エピローグ



 説明するのも億劫なほど、色々あり過ぎた日から明けて。

 筋肉痛やら心労などで鉛のように重く感じる体を鞭打って登校してみると、担任である宵町先生から、雛月霧絵の転校を突然聞かされた。

「あー。いきなりで悪いが、雛月が昨日の夕方になって急遽転校することになった。転校するかもしれないという話は前々から聞かされていたが、親御さんの仕事の都合でいつになるかは決まっていなくてなー。それが昨日になって急に転校が決まったって話だ。雛月にもこのことは内密にするよう言われていたせいもあって、みんなには転校するまで黙っておくことにしたんだ。だから私のことを恨んだりすんなよー。恨むならあいつの両親を恨め~」


『えー! 嘘でしょ? 最後になにも言わずに行っちゃうなんて……』

『水臭いよね~。私も雛月さんには色々お世話になったし、せめて今までのお礼くらいは言いたかったのに~。だれか連絡先知っている人いないの?』

『あの子、親の方針で携帯電話を持つのは禁止されていたみたいだったから、だれも連絡先なんて知らないんじゃないかしら?』

『くそう! 密かに狙っていたのに、もう告白もできないのかよ……!』

『音無ハーレムのメンバーが一人いなくなったのは嬉しいけども……!』

『委員長と合体したかった……!』


 と、小賢しく責任逃れをしようとする宵町先生を当然のように総スルーして、純粋に別れを惜しむ者から邪な者まで様々な反応を見せるクラスメート達。それだけ霧絵がみんなから慕われていたということに他ならないのだが、奏翔にしてみれば複雑な心境だった。

 なぜならそれは、すべて奏翔からエリクシアを破壊するための演技に過ぎなかったのだから。

 だが、それをわざわざ口にする必要はない。そもそも信じてもらえるような内容でないという理由もあるが、それ以上に奏翔自身、霧絵の話をしたいとは思わなかった。

 霧絵の正体を知った時はショックだったし、あとで陰鬱な気分にもなったが、それでも彼女といた時間がとても充実していたのは、紛れもない事実なのだ。

 だから、ついでのように真城の退職を宵町先生の口から聞かされた時も、まるで頭に入らなかった。




「……色々と調べてみた結果、雛月霧絵がこの学校に在籍していた時の情報は、すべて虚偽のものだった」

 一時限目が終わり、休憩時間の合間のことだった。

 いつの間にか机の中に入っていた手紙を授業中にこっそり読んだ奏翔は、待ち合わせ場所として記載されていた体育館倉庫に行ってみると、そこには手紙の主である柊が一人ぽつんと立っていた。

 手紙に差出人の名前は入っていなかったが、なんとなく予想は付いていたので、その点ではさして驚きはしなかったものの、普段は施錠されているはずの倉庫の扉をどうやって開いたのか訊ねてみると、

「……ピッキング。これくらい、ボク達の世界では常識」

 なんて柊に言われて、もはやなにからツッコミを入れたらいいか、わからなくなった。

 それはさておき、今の時間帯だと体育館倉庫が使われる予定はないとのことで、顔を合わせた当初は周りの目も気にすることもなくその後の調子などを訊かれていたのだが、話が一段落したあとになって、柊が冒頭のセリフをいつもの無味乾燥な表情で語り始めたのだった。

「そっか。全部嘘だったんだ……」

 そばにあった白線引きの台車の上に腰かけて、柊の報告に吐息多めに相槌を打つ奏翔。

「でもまあ、当然っちゃ当然か。スパイとして潜入していたんだから。もちろん、宵町先生が言ってた転校の話うんぬんも嘘なんだよね?」

「……肯定。家庭訪問などで両親と対面した事実そのものは学校側にあったものの、雛月霧絵との血縁関係までは確認されていない。冷静に考えて、雛月霧絵の仲間だった可能性が高い」

「こうなってくると『雛月霧絵』という名前すら怪しいよね……」

「……むしろ、偽名だったと考えるのが妥当な線」

 こくり、と首肯する柊。なんだかもう、雛月霧絵という存在そのものが幻のように思えてきた。

「──それで、その後の委員長の足取りは掴めているの?」

 未だに『委員長』呼びもどうなんだろうと思いつつも、かねてから気になっていた疑問を投げてみると、柊は小さく首を横に振って、

「……あれから雛月霧絵の行方は掴めていない。ボク達の前から姿を消したあと、おそらく『現人十字教団』のアジトに戻ったと思われる」

「そのアジトの在り処は?」

「……ごめんなさい。そこまで判明できていない」

 申しわけなさそうに低頭する柊に「いやいや。僕も急かすようなことを言ったみたいでごめん」と奏翔も慌てて謝った。彼女はあくまでも善意で助けてくれているのだ。自分の力ではなにもできない以上、文句を言うのは筋違いである。

「……ただ、同時期に真城先生が退職したのは気になっている。なにか関連性があるのではないかと、目下調査中。奏翔はなにか知ってる?」

「い、いや? なにも知らないよ?」

 つい顔を逸らして白を切る奏翔。本当はめちゃくちゃ心当たりがあるのだが、宵町先生に口止めされているし、事情を話すわけにもいかない。

 対する柊の反応は、ともすれば見逃しそうなほど微細に眉根を寄せつつも「……そう」とだけ言って話を流した。どうにか誤魔化せたようで密かに胸を撫で下ろす。

 にしても今の話を聞くに、どうやら真城の正体は《人類審査委員会》以外の組織には知られていないままになっているようだ。とどのつまり、上手く宵町先生が内々に処理したということなのだろう。真城から色々と情報を吐かせるとか言っていたし、きっと今ごろ拷問でも受けているのかもしれない。どうでもいいことではあるが。

 それはともかく、その宵町先生ならば──【観察者】である彼女ならば、霧絵の所在を知っているのではないだろうか。いくつかある組織の中でも《人類審査委員会》がもっとも情報を収集していそうだし。

 だが、すぐに無理そうだなと諦観した。面倒くさがり屋な彼女のことだ、そんな簡単に口を割るとは思えない。

 それに宵町先生のことだから、案外最初から霧絵の正体を知った上で生徒として接していたのではないだろうか。まあ仮に問い質しても、どうせ「さあな」としらばっくれるのが関の山だろうけども。

「でもそうなると、またいつ委員長に狙われるか、わからないってことか……」

「……本当に申しわけない。あの時、雛月霧絵を捕まえてさえいれば……」

「いや、昨日も言ったけど、謝る必要はないから。委員長も見るからに逃げ足が早そうだったし……」

 そうなのだ。

 あのあと霧絵を追いかけようとして、結局捕まえることができなかった柊は、とぼとぼと意気消沈とした雰囲気で屋上に戻り、開口一番、奏翔に謝罪したのであった。

 いわく、絶対に捕まえなければならない相手をみすみす逃してしまった、と。

「けどまさか、委員長があんなに機敏に動けるなんてね。そこまで運動神経が良さそうには見えなかったら、すごく驚いたよ」

「……《現人十字教団》は宗教団体ではあるけれど、カルト的な思想を持ち合わせているだけに日頃から戦闘訓練を受けていると聞く。今まで目立ったテロ行為はないけれど、人類の敵と見なした物は一切の慈悲なく粛正しているらしい」

 だから、ああいった荒事にも慣れていたということか。そう考えると、大したケガもなく無事に済んだだけでも幸いだったのかもしれない。

「なんだか……うん。こうして話してみると改めて実感できたというか、柊さんって本当に【護衛者】だったんだね……」

 夢心地にも似た心境で言った奏翔に、柊は少し気まずそうに視線を逸らしながら無言で頷いた。

「そっか。ということは、一年生の頃からずっと僕を見守っていてくれていたんだね」

「……うん。今まで黙っていてごめんなさい」

「謝るようなことじゃないから。むしろ礼を言わなきゃいけないくらいだよ。いや、それよりも謝るのは僕の方か……」

 言って、奏翔は深々と頭を下げた。

「本当にごめん。柊さんのこと、僕を狙っている【抹殺者】と勘違いして……」

「……問題ない。疑心暗鬼になるのも無理はない状況下だった」

「そう言ってもらえると、少しは楽になるよ」

 顔を上げてほっと安堵の笑みを浮かべる奏翔。怒りを買っていたらどうしようかと思っていただけに、心底安心した。

「じゃあ僕の下駄箱に入っていた手紙も、家に届いた無線機も、全部柊さんが?」

「……肯定。ここのところ【破壊者】や【抹殺者】の動きが活発化していたから、少しでも奏翔に危機意識を持ってほしかった。ボクの力だけでは限界があったから……」

「もっと仲間を増員することはできなかったの?」

「……前に無線でも話した通り、下手に増員して奏翔の周りをうろついていたら、それこそ他の組織に勘付かれかねなかった。だからボクも秘密裏に動いていたのだけど、結果的にエリクシアの所在を【抹殺者】である雛月霧絵に知られてしまった。面目ない……」

「いや、元はと言えば、僕が雨に濡れた状態で胸の傷をさらしてしまったせいだし」

「……けど、その時はまだエリクシアのことなんて知らなかったから……」

「まあ、そうなんだけど。でもどのみち、エリクシアの在り処がバレるのも時間の問題だったんじゃないかな? 今回は雨に濡れてしまったせいでバレちゃったけど、それ以外にも温泉とかに入っていたらすぐに気付かれていたくらいの、ギリギリで綱渡りをしていたようなもんだし」

 それに、と奏翔は一拍間を置くように言葉を止めたあと、恥ずかしげに頬を掻きながら口を再び開いた。

「仮に前々からエリクシアの話を知っていたとしても、僕の下手な演技力じゃすぐにバレていたと思う」

「……奏翔……」

「これから委員長とかその仲間に命を狙われるのかと思うと、正直めちゃくちゃ怖いけどね……」

 言いながら、証明するように小刻みに震える手を見せると、不意に柊がその手を取って優しく包み込んだ。

「……大丈夫。説得力はないかもしれないけれど、奏翔はボクが命に代えても絶対に守るから」

「柊さん……」

 嘘など微塵も感じさせない真摯な表情で見つめてくる柊に、奏翔は感謝の念もよりも疑問の方が先に沸き上がってしまった。

「なんでそこまで僕を? 柊さんが《調律研究所》に属しているからっていう理由もあるんだろうけど、それにしては僕にこだわり過ぎている感じがするのは、ただの気のせいなのかな……?」

「……気のせい、ではない」

 奏翔の手に己の額を触れさせて、柊は情感のこもった声音で言の葉を紡いだ。

「……奏翔はボクにとって恩人だから。とても大切な人だったから、どうしてもボクの手で守りたかった……」

「恩人……? 僕、なんかした? 学校じゃ普通に仲良くしていただけだよね?」

 心の底から首を傾げる奏翔に、柊は少し残念そうに眉尻を下げて、

「……奏翔とボクは、小さい頃に一度会っている。その時奏翔に励まされたおかげで、ボクは絶望せずに済んだ」

「え? 僕と柊さんが? ていうか、励まされた……?」

 一体どこから驚けばいいのやら。

「……本当に小さかった頃だから、憶えてないのも無理はない。それにちょっとしか話をしなかった」

「ごめん。全然記憶にない……。ちなみに、どこで会ったの?」

「……奏翔が定期健診で幼少期から通っていた病院。あそこはボクの祖父が設立した大学病院でもある」

「ウソ!? 冨野とみの病院の!?」

 まさか、小さい頃からずっと通っている病院の親族がこんな身近にいようとは。

「あれ? でも名字は違うよね? それってどうして?」

「……さすがに本名で【護衛者】として活動するわけにもいかないから、母方の名字を使わせてもらっている」

「あ、それもそうか。で、僕が恩人というのは?」

「……小さい頃、ボクの母が重い病で入院していて、一時期危篤状態に陥ったことがあった。生存率はほぼ絶望的と言われていたくらいに」

 突然身内の話になって戸惑いを覚えつつも、奏翔は「そう、なんだ」と相槌を打つ。

「……日に日に死の雰囲気を濃くさせる母に、ボクはただ病院の待合室で悲しみに明け暮れるしかなかった。そんな時、たまたま心臓の検査に来ていた奏翔と偶然会った」

 ここにきて、ようやく奏翔が話に出てきた。

「……当初、ボクはまだエリクシアのことをなにも知らなくて、当然奏翔の顔もよく知らなかった。だから初対面であるボクに奏翔が唐突に『どうかしたの?』と話しかけてきた時はとても驚いた」

「あー。その時のことは全然覚えてないけど、じいちゃんが言うには昔の僕ってあんまり人見知りしないタイプだったらしいんだよね……」

「……確かに、あの時の奏翔は無断にボクの頭を撫でるくらいには馴れ馴れしかった」

「……記憶にないとはいえ、昔の僕がとても失礼な真似をしてしまったようで……」

「……謝る必要はない。むしろあの時は父が仕事で忙しくてなかなか会えないせいもあって不安でいっぱいだったから、とても安心できた」

「………………」

「……それになにより、親身になってボクの話を聞いてくれたばかりか、奏翔に『ぼくも生まれたばかりのころに死にそうになった時があるみたいだけど、その時おじいちゃんがもう死んじゃってたお父さんやお母さんの分までずっとぼくに話しかけてくれていたんだって。だから君もお母さんに早く元気になってねっていっぱい話しかけてみたらいいよ。きっとぼくみたいに元気になるよ』と言ってくれた時は、とても勇気をもらえた……」

「それで、その、お母さんは?」

「……その後、徐々に回復して、今は元気に過ごしている」

「そっか。よかった……」

 これですぐに死んでしまっていたら、かなり気まずいところだった。

「……これも奏翔のおかげ。お母さんに元気になるように毎日ずっと話しかけたら、ちゃんと元気になってくれた。ボクの声が届いてくれていた。あの時ほど、だれかに感謝したことはない。だから──」

 と、柊はそれまで握っていた奏翔の手を胸元まで寄せて、さながら蕾のままだった花がひっそりと咲いたような、そんなたおやかな微笑みを浮かべた。


「……ありがとう、奏翔。ボクとお母さんを救ってくれて……」


 その初めて見る可憐な笑みに、奏翔は「うっ」と仰け反った。

「……? どうかした?」

「ううん。なんでもないです……」

ただ、あまりの可愛さに圧倒されただけです。

「と、ところで、これから僕はどうした方がいいのかな?」

 思わず照れ隠しで話題を変えた奏翔に、柊はいつもの無表情に戻って、

「……以前のように、それとなく周りを警戒しながら過ごした方がいいと思う。あまり不自然にならない程度に」

「それが一番難しいんだけどなあ。演技の心得なんて微塵も知らないし……」

「……それから、これからはボクが奏翔専属の【護衛者】になる。なるべく奏翔のそばから離れないようにするため、近くにいる機会が多くなると思うけど、できるだけ気にしないでほしい」

「それもなかなか難しい注文だね……」

 苦笑しながら応える奏翔。なまじ普段から全然気配がないだけに、突然の出現にびっくりする率が増えそうだ。

「あ。そ、それとさ……」

 とここで奏翔は少し気まずげに頬を掻きながら、今日一番気にかかっていたことを訊ねた。

「ひなたのことはどうしたらいいかな? 結局昨日から、ろくに事情を話せてないんだよね……」

 そう──昨日柊が霧絵の捜索に出てしまったあと、なんとなくなにを話したらいいのかわからなくてお互いに黙っていたままだったのだが、柊が帰ってきたあとも、ひとまず帰宅した方がいいという流れになって、柊に付き添ってもらいながらひなたといっしょに帰路に着いたのだった。

 余談ではあるが、その時近辺に霧絵の仲間達も潜んでいたらしいのだが、柊の仲間が事前に追い払ってくれていたそうだ。霧絵がバイクで奏翔を追いかけていた時に仲間に頼んであちこち道を塞いでもらったと言っていたので、きっとその時の一味だったのだろう。

 ちなみにそいつらのせいで奏翔に割いていた人員もそっちの対処に回され、それで霧絵の動きになかなか気付けなかったのだとか。つまり、もしもあの時柊が迅速に動いてくれていなかったら、今ごろ奏翔の身もどうなっていたかわからなかったわけだ。

「……正直、ボクも迷っている。奏翔が襲われているところを見られた以上、なんらかの釈明は必要だと考えている。けどエリクシアの話をしたら、今度はひなたが狙われるかもしれない。特に相手が【破壊者】だった場合、どんな蛮行に出るか……」

「だから柊さんも、あえてなにも喋らなかったんだね……」

「……肯定」

「そっか。じゃあ、なおさらどうしよう……。ひなたも全然話しかけてくれないし……」

「……全然?」

「うん、全然。というか、昨日からまともに話すらしてないや……」

 一応、昨日別れる際に挨拶くらいはしたが、結局それっきりで、今朝も朝食やお弁当の準備まではしてくれたものの、そこにひなたの姿はなく、すでに登校したあとだった。

「……僕、どうしたらいいのかな。今まで何度もケンカしたことはあるけど──いや、別にケンカしたわけでもないんだけど、正直ひなたと顔を合わせづらくってさ……」

「……難儀。ただ、向こうも急かしているわけではないみたいだから、タイミングを見計らって話しかけてみた方がいいとは思う」

「……エリクシアの件は?」

「……できるだけ誤魔化した方がいい。ただ、ひなたも中途半端な説明だと納得しないだろうから、ある程度整合が取れた話を作っておいた方が無難ではある」

「話を作る……。ひなたに嘘を吐かなきゃいけなくないのか……」

 だが、本当にそれでいいのだろうか? あれだけ拒絶しておきながら、それでも奏翔を心配して必死で探してくれたひなたに、嘘をついてまでエリクシアの件から遠ざけようとするのは、果たして誠実な対応と言えるのだろうか。

 むろん、だからと言って軽々にエリクシアの話をするわけにもいかない。慮るのはいいが、本来無関係なはずのひなたを危険なことに巻き込むなんて、それこそ本末転倒だ。ひなたに恐怖を与えるような真似だけは絶対にしたくない。

「まいったな。マジでどうしたらいいんだろう……」

「……奏翔がよければ、ボクも間に入る。すでにひなたには関係者だと思われているだろうから」

「ありがとう柊さん。でもこれは、きちんと僕から説明しなきゃいけないことだと思うから……」

 きっとひなたも、そうしてくれるのを待っているのではないだろうか。

 だからなにも訊いてこないんじゃないかと、今さらになってそう考えた。

「……わかった。あとは奏翔に任せる」言って、柊はようやく奏翔から手を離した。

「もしボクの協力が必要になったらいつでも言ってほしい。すぐに駆け付ける」

「うん。困った時はそうさせてもらうよ」

 そう首肯して、奏翔はぎこちなく相好を崩した。




 放課後は、柊に付き添ってもらう形で帰宅した。

 付き添うというか、実際は護衛されていたのだが、柊いわく「……前にも話した通り、しばらくはこういった形態で護衛する機会が増える」とのことらしい。帰り道が違うはずの柊が急に奏翔と一緒に下校したら不自然に見えるではないかという懸念もあったが、その点は住居先を変更したので問題ないとのことだった。一体いつの間に。

 とまあ、そんな二人に対してもひなたの反応は相変わらずで、結局これといって反応を見せることはなく、ついぞ一声もないまま先に一人で帰ってしまった。

「……ま、どのみち柊さんがそばにいたんじゃ、なにも話せなかったと思うけど」

 玄関先で柊と別れてから五分ほど。その間、奏翔はずっと玄関に背中を預けたままぼんやり空を眺めていた。

「今ごろ、ひなたは家に帰って自分の部屋にでもいるのかな? いや、もしかしたら買い物かも。今日の朝も、なんだかんだ朝食と弁当の用意だけはしてくれたし……」

 となると、明日の朝に話を切り出すべきか? いやでも、こういうのは時間を置き過ぎるとさらに悪化するような気がする。ここから歩いて数分とかからない距離だから柊の護衛も必要ないだろうし、今からでもひなたの家に行って、面と向かって話すべきではないだろうか? しかしながら、それはそれで心の準備が……。

 などど、考えをまとめるためにあえて外の風に当たりながらずっとこうしているが、一向に妙案は思い浮かばない。妙案というか、この場合は覚悟の問題のような気もするが、何事も事前準備は必要なものだ。その後の雰囲気が違ってくる。

「って、好きな子に告白しようとする中学生男子か、僕は」

 告白なんて、高校生になった今でも一度もしたことないけれど。

 なんて詮無いことを考え始めたところで、嘆息。一向に思考がまとまらない自分に呆れつつ、奏翔は踵を返してズボンのポケットから玄関の鍵を出した。

 いつまでもこうしたところでなにも始まらない。良案が思いつかないのなら、暑い外にいるよりは冷房の効いた部屋でぼーっとしている方がまだマシだ。あまり気分は落ち着かないが、ひなたのことは一旦後回しにしよう。

 そう考えて、玄関の鍵を開けて中に入ってみると──

「…………、へ?」

 思わずドアを開けたまま硬直する奏翔。しばし眼前の光景に目を瞠ったあと、奏翔は苦笑とも失笑ともつかない表情で口許を綻ばせた。


「なにバカなことやってんだよ。ひなた──」


 そこには、玄関マットの上に置いてあるスリッパをすべて裏向きに変えようとしているひなたが、あっけに取られた顔で四つん這いになっていた。

「か、かなちゃん!? なんで!? だって、HRが終わったあとに、ひーちゃんと一緒に帰る約束をしてたはずなのに! どこかで寄り道でもするんじゃなかったの!?」

 ああ、そうか。ひなたはまだ、柊の住所が変わったことを知らないのか。

「う~。まさかこんなに早く帰ってくるなんて~。まだ全部裏返しにしてないのに~」

「めちゃくちゃ地味な悪戯だな、おい」

「じ、地味じゃないし! フリーザ編の悟空も怒りのあまり一気に超サイヤ人3になっちゃうくらいの極悪非道な悪戯だし!」

「クリリンの死を安くするな」

 などとツッコミを入れつつ、普段と同じやり取りができているこの雰囲気に、奏翔は久しく忘れていた安堵を覚えた。

 そうだ。ここ最近は気持ちに余裕がなかったせいで忘れがちだったが、いつもひなたとこんな風にくだらないやり取りばかりしていたのだった。

 少し前ならなんとも思わなかったボケとツッコミの応酬が、こんなにも心地よく感じる日が来るなんて──

「ははっ」

「む~。なにその笑い方。なんだかものすごくバカにされている気分!」

「むしろ、この状況でバカにしない方がおかしくないか?」

「むーっ! バカじゃないもん! 謝ってかなちゃん!」

「あはははっ!」

 幼児みたく両腕を回して憤慨するひなたに、奏翔は腹を抱えて爆笑した。

 なんだか、色々複雑に考えていたのがアホらしく思えてきた。さっきまで、あれほどひなたとどう話すかで悩んでいたのに。まるで時間を無駄にしたような気分だ。

 まあそれも、ひなたの狙い通りなのかもしれないけれど。

 なぜなら、こうしてひなたが悪戯をする時は「仲直りしたい」という遠回しのメッセージでもあるのだから。

 一昨日、登校中にひなたを揶揄い過ぎて、上靴を奪われた時のように。

「はは。……でも、そうだよな。ちゃんと謝らなきゃいけないよな」

 そうしてひとしきり腹を抱えて笑ったあと、奏翔は廊下で座っているままのひなたと正面に向き直った。

「え? かなちゃん?」

 急に真剣な面持ちになったせいだろう、戸惑ったように名前を呼ぶひなたに、奏翔は勢いよく頭を下げた。

「ごめん、ひなた! 昨日、いきなりひなたを拒絶するような真似をして!」

 少し間を置いてみたが、返事はなかった。頭を下げているため、どんな顔をしているのかもわからない。それでも奏翔は頭を下げたままで、

「それとあんな嫌われて当然なことをしたのに──その上で僕を心配してあそこまで駆け付けてくれたのに、結局なにも言わないままでごめん! なにも説明しないで、ひなたを放ったままにして、本当にごめん!」

「………………」

 沈黙が痛い。だが、これも自業自得というものだ。なんの確証もなく勝手な思い込みでひなたを【観察者】と疑ったばかりか、今日までなにも説明すらしなかったのだから。どう贔屓目に見ても奏翔が全体的に悪い。今回ばかりは奏翔が謝るしかなかった。

 ややあって、衣擦れのような音が耳朶に触れた。ちらっとだけ視線を上げると、ひなたの体勢が変わっていて、それまで座っていた姿勢から直立する足が見えた。どうやらその場で立ち上がったようだ。

 そうして、そのまま頭を下げていると、

「……昨日、わたしがどうやってかなちゃんを見つけられたか、わかる?」

 唐突な話題展開に困惑しつつ、奏翔は頭を下げたまま口を開く。

「えっと……そういえば、なんでだろう?」

 よくよく考えてみると、謎のままだった。ひなたに行き先を伝えたはずもないので、あの時奏翔が廃墟のマンションにいたことなんて知らなかったはずだ。ならば、なぜ?

「う~ん。いつもの勘、とか……?」

 自信なさげに答えた奏翔に、ひなたは抑揚のない声で「違うよ」と否定して、次の言葉を継いだ。

「あの時ね、必死になってかなちゃんを探していた時に偶然エリちゃんに会って、それで居場所を教えてもらったんだ。よくわからないけど『奏翔さんの居場所くらい、わたくしの力をもってすればすぐにわかりますわ。ついでにその買い物袋も、わたくしがひなたさんの家まで届けて差し上げましょう』とかなんとか言って」

「なにそれ怖い!? 体のどこかに発信機でも付けられていたりするの僕!?」

 もしや、なにかしらの方法でいつも監視されていたのだろうか? 今日だって柊と一緒に帰ろうとした時も、一緒に帰りたいだのなんだの駄々をこねたあと「くっ。でしたら、わたくしも考えがありますわ!」とか去り際に言っていたし、これはあとで色々と問い詰めておいた方がいいのかもしれない。

「……わたし、ショックだった。かなちゃんにいきなり逃げられたのもショックだったけど、かなちゃんがどうして怯えているのか、どこに行っちゃったのかもわからなかったことの方がずっとショックだった」

 ──かなちゃんのお母さんとして、今までずっと頑張ってきたのに。

 そう消え入りそうな声音で言うひなたに、奏翔は顔を上げることができなかった。

 視界に入るひなたの震える手を見て、かける言葉すら見つからなかった。

「わたし、ダメだなあ……。かなちゃんのことだったらなんでもわかる気でいたのに、結局なんにもわかってなかった。かなちゃんが大変な目に遭っている時に、なんにもできなかった。わたし、お母さん失格だよね……」

 涙に濡れた声。その悲愴な呟きに、奏翔は居ても立っても居られなくなった。

意を決して顔を上げると、そこにはとめどなく涙を流しているひなたがいて、見ているだけで胸に痛みが走った。

 こんな静かに泣くひなたを見たのは初めてかもしれない。だからだろうか、先ほどまで浮かんでこなかった言葉の数々が、自然と口からこぼれた。

「ひなたはなにも悪くないよ。というか、ひなたは十分偉いと思う。いくら幼なじみだからって、普通は十年近くも朝食や学校のお弁当を作ったりはしないし、それ以外にもなにかと世話になってもいるしな。じいちゃんや鳴さんからの頼みもあったんだろうけど、半端な気持ちでできるようなことじゃないと思う」

「…………」

 潤んだ瞳で奏翔を見つめるひなた。相槌を打つこともなく黙して耳を傾けるひなたに、奏翔はさらに言葉を重ねる。

「だから、さ。これでも一応感謝はしてるっていうか、口にはしないだけでいつもありがたいとは思っているんだぞ? まあなんだ。つまり──」

 これから言おうとしている単語に体中が発火するような熱さを覚えつつ、奏翔は頭を掻きながら、ぶっきらぼうに声を発した。


「いつもの無駄に元気でうるさいひなたに戻ってくれよ。でないと調子が狂うんだよ──お母さん」


 その言葉に、ひなたは驚いたように目を瞠って、次いで不意にぷっと笑声をこぼした。

「かなちゃん、もしかして慰めてくれてるの? だったらすごく下手だよ?」

「……うるせえ。こういうのは苦手なんだよ……」

「ふふ。かなちゃん照れてる~。可愛い~」

「ああクソ。やっぱ言うんじゃなかったかも……」

「え~? どうして? 慰め方としては微妙だったけど、わたしは嬉しかったよ?」

 そう言うひなたの表情は、未だ頬に涙が伝いつつも、先ほどまでとは打って変わって晴れやかなものだった。恥ずかしい思いをこらえながら口にした言葉だったが、どうにか功を奏してくれたようだ。

「あー。それでな、ひなた。昨日のことなんだけどな……」

「いいよ。無理して話さなくても」

 場も落ち着いてきたところで、ようやく本題を切り出した奏翔に、ひなたはハンカチで涙を拭いながら首を横に振った。

「これ以上、かなちゃんを困らせるようなことはしたくないし」

「……いいのか?」

「うん。だって、わたしを巻き込みたくなかったから、今日までずっと黙っていたんでしょ? だったら、わたしはなにも訊かないよ。その方がかなちゃんのためになるなら」

「ひなた……」

 本当は訊きたくて仕方がないはずだろうに、そこまで奏翔のことを想ってくれるとは。感激のあまり、言葉が見つからない。

「でも、これだけは約束して? 危険な目に遭いそうになった時とか、一人で悩んでいることがあったら迷わずわたしを頼って。力になれるかどうかはわからないけど、少しでもかなちゃんの助けになりたいから」

「……わかった。状況にもよるけど、できるかぎりひなたに相談するよ」

「うん。じゃあ、指切りしよう?」

 言って、ひなたは小指を顔の前まで突き出した。

「指切りって。小学生かよ……」

 そう苦笑しつつも、奏翔は素直に小指を出して、ひなたの小指にそっと絡めた。

「はい。指切りげんまん。嘘ついたらハリセンボンだよ?」

「うん。うん? 今なんか、発音がおかしくなかったか?」

「細かいことはいいの! 約束を破らないことが大事なんだから」

「はいはい。なんだかだんだん叱られている子供みたいな気分になってきた……」

「ふふっ。そりゃそうだよ」

 と、そこでひなたはおもむろに小指を離して、さながら雑誌の表紙のように後ろに手を組んで破顔した。


「だってわたしは、かなちゃんのお母さんだもん♪」


 そのいつになく可憐に見えるひなたの姿に、奏翔は思わずドキっと胸を高鳴らせた。

 おかしい。ひなたを見て可愛いと思ってしまうなんて。こんなこと、初めてだ。

「……? かなちゃん? 急に顔が赤くなったけど、どうかしたの?」

「な、なんでもない!」

 きっと心労が溜まり過ぎて、少し頭が病んでしまったのだろう。そうに違いない。

 でなければ、ひなたを見てときめくなんて、ありはしないのだから。

「あ、そうだ! 悪戯のことばかり考えてたせいで忘れてたけど、買い物に行かなきゃいけないんだった!」

「え? 今から? まあまだ夕方だし、一人で出歩いても大丈夫なんだろうけど……」

「なに言ってんの? かなちゃんも一緒に来るんだよ?」

「ぼ、僕もか?」

「うん。だって二人でないと持てない量だし。明日の朝ご飯の材料もないし。これもかなちゃんがさんざん荷物持ちをサボったせいだよ?」

 そう言われては断りづらい。元々料理が苦手な奏翔のために朝食などの用意をしてくれているのだし、どのみち選択肢なんてなかった。

 とはいえ、これでも命を狙われている身なのだ。しかも柊がそばにいない以上、下手に出歩くのは少々躊躇うものがあった。

 いや、それを言ったら常に柊がいないとどこにも行けないことになってしまうが、とまれかくまれ、昨日殺されかけたばかりというのもあって、慎重にならざるをえなかった。

 しかしながら、それを子細に話すわけにもいかない。どうにかして誤魔化せば。

「ああいや、今日はかなり暑い方だし、明日の分はコンビニとかで済ますのはどうかなあとか言ってみたり……」


「でしたら、わたくしにお任せくださいませ!」

「……ボクも参上」


 と、そこで突如玄関のドアが開かれ、そこになぜかエリカと柊が立っていた。

「エリカさん!? それに柊さんも!? なんで揃って僕の家に!?」

「なぜもなにも、奏翔さんの自宅の近所にわたくしの住居を構えたからですわ。もっともちょっとしたマンションを丸ごと購入しただけなので、あまり自慢できるようなものでもないのですが。それはさておき、早速ご挨拶をと思って奏翔さんの家に伺おうとしたら途中で柊さんとお会いして、目的地が同じだったようなのでこうして一緒に来たんですの」

「……ボクもこの近所に引っ越してからまだちゃんと挨拶をしていなかったから、こうして来た」

「柊さんは朝に引っ越しの話を聞いていたからわかるけど、エリカさんはなんだってこんな急に……」

 そこまで言って、そういえば放課後に柊と帰ろうとして、エリカが捨て台詞のようなもを口走っていたのを思い出した。

 考えがあるとかなんとか言っていたが、まさかこういうことだったなんて。しかもマンションを丸ごと買うとか、さすがは財閥のお嬢様と言ったところか。やることが豪気だ。

「で、エリちゃん。なにを任せてくれるの?」

「もちろん、その買い物とやらの送迎に決まっていますわ。わたくしのリムジンなら快適かつスムーズに用事を済ませられますわよ?」

「ほんと!? それいいね! かなちゃん、そうしてもらおうよ!」

「え? リムジンで送ってもらえるのなら、僕いらなくね?」

「なに言ってるの、かなちゃん。スーパーの中をわたし一人で歩かせる気?」

「いやそれ、別にいつものことじゃ──って、うわわわ!?」

 会話中に突然柊に腕を引き寄せられ、そのまま胸元まで強引に引き寄せられる奏翔。

「……護衛の件なら安心してほしい。ボクが一緒に付いていくから。他にも外出する機会があったら、今後ボクを頼ってほしい」

「あ、うん……」

 囁き声で言った柊に、奏翔も声を抑えて頷く。

「なになに? なんの話をしてるの?」

「わたくし達の前で内緒の話なんて、少々いただけませんわね」

 きょとんとするひなたと、少し不服そうに腕組みをするエリカに、柊は元の体勢に戻って、

「……なんでもない。ちょっとした伝言」

 と、無表情で応える。これは、口裏を会わせろという言外のサインか。

「そうそう。ちょっとした学校での用事だよ」

「まあ、奏翔さんがそう仰るのなら、深くは追及しませんけれど……」

「ねえねえ。それより早く買い物に行こうよ。でないと日が暮れちゃうよ?」

「……善は急げ。時間は有限」

「痛い痛い! 二人して僕の腕を引っ張らないで!」

「ちょっとお待ちなさい! どうしてわたくしの了解もなく勝手に奏翔さんを連れようとしているんですの! 送るのはわたくしのリムジンなんですのよ!?」

「ぎゃあ!? エリカさんもエリカさんで、僕の首に飛び付かないで! 胸が! エリカさんの胸が顔に当たるから~!」

 まるで子猫のじゃれ合いのように、四人して取っ組み合いな状態になる奏翔達。そんな騒々しくも前までのような賑やかな雰囲気に、奏翔は人知れず苦笑を漏らして、晴天の空を仰ぐ。

 いつもの平穏な日常には戻れなくなってしまったが、それでもこんなバカバカしい日々がいつまでも続いてくれたらいいなと、この青空に願いながら。


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ハーレム・デッド・アライブ 戯 一樹 @1603

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