第12話 愛の証明(解決編2)
「どうしたんだ、ユタ。そんな風に窓際で遠い目をして」
「ねー。なんか青春ドラマの悩める主人公みたいなことをしてるけど、全然似合ってないよね~。小道具係の方がよっぽど似合ってるよ」
翌日。朝のHRが終わったあとのことだった。教室でなにをするでもなく窓辺に立ってぼんやりしていると、剛ちゃんとみずきちが軽口と共に背中越しから声をかけてきた。
「……もうカメラにも映ってないじゃん、それ」
などとツッコミを入れつつ、ぼくは体の向きを変えて、窓の縁に腰を預けた。
「ツッコミが弱い~。いつものユタなら『ぼくは演者ですらないんかーい!』ってバク宙を決めながらハリセンで叩いてたところなのに~」
「調子が悪いとしか言えんな。いや、むしろ気味が悪い」
もはや、どこから突っ込んだらいいのかわからない。
「そういう気分じゃないんだよ、今は……」
嘆息混じりに言って、ぼくは天井を見上げた。
いつもとなにも変わらない天井。普段はなんとも思わない天井が、今だけはとても遠くに感じる。どれだけ手を伸ばしても、まるで届きそうにないくらいに。
「星なんかよりも、すぐそこに見えているのになあ……」
「聞いた剛ちゃん? ユタがついに夢見る乙女みたいなことを言い出しちゃったよ?」
「お薬の時間かもしれんな」
さっきから親友二人がうるさい。あと、いちいち毒を仕込んでくるのもやめてほしい。
「まあでも、ユタが落ち込むのもわからなくはないがな」
いい加減煩わしくなって教室から出ようかと思った矢先、おもむろに剛ちゃんがぼくの横へと立ち、肩を並べて言った。
「話は昨日聞かせてもらったが、確かに難しい問題ではある」
「なんて言っても家族の問題だしね~。事情も事情だし」
頷きながら同意するみずきち。二人には昨日の出来事を……大場先輩がロリコンだと偽っていたことや、実はエリカ先輩と血縁関係だったことも含めて全部話したけれど、ぼくほどショックは受けていないようだった。
それを薄情だと言い切るのは簡単だけど、剛ちゃんもみずきちも特殊な趣味や性癖のせいで周りから色々言われた経験もあってか、精神的にタフなのだ。だからこの問題も、二人なりに思うところはあっても、冷静に(最初こそぼくを茶化してしていたけど)捉えているのだと思う。落ち込んでばかりいるぼくとは違って。
「それで、ユタはどうするつもりなの?」
と、ぼくより頭一つ分は小さいみずきちが、上目遣いで訊ねてきた。
「どうするって……どうすることもできないよ」みずきちの視線から逃げるように、ぼくは顔を逸らしながら応える。
「だって、エリカ先輩にも忘れるように言われているのに……」
「じゃあ、質問を変えるね?」
そう言って、不意にみずきちはぼくの頬に優しく両手を伸ばし、顔の向きを正面に戻して視線を合わせてきた。
「ユタは、どうしたいの?」
「どう、したい……?」
「今考えないといけないのは、部長たちがどうこうより、お前がどうしたいかだろう?」
横に立つ剛ちゃんが、前を見据えたままみずきちの言葉を継ぐ。
「確かに複雑な問題ではあるが、だからと言って放置していいとも思えん。このままだと、ずっとすれ違った状態になるぞ」
「けど、それはエリカ先輩と大場先輩の問題であって、ぼくたちみたいな第三者が介入していいことじゃ──」
「だったら、無理やりにでも関わってしまえばいい」
剛ちゃんは言う。まるでぼくの背中を押すように。
「少なくともいつものユタなら、そうするはずだろう?」
「……わからないよ。いつものぼくってどういうのさ……」
「えっと、スケベでー。重度のアニメオタクでー。好みの女の子がいたらすぐに胸とかお尻ばかり見ていてー。特に欧米系の女子には弱くてー。授業中もたまにスマホで金髪の女の子が出てくるエロマンガを読んでいてー」
「好みの女の前で好感度を稼ごうとして、逆にドン引きされたりとかもそうだな。普段から割と女子の前で下ネタを口にするが、あれをウケ狙いで言っているのだとしたらまったくの逆効果だぞ? 小耳に挟んだ程度の情報だが、あれは女子同士でしか成立しない笑いらしいからな」
「うっそ!? マジで!?」
もしかしてぼく、今までずっと地雷を踏んでいたってこと!?
「なんてことだ……。だからぼくの好感度もなかなか上がらなかったのか……」
「元から低いけどねー」
「むしろ最底辺なんじゃないか?」
なんでこの親友たちは、そうやって躊躇いなくぼくの心を抉ってくるのかな?
ていうか、どれもぼくの悪口ばかりじゃん。なんの参考にもなりゃしない。
「あと、友達が困っていたら放っておけないところとかー」
「たとえそれで自分が不利な立場になっても、絶対諦めないところもそうだな」
と、短所ばかり言われて落胆するぼくに、みずきちと剛ちゃんが突然褒め言葉のようなものを発してきた。
「ユタとは幼稚園の頃からの付き合いだけど、いつもそんな感じだったよ。昔からお人好しでさ、ボクが転んで泣いていた時もすぐに駆け付けてくれたよね。それでボクが泣き止んだら、嬉しそうに笑ってくれるの。今でもその時の顔は忘れてないよ」
「オレも小学生の時、級友が宝物のように大事にしていたノートを盗んだとあらぬ誤解をされて、ユタにかばわれたことがあったな。しかも証拠もないのに、オレの証言だけをバカ正直に信じて。結局無くした奴の鞄の奥からノートが発見されて誤解は消えたが、最後まで頑なにオレを信じてくれたのはユタだけだった」
「ボクも同じクラスだったら絶対剛ちゃんの方を信じていたと思うけどねー」
と言うみずきちに、剛ちゃんは苦笑しつつ「そうかもしれないな」と頷いた。
「なんにせよ、それだけユタはすごい奴だってことだ」
「だねー。なんか自分は無力みたいなことを言っちゃっているけどさ、ユタには人を救える力があると思うよ。だれかに笑顔にできる力がさ」
「剛ちゃん、みずきち……」
二人の顔を交互に見る。
剛ちゃんもみずきちも、穏やかに微笑んでいた。まるで春の陽だまりのように。
「……できるかな」
囁くような声で、ぼくは親友二人に訊ねる。
「ぼくの力で、エリカ先輩を笑顔に……」
「なに言っているんだ、お前は」
「ほんと、剛ちゃんの言う通りだよ」
そう溜め息混じりに言って、剛ちゃんとみずきちは自分たちの顔を指差した。
「オレもいるだろう?」「ボクもいるじゃん」
その言葉に、ぼくはずっと伏せていた顔を上げた。
そこには、バカみたいに凛々しく胸を張ってぼくを見つめる仲間がいた。
「ありがとう、二人共……」
言葉は自然にこぼれた。そして、まっすぐ前を見据えてぼくは言う。
「なんとかしてみせるよ。エリカ先輩には笑っていてほしいから」
「うむ。よく言った!」
「それでこそユタだよ!」
ぼくの言葉を聞いて、心底嬉しそうに破顔する剛ちゃんとみずきち。そんな二人を見て、改めて良い親友と巡り会えてよかったと思った。
こんなに頼もしい仲間は、剛ちゃんとみずきちをおいて他にいない。
「とは言ったものの、具体的な解決策は全然思い浮かばないが」
「ボクもー。考えなしに突撃したところで、どうにかなるような問題でもないしー。ユタはなにか良いアイデアはないの~?」
「いや、それがないからこうして悩んでいたんだけどね?」
なんだったんだ、今までのやり取りは。頼りがいのある親友がいて良かったと感動していたのに、ものすごく肩透かしを食らったような気分である。ぼくの感動を返せ。
……ん? 待てよ?
「? どうかしたのユタ。急に黙り込んじゃって」
「待て、みずきち。ユタがなにかしらひらめいたのかもしれん」
さっきまでの会話、なにか引っかかるようなものがあった気がする。でも、なにが引っかかっているんだろう?
そう、確かあの時──
とそこで、とある記憶が脳裏を過った。
そして、高速に回る思考。散らばっていた点と点が一つの線に繋がり、光明をもたらす。
それは、たとえるなら真っ暗闇の中で見つけた一番星。
エリカ先輩を救う、たった一つの冴えたやり方だった。
「……そっか。この方法なら……!」
「その顔、なにか良い案を思い付いたな? 早く言え」
「ほんと!? ボクにも教えて!」
なんて、顔をぶつけそうなほど急に迫ってきた二人に「もちろん。二人にも手伝ってもらう必要があるからね」とぼくは勝ち気に微笑んだ。
☆
食堂で昼食を終えたあとの帰り道。
その途中で、私はパパとママの思い出の場所──あの桜の木のそばに一人で立っていた。
四月の頃、あれだけ満開だった桜は、今ではすっかり秋模様になっていた。次第にこの紅葉もいずれは散って、冬支度に備えて実をつけるのだろう。去年と同じように。
でも去年と違って、春の時とはまた違った趣のある桜の木を見ても、なんの感慨も湧いてこなかった。いえ、まったくないこともない。いつもならここでパパとママの学園生活を想像して胸をときめかせていたところだけど、今はモヤモヤとした感情だけが心の中で渦巻いている。それは底が見えなくて、私自身でも止めることはできなかった。
「パパ……」
パパから貰った大切なペンダントを握りながら、私は呟きを漏らす。
知らなかった。パパと大場先輩との間に、あんなことがあったなんて。正確には大場先輩はパパには会っていないみたいだし、大場先輩のお母さんとの間にあった出来事と言った方が正しいかもしれないけど、どちらにしても、私が知っているパパのイメージとはかけ離れた内容だった。
大場先輩と私が兄妹かもしれないという疑念は、部員みんなで撮った写真の違和感に気付いた時から、なんとなく予想はしていた。でも心のどこかでパパを信じたい気持ちがあって、決してママを裏切ったわけじゃないって思い込んでいた。
そう言い聞かせることで、真実から目を逸らそうとする私を誤魔化していた。真意を訊こうともしない自分の弱さを心の奥底に閉じ込めていた。
けど、昨日たまたま由太郎と大場先輩の会話を部室で盗み聞きして、パパを信じたいという気持ちは瓦礫のようにボロボロと崩れた。
私が信じていたパパは……小さい頃によく聞かせてくれたパパのカッコいい探偵話は、虚像でしかなかった。
私が幼い頃からずっと憧れていた名探偵は、愛人や隠し子がいたことを秘密にして、あまつさえ大場先輩に苦労をかけておいて知らない振りをしているような、とんでもない卑劣漢だった。
とても好きだったのに。こうしてパパが通っていた学園に入学して、パパみたいな優秀な探偵になりたくて恋部にも入ったのに……。
「こんなのってないよ……」
つんと鼻の奥が熱くなった。でも、泣くわけにはいかない。だって一番辛い思いをしたのは大場先輩なのだから。今までなにも知らないで呑気に生きていた私に、泣く資格なんてない。あるわけがない。
これからどうしたらいいかわからないけれど、それでも恋部だけはやめようと決心していた。パパに憧れて入った部活だけど、もうあそこには行けない。私みたいな罪深い人間がいていい場所じゃない。
それで罪滅ぼしになるとは思わないけれど、これは私にとってけじめのようなもの。大場先輩は私のことを悪くは言っていかなったし、むしろ気にかけてくれていたみたいだったけど、それでも微塵も嫌悪していないとは思えなかった。だって私だったら、絶対に許せないもの。ちょっとでも同じように辛い目に遭えばいいって、絶対にそう考える。
直接謝れるのなら謝りたい。けど、大場先輩はそれを望んでいない。仮に謝ったところで、きっと困惑させるだけだと思う。あの人は、とても後輩思いだから。
それがたとえ私みたいな人間でも、他の人と同じように優しく接してくれるくらいに。
今にして思えば、大場先輩のそういう毅然とした姿を、パパの姿と重ねて恋をしてしまったのかもしれない。本当に恋だったかどうかも怪しいところだけれど。
パパと大場先輩が親子だったと知った今なら、なおのこと。
「退部届、あとで書かないと。あ、でもその前にちゃんと由太郎たちに話さないといけないわね……」
気は全然進まないけれど。特に由太郎は事情を知っているし、正直顔も合わせづらい。それに昨日、突き放すようなことを言ってしまったし、気に病んでいるかもしれない。さすがに約束もあるし、大場先輩に相談したりはしないと思うけど、相当私を好いていたみたいだし、複雑な心境だった。
「こんなことなら、もう少し優しくしておくべきだったかもしれないわね……」
恋部をやめたら、由太郎たちと会う機会もなくなるでしょうし。
と、憂鬱に嘆息をこぼした、そんな時だった。放送を知らせるBGMが校内に響いた。
『生徒の呼び出しを行います。三年A組の西園寺エリカさん。至急、放送室まで来てください』
「この声は……」
聞こえてきたのは、いつもの放送部の人や先生の声じゃなく、予想外にも由太郎の声だった。
なんで由太郎が? それより、どうして放送室を借りてまで私を呼んだのかがわからない。わざわざ呼ばなくても、放課後になれば部室で会えるのに。
どちらにしても、今は会いたい気分じゃない。由太郎には申しわけないけれど、聞かなかったことにしておこう。
『もう一度繰り返します。三年A組の西園寺エリカさん。バスト88、ウエスト58、ヒップ88。そして一週間前にイチゴ柄のおパンツを穿いていた西園寺エリカさ~ん。今すぐ放送室まで来てください』
「はあ!?」
あいつ、一体なにを言っているのよ! しかもよりにもよって、全校放送で私の個人情報(そもそもどうやって知ったのよ!?)を勝手に流すなんて! 絶っ対に許せない!
「ゆぅぅぅぅたぁぁぁぁろぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ~っ!!」
☆
「ひえぇ!? エ、エリカ先輩の怒声が放送室にまで……!」
「あの声の響き方からして、購買部のある方向だな」
「けっこう距離もあるのに部長さんの声がこんなところにまで届くなんて、人間離れした声帯だね~」
本校舎にある放送室。そこにある放送機器を前にして、ぼくたちは三人揃って立っていた。普段は関係者以外の立ち入りを禁じられている部屋なので、ちょっと緊張する。まあさっき初めて放送を体験したことに比べたら些事みたいなものだけど。
これもそれも、放送室の鍵を開けてくれただけでなく、機械の使い方まで快く教えてくれた伊波先輩のおかげだ。むろん、ぼくに言われてすぐさま連絡先を調べてくれたみずきちにも感謝だけど、それ以前に凛奈ちゃんバラバラ事件(ぼく命名)で伊波先輩と知り合ってなかったから、こうもスムーズに進まなかったに違いない。本当にラッキーだ。
「ところでユタ、部長さんのパンツの柄なんてどうやって知ったの?」
「あー。実はこの間、部室で落としたペンを拾おうとした時に、本棚の整理をしていたエリカ先輩のスカートの中が偶然見えちゃってさ。まあ事故だからね。故意じゃないからセーフだよね。だから脳裏に焼き付くほどガン見してもなにも問題ないよね」
「ユタ、そういうところだよー?」
「完全にアウトだな。人間として」
なぜか苦言を呈された。おかしい。別にわざと見たわけでもないのに。
「で、ユタ。こうして放送機器を使って部長を呼び出したまではいいが、本当にこんなことをやって大丈夫なのか? 部長がここまで走って来たとして五分ちょっとはかかると思うが、その間に教師が怒鳴り込んでくるんじゃないか?」
「今の時間帯はだいだい職員会議をしている頃だからすぐには来ないと思うけど、時間の問題であるのは変わりないし、覚悟はしておいた方がいいかも」
「覚悟なんて、ユタにこの話を持ち出されたところですでにしているけどねー」
「そうだな。それこそ今さらな話だ」
と、仕方なさそうに微笑んでくれた二人に、ぼくは小さく頭を下げて「ありがとう」と感謝の気持ちを伝えた。
「さて、とにもかくにも、今はエリカ先輩が来るのを待って──」
「見つけたわよ! 由太郎ぉぉぉぉぉぉぉぉ!」
「──からでないと作戦が進まない……ってもう来てたあああああああ!?」
うそぉ!? まだ五分どころか三分も経っていないのに!?
「エ、エリカ先輩、購買部付近にいたはずですよね? どうやってこんな短時間で……」
「人はね、怒りが臨界点を超えると、限界をも超えることができるのよ」
「なにその少年誌のバトルマンガみたいな理論!?」
言っていることがもろにサイヤ人みたいなんですけれど!?
「覚悟はいいわね、由太郎。いえ、返事はしなくてもいいわ。これはもう決定事項だから。せめてもの慈悲で背骨の一本くらいは残してあげるわ」
「それ以外は全部折るつもりなので!? いやいや待ってください! エリカ先輩をここまで呼んだのはちゃんと理由があるんです!」
理由? と柳眉を立てながら首を傾げるエリカ先輩に、ぼくは頷く。
「……エリカ先輩。あれから大場先輩とはどうなったんですか?」
ぼくの質問に、エリカ先輩は一瞬辛そうに眉尻を下げて、そばで静観に徹しているみずきちと剛ちゃんに視線をやった。
「……その様子だと、もうこっちの事情は知っているようね。まあ近い内に話すつもりではいたから、別にいいけれど」
そう溜め息混じりに言って、エリカ先輩は目線を横に逸らした。
「どうもこうも、あんな話を聞いたあとで、こっちから会いに行けるとでも思う? 向こうだって私と会うことを望んでいないし、なおさら顔なんて合わせられないわよ」
「じゃあ、このままでいいんですか? 今会わなかったら、もしかすると一生話せなくなるかもしれないんですよ?」
「そ、そんなこと言われたって……」
「話せなくなるだけじゃありません。大場先輩が卒業したら、一生会えない可能性だってあるんです。それでもエリカ先輩はなにも後悔しないって言えますか?」
「──っ」
次々と質問を重ねるぼくに、エリカ先輩は顔を伏せて歯噛みした。
ともすれば今にも不満を爆発しそうなほど体を震わせながら「……どうしろって言うのよ、私に……」とエリカ先輩は小さな声音で呟いた。
「……なにもないじゃない。私にできることなんて。私が謝ったところであの人の溜飲が下がるとは思えないわ。私に怒りをぶつけてくれるのならまだいい方だけど、大場先輩はきっとなにも言わない……なにも言わないまま、ただ困ったように微笑むだけ。そんな大場先輩、私は見ていられない。これ以上、あの人の迷惑になるのだけは嫌なの……」
「そんなの、まだわからないじゃないですか」
声を震わせるエリカ先輩に、ぼくは反論する。
「お互いのことをどう思っているかなんて、ちゃんと話してみないとまだわからないですよ。だって、今まで先輩後輩という関係でしか接したことがないんですから。本心をさらさないと、なにもわからないままです」
だから、と依然として顔を俯かせたままのエリカ先輩に、ぼくは言の葉を紡ぐ。
「エリカ先輩、この放送室を使って大場先輩に話してみませんか? 自分の気持ちを」
「私の、気持ち?」
とわずかに顔を上げたエリカ先輩に、ぼくは頷く。
「ここでなら、大場先輩の顔を見ずに自分の気持ちを伝えられますよね? 電話みたいに途中で切られる心配もないし、もしかしたら、大場先輩も応えてくれるかもしれませんよ。先輩としてではなく、エリカ先輩の兄として」
「私の兄として……」
「はい。なので──」
「ごらぁ! お前たち、ここで一体なにをしとるかあああ!」
と、エリカ先輩にマイクを使わせようとした途端、ぼくたち生徒からは「ゴリ先生」と呼ばれている屈強な体をした体育教師が、突然ドアを開け放ってきた。
やべ! そういえばドアの鍵、ずっと開けっ放しにしたままだった!
どのみち、マスターキーを使われていただけだろうけどさ!
「剛ちゃん! お願い!」
「おう! 任せろ!」
言うや否や、剛ちゃんは一直線に駆けて、そのままゴリ先生を廊下に追い出した。
「な!? お前、一体なにを──」
文句を言われる前に、ドアを勢いよく閉めて背中で塞ぐ剛ちゃん。こうなるかもしれないと思って、剛ちゃんには前もって頼んではいたけれど、こっちの想定より教師の対応が早い。もしや職員会議を早目に切り上げたのか?
「お前たち、こんなことをしてあとでどうなるかわかっているのかっ! 部員でもない者が無断に放送室を利用したあげく、あんなふざけた呼び出しまでして!」
ドンドンとドアを力強く叩きながら、怒号を飛ばすゴリ先生。今のところ来たのはゴリ先生だけみたいだけど、他の先生が来るのも時間の問題だろう。こっちも急がなくちゃ。
「エリカ先輩! 早く! マイクの前に!」
「えっ。でも……」
「今しかないんです! 大場先輩に自分の気持ちを伝えるのは!」
未だ躊躇いを見せるエリカ先輩の両肩に手を置いて、ぼくは外に負けないくらいの大声を張る。
「ここでなにもしなかったら、大場先輩とすれ違ったまま終わってしまいますよ! 放送室だってもっと厳重に管理されるようになるでしょうし、それ以前に、ぼくたちになんらかのペナルティー課せられると思います。エリカ先輩だって例外じゃないんですよ!」
「いや、それはほとんどあんたたちが私を巻き込んだせいじゃないっ!」
至極真っ当なツッコミだけど、急を要するので今はスルーの方向で。
「チャンスは今だけです! ぼくたちにできるのはここまで! あとはエリカ先輩が決めてください!」
「わ、私が……?」
そうこうしている内に、いくつもの足音がドア越しに響いてきた。きっと応援がここまで駆け付けてきたのだろう。
「くっ! ユタ! さすがにこれ以上はもたないぞっ!」
「わかった! ぼくも今すぐ行く!」
一気に向こうの押す力が増したのだろう、それまで以上に苦悶の表情を浮かべながらドアを抑える剛ちゃんの元に、ぼくも慌てて加勢する。
「みずきち! あとは頼んだ!」
「オッケー! マイクの調整は任せて~!」
言って、マイクの横にあるスイッチに触れるみずきち。
さあ、これで今度こそ本当にエリカ先輩次第だ。今ぼくたちにできるのは、こうして先生たちを足止めするか、エリカ先輩の声を学園中に届けることくらいだ。
「部長さん、こっちはいつでも大丈夫だよ。好きなタイミングで話して?」
「………………」
みずきちの言葉に、エリカ先輩は少しの間戸惑うように何度か指を絡ませたあと、牛歩のような遅さでマイク前の椅子に腰掛けた。
しかしながら、すぐに口を開くことはなかった。ただ不安げにマイクを見つめているだけで、一向に喋ろうとしない。まだ決心が付かないのか。
そんなことをやっている間にも、ドアを押す力はどんどん強くなっていく。いくら剛ちゃんが力自慢でも相手は大人──ぼくみたいな貧弱な奴が加わったところで、大した助けにはならない。このままではドアを破られるのも時間の問題だ。
「エリカ先輩!」とたまらず必死にドアを抑えながら、ぼくは叫ぶ。
「ぼくたちがいますから!」
「ゆ、由太郎……?」
「なにがあっても、ぼくたちがいますから! だから、エリカ先輩は自分のことだけを考えて!」
みずきち、剛ちゃん、そしてぼくの順で視線を向けるエリカ先輩。その青い瞳は先ほどまでとは違って強い光が宿っており、なにより生気に溢れていた。そして──
「……生意気言ってんじゃないわよ、バカ」
微笑と共にそう呟きを漏らしたあと、凛然とした面持ちでマイクをまっすぐ見据えるエリカ先輩。そんなエリカ先輩を見て、みずきちがとっさにマイクのスイッチを入れた。
「大場先輩──聞こえていますか? 私です。エリカです」
エリカ先輩が静かに声を発した。突然響いてきた放送に驚いたのか、先生たちのドアを押す力が一瞬弱まる。
「突然こんな真似をしてしまってすみません。今頃すごく驚いているかもしれませんが、少しの間だけ、私の話を聞いてください。
あまり時間もないようなので単刀直入に言います。実は私、昨日部室で由太郎と大場先輩が二人で話していたのを、たまたま聞いてしまいました。これだけ聞けば色々と事情も察したと思いますが、正直なところ、私と大場先輩の関係について、前々からなんとなく気が付いていました。大場先輩が私から一定の距離を保とうとしていた理由も含めて。
……ずっと黙っていてごめんなさい。本当はもっと早くに話すべきだったのに、私に勇気がないせいで、こんな形になってしまいました。
正直、今でも大場先輩の顔をまともに見る勇気はありません。こうすることでしか自分の気持を表現できない私をお許しください」
いつしか廊下の喧騒が止んでいた。たぶんエリカ先輩の放送に聞き入っているのだろう。
「大場先輩。大場先輩は今、なにを考えていますか? やっぱり突然のことに困っていますか? 私はすごく緊張しています。緊張と不安で胸が張り裂けそうです。
それでも、私は今のこの気持ちを伝えなければなりません。ここまでお膳立てしてくれた人たちのためにも……」
一瞬だけぼくたちに視線をやって、エリカ先輩はマイクに向き直った。
「私は父に憧れていました。親としてはもちろん、幼い頃から聞かされていた探偵としての父も尊敬していました。でも、今はよくわからなくなってしまいました。昨日、大場先輩から父の話を陰ながら聞いてしまって、頭の中がぐちゃぐちゃになってしまったんです。今まで信じていたものがすべて嘘だったと突き付けられたみたいで……。
もちろん、大場先輩の言っていることがすべて本当という確証はありませんし、父にもなにか事情があったのかもしれません。だからと言って父のしたこと事態は正当化できませんし、擁護するのもおかしな話だと思っています。大場先輩の気持ちになって考えたら、余計に。
それでも、私にとっては大切な家族なんです──私の大好き父のままなんです。父がひどいことをしていたと知った今でも、父を嫌いにはなれないんです。軽蔑はしても憎むことはできないんです。
それは大場先輩に対する気持ちと同じで、秘密を知った今でも……私と大場先輩との間に大きな隔たりがあったと知った今でも、あなたを想う気持ちだけは変わらなかったんです。父の面影をあなたに重ねているだけかもしれないけど、それでも大場先輩を慕う気持ちだけは変わらないままなんです。
困りますよね、いきなりこんなことを言われても。ただでさえ、私と大場先輩は普通の関係ではないのに。
もちろん、大場先輩に許容してもらえるとは思っていませんし、ましてそういう関係になれるとも思っていません。私自身、この気持ちは胸の中にずっと秘めておくべきだと思っていますから。こうして言葉にして出してしまいましたけれど……。
正直に言って、いつまでこの気持ちが続くかはわかりません。ずっとこのままかもしれませんし、案外他に好きな人ができて、すぐに初恋なんて忘れてしまうかもしれません。
けれど、大場先輩とこれでお別れとは思いたくありません。せっかく会えた大切な人と、このままちゃんと話もしないまま終わりたくないんです……。
とても勝手なことを言っているのはわかっています。でも、一番に望んだ関係ではありませんけれど、せめて私の兄として接することを許してはくれませんか……?」
しん、と静寂が下りた。それはまるで世界が止まったかのような静けさで、口を出すのも憚れる静謐とした空気が広がっていた。
しかし、それも長くは続かなかった。エリカ先輩の放送が終わって少し経ったあと、思い出したようにドアを強引に押し開こうとする力が襲いかかってきたのだ。
「おい! なんだ今の放送は! 中で一体なにをやっている!?」
なにって、エリカ先輩の想いの丈を語った長広舌ですがなにか! 先生に言ってもわかんないと思うけどさ!
「くそっ! ダメだユタ! もう限界だっ!」
「がんばって剛ちゃん! もうちょっとだけ耐えて!」
なんて言っているぼくも、かなり限界だけど!
でも、本当にもうちょっとなんだ。あと少しだけ踏ん張れば、きっとあの人が──
と、ドアを押す力が突如として弱まった。耳を澄ましてみると、ドアの向こうで先生たちの戸惑ったような声が聞こえる。
そうこうしている内に、あれだけ騒がしかった廊下が徐々に静まり、ドアから人が離れていくのが感覚でわかった。そしてそれと入れ替わるように、とある人物がドア越しに話しかけてきた。
「──私だ。そこを開けてくれないか?」
やっと来た! と待ち望んだ人の声を聞いて胸を撫で下ろしつつ、疲労困憊でふらふらになりながらもドアを開ける。
するとそこに、ぼくや剛ちゃんと負けないくらい汗だくになっている人物……元恋愛探偵部部長でもある大場先輩が、息を乱しながらドアの前に立っていた。
「……まったくお前たちは。思い切った真似をして……」
顎まで伝った汗を手の甲で拭いながら、呆れたように微苦笑する大場先輩。
「お前たちの放送を聞いた時は、思わず米を噴き出してしまったぞ」
「あ、まだ食事中だったんですね。それは申しわけないことを……」
その代わり、すごく安堵した。こうして息を乱しながら駆け付けてくれたということは、それだけエリカ先輩のことを大切に思ってくれている証左でもあるのだから。
「……それより、中に入ってもいいか? 先生方には私が事情を話して待機してもらっているから安心するといい」
言われて大場先輩の背後を窺ってみると、確かに数人の先生たちが少し離れた位置でこちらのやり取りをしかめ面で眺めていた。どんな風に説得されたかはわからないけれど、一応ぼくたちを無理やり連行するつもりはなさそうだ。さすがは信頼の厚い大場先輩だけのことはある。
そうして先生たちの対応を確認したあと、ぼくは後退して「どうぞ」と大場先輩を中に招き入れた。そしてドアを閉め、中央付近まで寄ったあと、エリカ先輩と大場先輩の様子を見守る。
見ると、二人は互いを見つめ合ったまま硬直していた。特にエリカ先輩は緊張と不安とが混ざった面持ちで。あれだけの胸中を吐露したあとなのだから気まずいのも無理ないけれど、なんだかそれ以上に、大場先輩の反応が怖くて仕方がないと言った風にも見える。
対する大場先輩は、呼吸も落ち着いたのか、いつもの精悍な表情に戻っていた。けど心なしか瞳の奥だけは揺らいでいるように見えるのは、ぼくの気のせいだろうか。
「……聞いたよ、お前の放送」
先に口火を切ったのは大場先輩の方だった。
「驚いたよ。まさかとっくに気付かれていたとはな。自分では西園寺のことを高く評価していたつもりだったが、実際はもっと優秀だったようだ」
私もまだまだ観察力が足りんな、と苦笑する大場先輩。
「だが、そうか。お前はずっと気付いていながらも、ずっと苦しんでいたのだな。すまない──お互いのためだと思って今日まで胸に秘めていたのだが、逆にお前を傷付けてしまったようだ」
本当にすまなかった、と大場先輩は再度頭を下げた。
そんな大場先輩に、エリカ先輩は無言で首を振った。そして椅子に座ったまま、エリカ先輩は大場先輩の顔をおずおずと見上げる。
「……仕方のないことだと思います。私も逆の立場だったら、同じことをしていたかもしれませんから……」
「そうか。お前にそう言ってもらえると私の心も少しは救われる。だが──」
と、次に顔を上げた時には、大場先輩の雰囲気が少し変わったように見えた。まるでここからが本題だと言わんばかりに。
「西園寺をまた傷付けるようで忍びないが、お前の気持ちには応えられない」
「私の気持ち……? わ、私が大場先輩のことを密かに想っていたことですか? でもそれは先ほども言った通り、今は兄妹としての関係を大事に考えて──」
「そのことを言っているんだよ、私は」
と、大場先輩はどこか悲しげに微笑んだ。
「申しわけないが、西園寺とは恋人はもちろん、兄妹にもなれない」
「……! ど、どうして? だってせっかくこうして会えたのに……!」
「西園寺を見ていると、どうしてもあの男の影──私と母を捨てた父の存在が脳裏にちらつくからだよ」
言いながら、大場先輩はおもむろに懐からイルカの形のペンダント……エリカ先輩のとは逆向きになっている物を取り出していた。
「父にも事情があったのかもしれない。だが結局のところ、私と母を捨てたという事実には変わりない。まして母との約束があったにせよ、一度も会いに来ようともせず、こんなペンダントだけ送ってずっと私と母を放置していたような奴など、許せるものか……!」
ぎりっと奥歯を噛みしめて、拳を震わせる大場先輩。その眉間には深くシワが刻まれており、相当怒りを堆積していたというのが、如実に表れていた。
「……お前を見ているとな、西園寺。そんな父の姿とどうしても重ねてしまうんだ」
気付くと、大場先輩は拳を解いて指を下げていた。そして声のトーンを落として言う。
「お前が悪いわけではないのは頭では理解している。これは私の問題だ──何年経ってもあの男が憎くて仕方がないという、私の心の問題だ。そしてこれは、きっといつまでも消えないものだ。あいつがもう死んでしまった以上は」
もっとも頭を下げられたところで簡単に許すつもりもなかったがな、と苦笑する大場先輩に、エリカ先輩は沈痛な表情を浮かべるだけでなにも応えなかった。言葉が見つからなかったと言った方が正しいかもしれないけど。
「……すまない。私にとってはろくでもない人間だったとはいえ、お前の父でもある人のことを悪く言い過ぎてしまったな」
無言で首を振るエリカ先輩。すっかり気落ちした風のエリカ先輩を気遣ってか、大場先輩は苦笑を浮かべて言った。
「まああの男にしてみれば、私のことなんてどうでもよく思っていたかもしれんが。あるいは私が生まれてきたこと自体、本当は否定的だったのかもしれないな」
「それは違うと思いますよ」
と、この話の流れでぼくが口を挟んできたのがよっぽど意外だったのか、大場先輩は驚いたように目を見開いていた。それはエリカ先輩も同様で、あれだけ沈んでいた表情が今や唖然としていた。
「……鹿騨。それはどういう意味だ?」
「──そのペンダント、持ってきてくれて助かりました」
わざと質問には答えず、大場先輩のそばへと歩む。
「でないと、わざわざ取りに行ってもらう必要がありましたから」
「……こんなもの、西園寺家の因縁を断ち切るために持ってきただけにすぎん」
「断ち切る前にそのペンダント、少し見せてもらっていいですか?」
睨むように眉をしかめる大場先輩。それでも無言で手渡してきたペンダントを見て、ぼくは「やっぱり」と呟きを漏らした。
「……? なにが『やっぱり』なんだ?」
「大場先輩。このペンダントの裏って一度は確認したことあります?」
「ああ、もちろんだ。片手で数える程度にしか見たことはないが」
「じゃあエリカ先輩が持っているペンダントにも、同じように文字が彫られていたことに気付いていました?」
「なんだとっ?」
と大場先輩が動揺した。そして焦った表情で「本当か?」とすぐさまエリカ先輩の方を向いて確認する。
「え、ええ。私のペンダントには『SURE』って……」
その瞬間、大場先輩が衝撃を受けたように瞠目してふらついた。
「バカな……! だとしたら、あのペンダントは……!」
「え? ど、どういう意味ですか? 大場先輩は一体なにをそんなに驚いて……」
「エリカ先輩。そのペンダント、少し貸してもらってもいいですか?」
まだ真相に気付けていないエリカ先輩に、ぼくは手を差し出す。そんなぼくを怪訝がるように見るエリカ先輩だったが、少しして戸惑いがちにペンダントを首から外した。
「はい。でも、それで一体なにがわかるって言うのよ?」
「逆にどうして未だに気付けないのかって方が不思議なんですけどね」
手渡されたペンダントを受け取りつつ、ぼくは言葉を返す。
まあでも、無理もないか。大場先輩と血が繋がっているかもしれないとわかって、それどころじゃなかっただろうし。大場先輩のペンダントにも似たように文字が彫られていることまで意識が向かなかったのだろう。
それは大場先輩にも言えることで、本来ならもっと早くに、エリカ先輩のペンダントにも同じように文字が彫られていることに気付けていたはずなんだ。ぼくでも気付けたことが、大場先輩に気付けないはずがない。
それがこんなにも年月を要したのは、大場先輩がずっとペンダントの存在から目を逸らしていたからに違いなかった。そこに大切な意味が込められているとも知らずに。
「この一見わけのわからない文字ですけれど、実はこれ、二人に向けたメッセージだったんですよ」
「メッセージ? その『SURE』っていうのが?」
「はい。でもそれ単体だと意味をなさないんです。もう一つのメッセージがないと」
「もう一つのメッセージ?」と眉をひそめるエリカ先輩に、ぼくは大場先輩のペンダントを裏向けて見せた。
「『TREA』……? 意味としては『第三の』っていう接続詞になるけど……」
「それだけだと『SURE』と同じで意味不明ですが……」
言いながら、ぼくは二つのペンダントを裏向けた状態で端を合わせた。
さながら、ハートマークを作るように。
「これなら、もうわかりますよね?」
とペンダントを合わせたまま、エリカ先輩にも見えるように顔の前まで差し出した。
「左の──大場先輩のペンダントの方から順に読んでみてください」
「……? えっと、TREASU──」
はっとした顔でエリカ先輩が口元を抑えた。ようやくメッセージの意味がわかったのだ。
エリカ先輩と大場先輩のお父さんが二人に言いたかったメッセージ。それは英語が苦手なぼくでもよく知っている英単語──剛ちゃんの思い出話を聞いてはっと思い付いた言葉だった。
果たして、その言葉とは──
「TREASUEA──トレジャー。日本語で言うと『宝物』っていう意味ですよね?」
震える手で、ぼくから二つのペンダントを受け取るエリカ先輩。文字通り、宝物に触れるような、慎重な手付きで。
「イルカって、すごく仲間思いの動物らしいですよ。ネットで知った知識ですけれど、時には違う種類同士で群れを作って行動することもあるんだとか」
ペンダントに釘付けになっているエリカ先輩と、その近くで愕然とうなだれている大場先輩にも聞こえる声量でぼくは話す。
「ここからはぼくの想像ですけれど、きっと二人のお父さんも、たとえ離れ離れで半分しか血が繋がっていなかったとしても、いつか兄妹で仲良くしているところを見たかったんじゃないでしょうか。でなきゃ、こんな風に回りくどいメッセージをペンダントに掘ったりしないはずでしょうから」
それだけ、二人のことを想っていたのだろう──深く愛していたのだろう。
とりわけ大場先輩とは二度と会えないかもしれない事情もあったわけだし、すごく心配していたんじゃないかと思う。
だから、大場先輩が生まれた時に、メッセージ付きのペンダントを──互いの母親に気付かれないよう、傍目には意味のわからない文字を掘って渡すことを決めたんじゃないだろうか。
そんなぼくの言葉を聞き終えて、だれもなにも口を開こうとはしなかった。エリカ先輩は相変わらずペンダントを見つめたまま、大場先輩も俯いたまま一切動きを見せない。みずきちと剛ちゃんは空気を読んであえて黙っているみたいだけれど、そのせいもあっていっそう静まり返っていた。
いつまでそうしていたのだろう、いつしかポタポタと水が滴り落ちるような音がしていた。それが落涙だと気付いたのは、すすり泣くような声が耳に届いてからだった。
「パパ……。パパ……っ」
涙を流していたのはエリカ先輩だった。次々と頬を伝う涙を拭うこともせず、お父さんから貰ったペンダントを抱きしめるように胸元で握りしめていた。
「……こんな簡単なことにも気付けなかったとはな」
と、しばらく俯いたままでいた大場先輩が不意に顔を上げた。
「どうやら父親を憎むあまり、私も眼が曇っていたようだ……」
そう自嘲的な笑みを浮かべて、おもむろに眼鏡とコンタクトレンズを取る大場先輩。そうしてエリカ先輩の元へと歩んだあと。その場で膝を付いて、ペンダントを握るエリカ先輩の手を優しく包み込んだ。
「先輩……?」
「まだ、間に合うだろうか──?」
目を白黒させるエリカ先輩に、大場先輩は真摯な表情で語りかける。
「まだあの人のことを完全に許すことはできないが、それでもせめて、父が巡り合わせてくれた大切な妹ともう一度家族としてやり直すだけの時間はあるだろうか──?」
その言葉に、エリカ先輩の瞳が驚いたように揺らいだ。そして微かに呼気をついたあと、梅雨明けを思わせる晴れやかな笑顔を浮かべて言った。
「そんなの、あるに決まっているじゃないですか。だって私たち、たった二人の
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