第11話 愛の証明(解決編1)
夕日が窓辺に差し込み、部室が淡い紅色に染まっていた。前日に大掃除したあとだからか、いつもより暖色に見える。けど同時にそこはかとなく寂寞としたものを抱くのは、秋特有の感傷からなのだろうか。それとも、これから起きることを予兆してのものだろうか。
今部室には、ぼく一人しかいなかった。もっとも待ち合わせをしているので、じきに一人じゃなくなるけど。
「……四時、か」
壁時計を見ながらぼんやりと呟く。もう約束した時間だし、そろそろ来る頃だとは思うんだけど……。
「──すまない。待たせたな」
と、部室のドアを開けたのは、待ち人である大場先輩だった。大場先輩はそのまま部室の中央に立つぼくの元へと歩み、辺りを見回した。
「ん? 鹿騨だけか? 他の奴らはどうした?」
「西園寺先輩は生徒会の仕事で元からいません。みずきちと剛ちゃんには授業が終わったあとにすぐ帰ってもらいました」
「ほう。放課後に大事な話があると電話で聞いてはいたが、まさか私と一対一での話だったとはな。ひょっとして、他の部員には話せないような恋の悩みか?」
などと揶揄するようにニヤリと口端を歪める大場先輩に「いえ、違います。ぼくが話したいのは──大場先輩。あなたに関することです」と真顔で答えた。
「私に関して? それはどういう意味だ?」
「では、単刀直入に訊かせてもらいます」
怪訝がる大場先輩に、ぼくは真っ向から問いをぶつけた。
「大場先輩。大場先輩は、本当にロリコンなんですか?」
「……? 一体なんの話を──」
「いえ、正確にはこう言うべきかもしれませんね」
異を唱えようとした大場先輩の言葉を遮って、ぼくは詰問する。
「入部試験の際、ぼくたちにロリコンだと誤認させるよう誘導しましたよね?」
「………………」
大場先輩はなにも答えなかった。眉一つ、表情一つ変えないまま。
やがて、大場先輩は「ふっ」と嘲るように失笑を漏らして、
「突然なにを言い出すのかと思えば、事実無根もいいところだな。なぜそんな疑いを持つようになったのかは知らないが、根拠のない疑念は身を滅ぼすだけだぞ?」
「根拠ならあります」
間髪入れずにぼくは言った。
「ほう? なら聞かせてもらおうか。その根拠とやらを」
腕を組んで話を聞く姿勢に入った大場先輩に、ぼくも呼気混じりにゆっくり声を発した。
「……今にして思えば、いくつか違和感があったんですよ」
緊張で身震いしそうになる自分の体を叱咤するように右の手首を握り締めながら、ぼくは慎重に言葉を選ぶ。
「たとえば少し前、ぼくたちが三年生のいる階に訪れた時のことを覚えていますか?」
「ああ。確か、階段の踊り場で偶然お前たちと出くわしたのだったな」
「はい。それであの時、探偵活動で響先輩を観察していたんですが、そんなぼくたちを見て大場先輩が響谷先輩の方を見すぎだって注意してきたんですよ。そのあとに『目は口ほどに物を言う』なんてことわざまで添えて」
「そんなこともあったな。だが、それがどうした?」
「これ、よく考えたら不自然なんですよ。だってそうでしょう? そこまで人の挙動を気にする大場先輩が、どうして入部試験の時に目を瞑ったりしたんですか? あんなの、わざわざぼくたちにヒントを与えているようにしか思えませんよ。視線の先を読まれたくなかったのなら、読書でもしていればよかっただけの話なのに」
「単純な話だ。お前が言った通り、さすがに三十分で宝を探すのは無理があるかと考えて、それとなくヒントを与えることにしたんだよ。だいいち、私も人間だぞ? 自分が完璧だなんて一度も思ったことはないし、ミスを微塵もしないほど超人でもないさ」
「……そうですか」
予想通りの返答だった。一切変わらない表情も含めて、ぼくの予想の範囲内。
けど、これで終わりじゃない。追及はまだまだここからだ。
「じゃあ、ぼくと剛ちゃんが大場先輩の部屋を訪ねた時のことは?」
「窓際を丹念に調べていた時の話か? ああ、よく覚えている」
「あの時、初めて大場先輩の部屋……正確には響谷先輩との相部屋に入ったんですが、大場先輩の机周りって、いつもあんな殺風景な感じなんですか?」
「勉強に必要ない物は置きたくはなくてな。まあ、単に私が貧乏なだけのせいもあるが」
「なるほど。でも大場先輩って、カメラが趣味のはずでしたよね? 確かこうも言っていました。幼女を撮るだけでなく、風景や祭り行事を撮るのも好きだって」
ぼくの言わんとしていることがわかったのか、大場先輩が無言になった。構わずぼくは言葉を紡ぐ。
「これって明らかに変ですよね? 幼女はともかくとしても、風景や祭り行事をカメラで撮るのが好きな人が、その時の写真を一枚も飾らないなんて。いくら勉強に必要にない物は置きたくないとは言っても、写真くらい大した邪魔にならないはずです」
「相変わらず、よく見ているな」
と大場先輩は苦笑混じりにそう言ったあと、これ見よがしに肩を竦めた。
「しかし、深い理由なんてないぞ。単に、私が撮った写真を響谷に見られるのが恥ずかしくて、あえて飾らなかっただけだ。基本的に写真は私一人で楽しみたいのだよ」
そう来たか。まあどうにでも誤魔化せそうだし、適当な理由をでっちあげて追及をさけてくるだろうとは思っていたけど。
「で? 話はこれで終わりか? 私も受験生でなにかと忙しいから、なるべく早く帰してほしいのだが」
「安心してください。きっと次で済みますから」
そして、次が最後になる。ぼくのとっておきの切り札だ。
「──ぼくたちが試験に合格した時、みんなで写真を撮りましたよね? あの時に撮った写真がいつの間にかデスクの上から消えていたんですが、大場先輩は知っていました?」
「ああ、あれか。私も気付いた時には消えていたのだが、結局どこを探しても見当たらなくてな。一体どこに行ってしまったのやら」
「本当に? 実は大場先輩がこっそり隠したんじゃないんですか?」
「私が? なにをバカなことを。だいたい、どうして私がそんな真似を──」
「だったら!」
この期に及んでまだ白を切ろうとする大場先輩に、ぼくはズボンのポケットから荒々しくスマホを取り出して、前もって表示していた写真を勢いよく前に突き出した。
「だったらなんで、エリカ先輩と同じペンダントが、大場先輩の鞄の中に入っているんですかっ!」
エリカ先輩と同じペンダント。
それはエリカ先輩の父親が、娘の誕生を祝してオーダーメイドで作った、イルカの形のペンダント。生前父が娘に送った、大切な贈り物。
そんなこの世に一つしかないはずの大切なペンダントが、部員全員で撮った写真の中にもう一つ写り込んでいたのだ。
正確にはソファーに置かれている大場先輩の鞄の中に、よほどじっくり見ないと気付かないほど小さなサイズで、チャックの金具に引っかかっていたのである。
最初はキーホルダーかと思っていたけれど、なんとなく気になってスマホのカメラのズーム機能で拡大してみると、そこにエリカ先輩のペンダントが写っていたというわけだ。
もっともエリカ先輩のイルカとは逆向きだったので、まったくの同一とは言えないかもしれないけれど、しかし形そのものは完全に似通っていた。それこそ、ペア商品のように。
「……前にエリカ先輩から聞きました。これは四歳の誕生日に父親から貰ったもので、ペンダント自体は生まれる前からオーダーメイドで作ったものだって。つまりこれは本当ならこの世に一つしかない……一人娘であるエリカ先輩にしか渡されていない物のはずなんです。これがどういう意味か、大場先輩ならわかりますよね?」
不意に、大場先輩の眼差しがスッと鋭くなった。
それまで悠然としていた大場先輩が、突然人が変わったように。
そんな剣呑な雰囲気をあらわにする大場先輩に一瞬怯みそうになりつつも、小胆を叱咤する形で歯を食いしばり、泰然と前を見据えた。
「ぼくの考えはこうです。このイルカのペンダントは体の向きこそ逆ですが、元々二つあった。エリカ先輩の生まれる前からあったという話でしたけれど、実際は違う。これは大場先輩が生まれる前か、もしくは直後に作った物だったんです。つまり──」
掲げていたスマホをゆっくり下し、代わりに逆の手で大場先輩をまっすぐ指差した。
「エリカ先輩と大場先輩は血縁関係──血の繋がった兄妹だった。そうですよね?」
すぐに答えは返ってこなかった。しばらく重苦しい静寂だけが続く。互いの息遣いが聞こえるほどに。
どれだけ時間が経っただろうか。ともすれば永遠にすら感じられた沈黙が、大場先輩の唐突な「ふっ」という乾いた失笑と共にあっけなく終わりを告げた。
「……相変わらず良い観察眼をしているな、お前は」
そう言って、大場先輩はおもむろに眼鏡を取り、自身の眼球に指を伸ばした。
その不可解な行動に眉をひそめるぼくだったが、すぐに理由がわかった。
「!! その瞳の色……!?」
「お前の推理通りだ、鹿騨」
瞠目するぼくに、大場先輩は片目だけコンタクトレンズを取った瞳を見せた。
エリカ先輩と同じ、ブルーサファイアのような美しい碧眼を。
「私と西園寺は血縁関係……つまり、血の繋がった兄妹だ」
もっとも腹違いだがな、と苦笑しながらコンタクトをはめ直す大場先輩。
「腹違い……?」
「父親だけ同じということだ。どうやら西園寺の方は父親の方に似たようだが、私の方はこの瞳だけ遺伝したらしい。おかげで幼い頃はよく揶揄われたものだ。まあ顔が完全に日本人なのに瞳だけ青いのだから、変に思われるのも無理のない話ではあるが。それが年端のいかぬ子供となれば、なおさらだろう」
「だから、普段はコンタクトを?」
「ああ。さすがにこの歳ともなると揶揄われることも減ったが、それでも奇異な目で見て来る者が少なくないから、あえて普段からこうしてカラーコンタクトを付けている。本当は度入りの物がほしいところなのだが、あれは値段が高くてな。そう何度も買える品でもないため、いつもこのように眼鏡をかけて視力を補助している」
言われて、いつか大場先輩の部屋を訪ねた際、カーテン越しに目薬を差すような仕草をしていたことを思い出した。あれは目薬を差していたわけじゃなく、コンタクトレンズを付けていた最中だったのかも。そう考えると、少し慌てていた様子だったのも納得がいく。
「じゃあやっぱり、あのペンダントは……」
「西園寺と同じ、父から貰ったペンダントだよ。とは言っても、実際に受け取ったのは母で、それを物心が付いた頃に父からのプレゼントだと言われて手渡されたのだがな。正直あんな物欲しくもなかったし、まして西園寺のように首から下げる気にもならなかったのだが、母がどうしても持っていてほしいと懇願するので、いつもは鞄の中にひそませている。しかし、まさかそれがカメラに写り込んでしまうとはな。おそらくアルバムを取り出した際にうっかりペンダントも鞄の外に出てしまったのだろうが、アルバムを仕舞った時にはなにかの拍子に落ちたのか、再び見た時には鞄の中に戻っていてな。おかげで気付くのに時間がかかってしまった。慌ててだれも読みそうにない本の隙間に隠しておいたのだが、まさかそれをお前に見つけられてしまうとはな」
「あれは大掃除の時にたまたま見つけただけなので……。それより、あの幼女ばかり写っていたアルバムも、自作自演だったってことですよね……?」
「その通りだ。誓って誤解されないように言っておくが、あれは全部ネットで拾った写真をそのままコンビニの印刷機を使ってプリントしただけのものだぞ」
「みずきちが情報収集をしていた時の目撃談などは?」
「家電量販店に行ってカメラを買ったのは事実だが、公園やデパートの屋上に行ったという話は、私自ら知り合いに広めたデマだ。あとで細かく調べられた際に、なにかと怪しまれないようにな」
「なんで……」
「なんでそこまでしてロリコンだと思わせたかったか、と言いたいのだろう?」
今まさに言わんとしていたことを先回りして訊いてきた大場先輩に、ぼくは無言で頷く。
「そんなもの、考えるまでもないだろう」
と陰のある笑みを浮かべながら、大場先輩はソファーの縁に少し腰を預けて、こう続けた。
「そんなもの、西園寺に私への気持ちを諦めさせるために決まっている」
予想していた通りの返答だった。だから驚きはしなかった。
その代わり、怒りがふつふつと沸いてきた。
「なんですか、それ……」
今すぐにでも掴みかかりたい衝動に駆られながらも、ぼくは歯噛みして大場先輩に言う。
「そりゃ血の繋がった兄妹とわかれば、そのままにしておけないのはわかりますけど、だったらぼくたちを利用しないで、最初から自分で嫌われるような真似をすればよかった話じゃないですか。それこそぼくたちの時みたく、わざとロリコンだと思わせるとか」
「私もそれは考えたし、実際に一度だけ行動に移したこともあるが、あっさり見破られてしまったよ。すぐに悪戯だと誤魔化しておいたが、案外未だに怪しんでいるかもしれないな。だから、自分からロリコンだと嘘を言うわけにもいかなかった」
「それで、たまたま部室に来たぼくたちを利用しようと?」
「そういうことだ。私が妙な言動をしたら怪しまれかねんが、まったく接点のない第三者ならば信憑性も増すだろうからな。だが一応言っておくが、なにもお前たちが初めてというわけではないぞ? お前たちが来る前から恋部の入部希望者を利用する算段でいたのだが、どいつも西園寺目当ての輩ばかりで探偵の素質がまるでなくてな。さすがにそいつらでは私の秘密を暴けるとは思えないし、かと言ってわざと謎を解かせたらそれこそ西園寺に怪しまれかねないと頭を悩ませていた時に、お前たちがやって来たというわけだ」
お前たちは今まで来た入部希望者と違って見所があったからな、と微笑する大場先輩。
「……事情はわかりました」
が、まだ納得したわけじゃないし、まして許したわけでもない。この人がぼくたちを利用していたのはもちろんだけど、なによりもエリカ先輩の気持ちをないがしろにしていることにはなにも変わらないからだ。エリカ先輩にだって、知る権利はあったはずなのに。
「でも、それならいっそ血の繋がった兄妹だって正直に話せなかったんですか? かなり驚くかもしれませんし、好きになった人が兄だったとわかったらショックを受けるかもしれませんけれど、エリカ先輩ならきっと受け入れて──」
「言っただろう、腹違いの兄妹だと。私の母は正式な妻だったわけではないんだ」
今まで以上に双眸を凄ませて、大場先輩は冷然と声を発した。
「正式な妻ではない……?」
「愛人との間に生まれた子なんだよ、私は」
その衝撃な言葉を聞いて、ぼくはすぐに理解が追いつかなかった。まるで意味不明な呪文を呟かれたような気分だった。
そんなぼくに構わず、大場先輩は苛立ちを抑えるように瞑目して言葉を継ぐ。
「私の父と母は小学校からの幼なじみでな、進学先も同じところを選ぶほどの深い仲だった。だがそれはあくまでも友人としてのもので、恋愛感情は一切なかったそうだ。その関係が急に変わったのは、この学園で父が告白された日……今の西園寺の母親と恋仲になった頃だった。そうしていつか父の恋人に嫉妬している自分に気付いて、そこから恋愛感情に繋がったらしい」
ようは母の横恋慕になるな、と自嘲気味に一言付け加えて大場先輩はさらに続ける。
「本格的に関係を持つようになったのは父の婚約が決まった時だったそうだ。父に恋人ができたあとも友人として変わらず接していたが、婚約の話を聞いて、我慢しきれずに母の方から関係を迫ったらしい。父も父で私の母を心のどこかで異性として意識していたようで、そのまま愛人として逢瀬を交わすようになった。そうしていつしか、二人に私という子ができてしまった」
そこまで聞いて、ようやく脳の処理が追い付いてきたぼくは、おそるおそる口を開いて、
「そ、そのこと、エリカ先輩のお母さんは……?」
「私が生まれた時に父から聞かされたそうだ。というのも、私の母が出産するまで必死に隠していたそうで、妊娠した事実すら話していなかったらしい。だがさすがに出産までは隠し通せなかったのか、父に知られた時は泣いて謝ったそうだ。どうしてもこの子を生んで育てたかったとな。そのあと父と話して、西園寺の母に二人して謝罪したそうだが、相当荒れたと聞く。まあ当然と言えば当然の話だな。だがその時にはすでに西園寺を妊娠していた上、父を憎むことができなかったそうで、二度と父とは会わないという条件付きで、私の母は父の前から姿を消した。その時少しでも養育費をねだっていれば少しは生活も楽になっていただろうに、母も健気な人でな、愛する人からお金はもらえないと断って、母一人で私を育てることを決心し、今に至るというわけだ」
養育費さえ貰っていれば、奨学金免除の特待生枠があるこの学園に来ることもなかったかもしれんな。
と、憂いに満ちた表情で語る大場先輩に対し、ぼくはなにも言えなかった。内容が重すぎるせいもあるけど、ぼくみたいな不自由なくお気楽に人生を謳歌している自分なんかに、軽々に口を挟めるわけもなかった。
けど、今の話でわかったこともある。大場先輩みたいな優等生が、なぜ大学受験で推薦枠を取らないのかとずっと疑問に思っていたが、きっと大学側に家族関係を知られるのを躊躇したのだろう。もちろん大場先輩が浮気相手との間に出来た子供だからって推薦が取り消しになることはないと思うけど、たぶん真面目な大場先輩のことだから、体裁を気にしたのではないだろうか。お母さんを世間の好奇な目から守るためにも。
「だから、私は父のことを写真でしか知らない。というより、知りたいとも思わない。向こうにも複雑な事情があったのはわかるが、それでも母を捨てたことには変わりないからな。ゆえに、私は父を嫌っている。憎みこそしないが、嫌悪はしている。ちゃんと理性を保てさえいれば──父の目さえ曇ってさえいなければ、今とは違った未来があったかもしれないのに。親子三人で仲睦まじく幸せに暮らす未来もあったかもしれないのに」
大場先輩は怒りを込めるように両の拳を力強く握ったあと、不意にその拳を解いた。
「とはいえ、別に西園寺にもその母にも罪はないし、今さらどうこう言うつもりはない。妹の存在は幼少の頃から聞かされていたが特になんの感情もなかった。ただ母と慎ましくも平穏に日々を暮らせれば、それで満足だった。まあ母があまり父を褒めるものだから、なんとなく気になって私もこの学園に入学して同じ部にも入ってしまったが。意外だったのは、あんなどうしようもない父親でも恋部ではそれなりに活躍していたという点だな。そういう意味では唯一父を評価していいかもしれん。おかげで私もこの恋部に入るきっかけにもなったし、いつしか愛着を持てるようにもなったからな。だがそうして、勉学と部活とで忙しくもそれなりに充実した毎日を送っていたある日、西園寺が私の前に現れた」
エリカ先輩の名前を出した途端、大場先輩の表情が翳った。まるで宵闇のように。
「驚いたよ。西園寺がこの部室に訪れた時は。なにせ、父から貰ったペンダントと同じ物を首に付けていたのだからな。妹がいることは知っていたが、まさか同じ学び舎で、しかもこの部室で出くわすとは夢にも思っていなかった。まあ父もかつて在籍していたところだし、あとになって考えてもみたら別段そこまで驚くような話でもなかったが。西園寺は私と違って父を尊敬していたようだし、こういった可能性も考慮すべきだったんだ。この時ほど自分の浅はかさに呆れたことはないよ。しかし幸いにも、向こうは私に気付いていないどころか、父に隠し子がいたことすら知らない様子だった。だから──」
「だから、あえて他人の振りをしたと? でもどうしてですか? その時ちゃんと話してさえいれば、こんなややこしい事態にもならなかったかもしれないのに……」
「言っただろう? 西園寺は父を尊敬していると。そんな父が愛人を作って妊娠までさせていたと知られてもみろ。一体どれだけのショックを受けることか。まして西園寺は兄がいるという事実すら聞かされていない。これまでずっと父を尊敬して恋部にも入部した西園寺が、平静を保てると思うか?」
「………………」
エリカ先輩なら大丈夫……なんて軽々に言えるわけがなかった。エリカ先輩がお父さんのことをどれだけ誇りに思っているかなんて、いつも肌身離さず首に付けているペンダントを見れば、一目瞭然だったから。
「エリカ先輩のこと、気にかけてくれているんですね……」
「いくら父を嫌っているとはいえ、その娘まで邪険に扱うのは筋違いだからな。それに複雑な関係ではあるが、妹であることには変わりない。さすがにまだちゃんと妹と認識することまでは無理だが、後輩としては慕っている。それに西園寺はとても良い子だ。それは鹿騨もよく知っているだろう?」
もちろん、よく知っている。ちょっと怒りっぽいところはあるけど、でも素直で。気が強そうに見えて、案外照れ屋で。いつも素っ気ないけれど、なんだかんだ言ってぼくたちを仲間として認めてくれていて。他にもまだ言えるくらい、エリカ先輩は素敵な人だ。
「そんな西園寺を傷付けるような真似をするのは、私の本意ではない。だからお前には、このまま真実を伏せていてもらいたい」
「エリカ先輩にはなにも話すなってことですか……?」
端的に言えばそうだ、と首肯する大場先輩。
「……いいんですか、本当にそれで。このまま疎遠になってしまいますよ?」
「それでいい。いや、それがいいんだ。真実を知ったところで、なにもいいことはない。悪戯に西園寺の心を抉るだけだ」
それは……そうかもしれない。少なくとも先輩後輩の仲でしかないぼくに、真実を明かす権利なんてあるはずもない。それは大場先輩の役目でしかるべきだ。
しばらく無言でいたのを了承と捉えたのか、大場先輩はソファーから腰を浮かせて、ぼくの肩に優しく手を置いた。
「すまないな。いらぬ気苦労をかけて。お前にはなにも知らないままでいてほしかったのだが、ここまで頭の働く奴だとは思わなかった。完全に私の計算外だったよ」
褒めているつもりかもしれないけど、嬉しくもなんともなかった。
今はただ、重すぎる真実を前にして打ちひしがれるしかなかった。
「しかしながら怪我の功名と言うべきか、鹿騨たちのような優秀な人材を入部させることができた。お前たちになら西園寺を支えられる──西園寺と一緒に恋部を任せられる」
大場先輩はそこまで言って、唐突に踵を返した。これで話は終わりだと言わんばかりに。
「鹿騨──お前と会えてよかった。真実こそ知られてしまったが、どこか重荷が下りたような気分だ。もしかしたら心のどこかでこうなることを望んでいたのかもしれないな」
「……大場先輩、最後に一つだけ質問していいですか?」
今にも退室しようとしている大場先輩の背中に、ぼくは問いかけた。
「どうしてみんなで撮った写真を、この部室に置いたままにしておいたんですか?」
ドアノブに手をかけたままの状態で静止する大場先輩。
そんな大場先輩に、ぼくはさらに質問を重ねる。
「さっさと捨てるなり、もしくは自分の部屋に持ち帰るなりしていれば、ぼくに見つかることもなかったのに、どうしてそうしなかったんですか?」
少しの間、沈黙が流れた。窓の外で部活に勤しむ賑やかな声だけが部室に響く。
幾ばくかして、大場先輩が不意にドアを開けた。そして廊下に足を出したと同時に、大場先輩は後ろを振り向かないまま穏やかな声音で言った。
「あれはこの部室で撮った大切な思い出だからな。捨てることも、ここから持ち出すことも、鼻から頭になかったよ」
それだけ言って、大場先輩は静かにドアを閉めた。
再び訪れた静寂と孤独の時間。なにをするでもなく、放心するようにしばらく自分の呼吸音を聞いたあと、床にへたり込んで盛大に溜め息を吐いた。
なんだか、どっと疲れた。時間で言えば十分くらいしか経っていないはずなのに、一時間以上は経過したように感じる。それだけ大場先輩と濃い会話をしていたことになるんだろうけど、予想していた以上の真実を聞かされて、正直もう精神的にへとへとだ。
「ほんと、とんでもないことを知っちゃったなあ……」
大場先輩の秘密を暴くつもりが、まさかその片棒を担ぐ羽目になるなんて。これから先、エリカ先輩と会う時は、まともに顔を見られそうにない。
「でもこんな話、エリカ先輩に聞かせられないしなあ」
真実を知ったら、きっとエリカ先輩は悲しむ。いや、それだけならまだいい方だ。最悪なのは自責の念を感じて、この学園を去ってしまうこと。エリカ先輩はなんら悪くないけれど、真面目なあの人のことだから、父の行いを自分の罪のように捉えるに違いない。それだけは絶対に避けなければ。
と、その時、隣の編纂室で物音がしたような気がした。
まさかという想像が胸中を巡る。心臓は早鐘を打ち、嫌な汗が背中を伝う。
そんなはずはない──ただの気のせいだと言い訳するように己に言い聞かせつつ、
「エ、エリカ先輩、ですか……?」
と絞り出すような声でおそるおそる訊いてみた。
果たして、編纂室のドアが戸惑いがちにゆっくり開かれた。そこには──
エリカ先輩が、青ざめた顔色で立っていた。
「っ!? な、なんでエリカ先輩がそこに……?」
瞠若するぼくに、エリカ先輩はあたかも幽鬼のような生気のない表情で「……ここにいたのよ。あんたが来る前から……」と消え入りそうな声で答えた。
「ぼくが来る前から……?」
「……そう。ここで忘れ物をしてしまったから、生徒会室に行く前に、ここに立ち寄ったの。それで忘れ物を回収して部室を出ようとしたら、あんたがいつになく思い詰めた顔でここに来ようとしていたから、とっさに部室の鍵を閉めて、編纂室に隠れたの。あんたの様子がどうしても気になったから……」
「じゃあ、今までの会話も全部聞いて……?」
こく、と小さく頷くエリカ先輩。
「そう、ですか……」
それしか口にできなかった。なにも言葉が思い浮かばなかった。
そうして、無力な自分に絶望してうなだれていると、エリカ先輩が編纂室のドアを音もなく閉めて、ぼくの元へと歩んできた。
「あんたが気にする必要はないわ……」
そう覇気なく言って、ぼくのすぐ目の前で立ち止まったエリカ先輩は、視線を合わせるようにその場で屈んだ。
「大場先輩が私の兄かもしれないというのは、前々からなんとなく気付いていたから」
思わず「えっ!?」と弾かれるように顔を上げた。
「気付いていたって、一体いつから……」
「あんたたちの入部祝いに、みんなで撮った写真があったでしょ? 写真が無くなる前、デスクの上に飾られてあったのをじっくり眺めたことがあるの。見覚えのあるものが写っていたような気がしたから」
「それって──」
「ええ」
と首肯して、エリカ先輩はいつも付けているペンダントを手に取った。
つまりエリカ先輩は、大場先輩が写真を隠す前から、ずっと兄妹かもしれないと疑っていたというわけか。
「もしかして大場先輩を避けるように距離を取っていたのも、別にロリコンだと信じ込んでいたわけじゃなくて、血の繋がった兄妹かもしれないと思い悩んでいたから……?」
「最初は完全にロリコンだと思っていたわよ。でもあとになって考えてみると、どこか不自然というか、大場先輩にしては迂闊な行動が多いと思って疑問に思ったのよ。それで密かに調べている内にあの写真に行き着いて、ペンダントの存在に気付いたというわけ」
知らなかった。これまでずっとさりげない様子を装ってエリカ先輩を眺める機会が多かったのに、そんなことを裏でしていたなんて。
とそこで、以前大場先輩に言われたことを思い出す。エリカ先輩は常識に囚われやすいだけで、本来はとても聡い人だと。その言葉をぼくは額面通りに──単純な知識量や手際の良さとして解釈していたけれど、本当の意味でわかってはいなかった。
エリカ先輩も探偵であったと。
真実を見抜かずにはいられない性分であったということを。
「それなら、どうして大場先輩にそのことを訊ねなかったんですか? ぼくみたいに証拠を突き付けたら、大場先輩も素直に話していたかもしれないのに……」
「言えないわよ、そんなこと。私のお兄さんかもしれない人に『もしかして父の隠し子ですか?』なんて。私が同じ立場だったら、どんな顔をしたらいいかわからないわ……」
弱々しく苦笑して、目線を逸らすエリカ先輩。そんな辛そうな表情をするエリカ先輩を見て、バカなことを訊いてしまったと激しく後悔した。
「……いえ、正確には自分のためかもしれないわね。尊敬していた父が愛人を作っていたなんて信じたくなかったから──理想を自分の手で壊したくなかったから、真実から目を背けていただけ」
結局我が身が可愛かったのよ、とエリカ先輩は自嘲的な笑みを浮かべた。
「ひどい話よね。私だけなにも知らないまま不自由なく生きていたなんて。大場先輩の話を聞いたら、ますます自分が許せなくなったわ……」
「そ、それはエリカ先輩のせいじゃ──……」
と、自分を責めようとするエリカ先輩を擁護するつもりが、言葉は尻すぼみに終わってしまった。そうして逡巡する内に、エリカ先輩は悲しげに微笑んで、
「いいのよ、無理して気を遣わなくても。あんたが気にかけるようなことじゃないんだから。これは私と大場先輩の問題なんだから」
言外にお前は無関係だと告げられたような気がして、ぼくはなにも口が開けなかった。
実際その通りだと思うし、ここでなにを言ったところでなんの慰めにもならないと思ったから。
「……悪かったわね。こんなことに巻き込んじゃって。でも、もういいから」
そう言って、エリカ先輩はゆっくり立ち上がった。
依然としてかける言葉が見つからず、ただ無為に顔を伏せたままでいるぼくに、エリカ先輩は無言で横を通り過ぎる。
背後でドアノブを握る音がした。もう帰るつもりでいるのだろう。でもすぐに開かれると思ったドアは、体感で一分近く過ぎても開閉する気配がしなかった。
ややあって、エリカ先輩がわずかに口を開く息遣いが聞こえた。躊躇いがちに開かれたその口は、少し時を置いたあとに「由太郎」とぼくの名前を呟いた。
「あんたが気にする必要なんてどこにもないわ。だから、全部忘れてしまいなさい。その方が、きっと一番いいはずだから……」
エリカ先輩が廊下に出る足音が聞こえる。それでもぼくは、エリカ先輩が部室から出て行ったあとも、後ろを振り返ることはなかった。
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