第5話 日常の終わり
「なんか、だんだん曇ってきたねえ……」
ひなたとの帰り道──ちょうど閑静な住宅街に入ったところだった。
取り留めのない会話をしていた最中、なにげない感じで空を仰ぎ見たひなたに「言っても、まだ薄雲だけどな」と奏翔も倣うように空を見上げながら応えた。
「この分だと、傘も必要なかったんじゃないか?」
「えー? まだわからないよ? 急に雨が降ってくるかもしれないし」
そうかねえ? と小首を傾げつつ、奏翔は鞄を持ち直した。
昼間に比べて雲の割合こそ増えたが、今のところ雨が降るような湿った空気は感じられない。太陽だってちらほらと雲の隙間から覗けているし、これからすぐに雨が降るようには思えなかった。
それよりも気になるのが、ひなたの挙動だ。先ほどからなにをそんなに警戒しているのか、やたらと周囲に視線を巡らせていた。
「……なあ、ひなた。さっきからどうかしたのか? 妙に周りを見てるけどさ」
「んー? なんだかいつもより人がいないなあって思って」
「雨が降りそうだからじゃないか? 今すぐ降るってわけじゃないだろうけど、こんな天気に大した用もなく出歩く奴なんていないだろうし」
奏翔との言葉を聞いてようやく安心したのか、ひなたは「それもそっかあ」といくらか気分を持ち直したように声のトーンを上げて首肯した。
「あ、ところでかなちゃん。明日の朝ご飯は混ぜご飯にしようかなあって思うんだけど、かなちゃんはどんなご飯がいい?」
「混ぜご飯かあ。僕はわかめご飯がいいなあ」
「かなちゃん、わかめご飯好きだよねえ。小学校の給食の時もよくおかわりしてたし」
「美味いからなあ、わかめご飯。わかめとご飯を混ぜただけなのに」
「本当は料理酒とかみりんも入れるんだけどね~」
などとわかめご飯トークに華を咲かせながら、とあるマンションの横を通り過ぎようとした、そんな時だった。
ピタッと、ひなたが前触りもなく動きを止めた。
「どうしたひなた? いきなり立ち止まったりして」
「……今、変な音しなかった? なにか金属が弾けるような……」
「そうか? 特になにも聞こえなかったけど?」
一応周囲に耳を澄ましてみるも、これといって不振な点は感じられない。普段通りの静穏とした住宅街だ。
「ただの気のせいだろ。もしくは鳥の鳴き声とかさ」
まったく人騒がせな奴だなあ──と一笑に付して先を歩こうとした、その直後の出来事だった。
ガシャン! というなにかが壊れたような音が、突如頭上から響いてきた。
「──かなちゃん! 危ない!」
何事かと真上を見上げる寸前に、ひなたによって背中を突き飛ばされる奏翔。そして突き飛ばした張本人であるひなたも、よほどがむしゃらだったのか、勢いのまま奏翔と共に道のど真ん中で倒れた。
その数秒後、足元に轟く落下音。それがマンションの屋上に設置したフェンスだということに気付いたのは、ひなたと一緒におそるおそる上体を起こしたあとのことだった。
「……かなちゃん、本当に大丈夫?」
マンションのフェンスが突然降りかかってきた事故から数十分後。
あれからマンションの管理人や近くをパトロールしていた警察官から詳しい話を聞かれて、その後特に目立ったケガもなかったということで解放された奏翔とひなたは、とある十字路の前で立ち止まっていた。
「よかったら、わたしも一緒に付いて行こうか?」
「大丈夫。別に僕一人でも帰れるって」
「でも、まだ顔色悪いよ?」
「……そりゃ、あんなことがあったすぐだし」
いくらか時間を置いたおかげか、いくぶん気分も落ち着いてきたものの、未だ手が小刻みに震えている。生まれたばかりの頃に一度心臓の病で死にかけたらしいが、今度は恐怖のあまり心臓発作で死ぬかと思った。それ以前に、フェンスで圧死するところだったが。
なにはともあれ、二度も同じようなことが起きるなんてことはないだろうし、家もここまで来たら近くなので、さすがにもう大丈夫だろう。
「ていうか、ひなたは自分のことを心配しろって。これから雨が降るなら、買い物から帰る時もなにかと危なくなるだろうし」
「それはそうかもしれないけど、わたしはかなちゃんの方が心配だよ。フェンスが落ちた時だって、わたしがいなかったらどうなってたか……」
「あんなの、二度も起きやしないって。警察の人達も、フェンスの金具が劣化していたことによる事故だって話していただろ?」
「でも、わたし達がいた道からフェンスのあるところって、マンションの庭を挟んだ距離にあったんだよ? 普通、あそこまで届いたりするかなあ?」
「風圧かなにかで、僕達のところまで届いたんじゃないか? よくは知らないけど」
まあ確かに多少不自然ではあったが、偶然という線だって十分に考えられるし、そもそも一介の高校生でしかない自分を狙う奴なんて──
『気を付けて。あなたは命を狙われている』
と、不意に学校の下駄箱で見つけた手紙の内容が、一瞬頭を過った。
「……かなちゃん? どうしたの? さっきより顔色が悪くなってるよ?」
「だ、大丈夫。全然大丈夫だから……」
思わず身震いしかけた自分を誤魔化すように、奏翔は笑みを作って空元気を装った。
あれは単なる悪戯のはずだ。たまたま事故と重なっただけで、今回の件とはなんら関連性はないはず。そうだ。そうに違いない。
などと自分に言い聞かせるように奏翔は心中で何度も呟いて、奏翔は伏せがちだった目線を上げてひなたと向き合った。
「それよか、ひなたは雨が降る前にスーパーに行った方がいいぞ。僕なら平気だから」
「でも……」
「ほらほら。行った行った」
不安げな顔で渋るひなたの背中を強引に両手で押す奏翔。ひなたもひなたで忙しい身だし、これ以上自分のことで手間をかけるわけにはいかない。それになにより、一人で帰るのが怖くて女の子に同伴してもらうとか、男として情けないにもほどがある。
そんな奏翔の心情を察してか、未だ逡巡するように眉根を寄せながらも、
「うん……。わかった。じゃあかなちゃん、気を付けて帰ってね……?」
と小さく手を振りながら、ひなたはスーパーのある方向へと歩いていった。
やがて、完全に見えなくなったひなたの後ろ姿を見送ったあと、奏翔は全身の力を抜くように大きく吐息をついた。
なんだかんだで、ひなたにはかなり心配をかけてしまった。しかも、いつも幼なじみに命を助けてもらう日が来ようとは。人生、なにがあるかわかったものではない。
「こりゃ明日は、お礼もかねて学校帰りになにか驕らなきゃな……」
そう独りごちて、奏翔はようやく帰路へ足を進めた。
それにしても、今日はひどく疲れた。学校にいたところまでは普段となにも変わらなかったはずなのに、まさか事故で死にかけるとは。
「はあ~。今日はなんもしたくないな……。晩ご飯は出前でいいや……」
いつもなら簡単な汁物くらいは作るところだが、今日はそんな気力すらない。とにもかくにも、ひたすら家に帰って休みたかった。
「あ、でも今日は限定クエストがある日だった。本当はさっさと休みたいけど、こればっかりは見逃せないなあ。かなりレアなアイテムも出るみたいだし」
と、若干いつもの調子を取り戻しながら、土手沿いの道を歩いていたところで──
車。
突然横の坂道から、猛然と軽トラックが迫ってきた。
しかも、無人で。
「──っ!?!?!?」
一瞬、なにが起きているのかわからなかった。頭の中が一面の雪原のように真っ白で、声すら上げられなかった。
そんな中でも、奏翔の中の生存本能が思考するより早く体を動かしていて──
気付いた時には、とっさに前方へと転がるように飛び退いていた。
直後、転落防止用の木の柵をぶち抜いて、真下の土手へと突っ込んでいく軽トラック。その轟音たるや、刑事ドラマのアクションシーンさながらだった。
心臓が突き出そうなほどバクバクする。呼吸が乱れる。耳鳴りが止まらない。まるで魂が抜け出たかのように頭がふわふわとしていて、自分がちゃんと生きているかどうかさえわからなくなっていた。
しかしながら、だんだんと正気を取り戻してきたのか、先ほどまでのひどい耳鳴りが少しずつ治まり、ようやく状況を認識できるようになってきた。
ゆっくりと仰向けに倒れていた体を起こして、正面の惨状を茫然自失とした面持ちで見やる。
荒々しく破壊された木の柵。正面から突進していった軽トラックは、そのまま土手に突き刺さるような形で逆立ちしており、未だ後輪がくるくると回っていた。
「おい! なんだ今の音は!?」
「ガードレールがめちゃくちゃになってるぞっ!」
「見て! 軽トラが土手に落ちているわ!」
「大丈夫! 人はいないみたいだ! けど、なんで無人の軽トラックが……?」
「サイドブレーキのかけ忘れじゃないか? だれだよ、あれの運転手は」
と、騒ぎを聞きつけてきたのか、先ほどまで人っ子一人いなかったのに、どこからともなく人がわらわらと集まってきた。そのほとんどが近所の人だと思うが、会社帰りや近くで交通整理をしていたと思われる服装の者までいる。中には嬉々としてスマホのカメラ機能で写真を撮る者もいて、すっかり場が騒然と化していた。
そんな中、奏翔だけ地べたにへたり込んだまま、ずっと放さずに持っていた通行鞄を抱きしめながら震えていた。
今のは本当に危なかった。あと僅かでもタイミングが遅れていたら、軽トラックもろとも土手に落ちていたところだった。
いや、落下どころの話ではない。もしもあれに巻き込まれていたら確実に死んでいた。
それこそ、少し前のフェンスの事故とは比べものにならないほどのレベルで。
『気を付けて。あなたは命を狙われている』
ドクンっ──
と、心臓が破裂しそうなほど跳ねた。
「……君、大丈夫か? さっきからずっとそうしているけど、もしかしてあの軽トラに轢かれそうになったとか? 目立った外傷はなさそうだけど、一応病院に──」
不意に大学生風の男に話しかけられた。が、奏翔はそれに応えず、思考に没頭した。
事故。これは本当に事故か……?
あえて深く考えないようにしていたが、こんな偶然が二度も続くものなのだろうか。しかも今回のはだれかしらの殺意を覗かせるものがあった。
もしも、あの時の手紙が正真正銘の警告だったとしたら。
本当に何者かが奏翔の命を密かに狙っているのだとしたら──?
「うっ──うわああああああああああああああああああああっ!」
「ちょ! 君、病院は!?」
もうなにもかも限界だった。
脇目も振らず、スマホで救急車を呼ぼうとしていた男の制止さえ振り切って、奏翔は悲鳴を上げながらその場から逃げ出した。
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