第9話 愛ゆえに/哀ゆえに【結】
【9】
最初その言葉を聞いた時、私は自分の耳を一瞬疑った。
碓氷くんが両親や妹さんを殺そうとしていた? どうして? なんで碓氷くんが家族を殺す必要があるの?
だいいち、両親が殺害された時、碓氷くんはあまりのショックで精神病院に二年近く療養していたはずだ。これは学校の先生から聞いた話だから、どれほどの症状だったかまではわからないけれど、きっと私なんかには想像できないほど辛い経験をしたに違いない。
そんな碓氷くんが家族を殺そうとするなんて、信じられるわけがない!
「黒峰さん、自分がなにを言っているかわかっているの? ただでさえ家族の件でずっと苦しんできた碓氷くんに対して、傷口を広げるようなことを言ったんだよ? 冗談だとしてもこれは酷過ぎるよ! 少しは碓氷くんの気持ちを考えてあげなよ!」
木にもたれかかったままの黒峰さんに、私は怒声を飛ばす。家族の以外の人間に声を荒げるなんて、初めての経験だった。
けど黒峰さんは、毛ほども心に響いていない表情で、
「冗談なんかじゃないわ。あくまでも推論を口にしただけよ」
と、抑揚のない声でそう答えた。
「でも、珍しいね。あの面倒くさがり屋な黒峰さんが、こんな風に話を長引かせるなんて。てっきり僕はさっさと救急車を呼ぶなりなんなり要求するものとばかり思ったよ」
それまで口を挟まず、黙って私と黒峰さんとの会話を聞いていた碓氷くんが、苦笑を混じえながらそんな風に発言した。
「できればそうしたいし、面倒とも思っているわよ。ただこのままなにもせずに帰るのも癪だし、せめてケガをさせられた分の意趣返しだけはしておこうかと思って」
「それで僕まで巻き込むのは勘弁してもらいたいところなんだけど、ここまで話を聞いたら僕も引くに引けないし、この際だから続きを聞かせてもらいたいな」
近くの木に背中を預けて、碓氷くんは耳を傾ける体勢に入った。人殺し呼ばわり(未遂という話だけど)されているのに、黒峰さんに対してなにも思わないのだろうか。碓氷くんがなにを考えているのかよくわからなくて、正直困惑しかない。
というか、意趣返しってどういう意味なのだろう。ニュアンスからして不穏なものしか感じられないけれど、黒峰さんも碓氷くんもこの場から動く気はないみたいだし、私もおとなしく聞くしかないみたいだ。
「で、どうして僕が人を殺そうとしたって思ったの? なにかそう思うだけの根拠があったんだよね?」
「ええ。碓氷くんの昔の話を聞いて、少し引っかかるものがあったのよ」
「引っかかるもの……?」
黒峰さんの言葉に、私は怪訝に眉をひそめた。
碓氷くんの過去の話は私も知っているし、むしろ黒峰さんにも教えた側でもあるのだけど、今まで疑問に感じたことなんて一度もなかった。悲惨な内容に、終始胸が詰まるような思いをしただけで。
でも黒峰さんだけは、どうにも私とは違う考えを持っていたみたいようだ。それが一体なんなのかは、まるで想像できないけれど。
「その反応から見るに、あなたはなにも違和感を抱いていなかったようね。まあ碓氷くんにかなり入れ込んでいたようだし、無理はないかもしれないけど」
黒峰さんに言われ、私は下唇を噛んだ。なんだか碓氷くんに対する理解力が足りていないと言われているみたいで、腹が立ったのだ。
「だったら、黒峰さんは碓氷くんのなにを知っているというの? 引っかかるものがあるとかなんとか言っているけれど、単なる気のせいとかじゃないの?」
売り言葉に買い言葉でそう応戦すると、黒峰さんは「それは本人の回答次第ね」と碓氷くんに目線をやった。
「ねえ碓氷くん。事件当時あなたは外出していて、それで自宅に帰った時に両親の他殺体を発見したのよね? 凶器を持ったあなたの妹も一緒に」
「うん。今でも夢で見るよ。あの時の光景をね」
言って、碓氷くんは片手を強く握りしめた。その顔は苦笑こそ浮かべているものの強張っていて、未だ事件の傷痕が癒えていないのが見てとれた。余裕があるように振る舞っていたけれど、やっぱりまだ事件の話はトラウマになっているに違いない。
「碓氷くん、大丈夫? 嫌なら無理に聞かない方が……」
「大丈夫だよ、早坂さん」
そう気丈に微笑んで、碓氷くんは先を促すように黒峰さんへと視線を送った。その視線に、黒峰さんは小さく頷いて言の葉を紡いだ。
「確か碓氷くんはその時、薬局で風邪薬を買いに行っていたのよね?」
「そうだよ。解熱剤をね」
「じゃあ、家族の内のだれかが風邪にでも罹っていたのかしら?」
黒峰さんの言葉に、碓氷くんはぴくっと片眉を動かした。
「まずあなたは除外していいわよね。話を聞く限り、碓氷くんは普通に動けていたようだし。同じ理由で妹の方も除外できるわね。となると残ったのは、あなたの両親だけになるけれど、事件のあった日、両親の死体はリビングにあったのよね? 度合いにもよるのでしょうけど、普通解熱剤が必要なほどの風邪を引いたのなら、おとなしく布団の上で伏せているはずでしょうし、こっちも考えにくいわよね。だったら碓氷くんは、どうして風邪薬なんて買いに行ったのかしら?」
言われてもみると、奇妙な話だった。どうして碓氷くんはその日に限って急に風邪薬を買おうと思ったのだろう。だれも風邪を引いた様子がないにも関わらずに。
「風邪薬の常備がなくなったから、たまたまその日に買いに行っていただけだよ。べつに普通のことでしょ?」
肩を竦めて、碓氷くんは言う。確かにそれならおかしくはないと思うけど……。
「でも、碓氷くん一人で買いに行ったのでしょう? 食料品や日用雑貨を両親に頼まれたのならまだしも、風邪薬を……それも解熱剤なんて、子供一人で買いに行かせるものなのかしら? 高校生くらいならまだしも、その時は中学生に上がったばかりの頃だったのでしょう?」
「親が忙しくて手が離せなかっただけだよ」
「わざわざ忙しい日に風邪薬を買いに行かせたのかしら? 今日中に必要とする物でもなかったはずなのに?」
その言葉に、碓氷くんは黙り込んだ。なにも言い返さないなんて、碓氷くん自身も否定できないものがあるということなの?
「けど、風邪薬が一体なんだって言うの? べつに毒を買いに行ったわけじゃないのに」
「あら、薬だって使い方によっては毒にもなるわよ?」
私の反論に、黒峰さんはしれっとした顔で言葉を返した。
「熱が出ている時ならともかく、平常時に解熱剤なんて服用したらどうなるか、あなただって想像できないわけじゃないでしょう? まあ致死量となるとかなり大量に必要となるから、その前に薬剤師に詰問される可能性が高いでしょうけど」
「だったらなおさら、解熱剤だけで人を殺すなんて無理なんじゃないの?」
「解熱剤だけなら、ね」
「…………?」
言っている意味がわからず、私は眉をひそめる。まるでそれだけじゃないみたいな言い方だけれど、他にもなにかあるということ?
「大抵の解熱剤には睡眠作用のある成分が含まれていて、注意書きにも乗り物や機械の運転を控えるように記載されているのがほとんどだけれど、仮に健康な人間がそんな薬を飲んで……しかも解熱効果で具合が悪くなるかもしれない状態で外出なんてしてしまったら、一体どうなるかしらね?」
確か碓氷くんの両親は、共働きだったのよね?
そう試すような視線を送る黒峰さんに、私は小考して思い付いた案を口にする。
「どうなるって……道端で急に倒れちゃったりとか──……っ!」
そこまで言って、私はとある恐ろしい考えに行き着いた。
もしも意識が朦朧としている時に外出なんてしたら、さっきも言った通り、道端で急に倒れてしまうといったケースが挙げられる。それで打ちどころが悪ければ、死んでしまうことだってあるだろう。そうでなくても頭がふらついた状態で外になんて出かけたら、どんな目に遭うかわかったものじゃない。極めて危険な行為だ。ましてそれが車やバイクの運転時に起きたら、高確率で悲惨な結果を招く事にもなりかねない。
もしかして碓氷くんは、それを狙っていたとでも言うの?
「で、でも、そんなの結局は運頼みでしかないじゃない。死なない可能性の方がずっと高いぐらいだよ」
「そうね。一度だけなら、普通に自宅に帰って休む可能性の方が高いでしょうね。けれど、これを何回何十回と繰り返したら? さすがに死ぬ確率も上がるんじゃない?」
「な、何十回って……」
確かにそれならいつかは死んでくれるかもしれないけれど、それにしたっていつか死ぬまで繰り返すなんて、正常と言えるような行為じゃない。明らかに狂っている。
なにより、こんな身の毛もよだつような発想をあっさり披露する黒峰さんが、血の気が引くほど恐ろしくてたまらなかった。
この子の頭の中は、本当にどうなっているの? たったあれだけの情報でここまでの想像を膨らませるなんて尋常じゃない。異常とかそういったのを通り越して、もはや悪魔のようにしか見えない。
人の皮を被った悪魔。
それがきっと、黒峰さんの本質なんだと、今の発言で嫌というほど理解させられた。
こんな化け物、どうしたって普通の人間には理解できるはずもない。
「どうかしら。証拠もなにもない推論でしかないけれど」
そう言って、黒峰さんは碓氷くんの方を見やった。
そうだ。衝撃的な内容につい動揺してしまったけれど、なにも真実を語っているわけじゃない──全部黒峰さんの勝手な想像でしかないんだ。碓氷くんの本心が詳らかになったわけじゃない。
だから碓氷くん、否定して。そんなのはただの妄想だってばっさり切り捨てて。
でないと、私が今までやってきたことが、すべて無意味に──
「……黒峰さんは、本当に他人の殺意にだけは敏感だよね」
と。
碓氷くんはなにかを諦観するように重い溜め息をついて、それまで浮かべていた笑みをふっと消した。
それは黒峰さんと二人きりの時にしか浮かべない表情で、私はドクンと胸の鼓動が嫌な感じに高鳴った。
それはあたかも、すべての終わりを告げるかのようで──
「否定しないのね」
「うん。否定はしないよ。肯定もしないけどね」
「というと?」
「本気で殺そうと思っていたわけじゃないけど、べつに死んだっていいくらいには考えていたよ」
碓氷くんはこともなげにそう言う。それこそ、あっさりとした口調で。
「う、碓氷くん? なにを言っているの……?」
「ごめんね平坂さん。僕は君が思っているより、清廉潔白な人間というわけじゃないんだよ」
私をまっすぐ見つめながら、碓氷くんは無表情に声を発する。さながら黒峰さんのように。
「ど、どういうこと? だって碓氷くん、両親が死んでいるのを見て、それがショックで入院したんでしょ? それなのにどうして死んだっていいなんて言葉が出るの?」
「……みんなには話していないし、できれば卒業するまで話さずにいようと思っていたんだけど、こうなったら明かさないわけにはいかないよね」
と、碓氷くんは眉根を寄せて、独白するように呟いた。
「実は僕……正確には僕と妹だけど、親から虐待を受けていたんだ」
「えっ──?」
予想もしていなかった言葉に、思わず私は絶句した。
「虐待と言っても、育児放棄の方だけどね。物心ついた時から、親は僕たちに全然関心を示さなくて、世間体を気にしてとりあえず死なないように育てているだけって感じだったんだ」
ほんと、ろくでもない親だよね。
そう話す碓氷くんは、辛そうでも悲しそうでもなく至って平然としていて、まるでニュースでも読み上げているかのように淡々としていた。虐待だなんて、悲惨な過去を口にしているにも関わらずに。
碓氷くんにとって虐待を受けたという事実は、それほど重要視するものじゃないってことなの……?
「幸い、衣食住に困りはしなかったけど、周りにいる子たちの両親の話を聞かされた時とか、結構苦痛だったよ。どうして自分だけ違うんだろうって。なんであんな家に生まれてしまったんだろうって」
「………………」
私はかける言葉が見つからず、口を閉ざすしかなかった。勝手に碓氷くんにシンパシーを感じていた私ではあるけれど、所詮はさほどの苦労もせず生きていた自分に言えるセリフなんて、なにもあるはずなかった。
「だからその頃には、親なんてどうでもいい存在になっていたよ。いやむしろ、こっちの顔を見るだけで露骨に顔をしかめていたし、いない方がせいせいとしていたくらいかも」
「それが、両親を殺そうとした理由?」
「殺そうとしたというか、嫌がらせのつもりだったんだ。寝込んでしまえばいいとか、出先で怪我をしてしまえばいいとか。薬局で売ってる解熱剤ってどれもカプセル状の物ばかりだから、わざわざ砕いて粉状にするのも結構手間だったけどね。あいつら割とずぼらだったから、解熱剤を密かに食事に混ぜるのはそれほど苦労しなかったけれど」
まあどちらにせよ、死んでもいいと思っていたのは事実だね。
そう言って、碓氷くんはフッと冷笑を浮かべた。その瞳は底が知れないほど昏く淀んでいて、私はゾッと背筋が寒くなった。
こんな碓氷くんを見るのは初めてだった。なにか心に闇を抱えていそうだとは前々から思っていたけれど、どうして私はこの人と同族意識を持っていたのか、不思議でならなくなった。
黒峰さんほどじゃないにしても、私なんかとは比べものにならないほど深い闇を幼少期から抱いていたというのに……。
「まあ結果的には妹があいつらを直接殺してしまったんだけど。僕はあいつらが死んだことよりも、妹が殺人を犯したという光景にショックだったよ。妹だけは──いや、お互いにお互いのことを一番の理解者だと思っていたから」
「一番の理解者……?」
「言ったでしょ? 僕も妹も虐待を受けていたって。同じ境遇にいた者同士、気が合ったんだ。妹は他の子よりだいぶ変わっていたけど、でも気にはならなかった。僕も妹も、本当にだれよりも仲がよかったんだ。お互いの考えをなんとなくだけどわかってしまうくらいに。でもそれは、僕の思い込みでしかなかった……」
妹があいつらを殺してしまうなんて、全然考えもしなかったから。
碓氷くんはそう言って、初めて悲しそうに視線を遠退かせた。その表情だけで、いかに碓氷くんが妹さんのことを大事に思っているか、容易に把握できた。
「なるほど。それで私に近づいたのね」
それまで黙して耳を傾けていた黒峰さんが、得心したように呟いた。
「答えを見つけたいとか前に話していたことがあったけど、要はあなたの妹が実の両親を殺害した動機を知りたかったのね。私という普通から逸脱した人間のそばにいることで」
「ああ、一応奇人という自覚はあったんだ?」
「あれだけ周りに奇異な目で見られればね。幼少の頃からずっとそうだったし、もう気にもしていないけれど」
それで、と黒峰さんは碓氷くんとの会話を止め、狼狽える私に目線を移した。
「こうして碓氷くんの口から真実を明かされたわけだけど、あなたの感想は?」
「…………っ」
その問いに、私は震える自分の肩を抱き寄せることしかできなかった。
私はずっと碓氷くんには普通の道を歩んでほしいと思っていた。黒峰さんなんかと一緒にいたら、いつかきっと人道から外れて、取り返しのつかないことになると思っていた。
けどそうじゃなかった。とっくの昔に碓氷くんは──
「狂ってる……。二人とも狂ってるよ……」
「私に関しては特に反論はしないけれど、碓氷くんの方は至って普通でしょう?」
私のか細く呟かれた言葉に、黒峰さんは常識を語るような口調でそう言い切った。
「幼少の頃から実の両親に疎まれていて、あからさまに嫌悪感を剥き出しにする人間に対してなにも害意を抱かないなんて、それこそ普通とは思えないわ。好きな人と会うためだけに殺人を犯したり、家族を作るためだけに生首を刈ったり、そういった人間に比べたらずっと正常な方よ」
なんの比喩かはわからないけれど、確かにそういった人たちに比べたらまともな方だとは思う。でも人を殺そうとしていた時点で普通とは言い難かった。
「……だれにだって人を傷づけたいと思う時はあると思うよ。私だってあるし、それは否定しない。けどそういった感情を抑えてこその人間でしょ? まして人を殺したいと思ってもそんな簡単に実行できる人なんて、やっぱり普通じゃないよ……」
「まあ、あなたから見たらそうなのかもしれないわね。さっきも言ったけれど《普通》なんて人によって解釈が違うから。価値観についてどうこう押し付けるつもりはないけれど、でもあなたが思う《普通》なんて、結局その程度のものだったってことよ」
なにも言葉が出なかった。黒峰さんの言う通りだと思ったから。
ずっと碓氷くんを助けたいと思っていた。初めて自分に近い人と出会って、いつしか恋心を抱くようにもなった人を救いたいと思っていた。間違えた道に進もうとしている碓氷くんを元のまっとうな道へと手を引きたいと思っていた。私たちのいる日向の方へと。
けど碓氷くんは、元から私たちとスタートラインが違っていたんだ。今までずっと私に似た人と思っていたけれど、それは勘違いも甚だしくて、私とは全然違う人間だったんだ。
そう否応なく理解させられて、私は呆然とするしかなかった。今まで私がやってきたことが全部無意味なものだったと思い知らされて、もう立ち上がる気力もなかった。
黒峰さんに怪我を負わせて、それを隠そうとまでしたのに。
ああでも、これも他の人から見たら十分異常な行為でしかないのかな。普通なんて見方は人によって違うと言っていたけれど、確かにその通りなのかもしれない。これまで自分のことを平凡でつまらない人間だと思っていたけれど、これまでの行為を省みて、自分が普通の女の子なんて口が裂けても言えなかった。
なんだ。私自身も、とっくの前から普通の道から外れていたんじゃない……。
「──は、はは……」
気付いたら、乾いた笑いが零れていた。
私はバカだ。大バカだ。あれだけ疎んでいた普通の人生が今になってこんなにも愛おしく思えてくるなんて。気付くのが遅過ぎだ。
私はもう、元の日常には帰れない。警察に通報されて、世間から冷たい眼差しを向けられることだろう。
碓氷くんを正そうとして、その自分が間違えた道を歩んでしまうなんて。
なんて……なんて滑稽なのだろう。
「ははは……はは……う、うううぅ……」
笑い声はいつしか嗚咽へと変わっていた。
今の私は、二人にはどう見えているのだろう。哀れな奴だと同情しているだろうか。それともバカな奴だと蔑んでいるだろうか。
二人がどんな顔をしていたかは、視界が涙で滲んでいたせいで結局わからなかった。
【10】
後日談。
あれから──負傷して身動きが取れずにいた黒峰は、僕が手配した救急車によって病院へ搬送されることとなった。あとで宝満から聞いた話によると、頭部を強打していたので脳へのダメージが不安視されたが、その後の検査で異常なしと診断され、一応の安心を取って二、三日の入院と相成ったそうだ。定期的に水や食料を与えられていたおかげもあって衰弱した様子も見られず、それで長期入院を避けられたのだとか。
ちなみに、右足の捻挫は適切な処置を施されていなかったせいで痛々しく赤紫に腫れ上がっていたが、二週間程度もしたら後遺症もなく治るそうだ。
そうして今日──黒峰が退院した数日後。
「遅くなったけど、退院おめでとう」
すべての授業がつつがなく終わり、茜色の陽光が二年四組の教室に差し込む中、僕は正面の席に座る黒峰に、そう祝いの言葉を述べた。教室であんまり親しげにするのも周りに邪推されそうなので、この時間になってから話しかけたのだ。
その黒峰はと言うと、いつものようにマネキンじみた顔で、
「………………………」
と、無言で僕を見つめ返した。
それとなく黒峰の足元の方に目線をやると、右足に包帯が巻かれていた。そばには松葉杖が置かれていて、いかにも重症人といった様相を呈していた。だが憐憫の眼差しを向ける人はだれもいなくて、むしろ黒峰が無事だとわかって落胆している不謹慎な奴までいた。相変わらずな連中である。
「で、ケガの具合はどう?」
「……ご覧の通りよ。捻挫の方はもうしばらく治るのに時間がかかりそうだけど、額の傷の方は絆創膏だけで済んでいるわ」
溜め息混じりに言って、黒峰は前髪を掻き上げた。確かに額の方、左眉の上部に少し大きめの絆創膏が貼られていた。あれで済んでいるということは、傷口自体大したものではなかったのだろう。
「松葉杖でここまで来たんでしょ? なんだったらまともに歩けるようになるまで休んでいればよかったのに」
「疲れずに済むという意味では魅力的な話ではあるけれど、長々と休んで遅れた分の授業を取り戻すことの方が面倒だから登校したのよ。それに学校まで祖父の車で送ってもらったからそれほど苦労はしていないわ。その代わり、祖父の仕事が終わるまでこうして教室で待たなければならないけど」
「ああ、それでずっと教室に残っていたんだ。笑顔の練習をしようって呼び止めたわけでもないのにいつまで経っても一向に帰らないから、なんとなく気になって僕も残っていたけれど」
というか、黒峰みたいな学年首位なら──しかも授業を聞いているだけで内容を記憶するというチートな頭脳なら、多少長く休んでも問題ない気がするのだが、どうなのだろう。二か月前に黒峰の親戚が殺された時に、告別式にも出ずに登校した際も同じようなセリフを口にしていたが、案外陰で努力していたりするのだろうか。塾にも通っていないようだし、夜遅くまで勉強している分、その反動で気だるげな性格になってしまったとか。果たして真相はいかに。
「ええ。あの事件があって以来、どうにも祖父母が過保護気味になっているみたいなのよ。今回の件で携帯電話を持たされるようになるし、束縛されているようで正直面倒だわ。母の方は慣れているのもあって冷静にしているけれど」
そう嘆息混じりに呟く黒峰。孫が行方不明になって、その上犯人にケガを負わされて帰ってきたのだから心配するのも当然だと思うのだが、どうやら黒峰は迷惑としか感じていないようだ。むしろ冷静でいられる母親の方が奇妙なくらいである。慣れているという話ではあるが、こういったことが幼少の頃から割とよくあったのだろうか。黒峰なら普通にありえそうで怖い。
「碓氷くんの方こそ、あれからどうしたの? 警察に事情を訊かれたりして、色々と大変だったのでしょう?」
「ああ、まあね」
黒峰が救急車に運ばれて、犯人である平坂も警察所へと連行されたあと、僕はその場に残らされて、警察官からあれこれ質問攻めを食らっていた。
なぜこんなところにいたのか、被害者と加害者とはどんな関係だったのか等々、中には答えづらいものもあったが、そこは持ち前の演技力でどうにか誤魔化しておいた。なので、周りには偶然フェンスの穴を見つけ、興味本意で森の中に行ってみたら、そこで行方不明になっていた黒峰を発見したということで話を通している。だから、僕が黒峰を探していたとはだれも気付いていない。むしろ事件解決に一躍買った人間として持て囃されるくらいまである。
しかし、それはあくまでも事件のことをなにも知らない者だけで、平坂を知っている人間──特にクラスメートたちの反応は、未だ真実を受けられていないかのように消沈としていた。
むべなるかな──平坂は見た目可愛い方だし、クラスでも明るい活発な少女として人気があったので、その分事件とのギャップが大き過ぎて動揺しているのだろう。中でも向島のショックは相当なもので、こちらから話しかけても「ああ……」とか「うん……」とか生返事しか返ってこなかった。他のみんなも含め、当分こんな陰鬱とした空気がクラス内に流れることだろう。
それから、平坂のその後に関してだが、警察の事情聴取に対して少しずつ動機を語っているらしい。ただ黒峰の特異性や僕の過去のことまでは話していないようで、警察側は痴情のもつれによる犯行と捉えているようだ。どうしてすべてを話さないのかはわからないが、平坂なりにせめてもの罪滅ぼしをしようとしているのかもしれない。
「結局のところ、平坂は悪人というわけじゃなかったんだよね。ただ少し、方向性を間違えてしまっただけで」
「べつに彼女にだけ言える話でもないでしょう。こんなはずじゃなかった。人を傷付けるつもりはなかったなんて話、どこにでもありふれていることだし。いつだれが犯罪者になっても不思議じゃないわ。だれにだって理性が働かなくなるほどの狂気を持ち合わせているものだし」
それはそうだと思う。現に平坂も僕への想いを拗らせたがために、あんな事態を起こしてしまった。黒峰にケガをさせてしまった時点で周りのだれかに知らせておけば、単なる事故として終わっていたはずなのに。
人はちょっとしたきっかけだけで豹変してしまう。普段は気さくで活発な少女も、どす黒い感情を滾らせて、法に触れた行動を取ってしまう。あるいはそれがその人の本質なのかもしれないが、化けの皮が些細なことで剥げてしまうほど、人間というのは存外脆いものなのだ。
今回の事件が、まさにそうだったように。
「平坂、大丈夫かな。警察に連れて行かれた時も、ひどく憔悴しきっていたけど」
「あら、心配しているの? あの子のことを」
「まあね。黒峰にしてみれば同情の余地なんてないんだろうけど、クラスの中ではそれなりに仲良くしていた方だし」
友達とまでは思っていなかったが、平坂とはクラス内でもっとも接する機会が多かった人と言っても過言ではない。犯した罪自体までは決して許容できるものではないけれど、やっぱり悪い奴というわけではなかったし、今でも嫌いにはなれそうにない自分がいる。
ただ、万が一にでもこの学校に復学することがあっても、以前のような関係には絶対に戻れやしないだろう。あの一件で僕までやばい奴だと認識されたみたいだし、向こうから近寄りもしないはずだ。黒峰と同じように見られるとか、遺憾でしかないが。
「ふうん。まるで義務感でそう言っているかのようね」
「義務感……?」
「仲良くしていた人だから、たとえ罪を犯した相手でも心配すべきだって、私にはそう自分に言い聞かせているように思えるわ」
「いや、べつにそんなことは……」
「そうかしら? でなければ、彼女が泣き崩れた時も、あんな無表情で見下ろしたりはしないと思うのだけれど」
その思わぬ指摘に、僕は押し黙ってしまった。
自分ではちゃんと憐憫の目を向けていたつもりだったが、どうやら知らず内に黒峰と同じような表情を浮かべてしまっていたらしい。平坂に僕の過去を暴かれて、少し動揺していたのだろうか。迂闊だ。
ていうか、前々から思ってはいるけれど、黒峰って他人に全然興味なさそうな割には、なんだかんだ周りをよく観察している節が多いような気がする。
でもそれは、おそらく純粋な興味からではなくて、あくまでも自己防衛のようなものだったのだろう。幼少の頃から妙な事件に巻き込まれやすかったみたいだし、必要に迫られて、普通の人間とそうでない人間を見極めるためのスキルを身に付けたのだと思う。
たとえば、二ヶ月前に起きた通り魔殺人がそうであったように。
たとえば、先月起きた首なし死体事件もそうであったように。
そのどれに対しても、黒峰は見事な推理を披露してきた。あれはサイコパスのことを深く知っていないと無理な芸当だ。まともな人間に、彼らの動機なんて言い当てられるはずもない。
そしてそれは、僕とて例外ではない。
「正直言って、あの子のことなんてそれほど気にしていないでしょう? 唯一心配していることがあるとすれば、彼女が碓氷くんの話をしていないかどうかじゃない? もしもあの子が碓氷くんのために犯罪を起こしたなんて明かしたら、マスコミが余計な好奇心を出して、あれこれ詮索してくる可能性があるもの。それで家族に殺人犯がいたなんて知られでもしたら、なにかと不都合でしょうし」
ゴシップ記事が好きな記者なら、雑誌に『殺人犯の兄が招いた傷害隠蔽事件。血塗られた家系の謎を追う』とか見出しで載せそうよね。
そう言って、黒峰はその黒硝子のような瞳で僕を見つめた。
その間にも、僕は黙したまま黒峰の話に耳を傾ける。
「そもそも碓氷くんって、他人にそれほど興味ないわよね。私も人のことを言えないけれど、碓氷くんの場合、利己的な理由だけで人間関係を構築しているようにしか見えないわ。私と関わろうとしたのも、妹の動機を知るためだったわけだし」
「…………」
僕はなにも答えない。反論できないほどその通りだったから。
「つまるところ、碓氷くんって空っぽなのよね。妹が起こした事件が原因で、だんだんと感情が薄れてきているって前に言っていたけれど、もうずっと以前から感情なんて麻痺していたんじゃない? だから少しでも人らしくあるために、無理にでも普通の人間らしく振る舞っているように見えて仕方がないわ」
「…………」
その通りだ。本当にもう、どうしようもないくらいにその通りだった。
黒峰には人形みたいだとか心がないだとかさんざん言ってきたが、それは僕とて同じだった。五十歩百歩どころか、八十歩百歩くらいの違いでしかない。
怖かったのだ。少しでも普通の人間らしく振る舞っていないと、すべての感情が死んでしまいそうで。
だから、麻痺しつつある自分の感情を誤魔化して、今日まで生きていた。
本当はもう、他人の死に対してなにも思わなくなってきたほど、壊れてきてしまっているというのに。
なんてことはない。さんざん黒峰をサイコパス呼ばわりしていた僕こそが、そのサイコパスだったというわけだ。
そんなサイコパスである僕が、同じサイコパスであり、血を分けた妹のことを理解できないなんて、なんとも滑稽な話である。
「よくわからないのは、どうしてそんな自己暗示めいた真似をしているのか……かしらね。いっそサイコパスに染まりきった方が、目的も達成しやすくなったかもしれないのに」
確かに、そうなれば少しくらい妹の気持ちも理解できるようになるかもしれない。絶対という保証はないが、きっとサイコパスを理解できるのはサイコパスしかいないと思うから。
でも。
「それだけは嫌かな。僕ももうだいぶ普通とは言えない状態にまで堕ちてしまったけれど、それでも、あんな風にだけはなりたくないよ」
それが僕の、最後の矜持。
たとえこの先完全なサイコパスになってしまう未来が待っていたとしても、黒峰や妹のような救いようのない醜悪な存在になんてなりたくなかった。血を分けた妹と言えど、あんな陰惨な光景を見せつけられたら、昔のような無償の愛情なんて向けられるはずもない。
だから僕は、決して黒峰のように狂わず、妹の動機を理解してみせる。
そうすればきっと、ようやく妹からの呪縛から逃れられるような気がするから。
「ふうん。相変わらず面倒事が好きな人ね。私ならその妹が犯した殺人事件の動機を説明できるかもしれないけれど、聞いてみる?」
その言葉に、僕は首を横に振った。
それは僕も一度は考えたことではあった。黒峰ならば、妹を理解できるのではないのかと。
こんな遠回りな真似をせず、直接黒峰に訊ねたら、すぐに答えがわかるのではないかと。
だが──
「遠慮しておくよ。こればかりは自分で見つけないと意味がないと思うから」
言って、僕は微苦笑を浮かべた。
本当に、我ながら面倒な生き方をしていると思う。妹の動機が判明したところで、昔のように感情を取り戻せるとは限らないのに。
だがそのおかげで、少しでも自分の人生を省みることができた。両親に風邪薬を飲ませて事故を引き起こそうとしたことは今でも後悔はしていないが、後々のことを考えたら浅慮もいいところだった。こういった反省を胸にして生きていけば、今後は同じようなミスを犯したりはしないだろう。普通なんて人の解釈によって違うというのが黒峰の弁ではあるが、それでもできるだけ、周りから普通の人間に見られるくらいには、まともな人生を歩んでいたい。
生まれた時から歪な環境にいた僕には、普通の人生を送ることになにより憧れを抱いていたから。
「それにたぶん、妹も勘で察しそうだしね。僕自身の力で答えを見つけたわけじゃないって。色々あったけど、やっぱり僕は、妹の一番の理解者でいたいと思っているから」
「そう」
一言それだけ返して、黒峰は数秒間を空けたあと、黒板の方を向いてこう繋いだ。
「つまり、これからもまだ、私と一緒にいる気でいるということね」
──物好きね、あなたも。こっちとしてはまだ笑顔の浮かべ方を習得していないわけだし、一向に構わないけれど。
乾いた声音でそう呟いて、黒峰はもう会話する気はないと言わんばかりに、正面を向いたまま静止した。普段より長々と会話をしたから、いい加減面倒に感じたのかもしれない。僕としてはその結論に色々と物申したい(お前に言われたくないとか)気分ではあったが、心の中だけに留めておいた。妹を深く理解するためとは言えども、こんな奴のそばに自分の意思でいるわけだし、あながち間違いとも言えなかったからだ。
それに、黒峰とはきっと長い付き合いになる。約束上、先に僕が答えを見出すか、もしくは黒峰が笑えるようになるかでこの奇妙な関係は解消となるのだが、僕の方は言わずもがな、黒峰の方も当分時間がかかりそうだ。というか笑える兆しすら見えてこないので、卒業までに間に合うかどうかすら疑わしいところである。そうなったらそうなったで、僕の知ったことではないではないが。こっちとしてはそれだけ余裕を持って黒峰を──ひいてはサイコパスを観察できる期間が伸びてくれるのだから。
きっとこれからも、僕は黒峰の異常性を度々垣間見ることになるだろう。その間に僕の精神が正常な状態を保てるかどうか少し怪しくはあるが、それでも僕は、今日も明日も嘘の笑みを貼り付けて生きていく。妹が送れなかった分の普通の人生を、僕が代わりに歩むために。
たとえそれが、他の人からは狂って見えたとしても。
「……それにしても、今日も暑いね」
もう夕方だというのに、窓辺に差す夏の暑苦しい陽光に目を細めつつ、僕は横にいる黒峰に話しかける形で呟く。
黒峰はそんな僕に返事もくれず、いつもの冷たい無表情で、まっすぐに黒板だけを見つめていた。
サイコパス・シンドローム 戯 一樹 @1603
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