第13話 疑心暗鬼
あれから逃げ回って、どれだけの時間の過ぎたことだろう。
気付けば、奏翔は人通りのある市街地の近くまで辿り着いていた。
途中で無我夢中に逃走している内に、市街地の方へと入り込んでしまったようだ。
しかもどうやら路地裏に来てしまったようで、少し先を行った大通りには、ひっきりなしに車が行き来していた。歩道側には、奏翔と同じように友人達と姦しくはしゃいでいる女子生徒グループや、買い物帰りと思われる中年女性も散見できる。逃げ回っている間はほとんど人とすれ違わなかったせいか、視界に映る人の姿に安心感を覚えた。
「はあ、はあ……。あれ……? バイクの音が聞こえない……?」
小走りながら玉のように流れる汗を手の甲で拭っていると、先ほどまで執拗に耳朶を打っていたバイクのエンジン音が、いつの間にか聞こえなくなっていた。
「どこかに行った……? いや、どうにか撒いたのか……?」
怖々と足を止めつつ、それとなく周囲を窺う。が、バイクはおろか、あれだけ響いていた爆音すら、どれだけ耳を澄ましても入ってこない。いや、バイクの音自体は表通りからちょくちょく聞こえてくるだが、それはすべて原付や小型二輪ばかりで、ファットボーイのような大型バイクの大きな音は耳に入ってこなかった。
先ほど口にした通り、諦めて一旦引いたのか。それとも気配がしないだけで、まだこの近辺をうろついているのか。
どちらかはわからないが、どちらにせよこのまま大通りに出るわけにはいかない。もしもあの黒いライダーと接触してしまったら、奴の撃った流れ弾が周囲に飛びかねないし、タンクローリーにでも当たりでもしたら、それこそ阿鼻叫喚の地獄絵になってしまう。まあ相手が【抹殺者】なのなら、むやみに発砲するような愚かな行為はしないと思うが。
とにもかくにも、すでに足は限界を超えてすでにガクガクだ。ひとまず、どこぞの店の壁に背中を預けて、ゆっくり呼気をこぼしながら腰を下す。
どうにか窮地から脱することはできたが、未だ油断はできない。今こうしている間にも突如姿を現す可能性だってある。こんなことなら、早めに《調律研究所》の人間から身を守るための道具を受け取っておくんだった。
「ああでも、拳銃相手じゃあ、どのみち分が悪いか。くそ、これじゃあなかなか家に戻れそうにもないぞ……」
夜になれば身を潜めやすくもなるだろうが、九月初旬の日没はまだまだ遠い。スマホで時間を確認すると午後四時半(つまり、ひなたと別れてから一時間近くも逃げ回っていたことになる)を回っていたが、太陽が沈むまで当分時間はかかりそうである。
とりあえず今は体を休めることに専念して、頭は休めることなく思考を回転させる。
逃げるのも大事だが、なんとかして犯人を特定しなければ。でないと、仮にここで無事に帰宅できたとしても、明日からまた命を狙われるだけだ。
「だれなんだ……。だれが僕を狙っているんだ……」
呼吸を整えつつ、静かに瞑目して今ある情報を整理してみる。
遠目からだったので身長は推し量れなかったが、体付きからいって相手が女性なのは確か。パッと見、胸は小振りだったのでエリカではない気がするが、さらしなどを巻いて誤魔化しているかもしれないし、断定はできない。
ファットボーイに乗っているのは単なる趣味なのかもしれないが、あんな大型バイクを乗りこなしているということは、普段からバイクを使用しているおかげとも考えられる。もっとも容疑者である三人がバイク通学しているところなんて見たこともないし、そもそもバイクを所持しているのかどうかも知らないので、なんの光明にもなりはしないが。
「ああくそっ。なにか引っかかるものはあるんだけどなあ……」
苛立たしげに頭を掻きむしりつつ、奏翔は力なく頭を垂れる。
先ほどから頭の端に引っかかるものがあるのに、うまくそれを引っ張り上げることができずにいるせいで、気持ちだけが急いてしまう。早く犯人を特定して対策を打たねば、命が危ないというのに。
そもそも、どうしてこんな目に遭わなければならないのだろう。奏翔を救うためだったとはいえ、エリクシアを埋め込むよう医者に頼んだのは祖父だ。奏翔の意思ではない。
だからと言って、今さらエリクシアをくれてやるわけにもいかないし、そのせいで死ぬのは絶対に嫌だが、こうして命を狙われるのも御免だ。
本当に、どうしてこんなことになってしまったのだろう。
自分はただ、平穏無事な毎日を送れていれば、それだけで満足だったのに。
「……なんなんだよ。みんなしてエリクシアエリクシアって。僕だってこんな物が欲しくて生きているわけじゃないっていうのに……」
どうしてもっと平和的に解決できないのか。共同で研究するという手はなかったのか。
ひょっとして、自分の周りにいるのは、ほとんどエリクシアに関連した人達ばかりなのだろうか。今まで接してきた友人も知人も、教師も親類も、みんなして奏翔の胸の中にあるエリクシアにだけ関心があっただけなのだろうか。
なにもわからない。もうなにが正しくてなにが間違っているのかもわからない。
自分は一体、なにを信じればいいのだろう……?
「──あれ? かなちゃん?」
と、不意に聞こえてきた耳慣れた声に、奏翔はハッと顔を上げて横を振り向いた。
「ひなた……?」
「やっぱりかなちゃんだ~。こんなところでなにしてるの?」
「ひなたこそ、ここでなにしてるんだ……?」
質問を質問で返した奏翔に、ひなたは「なに言ってるの?」と訝しげに眉をひそめて、
「一緒に帰った時に、途中でスーパーに寄るって言ったじゃない。今日の荷物は色々多くなりそうだから、本当はかなちゃんにも手伝ってほしかったのにさ」
ほらほら、とこれ見よがしに両手に持ったスーパーの袋を掲げるひなたに、奏翔は今さらながら下校時のやり取りを思い出した。
そうだ。あの時ひなたに一緒に買い物に来てほしいという誘いを断って、途中で別れたのだった。よほど心に余裕がなかったのか、馴染みのあるスーパーの近くまで来ていたことすら失念していたようだ。
「でも、まさか本当にかなちゃんだったなんてね~。とっくに家に帰ってるって思ってたからビックリしちゃったー。こんなところにいるなんて全然思ってなかったし」
まさかひなたと別れたあとにずっと命を狙われていたとは、夢にも思うまい。
「で、結局かなちゃんはここでなにしてたの? あ、ひょっとして、やっぱりわたしの手伝いをしたくなったけど、恥ずかしくなってここで待ち伏せしてたとか?」
揶揄うようにニヤニヤと目元を緩めるひなたに、思わず助けを求めようと開きかけた口をとっさに噤んで、無理やり言葉を呑み込んだ。
言えるわけがない。なにも知らない非力な少女に助けてほしいだなんて。
そんな危険に巻き込むような真似、できるはずがない。
「……かなちゃん? どうかしたの? よく見たら顔色が悪いし、なんかすごく疲れてるみたい。なにかあったの?」
一向になにも答えない奏翔に、いつもと違う雰囲気を感じ取ったのか、ひなたが心配げに表情を曇らせる。
「もしかして風邪? でもかなちゃん、めったに風邪なんて引かないし……。あ、でも、一応熱があるかどうかだけでも……」
買い物袋を肘の方まで上げたあと、ひなたが空いた手で奏翔の額に手を伸ばしかける。
そんなひなたに、奏翔も天から垂らされた蜘蛛の糸に縋るように片手を浮かせる。
事情は話せないし、助けを求めることもできないけれど。
ひなたになら。
幼い頃からずっと一緒にいたひなたなら、他のなによりも信じられる──
──本当にそうか?
と、不意に心の奥底に潜む猜疑心の固まりが、鎌首をもたげるように疑問を投じた。
エリクシアの存在とそれを巡る組織の闘争を知ってから、これまでずっとひなたは無関係だと思っていたが、果たして本当にそうなのだろうか?
幼い頃より、それこそ互いの家を頻繁に行き来して遊んでいた点から言って明白ではあるが、ひなたが【破壊者】や【抹殺者】といった、奏翔の命を狙う側ではないのは確かだ。
同じで理由で【護衛者】という線も外れる。ひなたが本当に【護衛者】なら、奏翔が何度も命を狙われていた際に、なんらかのアクションがあってもいいはずだからだ。
では、残る一つの可能性──【観察者】という線は?
ずっと命を狙われていたのに、所属している『人類審査委員会』の方針でただ観察していただけだったとしたら?
真城に襲われていた時も、学校に宵町先生という同僚がいることを知っていたから、あえてなにも手出しをしなかったとしたら?
今日までずっと、そばで奏翔を観察するために、さも素知らぬ顔でただの幼なじみを演じていたとしたら……?
「うわああああああああああああああああああああっ!」
「きゃっ!?」
あともう少しでひなたの手が額に触れようとしたその瞬間、奏翔は突如悲鳴を上げながら、差し出された手を勢いよく振り払った。
「かな、ちゃん……?」
奏翔の豹変に、唖然とした顔で振り払われた手をさするひなた。演技とは思えないほど驚愕した表情を浮かべるひなたに、それでも奏翔は尻を地面に擦り付けたまま後ずさる。
ダメだ。もう怖くてひなたを直視することができない。単なる思い過ごしだ、証拠もなにもない空論だと必死に自分の考えを否定してみるも、一瞬でも沸き上がってしまった疑念を拭うことは全然叶わなかった。
ひなたが【観察者】かもしれないなんて。
そんな想像したくもないのに、今ではもう目の前にいる幼なじみが、得体の知れない生き物にしか見えなくなっていた。
「──っっ!」
もはや我慢の限界だった。完全に疑心暗鬼に囚われてしまった奏翔は、弁解を口にすることもなくひなたに背を向けて、前のめりになりながら死に物狂いで駆け出した。
「……か、かなちゃん? かなちゃんっ!?」
ひなたの大声が響く。今まで聞いたこともないような声色で。
だが一度も後ろを振り返ることなく、それどころか一層スピードを上げて、奏翔は足早にその場をあとにした。
「はあはあ……。げほげほっ。はあはあ……っ」
呼吸が猛烈に乱れる。息が続かない。空気が、酸素が欲しい。
よろめきながら、そばにあった標識に手を付いて足を休める。しきりに額から出る汗が首元まで伝って気持ち悪いが、今はそれを拭う手間すら欲しい。
そうして、しばらく休憩したあと。
「あれ……? ここって……」
周囲から絶え間なく響く騒音。気付けば本屋やゲームショップなどが並んでいる表通りへと来ていた。どうやら無我夢中で逃げていた最中に、うっかり裏路地から表の方へと出てしまったようだ。
「まずいな。とりあえず、ここから離れないと……」
しかしながら、まだ体力は回復しきっていない。今はもう、歩くことすら正直辛い。
なにより、一瞬だけ瞳に映った別れ際のひなたの姿があまりにも悲しげで、それが心に重くのしかかっているせいか、思うように体を動かすことができなかった。
「はあ…………」
嘆息をついて、自戒するようにこつんと標識の柱に額を当てて、そのままうなだれる。
精神的に追い詰められていたとはいえ、さすがにあの態度はなかった。確たる根拠もないのに、勝手に疑ったりして。それにむやみに挙動不審な行動を取ってしまったせいで、ひなたにいらぬ心配をかけてしまった可能性すらある。だとしたら、今ごろ奏翔の身を心底案じているかもしれない。
いや、仮にひなたが【観察者】だったとしても、向こうはあくまでも職務をこなしていただけだ。こちらに実害があったわけでもないし、今後【破壊者】に狙われた際、奏翔に味方してくれるはず。そんな相手と気まずくなるのは、これからのことを考えても得策とは言えなかった。
「って、こんな時でも保身ばかりかよ、僕は……」
ひなたに──幼なじみに深い心の傷を負わせたかもしれないというのに。
自分の身勝手さに呆れつつ、それでも迫る脅威から身を守るために、奏翔は少し体力が戻ってきたところで周囲に視線を巡らす。
人通りが多いせいもあってか、路地裏で遭遇して以来、黒いライダーが現れる気配はない。あのまま退散してくれていたら言うことはないのだが、あれだけ執念深い相手だとどこかでこっそり様子を窺っていたとしてもおかしくはない。もしかしたら、こうしている間にもどこかで──
と、依然として周りを警戒していた中で、ふと視界に見知った姿を見かけたような気がした。改めて注意深く目で探っていると、
「柊、さん……?」
あの人形じみた無表情に、なによりトレードマークとも言うべきあの白髪。
間違いない。あれは確実に御影柊だ。
しかし、どうして柊がここに? 柊がこの近所に住んでいるという話は聞いたことがないし、そもそもこの辺りで柊を見かけたこともない。
と、そこまで考えたところで、奏翔はあることを思い出した。
「そうだ。あの時のライダー、拳銃を持っていた手が左だった……」
そして柊の利き手も、同じ左。
それは普段の生活からもよく目にしているし、先日の消しゴム飛ばしの時だって左手を使っていた。そして、他の容疑者であるエリカと霧絵は、二人とも利き手が右。
ということは──?
「柊さんが【抹殺者】……!?」
心臓がバクバクと跳ねる。自分の想像に、ようやく思い至った犯人に、肌が粟立つ。
柊が犯人。つまり《現人十字教団》が送った刺客。暗殺者。
その暗殺者が、大通りを挟んだ視線の先にいる。まだ距離が離れているせいか、まだこちらに気付いた様子はなく、きょろきょろと辺りを探るように視線を巡らせながら、一人で歩道を歩いている。なぜバイクから下りてこの通りを歩いているのかは謎だが、このまま接近されたら向こうに発見されるのも時間の問題だった。
「に、逃げなきゃ。早く逃げなきゃ……っ」
恐怖で千鳥足になりながら、その場から離れんと、柊がいる道とは逆の方向へと進む。
が。
「きゃっ!」
「わっ!」
ちゃんと前を向いて歩いていなかったせいだろう、焦燥していたのも災いして、うっかり進行方向にいただれかと接触してしまった。
「ごご、ごめんなさいっ。い、急いでいたので……」
「ああいえ、こちらこそ上手く避けられなくてごめんなさ……って、音無君?」
ふと名字を呼ばれ、あたふたしながら改めて腰を落としたままでいる人物の顔を確認してみると、そこには──
「い、委員長……?」
そこにいたのは、よく見知ったクラスメート──雛月霧絵だった。
放課後、別れの挨拶も早々に教室から出ていくのを見たものだから、てっきりそのまま帰宅したのだろうと思っていたのだが、どういうわけか、服装が以前のままだった。通学鞄も持っていることから、おそらく学校帰りにここへと立ち寄ったのだろう。
「なんで委員長がここに? 先に帰ったんじゃなかったの?」
「まだ帰っていないわよ? 放課後に職員室まで行く用があったから、それを済ましてからこっちに来たのよ。最近この辺りに新しくできたっていう進学塾の評判がいいから、一度見学してみようかしらと思って。それより音無君こそ、どうしてここにいるのよ?」
「いや、僕はここが近所だから……」
説明しつつ、霧絵に手を差し出して助け起こす。
「ありがとう。でもまさか、こんな町中でクラスメートとぶつかるとは思わなかったわ」
「ほ、本当にごめん。ケガとかしてない?」
「ええ、大丈夫よ。ちょっと尻餅を付いただけだから。でも、なにをそんなに慌てていたの? なにか急用?」
「それは……」
話すわけにはいかない。仲の良かったクラスメートに──それも御影柊に現在進行形で命を狙われているなんて。話せば霧絵まで危険に巻き込んでしまう。
いや、相手が【抹殺者】なら一般人である霧絵に危険な真似を働くようなことはしないと思いたいが、それもどこまで信用できるかわからない。すべての【抹殺者】が本当に一般人には手を出さないなんて保証はないし、被害を出さないためにも、早くここから離れるべきだ。
「ごめん委員長。僕、ちょっと急いでて──」
と、柊の様子を見るために、少し後方を振り返ってみたところで、不意に柊と目線が合ってしまった。
「ひっ──」
思わず小さな悲鳴が漏れた。まずい。完全に向こうもこちらの存在に気付いた。
その証拠に、今まさに柊がこっちに向かおうと走り出そうとしていて──
「に、に、逃げなきゃ……!」
「えっ。ちょっと、待って音無君っ!」
踵を返して、慌てて駆け出そうとした奏翔の手を霧絵がとっさに掴んだ。
「いきなりどうしたのよ? しかもそんな怯えた顔で……」
「は、離してくれ! 早くしないと、殺されてしまう……!」
「はあ? 殺されるって、だれに?」
「柊さんにだよっ!!」
強引に霧絵の手を振り払って、奏翔は八つ当たりする形で怒声を飛ばした。
先の大声で、そばを通っていた通行人が一斉に怪訝な視線を向けてきた。今はまだだれにも声をかけられていないが、その内仲裁に入ろうとする者も出てくるかもしれない。
だが、もはや平静なんて保てなかった。他を気にしている余裕なんて、今や微塵たりともなかった。
ショックを与えまいと、必死に心の内に留めようとしていた残酷な真実を、すべて吐き出すように奏翔は怒鳴り散らす。
「今そこに柊さんがいるんだよ! だから委員長と話している場合じゃないんだっ!」
「ま、待ちなさい! なにが、一体全体どういうことよ!?」
さも困惑した表情で再度手を掴んできた霧絵に、奏翔は力任せに腕を振り回して険をあらわにする。
「離してくれって! こんなことしてる場合じゃないって何度言えば……!」
「ああもう! とりあえず、ちょっとこっちに来なさい!」
「──わっ!?」
無理やり奏翔の手を引っ張って、帰宅に勤しむ社会人や学生の波を掻き分けて突き進む霧絵。そんな霧絵に圧倒されつつ「ちょ、どこに行くのさ!?」と奏翔は質問を投げた。
「逃げるのよ! よくわからないけど、柊さんに命を狙われているんでしょ!?」
と、霧絵は奏翔の手を力強く掴んだまま、まっすぐ前だけを見据えて、再度声高にこう言い放った。
「詳しい事情は、走りながらでも聞かせてもらうわよっ!」
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