局緊張してなにも話せず、翔を困惑させるだけに終わってしまった。せめて共通の趣味でもあればよかったのだが、翔は見るからにスポーツ少年といった感じだし、スポーツになにも興味がないひかりにしてみれば、話を合わせられる自信がなかった。

 それに、翔が好きな女の子はいっぱいいる。ひかりより可愛い子だってたくさんいるだろうし、自分なんかが参戦したところで、勝ち目があるとは思えなかった。

「でも、ひかりちゃん。自分から話しかけないと、友達になることすら難しいと思いますよ?」

 消極的なひかりに、奈絵がごく真っ当なことを言う。

「うん……。でも、今はまだこのままでいいかな。こうして見ていられるだけでも幸せだし」

 言葉通り、うっとりとした顔で翔を見つめるひかりに、

「この分だと、まだまだ先は遠そうですね……」

 と、奈絵は苦笑を浮かべた。

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