第14話 暗殺者の正体
奏翔と霧絵が共に連れ立って逃避劇を始めていた、その頃。
ひなたは買い物袋を両手に下げたまま、必死に奏翔を探し回っていた。
「はあ、はあ……。かなちゃん、どこ行っちゃったの……?」
そばにあったガードレールにもたれかかりながら、しばし乱れた呼吸を整えるひなた。そうしている間にも、視線だけは忙しなく辺りを見渡していた。
奏翔の姿を見失ってから、かれこれ十数分以上も経つ。心当たりのあるところもいくつか探してみたのに、一向に見つからないままだった。
いつもだったら、どこにいてもすぐに見つけられる自信があるのに、今だけは波長が合わないというか、奏翔にああもはっきり拒絶されたせいもあってか、いつもの勘がどうにもうまく働かなかった。
「かなちゃん……。一体どうしちゃったんだろ……」
何度電話しても全然繋がらないスマホのディスプレイを見つめながら、ひなたは不安げに言葉を漏らす。
あの怯え方は尋常ではなかった。それも不良や獰猛な犬に襲われたとかそんなレベルではなく、もっと深刻な事態を窺わせるくらいのなにかが。
「…………」
思わず握りしめた両手をぐっと胸の前まで寄せて、深い吐息をつく。
もうかれこれ十数年近く──それこそまるで家族のように接してきたが、あんな奏翔を見るのは初めてだった。単に怯えているくらいならなにか怖いことでもあったのかと心配するだけで済むが、あれは視界に映るすべてが信用ならないとでも言いたげな、疑心暗鬼に満ち満ちた目だった。
その猜疑心が幼なじみであるはずの自分にも向けられて、それが形容できないほどショックでならなかった。響一郎や鳴といった親類を除けば、自分が一番奏翔に近い存在なのだと自負していただけに。
「かなちゃん……」
祈るように組んだ手を鼻先まで寄せて、ひなたは静かに瞑目する。
奏翔の身になにがあったのかは知らない。だが、なにかしら危険なことに巻き込まれているのは、奏翔のただならぬ様子を見れば一目瞭然だった。
下手に関われば、自分にまで危険が及ぶかもしれない。しかしながら、あの状態の奏翔を放っておこうとは微塵も思わなかった。
自分になにができるかはわからない。具体的にどう危機的状況に立たされているかも不明瞭なため、警察に相談することもできない。けれど。
「わたしがなんとかしなきゃ。響一郎おじいちゃんとも約束したんだもん。かなちゃんはわたしが守るって」
今でもはっきり覚えている。それはまだ小学生になったばかりの頃、響一郎が海外に赴く度に寂しがってぐずっていた奏翔をあやしながら、たまたま遊びに来ていたひなたに顔を合わせてこう告げたのだ。
『ひなたちゃん、儂がいない間、こいつの面倒を見てあげてはくれないかのう? 娘の鳴もいてくれるが、あいつも仕事でなかなか帰ってこれない時もあるし、よかったらちょくちょく構ってあげてほしいんじゃよ』
『いいよー。わたしがかなちゃんを見ててあげるー』
『それは助かる。それでできれば、今後も儂が仕事でいなくなる時に奏翔の様子を見てあげてほしんじゃ。普段は強がっていたりもするが、この通り寂しがり屋でな。儂が親代わりをしているが、一緒に居てやれない時も多いし、なにかと心配なんじゃよ』
『じゃあわたしがかなちゃんのお母さんになってあげる~。それならだいじょうぶ?』
『お母さんか。ははっ、それはいい! じゃあお母さんとして、どうか奏翔のことを守ってあげておくれ』
『うん! ひなたママにまかせて!』
そう無邪気に頷いて、ひなたは奏翔の親代わりになることを決めた。
あの時は小さかったこともあって、深く考えずに了承したが、今となっては本当に自分が奏翔の親代わりなのだと心から思うようになった。だから──
「早くかなちゃんを見つけなきゃ。だってわたし、お母さんだもんっ」
気合を入れるようにパンパンと両頬を叩いて、ひなたは力強く顔を上げた。
いつまでもこんなところでウジウジしているわけにはいかない。こうしている間にも、奏翔の身に危険が迫っているかもしれないのだから。
とはいえ、このまま無作為に探し回るのはさすがに効率が悪い。思い付くところはさんざん捜索したし、なにか手掛かりでもあれば助かるのだけど──
「あら? ひなたさんではありませんの。こんなところで会うなんて奇遇ですわね」
と、不意に背中から声をかけられ、ひなたはすぐさま振り返った。
そこには、田舎の一般道にはあまりにも不釣り合いなリムジンが、車の往来の邪魔にならない位置で一時停車していた、そしてその広い後部座席に、煌びやかな私服を着たエリカが窓を開けて顔を覗かせていた。
「はっ。ひなたさんがここにいるということは、もしかしたら奏翔さんも近くに? どこですの! どこにいるんですの奏翔さん!」
「エリちゃん! グットタイミング!」
なにやら勝手な思い込みで奏翔の姿を求めるエリカに構わず、ひなたは高級車だということも忘れて窓に駆け寄った。
「かなちゃんがどこにいるか知らない? ずっと探してるの!」
「……知らないもなにも、今のわたくしの行動を見ていなかったんですの?」
などといつもの調子でツッコミを入れつつも、ひなたのいつになく焦った様子に「なにかあったんですの?」とすぐさま真剣な面持ちになって訊ねた。
「うまく言えないけど、かなちゃんが危ない目に遭っている気がして。スマホも全然繋がらないし、すごく心配で……」
「奏翔さんが……?」
いかにも不安げに表情を曇らせるひなたに、エリカも緊急性を感じ取ったのか、眉間にシワを寄せて聞き返す。
「すでに自宅に帰っているという可能性は?」
「それはないと思う。下校途中にかなちゃんと別れたんだけど、とっくに家に帰っていておかしくない時間帯にこの近くで見かけたから。とても怯えてた感じだったし、なにかから逃げている途中だったのかも……」
「それは、確かに心配ですわね……。わかりました。わたくしがなんとかしましょう」
「え? 今の話、信じてくれるの?」
きょとんとするひなたに、エリカは少し呆れたように嘆息して、
「当たり前じゃありませんの。幼なじみとはいえ、あの奏翔さんが信頼しておそばに置いている方なんですのよ。わたくしが信じないわけがありませんわ」
言いながら、エリカは座席に置いてあった鞄からスマホを取り出して操作し始めた。
「本当はわたくしも一緒に探して差し上げたいのですけれど、これからお父様の大事なお客様と会わなければならない用があるので、居場所だけ教えますわ」
そのスマホでどうやって居場所を探るんだろうと疑問に首を傾げるひなたに、エリカは豊満な胸を居丈高に張って、こう繋げた。
「その代わり、絶対に奏翔さんを助けなさいな。でないと、この千条院エリカが承知しませんわよ?」
柊から逃げている間に、奏翔はこれまであったことを霧絵に話した。
さすがにエリクシアなんてファンタジーな代物を信じてもらえるわけがないので、そこはぼかして真城や宵町先生の件も伏せつつ、大まかに事情を説明した。
「それで警告文みたいな手紙が届いて以来、実際僕の命を狙う組織から何度も狙われたりしたんだよ。マンションの屋上からフェンスを落とされたりとか、軽トラックに轢かれそうになったりとか。さっきなんて拳銃で撃たれそうになったし……」
「……そう。にわかには信じがたいけれど、そんな大変な目に遭ってきたのね……」
陰鬱に語る奏翔に、同情的な目線を送る霧絵。すべてを信じたわけではないようだが、少なくともかなり深刻な事態に巻き込まれているという点だけは理解してくれたようだ。
そんな奏翔と霧絵は今、路地裏の入り込んだ道に逃げていた。霧絵に手を引っ張られた時はどこへ連れて行く気なのかと思っていたが、どうやら柊を撒くためにあえて建造物の多い閑散とした道を選んだようだ。おそらく少しでも柊から姿が見えなくするためなのだろうが、周囲への被害も考慮してくれたのかもしれない。
そのおかげもあってか、今のところ、どうにか柊と接触せずに済んではいるが──
「このたまに聞こえてくる足音って、やっぱり柊さん……?」
「でしょうね。周りに人はいないし、それも私達を追っているような感じだから」
ということは、やはり狙いは奏翔と見て間違いはなさそうだ。これだけ執拗に追跡してくるということは、今日中に決着を付ける気でいるのかもしれない。
「ところで今さらだけどさ、委員長はこのまま僕と一緒にいて平気なの? もしかしたら委員長まで酷い目に遭うかもしれないのに……」
「それこそ今さらよ。ここであなたを見捨てたら、委員長の名が廃るってものよ。一生後悔することになるわ。なにより──」
と、分かれ道に入ったところで一区切り置いたあと、入念に周囲を見渡してから、再度歩を進めて言葉を紡いだ。
「困っている人を助けるのは当然のことよ。それで私まで危険が及んだとしても、その時にまた対処すればいいわ。だから、音無君が気に病む必要なんて一切ない」
なんて頼もしい言葉だろう。普段はポンコツな面が目立つだけに、やけに霧絵がカッコよく見える。
「……それより、これからどうしたものかしら。このまま柊さんが諦めて帰ってくれるのが一番いいのだけれど、そんなつもりはなさそうだし。むしろちょっとずつ距離を詰められているような気さえするわ」
言われてもみれば、心なしか足音がだんだん近付いているような気がする。やはり暗殺者なだけあって、気配に敏感ということなのだろうか。柊と遭遇した時点では、けっこう距離が離れていたはずなのに。
「……あのさ、説得とかって無理なのかな……?」
未だ霧絵に手を引かれながら、奏翔はおそるおそるといった態で口を開いた。
「いつから僕を殺そうとしていたのかはわからないけど、それまでクラスメートとして仲良くしていたわけだし、情に訴えかけたらどうにかならないかな……?」
「バカね。フェンスを落としてきたり、無人の軽トラックを突っ込ませたりするような人なのよ? 本気で説得なんてできると思う?」
「無理……かな」
当たり前でしょ、と奏翔の提案をあっさり一蹴して、まっすぐ前に向き直る霧絵。
「とにかく今は逃げることだけを考えないと。このままだと追いつかれかねないわ」
「どこかに隠れてみるのは? もしかするとあちこち動き回っているせいで、逆に気配を感じ取れやすくなってるのかも……?」
「……一理あるかもしれないわね。音無君の話を信じるなら、相手はプロの暗殺者ってことになるし。一旦どこかに身を隠すのは悪くない手かも」
そうは言っても、と依然として塀と塀の間にあるような小道をあえて選びながら、霧絵は辺りを見回す。
「隠れられそうなところなんて、どこにもなさそうね。下手に民家の庭なんて入ったら、それこそ騒ぎになって本末転倒だし、かと言ってお店の中だと、もしも見つかった時に逃げ場がなくなっちゃうし」
「前に通り過ぎた公園とか神社はどう?」
「見晴らしが良過ぎてダメね。見つけてくださいって言っているようなものだわ」
「でも、他に隠れられそうなところなんて…………あ」
と、そこでなにげなく目線を上げて塀を超えた先を見てみたところで、少し古びた様相のマンションを発見した。
「あそこに行ってみるのは? 確かけっこう前から廃墟になっていたような……」
「あのマンションね。いいわ。人もいないでしょうし、早速向かいましょう」
柊の追跡を避けつつ、急いで廃墟へと駆け込む奏翔と霧絵。
するとそこには『KEEP AUT』と表記されている黄色いテープと、工事現場でなどでよく見かける立て看板が所々に設置されていた。取り壊し予定日も決まっていないのか、まだユンボなどの重機は敷地内には見当たらず、当然のことながら作業員の姿も見受けられなかった。つまり、忍び込むのには絶好の場所というわけだ。
「ちょうどいいわ。柊さんに追い付かれる前に入ってしまいましょう」
「あ、でも部屋には入れないだろうから、階段とか踊り場くらいにしか隠れる場所がないと思うんだけど、大丈夫かな?」
「横幅だけでも八部屋以上はあるし、これだけ広ければ十分よ。ほら、急ぎましょう」
「う、うん」
首肯して、霧絵と共に正面の方から廃墟となったマンションへと入っていく。
廃墟というだけあって壁もけっこう変色して痛んではいるが、足場は比較的しっかりしたままなので、崩れなどの心配は必要なさそうだった。これならどの階層にも問題なくいけそうだ。
「ひとまず、この踊り場で待機しましょうか」
と、三階まで上ったところで霧絵は不意に立ち止まり、外から姿が見えないように腰を屈めた。
「……柊さん、今どの辺りにいるのかな?」
霧絵に倣う形で奏翔も腰を屈めながら、小声で訊ねる。
「さあ……。これでどうにか撒けたらいいのだけれど……」
返事をしつつ、霧絵は吹き抜けとなっている壁からおそるおそる顔を覗かせて、下の様子を眺める。
「今のところ、近くに柊さんはいないようね。もっとも私の見える範囲だけしか判断できないから、裏手に回り込まれていたらどうしようもできないけれど」
「裏から入れそうなところなんてあったっけ?」
「急だったから確認はしていないけれど、こういうところには大抵裏手に非常口があったりするものよ。もしかしたら私達がここに潜んでいるのに気付いて、勘付かれないようにあえて非常口から入ってくる可能性も否めないわ」
「な、なるほど……」
思わず感嘆の吐息をこぼす奏翔。今までこういうマンションに行った経験がなかったので、そういった発送には思い当たらなかった。さすが成績上位者だけのことはある。
「でも正直言って、これも一時しのぎにしかならないでしょうけどね。仮に今日をなんとか乗り切ったところで、また明日から狙ってくるはずでしょうし」
「あ、それもそうか。じゃあ今のうちに遠方に逃げた方がいいってこと?」
「それが長期間続けられる資金が、今手元にあったらね。それとも音無君は、宿の心配がいらないほどのお金を持っているのかしら?」
「いや、さすがにそんな金は手持ちにないよ……」
仮に今からATMでお金を下ろせたとしても、働かずに町から町へ逃れるだけの貯金額なんて、バイトもしていなければ標準の高校生が貰える程度のお小遣いしか叔母から渡されない奏翔にあるわけもなかった。
「そうなると、最悪、柊さんと対峙するケースも考えないといけないけれど、拳銃まで持っている相手に素手で挑むなんて現実的じゃないし……って、いけないっ!」
突如、そんな焦燥に駆られた声を漏らして、俊敏に壁から頭を隠す霧絵。
「き、急にどうしたの?」
「……柊さんよ。柊さんが今、このマンションの前まで来ているわ……」
冷や汗を垂らしながら声を押し殺すように言う霧絵に、ぞっと背中に怖気が走った。
「な、なんでここに……? 柊さんからは見えてなかったはずなのに……」
「さっき敷地内にあった砂利道をしきりに観察していたみたいだから、私達の足跡でも見てここが怪しいと踏んだのかも……。どちらにしても勘が鋭いのは確かね。他にも隠れられそうな場所はいくつかあったのに、このマンションに目を付けたのだから」
「どうしよう! 柊さんがここまで来ちゃったら……!」
「落ち着きなさい。ひとまずここから離れるわよ。できるだけ物音を立てないようにね」
言いながら真っ先に階段を上った霧絵に、奏翔も無言で頷いて、静々とあとを追う。
「で、これからどうするの……?」
すっかり霧絵の腰巾着みたいになっている自分に情けなさを憶えつつ、そのいつになく頼もしい後ろ姿に問いかける。
「そうね……。このままマンション内を歩いていたら柊さんと遭遇しかねないし……。そうなると屋上に行く方が無難かも……」
「えっ。でもそれって、逆に逃げ場がなくなっちゃうんじゃ……」
「少なくとも、こうして下手に動き回るよりはマシよ。柊さんが私達の気配を辿ってきているのならなおさらね」
「もしも柊さんまで屋上に来ちゃったら……?」
「その時はすべての出入り口をどうにか塞いで、屋上から助けを呼ぶしかないわね。その間に突破されてしまったら、もうなす術はないけれど」
「そんなあ……」
「情けない声出さないでよ。私だって怖いんだからね……」
と、ここに来るまでずっと手放さずに持っていた鞄をぎゅっと抱きしめた霧絵に、奏翔は「あっ」とか細く呼気をこぼした。
そうだ。狙われているのは間違いなく奏翔だが、さりとて霧絵にまで矛先が向かない保証はどこにもないのだ。それを考えずに自分ばかり怖がって、なんと愚かなことか。身勝手な言動ばかりの自分が恥ずかしくて仕方がない。
「ごめん委員長。自分のことばかりで……」
「別にいいわよ。気持ちはわからないでもないし。それよりもほら、急ぐわよ」
振り向きざまに苦笑しながら言った霧絵に、奏翔はもしもの場合は男の自分が霧絵を守ろうと固く胸に誓いながら、力強く頷いた。
屋上までの階段は存外長く、結局十階まで上ったところでようやく到達できた。
これだけ階層があるなら、エレベーターもどこかにあるんじゃないのかと、道すがら霧絵に提案してみたら、
「もう住居人もいないのに、エレベーターなんてまともに動いていると思う? 仮に動いていたとしても、表の階層表示で居所が知られてしまうだけよ。よって論外ね」
と、すげなく却下された。正論過ぎて、ぐうの音も出ない。
それはともかく、無事最後の階段を上って、屋上へと続くドアの前まで来たところで、
「ん……。開かないわね……」
「あ。もしかしたら鍵がかかっているのかも……。こういうのって、普通は管理人とかが施錠するもんだろうし……」
ドアノブを握ったまま渋面になる霧絵に、奏翔はしまったとばかりに大口を開けて狼狽した。見るにつまみ式でなく、鍵穴が空いているタイプ。もしも本当に鍵がかかっているのなら、強引にこじ開けるくらいしか方法はなさそうだった。
「どうしよう……。鍵なんてこんな廃墟にあるわけないし……」
「単に古くなってドアノブが回しづらくなっているだけかもしれないわ。試すだけ試してみましょう。その間、音無君は後ろを見張っていてちょうだい」
「う、うん。わかった」
言われた通りに階段の方に体を向けて、霧絵にドアを任せる奏翔。
そうしてしばらくガチャガチャとドアノブを回すような音を背中で聞いたあと、
「開いたわ! ちょっと錆付いていたせいで、ドアが開きにくくなっていただけみたい」
「やった!」
思わぬ幸運に喜びつつ、奏翔はドアを開けた霧絵のあとに続く。
屋上は想像していたより見晴らしが良く、当然のことながら落下防止のためのフェンスが端に設置されていた。ただ遠目から見ても古ぼけて劣化しているのは丸わかりだったので、下手に近寄らない方がよさそうだった。
「ひとまず、屋上まで行けて一安心ってところかな? あとは、柊さんが帰るまでここで待つしかないわけだけど……って、委員長? さっきからドアの前で固まったままでいるけど、どうかし──」
と、横を向いたまま立ち尽くしている霧絵に声をかけようとして、奏翔ははっと息を呑んだ。
「……やっと追い詰めた」
視線の先──目算で二十メートルほど離れた地点に、柊が拳銃を構えた状態で正面に立っていた。
「なんで柊さんがここに……? 僕達よりもあとにこの廃墟に来たはずなのに……!」
「……屋上に向かうだろうと思って、非常階段を使って別の出入り口から先回りさせてもらった」
動揺しながら疑問を飛ばす奏翔に、柊がいつもの無表情で涼しげに返す。まさかこちらの動きを予想して奏翔達よりも早く屋上に辿り着いていたとは。完全に裏をかかれた。
と、ここにきて、柊の持っている拳銃にふと違和感を覚えた。バイクで追われていた時よりも形が違うというか、一回り小さく見えたのだ。
いや、サイレンサーが付いていないせいで小さく見えるだけなのかもしれないが、それでも、映画などで女スパイがよく使っていそうな小型拳銃に形が似ていたのだ。
「……完全にしてやられたわね。こんなことならさっさと屋上に向かうべきだったわ」
奏翔が拳銃に目を奪われていた最中、横にいる霧絵が悔しげに口を開いた。
「まさか足音を気にしてゆっくり進んでしまったのが、こうして仇になるなんて」
「……それでも、ここまで追い詰めるのに存外苦労させられた。敵ながら称賛に値する」
言いながら、銃口をしっかり霧絵に向ける柊。まずい。今の言い方だと、霧絵にまで危害を加えかねない勢いだ。それだけはなんとか阻止しないと。
「待って柊さん!」
慌てて霧絵の前に立った奏翔に、柊は少し驚いたように眉を上げた。
「……奏翔?」
「狙いは僕なんだろ? それなら、委員長だけでも見逃してくれ! 委員長はなにも悪くない! ただ善意で僕を守ろうとしてくれただけなんだ!」
今すぐにでも逃げたいと願う己の小胆を心中で叱咤しながら、奏翔は叫ぶ。
怖い。足が震える。けどここで退いたら、霧絵がどうなるかわからない。ここまで懸命に守ってくれた霧絵を見捨てて自分だけ逃げるなんて、人としても友達としてもできるはずがなかった。
「だから、これ以上関係のない委員長に銃口を向けるのだけはやめてくれっ!」
果たしてそんな奏翔の必死な懇願に、しかして柊は小動物のように首を傾げて、
「……関係ない……? 奏翔がなにを言っているのか、よくわからない」
「え……?」
「……最初からボクの狙いは委員長一人だけ。──ううん。委員長じゃなく、本来はこう呼ぶべき相手」
わけがわからず、あっけに取られる奏翔をそのままに、柊は今までに見たことのない険しい双眸を霧絵に向けてこう言い放った。
「……【抹殺者】の雛月霧絵……!」
いよいよもって、なにがなんだか全然わからなくなってきた。
「は……? 委員長が【抹殺者】……? どういう意味……?」
「……そのまま言葉通りの意味。雛月霧絵は奏翔の命を狙う──もといエリクシアを破壊しようとしている《現人十字教団》の実行部隊の一人」
「委員長が……?」
思わず、背後を振り返って霧絵の顔を窺う。
「いや、私の方こそなんのことだか全然わからないんだけど……? えりくしあ? さっきから一体なんの話をしているのよ……?」
「……とぼけても無駄。だったらどうやってそこのドアを開けた? ボクが屋上に辿り着いて真っ先に確認した際、そこのドアはしっかり内側から鍵がかかっていたはず」
「確かに錆付いていたせいでドアノブは固かったけれど、でも鍵なんて最初からかかっていなかったわよ! そうよね、音無君?」
「え? ぼ、僕はその時、見張りで後ろを向いていたから、鍵がかかっていたかどうかなんて知らないけれど……」
「くっ。言われてもみればそうだったわね。けど、そもそもそれを言うなら、柊さんだってどうやって屋上に入ってきたのよ! 別の出入り口から来たって言っていたけど、私達が来たドアに鍵がかかっていたのなら、柊さんが来たところからだって鍵がかかっていたはずでしょう!?」
確かに、見たところ出入り口は奏翔と霧絵が先ほど通ったドアと、柊が主張する非常階段側にあるドアにしかない。それで一方だけ鍵が閉まっているのというのも、不自然な話ではある。
「……ボクのところにもちゃんと鍵はかかっていた。だから普通に銃で破壊して入らせてもらった。きっと相手も鍵をこじ開けてでも屋上に来ると予想したから」
答えは至って単純明快だった。普通とは。
「……鍵だけじゃない。もしも本当に雛月霧絵がエリクシアとはなにも関係のない素人だとしたら、あまりにも冷静沈着とし過ぎている。索敵訓練を受けたボクからあれほど逃げ回れるなんて、とても素人の動きとは思えない」
「か、顔に出ないだけで、これでも大いに動揺しているわよ! それにあなたから逃げられたのも単に死に物狂いだっただけで、全部計算だったわけじゃないわ。変に誤解を与える言い方はやめてもらえない?」
「……奏翔、騙されてはダメ。あれの言っていることはすべて嘘ばかり。今すぐ雛月霧絵のそばから離れるべき」
「あなたこそ嘘ばっかりじゃない! 音無君! 耳を貸しちゃダメ! 柊さんの言っていることはなんの根拠もないわ! 私達を惑わそうとしているのよ!」
ほぼ同時に訴えかけてきた柊と霧絵に、奏翔はどうしたらいいかわからず、おろおろと視線を彷徨わせる。
現状、霧絵の方が無害そうに見えるが、さりとて柊の言うことも一理ある。鍵の件に関しては確認しようがないが、振り返ってみれば、霧絵がやたら機敏に行動していたのは確かだ。もっと奏翔のように怯えてもいいくらいなのに。
そう考えると、一体どちらが真実を言っているのか、わからなくなってきた。
ここまで奏翔を必死に守ろうとしてくれた霧絵か。
それとも、依然として霧絵に銃口を向けようとしている柊か。
「……奏翔。今すぐボクを信用しろとは言わない。でもちゃんと思い返してみてほしい。これまでの雛月霧絵と逃げていた間の行動を。きっとなにか不自然な点があったはず」
「不自然な点……?」
「ダメよ音無君! 柊さんの口車に乗ったらいけないわ!」
背後で声を張り上げる霧絵を尻目に、奏翔の脳裏ではこれまでの霧絵とのやり取りを想起していた。
大通りでの霧絵との遭遇。その後、霧絵に手を引かれながらの逃走。
それから、道中に発見したこの廃マンションに逃げ込んで、この現状。
ダメだ。こうして霧絵と逃げていた時のことを思い返してはみたが、特におかしな点なんてなかったように思える。やっぱり、柊の言葉に惑わされているだけなのか?
「音無君、私を信じて! 一緒にここから逃げましょう!」
「委員長……」
真剣な瞳で背後から右手を差し出してきた霧絵に、奏翔も吸い寄せられるようにその手を握ろうとして──
その瞬間、脳裏に過った霧絵のとある言動に、奏翔はピタッと動きを止めた。
「……? 音無君?」
「──ねえ、委員長」
手を出したまま訝る霧絵に、奏翔は顔を引きつらせながら震えた声で問うた。
「無人の軽トラに轢かれそうになったこと、なんで委員長が知ってたの……?」
その一言に、霧絵は虚を突かれたように目を見開いた。
「軽トラに轢かれそうになったこと自体は、委員長と一緒に逃げていた時に話したけど、無人だったなんて一言も言ってない……!」
それはこのマンションに来る前、柊への説得を提案した奏翔に対して、
『バカね。フェンスを落としてきたり、無人の軽トラックを突っ込ませたりしたような人なのよ? 本気で説得なんてできると思う?』
と、霧絵はあの時はっきり『無人の軽トラック』と口にしていたのだ。
テレビはおろか、ネットニュースですら報道規制をかけられたせいもあって、どこにも事故の情報なんて流れていなかったはずにも関わらず。
よしんば、野次馬が撮影した事故当時の写真を偶然SNSなどで見かけたとしても、あの時奏翔はすぐに現場から離れていたため、奏翔の姿が写っているはずがなかった。
それになにより、軽トラックに限らず、車に轢かれそうになったと聞いたら、普通は運転手が乗っている方を連想するはずだ。
なのに『無人』と言い当てるだなんて、真っ当に考えて当時の現場を目撃していた人物しかありえない──!
「──ざぁあねん。バレちゃった☆」
カチャ、と。
突然右のこめかみに当てられた筒状の固い感触に、ゾッと全身が総毛立った。
「い、委員長……?」
「動いちゃダメよ音無君。ちょっとでも妙な動きをしたら即座に撃つわ」
身震いしながらゆっくり後ろを振り返ろうとした奏翔に、霧絵は銃口を用いて強引に前を向かせた。
あの黒いライダーが持っていた、サイレンサー付きの拳銃を左手に持って。
「拳銃なんて、いつの間に……?」
「少し前から鞄から取り出しておいたのよ。いざという時に応戦できるようにね」
だから、ああまで鞄を肌身離さず持っていたのか。夏用の制服だと、一目でバレないところに拳銃を隠せるだけの箇所なんてないから。
「けど、まさかあんな会話で正体がバレちゃうなんてね~。我ながら迂闊だったわ」
「……つまり自分が【抹殺者】であることを認めると?」
「ええ。さすがに誤魔化しきれないでしょうし。こんなことなら、学校で音無君と会った時に、偶然目撃した態で事故の時の話をしておけばよかったかもね。ま、それならそれで疑いが濃くなっていただけなんでしょうけど」
と、こともなげに言う霧絵。取り乱すでもなく、平然と微笑すら浮かべる姿がいかにも悪党といった感じで、これまでの霧絵とのイメージとはかけ離れ過ぎていた。それこそ、まるで別人のように。
「じゃあ、さっきの鍵の話は……?」
「ああ、そこのドアのこと? 鍵ならちゃんとかかっていったわよ。音無君が後ろを向いている間にピッキングでちゃちゃっと開けちゃったけれど。正直に鍵がかかっているなんて言ったら、そのまま立ち往生するか階下に戻るしか選択肢がなくなっちゃうし、けどそれじゃあ柊さんに捕まりかねないから、あそこはどうにかしてでも解錠するしか道はなかったのよねえ」
だからあの時、見張りと称してわざと奏翔に後ろを向かせたのか。ピッキングしているところを見られないために。
「でも、委員長って右利きだったはずだよね……? バイクで追われた時は左手に拳銃を持っていたはずなのに……」
「あら? まだ私を信じようとしてくれているの? 優しいのね、音無君」
でも残念、と霧絵は嘲笑混じりに言ったあと、
「私、本当は両利きなのよ。普段は素性を隠すために右手を使っているけど、こういう仕事をする際はコントロールの利きやすい左手を使っているの。まあ、日常生活でうっかり左手を遣っちゃうこともあるけれど」
言われて過去の記憶を辿ってみると、確かに一度だけ霧絵が左手を使ったシーンに憶えがあった。
それは今日の昼過ぎ、霧絵と一緒に校庭の掃除をしていた時だ。その際、こちらのドジで霧絵を押し倒して胸まで揉んでしまい、思いっきり左手でビンタされたのだ。
あの時は色々あったせいもあって気にも留めなかったが、まさか黒いライダーの正体を暴くヒントがあんなやり取りの中にあったとは。おかげで元から左利きである柊を真っ先に犯人扱いしてしまった。
「じゃあ、昨日僕の命を狙ったのも……?」
「もちろん私よ。けっこう苦労させられたけどもね。音無君がエリクシア所持者とわかってから入念に事故と見せかけた殺しの準備をしていたのに、フェンスの時は笹野さんに邪魔されちゃうし、軽トラの時は間一髪避けられちゃうし。悪運がいいのね、音無君」
「……いつから奏翔がエリクシアの持ち主だとわかった?」
「一週間くらい前に振った雨の日ね。あの時音無君のシャツが濡れて胸が透けていたのだけれど、その際手術痕みたいなものが見えて、もしやと思ったのよ。柊さんは欠席していたから知らなかったでしょうけど」
「……あの日は高熱が出て登校できる状態じゃなかった。ちゃんと体調管理できなかった自分の甘さが恨めしい……」
心底後悔しているように俯いて言う柊に「もっとも、気付いたのは私だけじゃなかったみたいだけれど」と霧絵は滔々と話を続ける。
「あの時、《新世界創造連盟》の人間もエリクシアの所在に気付いたみたいで、情報が錯綜としていたのよね。近々【破壊者】が動きを見せる気配があるとかどうとか。だからだれより早く先手を打ったつもりだったのだけれど、それが失敗に終わってこれからどうするか作戦を練っていた時に、今日になって件の【破壊者】が直接エリクシアを奪いに来るとは予想外だったわ。どうも【観察者】が密かに対応したせいで、具体的な人物像まではわからずじまいになってしまったけれど。でもまさか【破壊者】まであの学校に潜んでいたとは、さすがの私も思わなかったわ」
──おかげで、こっちは計画を前倒ししてこんな直接的な真似をせざる状況に追い込まれてしまったわけだけれど。ほんと、いい迷惑だわ。
そう嘆息混じりに言葉を発する霧絵に、だから今日になってこんな大胆な行動を取ったのかと奏翔は一人得心した。すでにエリクシアの在り処が知られてしまった以上、敵対組織である《新世界創造連盟》が本格的に動くのは時間の問題だったから。
まあ、そのあたりは宵町先生もとい《人類審査委員会》がどうにかしてくれているとは思うが、なんにせよ真城が今日になって行動を起こしてしまったせいで、こんなとんでもない事態を招いてしまったのだ。つくづく迷惑な奴である。
「でも、だったらなんであのままバイクで僕を追わなかったの……? 大通りの近くにいたのなら、そのままバイクで追い詰めた方が楽だったはずなのに……」
「さすがに一般人を巻き込むわけにはいかなかったから、あの時は『雛月霧絵』の姿に戻って音無君を探すしかなかったのよ。知らなかったでしょうけど、バイクで音無君を追っていた時も、なるべく通行人と接触しないように仲間に頼んであちこち道を塞いでもらっていたのよ?」
どうりであの時、ほとんど人とすれ違わなかったわけだ。
「もっとも、それも無駄に終わっちゃったけどもね。音無君には上手いこと逃げられちゃうし、やっと見つけたかと思えば、柊さんとまで遭遇しちゃうし。ここまで来たらわざわざ指摘するまでもないでしょうけど、柊さんは【護衛者】ってことでいいのよね?」
「……肯定。今日の夕方になって雛月霧絵が【抹殺者】として動いているという情報を耳に入れて、ずっと奏翔を探し回っていた」
「あら。じゃあ、あの時にはすでに正体がバレていたのね。なんだか危険な感じがしたから、とっさに音無君を連れて逃げたけど、大正解だったってことかしら。これもそれも音無君が協力的じゃなかったら、こうはいかなかったわねえ」
皮肉たっぷりに言う霧絵に、奏翔は己の短慮な行動に歯噛みした。ちゃんと落ち着いて行動していたら、ここまで窮地に立たされることもなかったのに……!
「けど、私がエリクシアを狙って秀道高校に入学したことまでは知らなかったみたいね。最初から怪しんでいたのなら、もっと前から警戒していたはずでしょうし」
「……否定はしない。実際、あなたは上手く普通の高校生に扮していた。雛月霧絵が怪しいと踏んだのはつい先日のこと。今日になってあなたの住んでいるというマンションを仲間が調べた結果、もぬけの殻になっていた。そのすぐあとに学校に問い合わせてみたら、雛月霧絵が引っ越したという事実は確認されなかった」
「それで私をクロと判断したわけね。数日中にエリクシアを破壊するつもりだったから、後々証拠が残らないように事前に引き払っていたのだけど、逆にそこから足を掴まれちゃったかー。ま、組織に繋がる情報を掴まれなかっただけでも幸いと思うべきかしら」
と、実にあっけらかんとした口調で応える霧絵。この一切悪びれていないところが、より恐怖をそそる。
しかし、それ以上に怖気が走ったのは──
「まさか入学した時点でエリクシアを狙っていたなんて……。じゃあ僕は、いつ殺されてもおかしくなかったんだ……」
「なかなかエリクシアの持ち主がボロを出さないせいで、特定するまでに思いのほか時間はかかったけれどねー。せっかく前もってエリクシアの持ち主が秀道高校に入学するらしいって情報を入手していたのに、結局一年も経ってしまったわ。まあそのおかげで音無君と同じクラスになって、ようやくエリクシアの在り処がわかったのだけれど」
「本当に……本当に委員長が【抹殺者】なんだね……」
先ほどまで、なにかの間違いだと思っていた。間違いだと思いたかった。
今日まで友達として接していた人が、自分の命を狙っている暗殺者だったなんて。
だがその心の迷いも、霧絵の話を聞いて胡散霧消した。もう疑いの余地もない。霧絵は正真正銘、《現人十字教団》に属する【抹殺者】なのだ。
「今でも信じられないよ。委員長が【抹殺者】だったなんて……。でもなんで? なんでそうまでして僕の命を狙うのさ……?」
踏ん切り悪く、これまでの霧絵との楽しかった日々を脳裏で思い浮かべながら、涙混じりの声音で問いかける。
「なんでもなにも、あなたがエリクシアなんて危険な物をもっているせいよ。ただ所持しているだけだったら、その場で壊すか奪うかで解決できたのでしょうけど、生命維持装置として胸の中に埋め込まれている以上、もうどうしようもないわ。それで結果的に音無君を殺すことになってもね」
「でも、そっちが勝手に危険視しているだけだろ!? 実害があったわけでもないのに!」
「なにかあってからじゃ遅いのよ。実際、《新世界創造連盟》の連中が自分達の勝手な欲望のためにエリクシアを利用しようとしている。あれはこの世界にあってはダメなのよ」
そういえば、無線機で《調律研究所》の人間と密談していた時も、今のような説明を受けたことをふと思い出す。
いわく《現人十字教団》の信者は、人類の正当な進化──神へと至る道を妨げるものには一切容赦がない輩なのだと。
「……人間が神様になるためなら、エリクシアごと僕を消すことすら躊躇わないってこと……?」
「そうよ。たとえなんの罪のない人間でも、それが進化の邪魔になるのなら容赦なく消すわ。すべては教祖様の教えの通りに。そしてなにより、他の生物を食さなければ生存できないという大きな咎を持つ人間が、いずれ俗世に縛られない崇高な頂に辿り着くために」
「………………」
そのどこか陶然とした言葉に、奏翔は口を噤んだ。噤まざるをえなかった。
こちらとは使っている言語が違う。教祖様とやらの教えに心酔するあまり、まるで話が通じる気がしないのだ。狂信者というのは、こうも度し難いものか。
「委員長……。ずっと、友達だと思っていたのに……」
「こんな時にまで委員長って呼ぶなんて、音無君も甘ちゃんよねえ。そういうところ、嫌いじゃなかったけれど」
言いながら、艶めかしく奏翔の頬に指を這わせる霧絵。そのむず痒さと耳元に触れる霧絵の吐息とが合わさって、危機的状況にいるというのに妙な高揚感に襲われる。
「──でも、友達ごっこはもうおしまい。そして、このお喋りもね」
直後、こめかみを抉るように銃口を押し付けられた。その渋面になるほどの鈍痛に、思わず「うっ」と呻き声が漏らす。
「さあ、わかったのならさっさと銃を捨てなさい。でないと、あなたの大事な音無君が死ぬことになるわよ?」
「……拒否する」
そんな柊の返答に相当意表を突かれたのか、霧絵は「あらまあ」と少し間の抜けた口調で小首を傾げて、
「意外だったわ。もっと躊躇するものかと思っていたのに。音無君がどうなっても構わないのかしら?」
「……ここでボクが銃を捨てたところで、奏翔が解放される保証はどこにもない。それにあなたの目的はあくまでもエリクシアの破壊。ボクが銃を捨てた途端、あなたは真っ先にボクを撃って、あとはゆっくりエリクシアの破壊に専念するだけとなる。おそらく奏翔の胸ではなくこめかみに銃口を向けたのも、一発でエリクシアを破壊するだけの確信がなかったからと言える」
「とても冷静な判断ね」
柊の推論に、霧絵はさして取り乱した様子もなく落ち着いた口調で応える。
「でもそれだと、音無君の命までは守れなくなっちゃうわよ? 私は遠慮なく音無君を盾にさせてもらうつもりだし、柊さんもそんな状況で私と撃ち合うことなんてできる?」
「……確かに、最優先すべきは奏翔の安全。その方針は今も変わらない」
霧絵とは対照的に、痛いところを突かれたばかりに目を眇める柊。
が、すぐに視線を尖らせて、
「けど、それはあなたにも言えること。ここで奏翔の頭を撃ち抜いたところで、エリクシアの破壊には繋がらない。むしろその隙にボクに射殺されるだけで、そっちにはなんのメリットもない。ただ無為に血が流れるだけ」
「………………」
今度は霧絵が眉をしかめる番だった。柊の指摘は的を射ていたようだ。
そうして訪れる重苦しい静寂。両方とも微動だにしない膠着状態に、奏翔の額から冷たい汗が流れる。
果たしてその沈黙を破ったのは、霧絵が不意に呟いた一言からだった。
「──このままだと埒が明かないわね」
そう溜め息混じりに言って、霧絵は奏翔のこめかみからわずかに銃口を離した。
「この際音無君を抜きにして、私と一対一で撃ち合ってみる?」
「……あなたに、その気が本当にあるのなら」
「本当よ本当。でないと、どちらかが衰弱して倒れるまでこうしていなきゃいけなくなるでしょ?」
「……それに関してはボクも同意する。でも、その提案に乗るかどうかは内容による」
「至って単純よ。私が三秒数え終えたあとに、音無君を横に突き飛ばして解放するだけ。これなら音無君を巻き込むことはないでしょ?」
「………………。わかった」
わずかの逡巡のあと、柊は重々に頷いた。
「……けど奏翔を解放したあと、決して手を出さないと約束してほしい」
「するする。どのみち、柊さんを相手にそんな余裕はできそうにないし」
言って、霧絵は銃口を空に向けて、奏翔の襟袖を掴んだ。
「じゃあ始めるわよ。いーち」
ついにカウントダウンが始まった。緊張が走る。
「にーい」
次でラスト。次に数え終えた後に、柊と霧絵の決着が付く。
「さーん!」
三秒カウントしたその瞬間、背中に衝撃が走った。宣言通り、霧絵が奏翔を突き飛ばしたのだ。ようやく解放されて、自然、奏翔の頬も緩む。
いや、喜んでいる場合ではない。ここは今から弾丸が飛び合う戦場になるのだ。柊の邪魔にならないためにも、すぐさまここから離れ──
「──なぁんてね」
と、その場から離脱しようと瞬間だった。
全力で走ろうとした奏翔の腕を霧絵に掴まれ、強引に引き戻されてしまった。
「私の言葉をそのまま真に受けるだなんて、とんだおバカさん☆」
「なっ!?」
「……っ!? 奏翔っ!」
またしても霧絵の手に捕まり、驚愕で声を詰まらせる奏翔。それは柊も同じだったようで、いつもの無表情が嘘のように双眸を剥いて固まっていた。
そのわずかな静止が、命取りになるとも知らずに。
「バイバイ。柊さん」
霧絵の銃口が柊に向く。そのことに気付いた柊がハッとした顔で俊敏に拳銃の照準を合わせようとするが、霧絵にしてみればその一瞬の隙だけで十分なのは、奏翔の目から見ても明らかだった。
もうダメだ。柊は十中八九撃たれて死ぬ。そして柊が凶弾に倒れたあとは、奏翔もきっと──
そんな最悪の展開を想像して、思わずぎゅっと瞼を閉じた、その直後。
「かなちゃんっ──!!」
聞こえるはずのないその声に、三人揃って正面のドア──屋上の中央出入り口の方を弾かれるように振り向いた。
そこにはよく見知っている少女が──ここまで全力で走って来たのであろうとわかるくらいに肩で息をしているひなたが、汗だくになりながら立っていた。
「かなちゃん……? なにこれ? なにをしているの……?」
きょろきょろと状況がわからないといった風に視線を迷わせるひなた。が、なにかしら危険な雰囲気を察してか、困惑しながらも迂闊に近寄ろうとは決してしなかった。
「笹野さん……? どうしてここに──っ!?」
そんなひなたの姿に皆一様にして目を奪われていた、ほんの一瞬の出来事だった。
突如、鼓膜を刺すような甲高い金属音が響いた。
いつの間に忘我から戻っていたのか、この隙を逃すまいと発砲した柊の弾丸が、霧絵の拳銃を弾き飛ばしていたのだ。
「くっ──!」
拳銃を失い、奏翔を盾にするでもなく瞬時にドアへと直行する霧絵。そのチャンスを逃す柊ではなく、即座に拳銃を矢継ぎ早に撃つが、霧絵が常人離れの回避行動を取るせいでなかなか命中しない。
そうこうしている内に霧絵はあっという間に屋上のドアに辿り着き、唖然と棒立ちしているひなたを勢いよく突き飛ばした。
「きゃあっ!?」
「ごめんなさいね、笹野さん。緊急事態だったからあまり力加減ができなかったわ」
尻餅を付くひなたに、霧絵は銃弾の届かない位置まで移動したあとで謝りを入れる。
「でも、あなたも悪いのよ? 二度も私の邪魔なんてするから」
「二度……? きりちゃん、なんの話をしているの……?」
「別にあなたは知らなくてもいいことよ。さて、と──」
ひなたとの会話もそこそこに、今まさに距離を詰めようとする柊に対し、霧絵は少しだけ壁から顔を覗かせて、ニコニコと満面の笑みを象った。
「それじゃあね、柊さん。私はここで退散させてもらうわ」
「……! ……逃がさないっ!」
「まあ、おっかない顔。いつものクールな柊さんとは思えないほど情熱的ねー。あ、それはそれと音無君」
と、肉薄する柊を適当に揶揄ったあと、呆然とへたり込む奏翔に、霧絵は可愛らしくウインクして、
「もしも次に会った時は、その胸のエリクシアを必ず破壊させてもらうわ。だからそれまでは【破壊者】なんかにエリクシアを奪われてはダメよ?」
最後にそう告げて。
雛月霧絵は、奏翔の前からあっさり立ち去った。
そのすぐあとを、柊が一陣の風のように追う。一瞬だけこちらを気遣うようにちらっと一瞥したような気もするが、声をかける余裕なんてなかったせいだろう、結局一言も発さずに柊もまた早々にいなくなってしまった。
こうして。
まさかの【抹殺者】だった霧絵は【護衛者】だった柊によってどうにか退けられ、奏翔は命からがら難を逃れることができた。
最後に、ひなたと二人きりにされてしまったこと以外は。
「マジかー……」
こんなの、どう事情を説明すればいいんだとか、そもそも信じてもらえるのかとか、このあとの展開を想像して思わず頭を抱えたくなった。どう考えても怒られる未来しか見えてこない。
でもまあ、とりあえず今は。
この疲れた体と心を存分に休ませようと、奏翔は盛大に溜め息を吐きながら、ゆっくり背中から倒れた。
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