第6話 とんでもない暴露
遊園地デートから一週間あまりが過ぎて。
月曜日の今日、僕たちの学校で球技大会が開かれていた。
「輝ちゃん、サッカーお疲れさま! 大活躍だったね!」
「ええ。二点も入れるなんて驚きました。緋室くん、サッカーが得意だったんですね」
「いやいや。おれはたまたま来たボールをがむしゃらにシュートしただけだから。サッカー部の奴らが上手いことパスしてくれたおかげだよ」
「……至極残念。小冬も輝がシュートを決める瞬間を見たかった……」
昼休み、学校の屋上にて。
それぞれの種目を終えた僕たち五人は、屋上に集まって昼食を取っていた。
「小冬ちゃん、テニスの試合で見に行けなかったもんね~。スマホで撮れたらよかったんだけど……」
「球技中はスマホの使用は禁止になっていますから。今回は残念だったとしか言いようがありませんね……」
「仕方がない。次に懸ける。輝、次の試合はいつ?」
「あー。悪い御園。次は明日だ……」
「……ショック。今日はもう輝の勇姿が見られない……。そらや凛は見られたのに……」
輝の返事を聞いて、珍しく沈んだ表情を浮かべる御園さん。
そんな御園さんの顔を見て、
「じゃあ、今度はおれが御園の試合を見に行くよ。テニス、まだあるんだろ?」
「! 肯定。ちょうど昼休みのすぐあとに試合がある。ぜひ見に来てほしい」
輝の言葉を聞いて、御園さんは露骨に瞳を輝かせた。
いつも無表情の御園さんがここまで感情表現を見せるなんて。よほど輝の提案が嬉しかったと見える。
「それならあたしも行くー! ていうか、この際みんなで応援しに行こうよ!」
「私は構いませんよ。私がいたバスケのチームは早々に負けてしまったので。でも宮永さんはいいんですか? 確か宮永さん、このあとバレーの試合でしたよね?」
「そうだけど、補欠の子と交代してもらうよー。その子、あたしと仲良しだからたぶん大丈夫だと思う」
「そうですか。ならみんなで御園さんの応援に行けそうですね」
「うん! あ、もちろん茂木くんも来るよね?」
と。
それまで黙々と弁当を食べていた僕は、唐突に向けられた問いに思わず箸を止めて目を丸くした。
「え? 僕も?」
「うん。だって応援は多い方がいいし。それとも茂木くん、都合が悪かった?」
「いや、僕も卓球の試合がだいぶあとだから行けなくもないけど……」
言いながら、僕から見て右前方に座る御園さんにちらっと目をやる。
「本当に僕が行ってもいいの? なんていうか、僕だけ場違い感があるというか……」
「問題ない」
おそるおそる発した僕の言葉に、御園さんは元のクールな表情に戻って返答した。
「確かにあなたとはそこまで仲がいいと言える間柄ではないけれど、別に他人が混じったところでプレイに影響はない。小冬は試合に集中するのみ」
言って、淡々とサンドイッチを咀嚼する御園さん。ずいぶんはっきりとした──いっそ突き放したかのような物言いに、輝たちは僕を気遣うようにやんわり視線を向けて微苦笑した。
まあ実際、御園さんとはこうして少し話す程度の関係性でしかないし、反応に困るのも無理はない。当事者である僕ですらなにも言えなかったのだから。
だが一応言っておくと、これでも遊園地デート後に比べたらいくらかマシにはなった方ではある。
遊園地に行ったあとなんて、二、三日は藤堂さんも御園さんもまともに挨拶してくれなかったくらいだしな。藤堂さんは会釈するだけマシな方だったが、御園さんに至ってはこっちが挨拶しても完全無視だったし。
とは言うものの、前のように少しだけ会話できるようになったというだけで、関係そのものは依然としてなにも進展していない。ほんと、いつになったらこの二人と普通に会話できるようになるのやら……。
唯一救いがあるとするならば、宮永さんとだけは前に比べて仲良くなれたことくらいか。
なんて考えていたのは、どうやら僕だけではなかったようで──
「ところで前々から訊こうとは思っていたのですが、宮永さんはいつの間に茂木くんとそこまで仲良くなっていたのですか?」
藤堂さんの質問に、宮永さんはソーセージを口に含んだまま「ふぇ?」と可愛いらしく小首を傾げた。
「それは小冬も気になった。以前はそこまで親しくなかったはず」
「そう? あたし的には普段通りのつもりだけど。ていうか茂木くんとは幼稚園の頃からずっと一緒だったし、今までだって何度か話したこともあるよ? ね、茂木くん?」
「え? う、うん。まあ……」
業務連絡的な会話なら確かに何度もあるが。
けどこうして友達みたいに会話できるようになったのは、本当につい最近なんだよなあ。
具体的に言うと、あの遊園地デート以来からか。
僕にとってはあのイベントのおかげで親しくなれたと思っていたのだが、宮永さんの中では元から親しい関係だと思っていてくれていたのだろうか。
さすがにそれは思い上がりかもしれないが、ただのクラスメートから友達に格上げしてもらったのは間違いなさそうだ。
とは思う。
だったらいいなあ。
「普段通り……ですか。私の目には、急に距離が近くなったような気がしてならないのですが……」
「小冬も同意見」
「えー? 凛ちゃんも小冬ちゃんも疑り深いなあ~。本当に特別なことなんてなにもなかったよ? あるとしたらこの間の遊園地くらいだけど、その時だって普通に話していただけだし」
宮永さんの話に嘘はない。遊園地の帰り道でこそ長々と……それこそ今までにないくらいの密度で話はしたが、藤堂さんや御園さんが勘繰るようなことは別段なにもしていない。本当にただ友達みたいに──さながら昔に戻ったように雑談しただけだ。
まあ、あの日がきっかけで宮永さんの態度が軟化したのは事実ではあるけども。
どうして遊園地に行った日を境に、宮永さんが気さくに話しかけてくれるようになったのかは、依然としてわからないままではあるが。
しかもあれから一週間以上過ぎているというのに、未だに真意を訊けないままでいるし。こういう意気地のないところが僕のダメなところなんだよなあ……。
「よかったよ、太助が少しずつだけどみんなと打ち解けてきたみたいで」
と、宮永さんたちの会話をしばらく黙って聞いていた輝が、箸で唐揚げをつまみながら笑顔で口を開いた。
「太助がおれたちと昼休みを一緒に過ごすようになってからけっこう経つけど、前はもっと表情が固かったからな」
「あー、言われてもみればそうかもねー。最初は一生懸命あたしたちに合わせている感じだったけど、今は自然体な感じだし」
なかなか鋭いことを言う宮永さん。
実際あの時は少しでも宮永さんたちと近しくなろうと必死だったし、少しでも僕に興味を持ってもらおうと輝の話題ばかり振っていたから、周囲には無理をしているように見えたのかもしれない。
しかもこれ、今にして思えばけっこう本末転倒だよな。逆に輝への興味を増幅させるだけというか、必ずしも僕に関心が向くとは限らないというか。今までさんざん陰謀者ムーブを取っていたくせにね。恥ずかしいね。
「まあ、まだ完全に打ち解けたってわけでもないけどな。藤堂や御園とは相変わらず会話が少ないし」
「ほんと、輝ちゃんの言う通りだよー。凛ちゃんも小冬ちゃんも茂木くんを微妙に避けたりしてさ。どうせならあたしみたいに仲良くなった方が絶対楽しいのに~」
「なっ! べ、別に避けているわけでは……。私はただ、緋室くん以外の男子にはあまり慣れていないだけで……」
「小冬も他意はない。正直に生きているだけ」
「えー? なんだかそっけなくない? 茂木くんも、ちょっとくらい愚痴をこぼしたっていいんだよ? 除け者にされているみたいで寂しいとかさー」
「いや、僕は全然構わないから。輝もいるし」
「おれもいる……か」
「え? 輝ちゃん、なにか言った?」
なんでもない、と緩く首を振って唐揚げを口に含む輝。
んん? なにか言いたげな感じに見えたけど、気のせいか?
「ていうか茂木くん、だれか忘れてない?」
「あ、うん。もちろん宮永さんもいるから別に寂しくないよ」
「そっかあ。えへへ。あたしもいるから寂しくないかあ」
「……あれ? いつの間にか私と御園さんだけ雑に扱われていませんか……?」
「そこはかとなく不満」
一人嬉しそうに頬を緩める宮永さんと違い、戸惑いを見せる藤堂さんと御園さんなのだった。
○ ○
「で、調子の方はどうだ?」
昼休みを終えて、約束通りテニスコートへ行って御園さんの試合を観に来た僕たち。
そんな中、僕と輝だけ観客のいるところから少し離れた位置で、御園さんの試合を観戦しながら話をしていた。
最初の内はとりとめのない会話をしていたのだが、ふとなにげない感じに質問を投じてきた輝に、僕は「なにが?」と首を傾げた。
「だから、その後の進捗だよ。そらとは上手くいっているようだけど、藤堂と御園とは微妙なままなんだろ?」
「あー、微妙というかなんというか……」
曖昧に返答しつつ、テニスコートのそばで御園さんを応援している宮永さんと藤堂さんに視線を向ける。
二人共、試合に熱中しているようでこっちを気にかける素振りは見られない。元々はみんなで並んで観戦するつもりだったのだが、輝が僕と二人きりで話がしたいと言うので、テニスコートからやや離れたところで試合を観ることにしたのだ。
言うまでもなく、宮永さんと藤堂さんに怪訝そうな顔をされてしまったが、深くは追及されなかった。たぶん男同士で大事な話があるのだろうと勝手に解釈してくれたのだろう。今やその二人も試合に熱視線を送っているので、もうこちらのことは気にしてないようだ。
当のその試合であるが、かなり白熱しているようで、一進一退の攻防を繰り広げる御園さんとその対戦者に、だれも彼もが熱い声援を送っていた。
「その歯切れの悪さからして、思うように進んでいないみたいだな」
言葉を濁した僕に、輝は苦笑しながら言う。
「まあ、見るからに上手くいってなさそうな感じだったけどな。特に遊園地に行ったあとは」
だったらわざわざ聞くなよと言いたくもなったが、協力してもらっている手前、そんな文句を口にするわけにもいかない。
仕方なく聞こえよがしに嘆息をついて、
「まあね。僕なりに努力はしているんだけどさ……」
「具体的には?」
「えっ」
「だから、具体的には?」
「……………………」
「……………………」
「おっ。見ろよ輝。御園さんがツイストサーブを打ったぞ。現実に打てたのか、あれ」
「こいつ、露骨に話を逸らしやがった……」
だって改めて聞かれると、そこまで大層なことはしてないような気がしたんだもん。
「ま、太助は基本奥手だからな。しょうがないか」
輝にだけは言われたくないなあと内心ツッコミを入れつつ、次の言葉を待つ。
「それで、これからどうするつもりなんだ? またこの間みたいにみんなで遊園地に行くのか?」
「あー。いや、遊園地は当分いいかな。あんまり何度も行ったら飽きられるだろうし」
「じゃあ他の場所にするのか? ショッピングモールとか動物園とか」
「それも候補としては考えたんだけど、これっていう決め手に欠けるっていうか、ぶっちゃけまだ考え中」
僕の返事に輝は「ふーん」と味気なく相槌を打って、テニスコートの方に視線を向けた。会話も止まってしまったので、僕も見るともなしに御園さんの試合を眺める。
ちょうど御園さんのスマッシュが決まったところで、2セット目が終わろうとしていた。ちなみに御園さんの優勢。次にポイントを取ったら御園さんの勝利となるが、1セット目を相手に取られているので、次で勝利する必要がある(全部で3セットしかないため)。
でも、だんだんと御園さんの調子が上がってきているようなので、この分だと3セット目も取れそうな気がする。少なくとも相手側に疲弊の色が見えてきているので、長期戦になれば御園さんの方に分がありそうだ。
そうして御園さんのサーブが始まろうとした途端、輝がふとなにげない口調で「太助はさー」と話を切り出した。
「本当にそらたちのだれかと付き合うつもりがあるのか?」
質問の意味がわからず、僕は眉をひそめて輝の顔を見た。
「なにそれ? どういう意味?」
「さっきの昼休みの時の会話なんだけどさ」
足元に転がっていた小石をつま先で遊びながら、輝は言葉を紡ぐ。
「お前、おれがいるから別に寂しくないとか言ってただろ?」
「お、おう……」
ぎこちなく頷く僕。自分で口にしたことではあるが、改めて言われるとけっこう恥ずかしいな……。
「う、うぬぼれるなよ。別に輝がいないと生きていけないわけじゃないんだからねっ」
「なんだその無駄なツンデレ。そういうのはそらたちに使えばいいのに」
宮永さんたちに使ったら、単なる気持ち悪い奴だと思われかねないだろうが!
「で? それがなんだって言うんだ?」
「いや、その後にそらもいるから寂しくないとかも言ってただろ? その時の太助、どんな顔をしていたと思う?」
「どんなって……。自分の顔なんて鏡でもないと確認できないし……」
「すごいほっとした顔をしてたんだよ、お前」
それを聞いて、僕は頭が真っ白になったように硬直した。
「あの時、太助がどう思っていたかはわからないけど、正直おれには現状に満足しているように見えたんだよ。まるで今のままでいいやとでも言いたげでさ」
その言葉に、僕はなにも反論できなかった。
すべてが真実とまでは言わないが、心のどこかでそう思っていたのは否定できなかったから……。
「まあ、気持ちはわからないでもないけどな。そらと仲良くなれて、すごく楽しかったんだろ? なんだか昔の仲がよかった頃に戻れたみたいでさ。藤堂と御園とは相変わらず微妙なままだけど、最初に比べたら半歩でも改善しているし、これから親しくなれる機会もあるかもしれない」
「………………」
「だから、改めてお前の口から聞きたいんだ。太助はこれからどうしたいんだ? もうそらたちのだれが太助を好きなのかを探る気はないのか?」
「それは……」
言いかけて、口を噤んだ。
探る気はないと言えば嘘になる。今でもだれが僕を好きなのか気になっているままだし、あわよくば付き合えたらいいなあとまで考えているが、心の底からどんな手を使ってでも宮永さんたちのだれかと恋人になりたいのかと問われたら、首を縦に振れそうになかった。
正直に言おう。
僕は今、どっちに転んでもいいと考えていた。
あの三人の内のだれかと付き合うのも、このまま生温い関係のままでいるのも。
だって、僕みたいな奴が宮永さんたちと仲良くやれているんだぜ?
この陰キャの中でも底辺とでも言うべき僕が、宮永さんたちみたいな人気者で見た目も性格も可愛い子たちと親しくなれただけでも奇跡のようなものだ。輝のおかげでもあるが、この先同じような境遇に巡り合えるなんて到底思えない。
「別に太助がこのままでもいいって言うなら、おれはなにも言う気はない。おれが口を滑らせたせいで始まったようなものだしな。まだ探すつもりだって言うなら、変わらず協力もする」
けどな、と輝はそこで一拍間を空けて、僕の目をまっすぐ見据えた。
「どっちも選ばないような、中途半端な真似だけはするなよ? それはそらたちに失礼だ。それだけはおれでも許容できない」
そう告げる輝の顔は、今まで見たことないくらい真剣なものだった。
思わず気圧されそうなほど、凄みのある面持ちだった。
と。
テニスコートの方からわっと歓声が上がった。どうやら御園さんがポイントを取ったみたいで、宮永さんと藤堂さんも手を組み合って「キャーキャー」と飛び跳ねていた。
「おっ。御園が勝ったみたいだな。そらも藤堂も、あんなに喜んじゃって。おれが一緒にいる時以外は、そこまで仲がいいわけじゃないのにな」
なにも言えず──なんて言ったらいいかもわからず黙する僕に、輝は何事もなかったかのように相好を崩した。
「おれたちもそろそろ近くで応援しようぜ。御園が3セット目を取る瞬間を間近で見たいし」
言いながらテニスコートの方へ歩いていく輝の背中を、僕は結局返事もできないまま、その後ろ姿をとぼとぼと無言で付いて行った。
卓球の試合は、僕の負けに終わった。
それもあっけなく。というのも、相手が卓球部員のレギュラー候補だったので、そもそも僕の勝てる見込みなんて微塵もない試合だった。
そのせいもあって、悔しいという気持ちは一切湧いてこない。さすがに初戦で敗退というのは情けないものがあるが、相手が相手だし、文句を言う奴はいないだろう。輝たちも他の試合があって応援には来なかったので、それも個人的にはありがたかった。
いくら相手が悪かったとはいえ、大敗した姿を輝たちに見られるのはやっぱり嫌だし。
で。
試合が終わったあと、僕は体育館そばにあるベンチで一人涼んでいた。
火照った体を冷やしたかったというのもある。でもそれ以上に、一人で考え事をしたかったのだ。
輝に言われたことを、もう一度よく噛み砕いて考えるために。
「中途半端な真似だけはするな、か──」
地面を歩くアリの列をぼんやりと眺めながら、僕は輝の言葉を反芻する。
現状に甘んじて先のことを保留していたのは紛れもない事実。このままどっち付かずの状態でいて、僕が得られるものとはなんだろうか。
「充足感、かなあ……」
これ以上深入りはせず、さりとて縁も切らず彼女たちと送る学校生活。
それはとても穏やかで楽しくて、きっと満ち足りた日々を送れることだろう。
でもそれは、輝に言わせれば依存のようなものでしかないのだろうと思う。依存というか、自己満足と言った方があるいは適切か──どちらにせよ、輝のあの時の言葉は、間違いなく本物だった。
それも脅しじゃなく、本当に僕の身の上を心配した上で。
ゆえに僕もこうして真剣に悩んでいるのだが、だからと言ってすぐに結論が出るようなものでもなく。
一人ベンチに座ってから、うだうだと無為に時間を過ごしていた。
「どうしたもんかな……」
どうもこうも宮永さんたちの攻略を続けるか、それとも自分からフェードアウトするかのどちらかしかないのだから、結局は二者択一でしかないのだけれど、どれだけ悩んでも決断できそうになかった。
輝の言わんとしていることは、わからないでもないのだ。
宮永さん、藤堂さん、御園さんのだれかが僕を好いてくれているとして、もしも今のような状態を故意に続けたらどうなるかなんて。
それは生殺しも同じだ。
釣った魚にエサを与えないようなものだ。
いや、実際は釣ってもいないか。こっちから針を投げておいて、相手に食わせないように釣り糸を巻いているような行為に近い。
もちろん、それでも食らいつこうとするなら別段拒否はしないけど、現状、その兆候は見られない。
それは相手が奥手なせいなのかどうかは判断できないが、今のままでいて関係が急激に変わるようなことはまずないだろう。
どちらかが、積極的に動かない限りは。
「となると、やっぱり僕が動くべきなのかな……」
これでも一応は男子なのだ──女の子から告白されるのをずっと待つというのも、なんだか格好が付かない。
仮にそれで付き合えたとして、後々恥ずかしい思いをするのも、ちょっと困る。
それに向こうだって、必ずしも痺れを切らして告白してくるとは限らない。
何事も永遠なんて存在しない。このまま相手の気持ちをないがしろにしてあやふやに終わらせるよりは、やはりちゃんと決着を付けるべきだと僕は思う。
お互いに後悔を残さないためにも。
輝が言いたかったのも、きっとこういうことだと思うから。
「よし。思考終了」
身の振り方は決まった。あとはもう一心不乱に行動するのみ──宮永さんたちのだれが僕に好意を抱いているのかを見つけるだけだ。
やっと迷いも消えたところで、僕は「よいしょ」とベンチから立ち上がり、自分の教室へと向かう。
そういえば、輝たちの試合はどうなったのだろう。そろそろ終わる頃だとは思うが、なんの球技だったかまでは聞いてなかった。
まあ、今さら観に行ったところで間に合うかもわからないし、どのみち体操着から着替えたいと思っていたので、一度教室に戻る以外の考えは頭になかった。
そうして黙々と校舎の中に入り、淡々と靴を履き替えて廊下を歩く。
歩きながら、六月のむしむしとした暑さで流れる顔の汗を、体操着の袖口で拭う。
そこまで動いたつもりはないのに、体操着から汗独特の酸っぱい匂いが広がっている。
幸い、今日はもう僕が参加する試合はないが、明日はソフトボールがある。しかもメンバーは陽キャか体育会系ばかり。憂鬱過ぎる。
なにが憂鬱かって、僕みたいな運動が得意ではない奴は、団体球技において敵だけでなく味方からも狙われやすい点だ。
あいつら陽キャや体育会系は、ちょっとこっちがミスしただけで文句を言ってくるんだよなあ。しかもそれだけで終わらず、あとで陰口のネタにしてくるし。中学時代で受けたあの時の屈辱は、たとえ墓に入っても絶対忘れてやらん。
なんて過去の私怨に改めて決意を固めたところで、教室が見えてきた。
人はいないのか、いつもなら遠くからでも届く賑やかな声は聞こえてこない。おそらくみんなして試合に出払っているのだろう。他の教室も静かなので、この時間は人が少なくなっているのかもしれない。
まあ、それならそれで好都合だ。女子はちゃんと更衣室があるけど、男子は教室で着替えるしかないしな。
さすがに下に短パンくらいは履いているので、下着を晒すようなことはしないが、半袖のTシャツを着替えるくらいのことはするので、どうしても上だけ裸を見られてしまうことが多いのだ。
我ながら華奢な体付きなので、できるだけ周囲……特に女子には見られたくない。なので、クラスメートがいないならいないで、個人的にはありがたかった。
「あ。でも鍵が閉まっているかもしれないのか……」
まあ、それならそれで職員室まで行って鍵を借りればいいだけの話だ。手間と言えば手間だが、別段急ぐ理由もないし、困るような事態でもない。
今は早く、汗臭い体操着から着替えたかった。
そんなこんなで教室のそばまで来ると、ほんのりと戸が開いているのがわかった。どうやら僕の以外の人間が鍵を開けてくれたようだ。こいつはラッキー。
「ん……? 人がいる……?」
戸に近付いてみると、なんとなく人の気配を感じた。思わずとっさに身を隠す。
厚守くんや薄井くんならともかく、輝以外の陽キャと二人きりになるとか、そういう気まずい雰囲気にだけはなりたくなかったのだ。あいつら、陰キャと目が合うとすぐに嫌そうな顔をするからね。警戒して当然だよね。
なんてことを考えながら、こそっと下から戸のガラス窓を除き込んで──
僕は、呆然としてしまった。
教室に一人だけいたクラスメートが、机の上に置いたままでいた僕のカッターシャツを、こっそり鼻先まで寄せて嗅いでいたから。
それも恥ずかしそうに頬を染めながらも、恍惚とした表情を浮かべて。
しかもそのクラスメートは、僕がよく見知っている人物で──
「な、なんで……?」
慌てて教室から離れて、声を押し殺しながら疑問をこぼす。
動揺と混乱で頭が真っ白になる中、それでもここにいてはいけないと本能的に思い、僕は逃げるようにその場から離れた。
○ ○
放課後だった。
校庭からは帰宅に急ぐ者、部活に励む者、校内で駄弁っている者など、色んな声で溢れている。
そんな雑多な声を聞きながら、僕は刻々と沈む夕日を背にして、一人屋上に立っていた。
ここで待ち人をしているのだ。
ここに来る前、ちゃんと約束を取り付けて。
正直、最初は迷った。
このままなかったことにしておいた方がいいんじゃないかと。
なにも見なかったことにしておいた方がお互いのためなんじゃないかと。
でも、結局放置できなかった。
どうしても真実を──理由を知りたかったのだ。
たとえそれが、今までの関係を壊すものであったとしても。
ここに来るまで、まったく悩まなかったわけじゃない。むしろ約束した時だって、胸中で迷いが渦巻いていた。
僕がしようとしているのは、すごく愚かなことではないのかと。
愚行でしかないのではないかと。
だから悩んで、悩みに悩んで、悩みきった末に、今日中に片を付けることにしたのだ。
直面している問題から目を逸らさず、中途半端に先延ばしにしないために。
それが親友と交わした約束だったから。
──そうだろ、輝?
果たして待ち人──輝は。
屋上のドアをゆっくり開けて、僕の目の前に現れた。
正面に立つ僕を見て、輝は無言のまま後ろ手でドアを閉めた。そしてドアに背中を預けて、はあと聞こえよがしに嘆息をついた。
「急にどうしたよ? 放課後に屋上まで呼び出すなんて。いつも直帰派のお前らしくもない。一応おれ、これから部活があるんだぜ?」
腕を組みながら僕に問いかける輝。そんな輝に「悪かったよ」と一言謝りを入れつつ、
「どうしても輝に質問したいことがあったんだ」
「質問したいこと? 電話じゃダメだったのか?」
「うん。こうして直接訊きたかった」
僕の返答に、輝は「ふーん」と眉をひそめた。
それは僕を訝しんでのことなのか、はたまた夕日の眩しさに目を細めただけなのか、判断はつかない。
だがいつもと雰囲気が違うのを肌で察してか、普段なら愛想のいい輝が、ここに来て一度も笑みを見せようとはしなかった。
そうして睨み合うようにしばらく互いの視線を交錯させたあと、
「まあいいや。部活はあるけど、時間に余裕がないわけじゃないし」
と輝が溜め息混じりに呟いた。
「それで、訊きたいことってなんだ? わざわざこうして屋上まで呼び出すくらいなんだから、割と重要な話なんだろ?」
「覚えてるか? 宮永さんたち三人の内のだれかが、僕に好意を持っているって話してくれた時の話」
質問を質問で返されて怪訝に思ったのだろう、一瞬困惑したように眉間を寄せながらもすぐに厳つい面持ちに戻って、
「ああ。おれがうっかり口を滑らせたやつだろ? おれと太助以外のクラスの男子が全員彼女持ちだって知ってやたら落ち込むもんだから、つい言っちゃったんだよなあ。それからだったよな、お前がそらたちと積極的に関わるようになったのは」
「輝の協力ありきだったけどな」
そう肩を竦める僕に、輝は苦笑をこぼした。
実際はそんなはずないのに──それこそ今日だって何度も目にしたのに、久方ぶりに見るような気がする輝の笑みに、少しだけ心が痛んだ。
これからはもう、二度と見せてはくれないかもしれないから。
「で、それがどうした?」
「あの時の輝、本当に真実を語っていたのか?」
この言葉に。
輝は能面のように表情を消した。
「……どういう意味だ?」
「どうもこうも、そのまんまの意味だよ」
渋面になる輝に対し、僕は一切視線を逸らさず言葉を続ける。
「お前、僕にこう言ったよな? 彼女が欲しいって嘆く僕に、身近に好きでいてくれている人がいるって」
「……ああ、言ったな」
「あの時、お前はなにも言わなかった。宮永さん、藤堂さん、御園さんのだれかが僕のことを好きなのかもって僕が呟いた言葉に、輝は肯定も否定もしなかった」
「………………? それがなんだよ。太助は一体なにが言いたいんだ?」
あくまでもはぐらかす、か。
実は輝も宮永さんたちと同じで、実は候補の中にいたんじゃないかと訪ねたつもりだったのだが……。
まあいい。白を切りたい気持ちはわからないでもないからな。
それでも僕は、輝に問わなければならない。
幼なじみとして──大事な親友として。
「──言いたいことがあるのは、輝の方じゃないのか?」
は? と面食らう輝に構わず、僕は続ける。
「僕、見たんだよ。今日の球技大会の間に」
「……? 見たって、一体なにを──」
「教室で、輝が僕のカッターシャツの匂いを嗅いでいたところを」
だれもいない教室で、僕のカッターシャツを嗅いでいた人物。
だれあろう、それは僕の幼なじみ、緋室輝その人だった。
「驚いたよ。あれを見た時は……」
きっと僕以上に驚いているであろう輝は、双眸を剥いたまま銅像のように固まっていた。
そりゃそうだよな。これが異性だったなら、そこまで驚きはしなかった。
いや、それはそれで驚きはしただろうが、輝も男だし、つい魔が差して女子の私物に手を出してしまうことくらいはあるだろうと納得できた。
決して正当化はできないが、咎めるような真似は一切しなかったと思う。
でもそれが、同性とあっては。
まして親友ともなれば、話は変わる。
同性愛そのものについて、どうこう言うつもりはない。
世界には七十億もの人がいて、日本でさえ一億以上の人がいる。その数だけ色んな考えがあって、たくさんの価値観がある。その中には同性愛者も当然いて、恋愛そのものに興味がない人だって、もちろんいるだろう。
だから、そういった人たちにとやかくケチを付けるつもりはないし、差別なんてもっての外だと思う。
でも、それで理解できるどうかは別問題だ。
生理的嫌悪感だけは、どうすることもできない。
そりゃそうだ。他の国までは知らないが、日本は異性愛の方が根強い国柄だ。
僕も当然その価値観の中で生きてきたわけで、同性愛なんて自分には微塵たりとも関係ない世界だと思っていた。
蔑むことこそしないが、はっきり言って気色が悪いとすら思っていた。
たとえそれが、無二の親友が相手でも。
自分の気持ちに嘘はつけない。
「正直、めちゃくちゃ驚いた。だって輝が僕のカッターシャツに鼻をくっ付けていたんだからさ……」
あの時の衝撃といったらもう、言葉にできないものがあった。
というか、しばらくなにも考えられなかった。
「最初は見て見ぬ振りをしようかとも考えた。けど、結局やめたよ。それをしちゃったら、一生お前と腹を割って離せなくなると思ったから」
「………………」
僕の言葉に、輝は依然として呆然としていた。こういうのをたまげる、とも言うのかもしれない。
「ぶっちゃけ、これで本当にいいのかどうかはわからない。見られたくなかった姿を見られて……知られたくなかった秘密を暴かれて、僕以上に輝も動揺していると思う。輝の方からしてみれば、耳を塞ぎたい話かもしれない。今すぐ逃げ出したいかもしれない」
それでも──と躊躇いがちに一呼吸を置いて、まっすぐ輝を見据えた。
「それでも、僕は訊きたいんだ。お前は僕のことが好きだったのかって……」
言ってしまった──。
ついに言ってしまった。あとには引けない言葉を。
すべてが壊れてしまうかもしれない、核爆弾のような言葉を──。
そうして、しばらく沈黙が続いた。
聞こえてくるのは屋上に吹き込む夏間近の生暖かい風と、あちこちで響くはしゃぎ声。
夕日は少しずつ山の方に傾き、今では半分近く隠れていた。
どれくらい時間が経っただろうか──ふと漏れ出た輝の「へあ」という気の抜けるような呼気に、僕は眉をひそめた。
「ふう、ふう、ひー、ひー、ふー……」
「……輝? 急にどうした?」
というか、なぜにラマーズ法?
「ま、待ってくれ。い、色々と待ってくれ……」
と、陸に上がった魚のようにあぷあぷと過呼吸を繰り返す輝の様子に戸惑いつつも、言われた通りに次の言葉を待つ。
「なんかもう色々あって思わず頭の中がパンクしてしまったが、とりあえずこれだけは言わせてくれ。それは誤解なんだ」
「誤解ぃ?」
いやいや。あんなことまでしておいて、さすがに誤解もなにもないだろう。
あれで僕が好きでなかったら、一体なんだっていうんだ?
「あ、そっか。そりゃ言いづらいよな。男が男を好きなんて、そんな面と向かって簡単に言えるセリフじゃないよな。すまん、マジで無神経だった……」
「違うから! マジで誤解だから! 普通に女子の方が好きだからっ!」
と、必死の形相で詰め寄ってくる輝。
そんな今まで見たことがない輝の様子に、僕の中で疑念が生まれ始めていた。
というのも、幼なじみとしての勘が僕にこう訴えかけているのである。
輝は嘘をついていない、と。
だがしかし、本当に輝が嘘をついていないとして、これは一体どういうことなんだ?
「……なあ、輝。もう一度訊くけど、お前は僕のことが好きなのか?」
「友人としてならもちろん好きだ。けど恋愛感情は一切ない」
「天地神明に誓って?」
「天地神明に誓って。なんなら命を懸けてもいい」
「そうか……」
正直者の輝がここまで言うのだから、おそらく真実なのだろう。
輝は、本当に僕に対して恋慕の情を抱いていないのだ。
でも、それならそれで別の疑問が生じる。
「じゃあ、なんであの時僕のカッターシャツなんて嗅いでたんだよ? いくらなんでもあれまで誤解だったとか、言い訳としては苦しいぞ」
なにせ、この目ではっきりと見てしまったんだからな。
輝本人も肯定したわけじゃないけど、この反応を見る限り、完全に黒と言っていい。まして人違いなんかでは絶対ない。
「あれは……なんて言ったらいいのか……」
苦虫を噛み潰したような顔で頭を掻きながら、言葉を濁す輝。
やがて、気持ちの整理ができたように大きく嘆息したあと、輝は僕の両肩に手を置いて語を継いだ。
「……太助、これから言うことは他言無用で頼む。お前の中だけに秘めていてほしいんだ。これが約束できないのなら、おれはなにも話せない」
「お、おう。約束するよ。絶対だれにも言わない」
頭突きでもしてきそうなほどの勢いで迫る輝に少し圧倒されつつ、僕はこくこくと頷く。
そんな僕の反応を見て、輝はほっと安堵の息を漏らした。
そしてようやく僕の肩から手を離して少し後退したあと、輝は再び顔を厳めしくさせて、重々しく口を開いた。
「…………正直言って、この秘密は家族にも話したことがないんだ。だから心して聞いてほしい」
「う、うん……」
ずいぶんとハードルを上げるな。そこまで重大な秘密なのだろうか。
「今までずっと隠してきたが、実は──」
相当緊張しているのだろう、体を小刻みに震わせる輝。
そんな輝の緊張が伝わるかのように、僕の手にも汗が滲む。
そして、意を決したようにカッと両目を見開いたあと、輝は体の中の膿をすべて吐き出すかのように大声でこう言った。
「実はおれ、男の汗の匂いを嗅ぐのが大好きなんだっ!!」
「…………………………、ホワッツ?」
驚愕と衝撃と動揺のあまり、思わず欧米人みたいな反応してしまった。
今、なんて言った? 男の汗の匂いが好き? どういうこっちゃ???
「えーっと……ちょっと待ってくれ……」
理解が追い付かず、酩酊したような気分で頭をふらふらさせつつ、僕は言う。
「一応念のために訊いておく。冗談とかじゃないんだよな?」
「……冗談でこんな性質の悪い嘘をつくと思うか?」
思わない。それが輝となれば、なおさら。
つまり輝は、紛れもなく真実を語っているのだ。
「マジかあ……」
「……悪い。こんなこと言われたらだれだって引くよな。本当にすまん……」
「いや、別に謝るようなことじゃないから。詰問したのは僕の方だし……」
引いたのは、確かに事実だけどさ。
「でも、気持ち悪いとは思ったろ? こんなこと急に言われて、驚かない方がおかしい」
「…………」
輝の言葉に、僕は閉口する。
誤魔化すことはできる。適当に励ますことも。
でもそんなことをしたって、なんの意味もない。
なんの解決にもならない。
きっと輝なら勘付くだろうし、なにより輝の心をむやみに傷付けるだけだ。
ていうか、もうぶっちゃけていい?
ここまでずっと我慢してきたけど、心中だけでもぶちまけていい?
こんなん、どうしろって言うんじゃいっ!!!
なんか場の雰囲気がすごいシリアスだったからあえて突っ込まずにいたけど、これ、完全にギャグマンガの流れじゃん!
これが第三者の立場だったら、遠慮せず笑っていたところだけど、当事者になるとこここまできついものなのか。正直言って、今でも信じられんわ。夢なら覚めてほしい。
でも言われてもみると、思い当たる節はいくつかあったんだよなあ。
たとえば、輝が剣道部に入った理由とか。
輝が剣道に夢中になり始めたのは中学の頃からだけど、それまでは全然興味のある素振りを見せなかった。だから輝が中学生になって剣道を始めると聞いた時、けっこう驚いた。
輝は他のスポーツも得意だったし、中でもサッカーはすぐにレギュラーを狙えるくらい上手かったから、てっきりそっち方面に行くとばかり思っていた。
ただその時は、急にやりたいことが増えることもあるだろうと、そこまで疑問に思わなかった。中学生になって青春を捧げられるものができたのだと呑気に考えていた。
だが、そうじゃなかったんだ。
輝の本当の目的は、単に剣道に目覚めたわけじゃなかったんだ。
今ならわかる。なぜいくつもある部活から剣道を選んだか。
その答えは、剣道で使う防具だ。
数ある部活の中でも一番汗が充満し、そして衣類に染みるもの──俗に3K(臭い、きつい、汚い)とも揶揄されるスポーツ競技、それが剣道。
つまり輝は、そこで流れる汗の匂いを……もっと言うなら男子部員の汗の匂いが染み付いた防具を密かに嗅ぎたかったのだ。
中学生になっていきなり剣道をやり始めたのも、それが目的に違いない。
近くに剣道場でもあれば、輝も小学生の頃から通っていたかもしれないが、あいにくそういうのは市内にない。だから剣道のある中学に通えるようになるまで、ずっと我慢していたのではないだろうか。
数々の男の汗が染み込んだ防具を、その身に付けることを夢見て。
………………。
なんか、自分で言っていて頭が痛くなってきた……。
そしてさらにもう一つ、輝の性癖についてわかったことがある。
目下、これが僕にとって一番の懸念事項になるとも言えるだろう。
それは、輝の抱き癖だ。
抱き癖と言うと多少語弊があるかもしれないが、ともあれ、あいつはなにかと僕にくっ付いてくる面があった。
それは子供の頃からそうだったし、僕もこれまで気に留めてこなかった。
疑問があるとすれば、主に体を寄せてくるのは僕だけで、あんまり他の人とべったりすることはなかったことくらいだが、それは信頼の表れのようなもので、親友としての特権みたいなものだと思っていた。
それが僕にとって数少ない自慢でもあって、正直悪い気はしなかった。
でも、輝にとってはそれだけではなかった。
親しみの情以外に、別の目的があったのだ。
それは言わずもがな、僕の体臭を嗅ぐためで──
「お、おい太助? 大丈夫か? さっきから目が虚ろになってるぞ……?」
なんでもないよ、と輝の言葉に緩く首を振りつつ、僕は再び考え込む。
そっかあ。そこまで汗の匂いを嗅ぐのが好きだったのかあ。かれこれ十数年くらいの付き合いだけど、そんな性癖があったなんて全然知らなかったわ~。というか知りたくもなかったわ~。できるなら知らないままでいたかったわ~。
あれ? ちょっと待てよ?
「なあ輝。お前が匂いフェチというか、汗フェチなのはわかったけど、僕ってそんなに匂うか? そりゃ僕のカッターシャツを嗅ぐくらいなんだから、なにかしらの匂いは残っていたんだろうけど、そこまで僕、体臭がきついわけじゃないはずなんだけど?」
「え? ひょっとして太助、今まで自覚がなかったのか?」
僕の問いに対し、きょとんとした様子で目を丸くする輝。
思わぬ反応に戸惑いを覚える僕に、輝は両眉を上げたまま先を継ぐ。
「だってお前、あれはどう考えてもワキ……いや、なんでもない」
「ワキ!? ワキ、なに!? 最後まで言ってくれよっ!」
「本当になんでもないんだ。気にしないでくれ……」
「気になるわっ! え、僕ってもしかして、ワキガだったとか!?」
いやだああああ! オッサンくらいの年齢ならともかく、十代でワキガなんていやだああああっ!
色々と多感なこの年頃に、まさかワキガが発覚するなんてマジ死ねる! なにより輝だけでなくワキガ臭を周りの人にも散布していたのかもしれないと思うと、羞恥心と罪悪感で気が狂いそうだあああ!
「うわ~っ! ワキガだったなんて全然知らなかった~! そうとわかっていたら、脇汗対策とか事前にできていたのにぃ~! きっと宮永さんたちにも密かに臭いとかって思われていたんだ~! いっそ僕を殺せぇ~っ!」
「だ、大丈夫だから! そらたちはそんなことで人を嫌うような奴らじゃないから! それにおれにしてみれば、ワキガの匂いって最高のご褒美だぜ?」
「なんのフォローにもなっとらんわっ!」
むしろ身の危険を感じただけだわ!
「あ~。ショックだ……ショック過ぎる……。僕がワキガだったなんて……」
「そこまで気に病むようなことじゃないって。ワキガとは言っても、そこまでひどいもんでもないし。それに太助って元から人と距離を取りがちなんだから、クラスの奴らもほとんど気付いていないと思うぞ。せいぜいおれとそらたちくらいじゃないか?」
「……ほんと? 信じていいの? あたい、その言葉をほんとに信じていいのね?」
「おう。つーか、なんで女口調?」
なんで女口調になってしまったのかは、自分でもわからない。ショックがでか過ぎて精神が性転換しちゃったのかしらん。
「そもそも太助のワキガなんて、おれの性癖に比べたらどうってことないだろ。おれなんて秘密をみんなに知られたら、マジで学校に行けないレベルだし」
「まあ、お前の秘密に比べたらまだマシかもしれんが……」
あくまでもマシというだけで、最悪なのは変わりないが。
「けど、なんかちょっと安心した……」
「あ? 僕のワキガのどこに安心ポイントなんてあるんだよ? 安心どころかこの先不安しかないわ。脇汗パットを買った方がいいのかとか、場合によっては手術も見当しなくちゃいけないかもと考えたら、夜も眠れそうにないわ」
などと憤る僕に「いや、そういう意味じゃなくてさ」と輝は苦笑しながら応えて、
「言いたいのはそういうことじゃなくて、おれの秘密を知ってもまだそんな風に変わらず接してくれることにほっとしたんだよ」
「いや、こっちは未だに動揺しているんだが。今みたいな話し方で本当に大丈夫なのだろうかと悩むくらいには」
「でもそれって、おれを気遣ってくれているからだろ? それはそれで思うところはあるけど、普通なら絶交されてもおかしくないはずだぜ?」
「あー。まあそれを言われたら、そうなんだろうけど……」
男が男の汗の匂いが好きなんて、大抵の奴らはドン引きするような話だろうしな。僕だって正直なところ、まだ気持ちの整理が付いていないくらいだし。
それでも、輝と絶交しようという気持ちには全然ならなかった。
たぶん、それは──
「うーん。輝とは幼稚園の頃からのダチだしなあ。そりゃお前の秘密を知ってめちゃくちゃ驚きはしたけどさ、それで輝を嫌う理由にはならないだろ。いや、他の奴らにとっては嫌うのに十分な理由かもしれんけどさ、輝がすげえ良い奴だってことには変わらないし。よほどとんでもない悪事を働いたって言うなら話は別だけど、それだけの理由で絶交なんてするわけがないじゃん」
「太助……」
「ていうか、僕の友達の少なさはお前だって知ってるだろ? しかも腹を割って話せる奴なんて輝くらいしかいないんだぜ? そんな奴を簡単に切り捨てられるわけないだろ」
言わせんな恥ずかしい。
そう最後に言ってそっぽを向いた僕に、輝はぷっと可笑しそうに噴き出した。
「ははっ。太助、言ってることがまるでツンデレみたいだぞ?」
「うるせー! 自分でもわかっとるわいっ!」
だから言いたくなかったのに! それもこれも、珍しく輝が不安そうな顔をするからじゃい!
目の前で不安がる親友を放っておくことなんて、できるわけがないだろうが!
「──でも、ありがとうな」
突拍子もなく呟かれたその言葉に、僕は「へ?」と間抜けな感じに首を傾げた。
「太助にそう言ってもらえて、すげえ救われた気持ちになった。絶交されても仕方がないって思っていたからさ、さっきまでかなり怖かったんだ。ほら、足だってガクガクになってるだろ?」
言われて輝の足元へ視線を映すと、確かにぶるぶると小刻みに震えていた。
「……正直さ、今までずっと自分の性癖が悩みだったんだ。おれってもしかして、すごくやばい奴なんじゃないかって。だれにも理解されなくて、いつかバレるかもしれない秘密に怯えながら生きていかないといけないのかなって」
でも、太助の言葉を聞いて心が軽くなった。
そう言って、輝は微笑んだ。
曇り空からわずかにこぼれた陽光のように。
「太助が幼なじみで良かった。親友のままでいられて、本当に良かった。太助みたいなめちゃくちゃ良い奴に出会えて、幸せな気持ちでいっぱいだ」
「あ、あほか! そんなドラマみたいなセリフを面向かって言うんじゃねえ! 聞いてるこっちが恥ずかしくなってくるわ!」
思わず顔を逸らして叱声を飛ばす僕。ほんとにこいつは、素直というか純粋というか、もうちょっと本心を隠せんのか。べ、別に照れているわけじゃないんだからね!
「ま、まあ、親友になれて良かったっていうのは、僕も同意見ではあるけどな」
とはいえ! とそこでズビシと輝を指して、僕は続ける。
「これからはあんまり僕にくっ付いたりするなよ? 今まではそんなに気にしてこなかったけど、さっきの話を聞いたらさすがに抵抗があるからな」
「あ、やっぱりダメ? 正直今まで出会ってきた中で、太助の汗の匂いが一番最高なんだけどなあ。他の男連中の匂いがかすむくらいに」
「あー。だから僕にだけやたらくっ付いてきたのか……」
「いや別にそれだけが理由じゃなくて太助なら信頼できるというか嫌そうな顔も全然しないし妙な安心感もあったっていうか決して邪な気持ちだけでくっ付いていたわけじゃねえから本当にマジで!」
と、息継ぎもなしにまくし立てる輝。矢継ぎ早に言うもんだから、余計怪しくなっていることを、輝は気付いていないのだろうか?
あ、そうだ。それよりも輝に訊かなきゃいけないことがあったんだ。
「なあ輝。お前じゃなかったということは、やっぱり宮永さんたちの中に犯人……は変か。僕に恋してくれている人がいるのか?」
「おう。ていうか、前からずっとそう言っていたぞ? 今までお前に秘密にすることはあっても、嘘まではついたことは一度もねえよ」
「そ、そうか……」
輝がここまで言っているんだ。信じるしか他あるまい。
しかしながら、これでまたふりだしに戻ってしまったことになる。
いや、あのまま気まずい関係になるくらいならふりだしに戻った方が断然いいのだが、とはいえ、徒労感めいたものは否定できない。
こんな調子で本当に僕に熱を上げている人なんて見つかるのだろうか、みたいな。
「仕方ない。また地道に探すとするか……」
「お? それって、まだ続けるってことでいいのか?」
「まあね。だって中途半端な真似はダメなんだろ?」
輝は僕に問うた。
ここで終わるか続けるか、どちらかを選べ、と。
だから僕は続けることを選んだ。
ここで終わってしまったら、せっかく協力してくれた輝の頑張りまで無駄に終わらせてしまうような気がしたから。
それ以上に、輝の信頼まで損なうような気がしたから。
でなきゃ、こうして輝を屋上に呼んでまで、好意の有無なんて訊いたりはしない。
結局、僕の勘違い(とも言い切れないけど)だったというオチではあったが。
ていうか。
「……本当はお前、こうなることを望んでいたんじゃないのか?」
「え。なんでそう思ったんだ?」
「なんでもなにも──」
半ば呆れた気持ちで嘆息しつつ、僕は言葉を継いだ。
「だって今のお前、妙に嬉しそうな顔をしてるからさ」
「え? そうか?」
「そうだよ。気付いてなかったのか? 僕が続けるって言った時から、ずっとニヤニヤしっぱなしだったぞ」
「そっか……」
言いながら、輝は自分で確認するように己の口元に手を伸ばす。
「うん……そうかもしれないな。太助が恋愛絡みでここまで積極的になることなんて、めったにないし」
「え? お前がそれを言っちゃう? 輝こそ恋愛絡みで積極的になることなんて全然ないじゃん」
「だからだよ。ほら、おれって面倒くさい体質してるだろ? 昔はそうじゃなかったから好きな女の子もいたりしたけど、今はラッキースケベのせいで普通の恋愛なんてできそうにないしさ。せめて周りの奴らだけでも応援したいんだよ」
お前だけじゃなく、お前を好きでいてくれている女の子も含めてな、と輝。
「つまりはさ、おれが恋愛できない分、太助たちには幸せになってほしいんだ。みんなが幸せになってくれた分、いつかはおれもまともな恋愛ができる日が来るのかなって。ようは願掛けみたいなもんなんだけどさ」
「願掛け、ねえ……」
それで輝の奴、僕にあんな説教じみたことを言ったのか。
このまま中途半端な気持ちで宮永さんたちと接していたら、輝が望む幸せな光景なんて見られるわけがないから。
まったく、やれやれだ。
それとなくプレッシャーをかけるような真似をしおってからに。
こんな話を聞かされたら、親友として頑張らないわけにはいかないじゃないか。
「別にいいけど、期待に応えられるかどうかはわからないぞ?」
ぷいっと顔を逸らす僕に、輝は失笑をこぼして、
「大丈夫。太助ならきっと運命の子を見つけられるさ」
「運命の子って。また大袈裟なことを言う奴だなあ」
僕を好きだというその子が、結婚まで望んでいるかどうかなんてわからないままなのに。
「ま、親友の未来にも関わってくる話でもあるからな。僕なりに頑張らせてもらうよ」
「おう。頑張ってくれ。おれもできる範囲で協力するからさ」
朗らかに微笑む輝に、僕も口許を緩めて頷いた。
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