第6話 エリクシア



「はあはあはあはあっ!」

 いつからか降り出していた小雨が、震える体をしとどに濡らす。震えているのは恐怖からなのか、もしくは雨で濡れているせいか、それすら判断が付かないほど、奏翔は全力で走り続けていた。

 がむしゃらに事故現場から逃げ出したつもりだったのだが、帰巣本能みたいなものだろうか、いつの間にか自宅近くまで辿り着いていた。

 見慣れた一戸建て住宅……それを目にした途端、奏翔は飛び付くように玄関口へと急いだ。



 まごつく手で玄関の鍵を開けて、慌てて中へと入ってドアにもたれかかった奏翔は、そのままズルズルと滑るようにゆっくり腰を下した。

「はあ……はあ……げほげほっ」

 今までにないくらい全力疾走をしたせいか、思わず噎せてしまった。呼吸が苦しくて仕方がない。

「うわ……服がびしょびしょ……」

 今さらながら、全身濡れ放題な自分の姿に、奏翔は顔をしかめながら呟いた。

 せっかくひなたから折りたたみ傘を貸してもらったのに、気が動転していたせいで結局使わないまま帰宅してしまった。今の姿をひなたが見たら「もう! 傘を持たせた意味がないじゃん!」と怒られそうだ。

「……ほんと、なんなんだよ今日は……」

 突然前触れもなくマンションの屋上から降りかかってきたフェンス。

 そして、狙いすましたかのように帰宅途中の奏翔の方へと突っ込んできた軽トラック。

 きっとこれらは単なる事故なのではないのだろう。でなければ、警告文めいた手紙が届いたあとに、あんな命に関わるような事故が二度も発生するはずがない。

 間違いなく、奏翔は命を狙われている。名前も顔もわからない謎の人物によって。

「どう考えても警察に通報すべきだよな、これ……」

 警告文というちゃんとした証拠もあるのだ。くしゃくしゃに丸めてズボンのポケットに入れてしまったが、これを警察に提出すればなにかしらの手掛かりが出るかもしれない。もしも指紋でも残ってくれていたら、犯人を捕まえる重要な物的証拠となり得る。

「あ、でも警察に電話する前に風呂に入らなきゃな。このままだとさすがに気持ち悪いや……」

 と、そんなことを考えながら、いつもの習慣でダストシュートの中を確かめた、そんな時だった。

「これ……トランシーバーか……?」

 それも警察無線のような本格的な物でなく、おもちゃ売り場で陳列していそうなタイプのトランシーバー。昔、奏翔も祖父に買ってもらって、よくひなたと一緒にトランシーバーで遊んでいたが、その時の形と瓜二つと言わずとも、ガラケーやスマホにはない特徴的な太めのアンテナが既視感を与えていた。

 おそらく、横にあるスライド式のスイッチで電源が入るのだと思うが──

「なんでトランシーバーがここに……? 子供の悪戯か?」

 しかしながら、こんな悪戯をされる心当たりもなければ、小さい子の知り合いさえ頭に浮かんでこない。そもそも悪戯にしては少々大胆というか、わざわざ見知らぬ相手にトランシーバーなんて渡すものなのだろうか?

 それとも、そうまでして連絡を取る必要性が──電話という手段を省いてまで連絡しなければならない用があったとか?

「………………」

 はっきり言ってこんな怪しい物、手に取る理由も必然性もない。その上、二度も命を狙われたとなれば、なおさらに。

 それでもおそるおそるトランシーバーを手に取ったのは、少しでも犯人に繋がる情報が欲しかったからだ。

 必ずしもこれが犯人の手によるものだとは限らないが、単なるイタズラなら別段それでも構わないのだ。むしろ気持ち的には杞憂に終わってほしい。

 でも、これが本当に犯人からのものだったとしたら、警察に通報する際に役立つかもしれない。本音を言えば怖くて仕方がないのだが、このままだれとも知らぬ人間にずっと命を狙われるよりはマシだ。はやく平穏な日々に戻るためにも、ここは勇気を振り絞らなければ。

「それに、なんで僕が狙われているか、ちゃんと聞きたいしな……」

 恨みを買われる覚えは一切ないが、こっちにはなくても向こうにはあるかもしれない。それを知らないままでいるのは、どうにも収まりが悪い。

 ごくり、と生唾を嚥下して、今さらながら喉が渇いていたことに気付いた。あれだけ全力で走れば当然ではあるが、今になって自覚するとか、どれだけ緊張していたのだろう。

 前髪から伝った水滴がトランシーバーに滴り落ちる。さっきからずっとトランシーバーを握ったまま、無為に時間だけが過ぎている。スイッチに触れるべき指先が、先ほどから小刻みに震えるばかりで一切動いていない。

 当たり前だ。自分の命を狙っている犯人と、これから会話することになるのかもしれないのだから。

 だが、このままでは無為に時間が進むだけだ。現状の問題を解決するには、まず行動するしかない。

 ふ~、と大きく深呼吸。そうして、少しの間瞑目したあと、奏翔は意を決してスイッチを入れた。

 ジジ、というラジオを点けた時のようなノイズ音が走った。一緒に緊張も走る。というか、よくよく考えてみたら、向こうも電源が入っていないと繋がらないままになってしまうが、その時はどうしたらいいのだろう。繋がるまでこっちも電源を入れたままにしないといけないのだろうか?


『──音無奏翔さん、ですね?』


 と、思索に耽っていた最中、微妙に入り交じったノイズ音と共に、そんな声がトランシーバーから聞こえてきた。

「…………っ」

 思わず息を呑む。相手は機械を通して話しているのか、まるでモザイクがかった声で、男なのか女なのか、子供なのか老人なのかさえ判断が付かない。ただ丁寧な口調だったので、小学生以下ということはないだろう。とにもかくにもちゃんと返事をしなければ。でないと相手に怪しまれる。

「は、はい。そうです」

『そのトランシーバーを使用したということは、手紙で送った通りのことが起こった──そうですね?』

 ギョッと双眸を剥いた。やはり、あの手紙を送った者と同一人物だったか。

「や、やっぱり僕を狙っていたのは──」

『いえ、それは違います』

 少し誤解を与えてしまったようですね。

 と戦慄する奏翔に対し、声の主は、そうあっさり言って言葉を紡いだ。

『あれは危険を知らせるためだけに送ったもので、決して犯行予告や脅迫といった類いではありません。そもそも我々は、あなたの命を狙ったことなんて一度もありません』

「え? ど、どういうことですか? 全然話が見えてこないんですが……?」

『それも踏まえて、一からお話します』

「はあ……」

 思わず気の抜けた返事をしてしまう奏翔。すっかり会話の主導権を握られてしまっているが、しかしまあ、向こうから詳細を明かしてくれるのなら、こちらとしても願ってもない。それに先ほどまでの話を信じるなら、どうやら奏翔の命を狙っている相手というわけではないようだし、少しでも情報を得られるなら、ここで聞かない手はない。

『まず、なぜあなたが狙われているのかという話から始めますと、発端は奏翔さんの祖父……つまり響一郎博士が二十年前に手にしたある物が起因しています』

「じ、じいちゃんが……?」

 まさかここで祖父の名前が出てくるとは思わなかった。しかも二十年も前から端を発していたとは、驚きを隠せない。

『当時、響一郎博士は遺跡調査のため、親友と一緒にとある国を訪れていました。そこは未踏の地にある古代神殿で、原住民族以外はだれも立ち入った者がいないところでした』

 未踏の地って。祖父が考古学者でいくつもの国に訪れたという話自体は聞いていたが、そんな危なさそうなところにまで足を運んでいたとは。しかも原住民族なんて言葉、アマゾンやアフリカの一部の地域くらいでしか聞いたことがない。どれだけ文明から隔絶されたところに行っていたのだろう。

『その古代神殿の最奥で、響一郎博士はとある石を入手することになります』

「石……ですか?」

『はい。それはのちに「エリクシア」と呼ばれる、原住民族から賢者の石として祀られていた物でした』

「賢者の石……」

 創作の世界ではもはやメジャーな単語ではあるが、リアルにこの言葉を耳にする日が来ようとは。

 それにしても、賢者の石──もといエリクシアか。

 それだけ聞けば、なんだか眉唾というか、いまいち現実味が湧いてこないが、わざわざこうして話題に──それこそ神殿の奥に祀られていたと話すくらいなのだから、なにかしら不思議な力を秘めている石なのだろう。

「エリクシア……ですか。それがどれだけ価値のある物なのかはわかりませんが、よくそんな貴重そうな石を神殿から持って帰れましたね。原住民の人にめちゃくちゃ怒られそうな気がしてならないんですけど……」

『一応、合意の元でしたから。それに原住民自体、国家から保護対象として扱われていてもおかしくないほど数が減っていたようですし、生存政略の一つとして賢者の石を交渉材料にしたのでしょう。掟を破らないといけないほど追い詰められていたとも言いますが』

 割と深刻な理由だった。

 というか、一体祖父は何者なのだろう。未踏の地で絶滅間近に原住民と接触して、その上遺跡の奥に祀られていた神聖な石を交渉の果てに手に入れてくるとか、もはや考古学者としての領分を超えている気がしてならないのだが。

「……あの、じいちゃんはなんでそんな物を欲しがったんですか? 考古学のことはよくわかりませんが、学術的な価値がすごくあったとか?」

『もちろんそれもありましたが、本来の目的はそうではありません。響一郎博士が着目したのは、あくまでもエリクシアの力……ありとあらゆる病を癒すという効果でした』

「ありとあらゆる病って……」

 なんだか、ますます現実離れした話になってきた。

「それって、じいちゃんの知り合いに重病の人がいたってことですか? よく知らない外国に行ってまで」

『知り合いもなにも──』

 と、あたかもトランシーバーの向こうで肩でも竦めているかのように一拍置いたあと、謎の人物は至って平坦な声音でこう告げた。

『あなたのことですよ、音無奏翔さん』

「──……」

 とっさに言葉が出なかった。

『知らないのは無理もありません。響一郎博士が意図的に詳細を話さなかったのもありますし、現在は健康面になんら問題はない状態ですから』

「……あの、少し待ってください」

 動揺のあまり空転する思考を落ち着かせようと、奏翔は深呼吸を繰り返した。

「えっと、それって昔、僕が心臓の手術をしたのと関係があったりします?」

『大ありです。なぜならあなたの胸の中には、件のエリクシアが心臓のそばに埋め込まれているままなのですから』

「心臓のそばって……」

 思わず胸の手術痕を撫でながら、奏翔はごくりと喉を鳴らした。

 またしても驚愕の事実が出てきた。先ほどから信じられない話の連続で、頭がどうかしてしまいそうだ。

「な、なんでそんな物が僕の胸の中に……? じいちゃんから重い心臓病になったことがあるっていう話は聞いたことはあるけど……」

『まさにその心臓病を治すために、響一郎博士はエリクシアを求めたのです。以前からエリクシアの在り処を知っていて、過去に何度か調査にも行ったことがあったようで、そのおかげもあって奏翔さんの心臓病が発覚してからすぐ行動に移せたそうです。もしもエリクシアの存在を知らなかったら、今ごろあなたはそこにいなかったでしょうね』

 これといった感情も込めず淡々とそう言い切った謎の人物に、奏翔は冷や汗を流した。

 生まれたばかりの頃なので、記憶なんて微塵もないが、そこまで危険な状態に陥っていたとは。こうして知らされて、初めて死を間近に感じてしまった。

「で、でも、こうして普通に生活できているってことは、もう大丈夫なんですよね? だったらもうエリクシアなんて必要ないんじゃ……」

『それは違います。あなたの心臓病はまだ治ってはいません』

「えっ? だって今まで心臓が悪くなったことなんて一度も──」

『今はあくまで奏翔さんの心臓を正常な状態に保っているだけで、心臓病そのものを治しているわけではありません。たとえるなら、ギリギリまで膨れ上がっている水風船の中身を、水道の蛇口を締めて一時的に止めているに過ぎないんです』

「それって──」

 率直に言い換えると、奏翔さんの胸の中にあるというエリクシアを取り出せば、再び重度の心臓病になりかねないというわけか。

『確かにエリクシアは万能です。使い方によっては不死身の体を作ることだって夢ではありません。ですが死者はもちろん、すでに死にかけているものや、原因不明の不治の病を完治させるほど万能ではありません。万能ではあっても全能ではないんです』

 なるほど。ありとあらゆる病を癒すとは言っても、完全に病を治すほどの効能はないというわけか。賢者の石とはよく言ったものだ。これがもしも神の石とか呼ばれていたものなら、死者すら甦る奇跡もあったのかもしれないのだろうけど。

「……真偽はともかくとして、とりあえず僕の胸にとんでもない物が埋め込まれているというのだけはわかりました。つまり──」

 と、そこで一呼吸置いたあと、奏翔はトランシーバーを握る手を強め一息に訊ねた。

「先ほどまでの話から察するに、僕の命が狙われているのも、そのエリクシアを欲しているだれかの仕業……ということで合っていますか?」

『その通りです』

 謎の人物に肯定されて、奏翔は「ふうー」と大きく息を吐いた。

 にわかに信じがたい話だ。そんな超常的な物が自分の胸の中にあって、それを狙っている人物がいるだなんて。自分で訊いておいてなんだが、すべてドッキリだったと笑い話にしてほしかったところだ。いや、仮に冗談だとしても性質が悪過ぎるが。

「だったら、やっぱり警察に相談した方がいいですよね? エリクシアなんて物を信じてくれるかどうかはともかく、命を狙われているのは事実なんですから。まあどのみち、軽トラックに轢かれそうになった件もありますし、こっちから連絡しなくても、向こうから詳しい事情を訊きに来そうな気もしますけど」

『いえ、それはないでしょうね』

「え? どうして? だって警察ですよ? あれだけのことがあったら、普通に事件として捜査するはずじゃないんですか?」

『その警察すら、信用できない状態にあるからです』

「…………?」

 いまいち話が読めない。なぜ警察を頼ってはいけないのだろう。別に暴徒やマフィアを相手取るわけでもなかろうに。

『おそらく奏翔さんは、犯人を個人によるものだと思い込んでいるようですが、あなたが思っている以上に、大きな組織が秘密裏に動いているんですよ。国家権力すら黙らせるほどの組織が』


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