第8話 愛ゆえに/哀ゆえに【転】
【7】
碓氷くんと黒峰さんを引き離す。
そのためにはまず、黒峰さんと一度、だれもいないところで話す必要があった。
碓氷くんに直接頼み込む手もなくはなかったのだけれど、どう説明したらいいかわからなかったし、なにより碓氷くんの困った顔を見たくなかった(結果次第では、どのみち見てしまうことになるかもしれないけど)。
それに、碓氷くんとそういう話を──本心を暴くような真似をしたら、二度と元の関係に戻れない気がしたのだ。
そうなってしまったら、私はきっと耐えられない。たとえ私に向ける笑顔がすべて虚飾だったとしても、碓氷くんのそばにいられるのなら、それで満足だった。
だから私は、碓氷くんではなく黒峰さんを先にどうにかしようと思ったのだ。
どうにかしようと思いはしたのだけど、具体的な方法については、しばらく頭を悩ませることとなった。
というのも、あの黒峰さんが私の言うことなんて素直に聞くとは思えなかったからだ。
なので、どうにかして私の頼みを聞き入れてもらうだけのなにかを用意する必要があったのだけど、しばらく悩んでいると、ふと碓氷くんと黒峰さんが二人だけで教室にいた光景が瞳の裏に蘇った。
私の思い込みでしかないかもしれないけど、あの時二人は、他の人が介入してくるのを拒んでいたように見えた。それにやましいことがなにもないのなら、放課後のだれもいない教室を選んで二人きりになったりはしないだろう。突き入る隙があるとしたら、そこだけだ。
そうして私は、一縷の望みに賭けて、黒峰さんの机の中に密かに手紙を忍ばせた。文面はこうだ。
『放課後、一人で校舎裏に来てください。でないと、碓氷くんと二人きりで教室にいたことをみんなにバラします』
これで黒峰さんが来てくれるかどうかはわからない。そもそも、手紙を読んでもらえるかどうかもわからない。
それでも私は、こうするしか黒峰さんを呼び出す方法を思い付けなかったのだ。
たとえそれが、どれだけ最低の行為だったとしても。
果たして黒峰さんは、私の要望通りに校庭裏へとやって来た。
それも、いつも通り無表情で。
そのなにも変わらない様子に、私は背中に冷たい汗が伝うのを感じた。先に校庭裏に行って、いつでも黒峰さんが来るのをわかるように正面へ──つまり校舎の横に立つ状態で待っていたのだけど、今すぐにでも逃げ出したい気分になった。
でも、ここで逃げたらすべてが水泡だ。碓氷くんを暗闇から救い出すことができない。そんなの、絶対認められない。
震える四肢に心中で喝を入れて、私は黒峰さんと正面から向き直る。
私のすぐそばへとやって来た黒峰さんは、無言でその場に立ち止まった。
そしてそのまま、一言も声を発することもなく、立ちつくす私をじっと観察するように眺める。
てっきり文句の一つ(脅迫しているようなものだし)でも言われるかと思っていた私は、その異様な態度に息を呑んだ。
黒峰さんとは三ヶ月近く同じクラスにいたけれど、今日ほど恐怖を感じたのは初めてだ。覚悟はしていたつもりだったけど、理解できない──意味不明な存在の前に立つというのがこんなにも恐ろしいものだったなんて……。
思わず後ずさりそうになった足をどうにかこらえて、私は緊張で喉を鳴らしつつ、自分から口火を切る。
「来てくれてありがとう……って言ったら変になっちゃうのかな?」
対する黒峰さんは、肯定も否定もせず無表情に佇むだけだった。まるで意思疎通する気なんて最初から持ち合わせていないかのようだ。
元々人形みたいな女の子だとは思っていたけど、こうして二人だけの状況で接していると、まだ人形の方が愛嬌があるような気がしてならない。人形と違って動ける分、なにをするかわからない怖さがあって戦々恐々としてしまうのだ。
けど、気圧されている場合じゃない。ちゃんと私の意思を伝えないと、なにも好転しない。
「と、とりあえず、こっちまで付いて来てくれる? ここだと、だれかに見られるかもしれないし」
おずおずとそう言って、黒峰さんを先導する私。黒峰さんも特に異論はないようで、黙って私について来てくれた。
そうして、校舎裏の中に二人して入ったところで、
「それで、黒峰さんをここまで呼んだのは、折り入って頼みたいことがあったからなんだけど……」
私の言葉に、黒峰さんは静かに耳を傾ける。なにも反応がないのが本当に怖いけど、勇気を振り絞って私は話を続ける。
「あのね、これ以上碓氷くんに近寄らないでほしいの」
「……碓氷くんに?」
ここで初めて黒峰さんが口を開いた。その感情がこもっていないかのような抑揚のない声音に一瞬びくっと肩を跳ねさせつつ、
「う、うん。そう……」
と、私はぎこちなく頷く。
「ごめんね。急に言ってもなにがなんだかわからないよね……」
「そうね。まるで意味がわからないわ」
そう淡泊に言葉を返す黒峰さん。表情は相変わらず無のままだけど、私の言葉が気になってはいるようだ。
「……だよね。でも、なにも訊かずに了承してほしいの」
「もし断ると言ったら?」
「黒峰さんと碓氷くんが付き合っているって吹聴する」
私の言葉に、しかし黒峰さんは一切動揺を見せなかった。
ただ、少し呆れたように吐息をこぼして、
「もしかして、私が碓氷くんと一緒にいるところを見てそう思ったのかしら? だとしたら勘違いも甚だしいわね。言っておくけれど、私と彼はそういった関係じゃないわよ」
「うん、それは知ってる。きっとみんなも、こんな話をしたところで絶対だれも信じないと思う。けど……」
そこまで言って、私はスカートのポケットからスマホから取り出して、とある画像を見せた。
「この写真を見たら、みんなも信用してくれるんじゃないかな?」
その写真というのは、碓氷くんと黒峰さんが、だれもいない教室に二人きりでいるところだった。
それは、私が初めて碓氷くんと黒峰さんが個人的な付き合いがあるとわかった日の時の写真で、念のため写真を撮っておいたのだ。
二人を知っている人なら、この写真を見てすぐ碓氷くんと黒峰さんとの関係を疑うことだろう。なんせ碓氷くんはなにかと独りぼっちでいる黒峰さんのことを気にかけていたし、それが縁で二人が恋仲になったと言われたら、ほとんどの人が納得してくれるはずだ。
そして黒峰さんは、こういった噂が流れるのを嫌うはずだ。普段からみんなの陰口を聞き流すくらいスルー能力は高い方だけど、碓氷くんと恋仲になったなんて噂が流れたら、絶対周囲が黙っていない。きっと今までよりずっと騒がしくなるだろうし、いかにも静寂が好きそうな黒峰さんがそれを甘受できるとも思えない。
そして、なにより──
「黒峰さん、知ってる? 碓氷くん、女の子から結構人気があるんだよ。もし碓氷くんと黒峰さんが付き合っているなんて噂が流れたら、黒峰さんもただじゃ済まないと思うよ」
碓氷くんイケメンだし、性格も温和で人当たりもいいから、私のように密かに想いを寄せている女の子は割合多い。
対する黒峰さんは、みんなの嫌われ者。そんな二人が付き合っているとなったら、矛先が向くのはおそらく黒峰さんの方だ。なまじ他の人より圧倒的に綺麗な方だし、その顔で碓氷くんを誑かしたと嫉妬する子が絶対出てくるはずである。
そして女の子の嫉妬というのは、えてして陰険なものだ。陰口だけならまだいい方で、嫌がらせをする子も絶対出てくる。去年──イジメグループをもドン引きさせたという話も有名だから、あまり大っぴらな真似はしないと思うけど、それでもしばらくは陰湿な行為をされるだろうと私は推測している。
もしそうなれば、いくら周囲に無頓着で無関心な黒峰さんと言えども、良い気分はしないはずだ。だからこそ、そのまま放ってもおけないはず。
私自身、こんなやり方は間違っていると思うし、今だって吐き気がしそうなほど自己嫌悪に陥っている。自分が善良な人間だなんて一度も思ったことないけれど、こんなにも汚い真似ができるだなんて、思ってもみなかった。
けれどこれで碓氷くんが守れるなら、私はなにもしないよりはこっちを選ぶ。それだけ、私の決意は固いのだ。
どうだ、と視線を尖らせる私に対し、黒峰さんは一切動じていない表情で、
「浅はかね。そんなもの、私か碓氷くんが否定してしまえば、それでおしまいじゃない」
「うん。でも、完全に疑いを消すことはできないと思うよ。黒峰さん、普段から一人でいることが多いし、やっぱりなにかあるんじゃないかって疑う人もいるはずだよ」
黒峰さんがだれかと一緒にいるなんて、かなりレアなことだ。少し前に木下先生とよく二人で話しているところを見かけた時もあったけど、その木下先生も不祥事かなにかでいつの間にかいなくなっていたし、そうなると、今一番距離が近いのは碓氷くんだけになる。
そんな黒峰さんが碓氷くんと──それもだれもいない教室に二人きりでいたなんてみんなが知ったら、たとえ本人が否定したとしても、絶対恋愛関係にあると疑うはずだ。
「自分でも、こんなやり方はどうかと思っている。でも、このまま黙って頷いてほしいの。お互いのためにも」
「…………………………」
私の言葉に、しかし黒峰さんは首を縦にも横にも振らず、爬虫類のようなぞっとする目を向けるだけだった。
一体なにを考えているのだろう。表情からは窺えないけれど、もしかしてすごく迷っているのかな?
などと不審に思っている内に、黒峰さんは不意に口を開いて、
「好きにしたらいいわ」
と、予想だにしなかった言葉を吐いた。
「す、好きにしたらってどういう……」
「そのままの意味よ。あなたにそんな真似ができるとは思えないもの」
「……ひょっとして、単なる脅しだと思ってる? 言っておくけれど、こっちは本気だよ?」
「見え透いた虚勢ね。あなたが碓氷くんをどう思っているかは知らないし、これと言って興味もないけれど、少なからず好意は抱いているのでしょう? そんなあなたが碓氷くんを困らせるようなことをするとは到底思えないわ」
「………………っ」
黒峰さんの鋭い指摘に、私は思わず歯噛みしてしまった。
まったくもってその通りだった。碓氷くんと黒峰さんを引き離すために考えた作戦ではあるけれど、この作戦には重大な穴があった。
それは、碓氷くんにも被害が及ぶという点。
いくら碓氷くんのためとは言え、その碓氷くんに多大な迷惑をかけては本末転倒もいいところだ。だから私は、最初からこの作戦を本当に実行する気なんてなく、あくまで強迫材料としてしか使う気はなかった。
それを、まさか黒峰さんに見破られるだなんて……。
「話も済んだようだし、私はこれで帰らせてもらうわ」
言うが早いか、黒峰さんは踵を返して、私に背を向けた。
「待って! まだ話は終わってない!」
慌ててそう呼び止めるも、黒峰さんは知ったことじゃないと言わんばかりにすたすたと軽快に歩を進めていく。
──だめ。行かせたらだめだ。ここで黒峰さんを行かせたら、碓氷くんがずっと闇の中に捕らわれてしまう。
碓氷くんを救うことができない!
気づけば、私は黒峰さんの背中を追って走っていた。走るのは苦手だけど、この時ばかりは今までにないくらい全力で駆けていた。
そうして、手を伸ばせば黒峰さんの腕が掴めそうになったところで。
あろうことか、私はその場でつまづいてしまった。
「あ……っ!」
バランスを失い、体が前に倒れゆく。
そして両腕は、ちょうど黒峰さんの背中を押すように突き出していて──
そのまま、黒峰さんを勢いよく突き飛ばしてしまった。
その瞬間は、まるでスローモーションのようだった。
私に巻き込まれる形で、前へと倒れていく黒峰さん。悲鳴を上げることもなく地面へと向かう黒峰さんの背中を見て、今はどんな顔をしているのだろうと、そんな考えがふと頭を過った。
やがて、私たちの体は重力に従って地面に接触した。
「いた……」
倒れた拍子に黒峰さんの背中でぶつけた鼻をさすりながら、私はゆっくりと起き上がる。幸い……なんて言うのは失礼極まりないけれど、黒峰さんが下敷きになってくれたおかげで私にケガはなかった。でもその代わりに黒峰さんが下敷きになってしまったわけで、引き留めるどころじゃない話になってしまった……。
こんな状況でどう説得したらいいのだろうと頭を悩ませつつ、
「あの、大丈夫……?」
と、おそるおそる黒峰さんの顔色を窺う。
黒峰さんは、なにも反応を見せなかった。というより、倒れた状態のまま、起き上がる気配を見せなかった。
「黒峰、さん?」
不穏な空気を感じて、私は胸騒ぎを覚えながら黒峰さんの体を揺する。それでも黒峰さんは起きる素振りが見せず、それどころか彼女の額にはうっすら血が滲んでいて──
「黒峰さん? 黒峰さん!」
さー、と全身から血の気が引いていくのを感じた。よく見ると黒峰さんの頭のそばに拳大の石が転がっていて、それが転倒時に黒峰さんの頭を打ったのは明白だった。
「うそ……。もしかして、死んじゃったの……?」
黒峰さんを、殺してしまった──?
「ち、違う。わざとじゃ……」
必死に首を振って、だれに向けたものかもわからない言い訳を呟く。
こんなはずじゃなかった。こんなことをするつもりじゃなかった。私はただ黒峰さんにお願いをしたかっただけで──碓氷くんを助けたかっただけなのに。
それだけのつもりだったのに、どうしてこんなことに……!
どうしよう。どうしたらいい? 自首したら刑が軽くなるっていうけれど、罪が消えるわけじゃないし、なにより家族に迷惑をかけてしまう。今まで親孝行らしいことなんてほとんどしてこなかったけど、自分の娘が殺人犯になってしまうなんて、そんなの絶対にダメだ。でも、だったらどうしたら……。
と、その時、遠くからだれかの話し声が不意に私の耳朶を打った。近づいてくる雰囲気はないけれど、このままここにいたら非常にまずいのは変わりなかった。
「どうしよう。ここにいたらいつか見つかっちゃう……」
だからと言って、黒峰さんの死体を放って逃げるわけにもいかない。黒峰さんの服には私の指紋が付いているはずだし、犯行を疑われるのは間違いない。
事件を発覚させないためには、黒峰さんの死体を隠さなきゃ。でも、隠すと言っても一体どこに……。
「あ、フェンス……」
そこで私は、前にここでフェンスに人がすっぽり入れるくらいの穴が空いていたのを思い出した。
一度だけ興味本意でその穴をくぐってみたことがあったのだけど、どうにもだれかが学校をサボるのに空けたものみたいで、森の中にお菓子の袋が散らばっているのを見たことがあった。
フェンスを超えた向こうは割と奥深い森が広がっているし、そこならしばらくの間死体を隠せられる。虫が多いのが欠点ではあるけれど、そんな些事に構っていられる状況じゃなかった。
これはれっきとした死体隠蔽だ。もしもこのことが警察にバレでもしたら、私の罪はさらに重くなるだろう。決して言い逃れはできない。
それでも、私は。
「ごめんね、黒峰さん……」
今さらながら心からの謝罪をして、私は黒峰さんの脇に両腕を押し込んだ。
その時の私に、もはや迷いなんてなかった。
フェンスの穴に黒峰さんの体を押し込み、そのまま森の中へと必死に引きずる私。
全身に汗が伝う。まだそれほど距離も進んでいないのに、腕と足がすでに悲鳴を上げている。見た目は私よりも細くて軽そうなのに、意識のない体を運ぶのがこんなにも大変だったなんて思ってもみなかった。
息を乱しながら、私は黒峰さんの死体を森の奥へと運ぶ。あまり学校に近くに置いていたら、腐敗臭でだれかに気付かれるかもしれないからだ。
しばらくすると、少し道の開けた場所に出た。目の前には他のものよりも一際大きい木があり、見上げると幾重にも分かれた枝に青々とした葉がびっしりと生い茂っていた。
これは目印にするのにちょうどいいかもしれない。ここまで直進しかしていないし、学校からも結構離れているし、道も覚えやすい。死体を隠すとしたら、ここしかない。
黒峰さんの死体を幹に預けて、私は一息つく。そうして、黒峰さんの顔を見る。
生気の感じられない青白い顔。死んでいるのだから当たり前なんだけど、黒峰さんは元から死体みたいな雰囲気を持った子なので、こうして見ると眠っているようにしか思えなかった。
「本当に眠っているだけならよかったのに……」
黒峰さんを見ながら、私は叶うことのない願望を口にする。体中に汗を掻いているはずなのに、寒気が止まらなかった。
これでもう、私は元の平和な日常には戻れない。あんなに疎ましかった退屈な日々が、今では遠い日のように感じる。まだ一日も過ぎていないのにだ。
それでも私は、こっちの道を選んだ。取り返しのつかない行為をしたという罪悪感はあっても、事件を隠蔽したことについての後悔はなかった。だったらもう、突き進むしかない。
たとえその先に、茨の道しかなかったとしても。
「とりあえず、今はこれで帰るしかないよね……」
本当はここで死体を埋めておきたいところなんだけど、生憎と都合よくスコップなんて持ってきていないし、言わずもがな、こんなところにも土を掘る道具なんてあるはずもなかった。
たぶん学校の倉庫に行けばスコップを借りられるとは思うけど、どう理由を話せばいいわからないし、なによりも日も暮れてきたし、そろそろ帰宅しないと怪しまれる時間帯だった。
とても気になるけれど、今日はこのまま黒峰さんを置いていくしかない。死体を埋めるのは、また今度だ。
今日は一睡もできないだろうなと気分を暗くしながら、そのまま立ち去ろうとして──
「……介抱もせずそのまま放っていくなんて、ひどい人ね」
その唐突に聞こえてきた声に、私は弾かれるように背後を振り返った。
「えっ! う、うそ……だって死んでたはずじゃあ……」
「勝手に殺さないでほしいわね」
そう言って、黒峰さんは閉じていた瞼をうっすらと開ける。額から流れた血のせいで片目しか開けられないみたいだけど、意識ははっきりとしているようだった。
「黒峰さん、生きていたの……?」
「おかげさまでね。その代わり、頭がズキズキしてたまらないけれど」
痛そうに眉をしかめて、額のケガを手で押さえる黒峰さん。
「それなら、どうして今まで逃げようとしなかったの……?」
「ついさっき気が付いたばかりだからよ。それに逃げたくても、足を挫いていて満足に動けないのよ」
言われて見てみると、確かに右足のくるぶしが痛々しく腫れ上がっていた。おそらく、私が押し倒した拍子に足首をねじってしまったのだろう。今まで全然気が付かなかった。
でも。
「よかった……。死んでなくて……」
思わず全身の力が抜けて、地面の上にへたり込む私。視界は涙で滲んでいて、ポタポタと雑草の上に瞳から大粒の雫から滴り落ちた。
そして、しばらく起き上がれないままうつむいていると、
「私としては、とんだ迷惑なのだけれどね」
私の弛緩した表情を見て気分を害したのか、黒峰さんは険のある声でそう言い捨てた。
「ご、ごめん! そうだよね。こんなことされたら、だれだって怒るよね……」
「別に怒っていないわ。事故のようなものだもの。でも少しでも悪く思っているのなら、人を呼ぶなり救急車に連絡するなりしてほしいものね」
「…………っ」
その言葉に、私は素直に頷けなかった。
だってそんなことをしたら、当然事の次第を説明しなければならなくなる。殺人罪にならずには本当によかったけれど、事件を隠蔽しようしていたのには変わりない。私が黙ろうとも黒峰さんが黙っていないはずだし、周囲の人にもあっという間に噂が広がることだろう。
そうなれば、もう学校になんて通えるはずがない。みんなから冷たい目線を向けられて、卒業するまで居心地の悪い生活を送るだけだ。
碓氷くんとだって、もう今までみたいには話せない。
私のしでかしたことを知れば、きっと碓氷くんも──
嫌だ。それだけは嫌だ。碓氷くんに嫌われるのなんて、私には耐えられない。初めて見つけた私の〝仲間〟とも言うべき人を、こんな形で失ってしまうなんて絶対に認められない!
「ごめん……それは無理」
震えた声で、私は囁くように言う。
「黒峰さんには、ずっとここにいてもらう……」
「………………」
私の言葉に、黒峰さんは無言のままこちらを見つめる。
そこに一切感情はこもっていないように窺えるけれど、なんだか理由を求められている気がした。
「ごめんね、これも碓氷くんのためなの。決して黒峰さんを憎んでやっているわけじゃないの。それだけはどうかわかって」
「碓氷くんの……?」
若干だけど、少し不思議そうに黒峰さんは眉を曲げた。表情の変化が極微細なのでわかりづらいけれど、理由を知りたがっているように見えた。
どうしよう。内容が内容だし、私が勝手に調べたことまで喋らなければならないので抵抗があるのだけど、ここまで黒峰さんを巻き込んでおいてなにも話さないというのは、さすがにどうかという思いもある。たとえそれが、黒峰さんを愚弄することに繋がるのだとしても。
「あのね、実は……」
しばらく悩んだあと、私は正直に話すことにした。最近感じた碓氷くんと黒峰さんの距離の近さ。碓氷くんの過去。そして黒峰さんの異常性と、その危険性について。
そこまで話したところで、黒峰さんの反応は、
「……そう」
と、それだけだった。ただ無機質な瞳で私を見るだけで、非難もなにもしてこなかった。
一体なにを考えているのだろうと、まるで感情が読めない──否、読ませない黒峰さんに言いしれない気味悪さを覚えつつ、私は自分の小胆を押し込んで再度口を開く。
「だから、黒峰さんを返すわけにはいかない。勝手過ぎるとは思うけど、あなたが碓氷くんのそばにいたら、いつか人の道を踏み外してしまいそうな気がするから……」
「……………………」
私の言葉に、黒峰さんは依然として顔色を変えないまま、無言で人形じみた瞳を向けるだけだった。自分で言っておいてなんだけど、ここまで話を聞いて一切なんの感情を示さないなんて、一体どんな神経をしているのだろう。人格破綻者というだけでは言い足りない狂気じみたなにかが、黒峰さんの内に潜んでいるように思えてならなかった。
「仕方がないわね」
ややって、黒峰さんはやや嘆息混じりにそう呟いた。
「携帯電話も持っていないし、結構森の奥まで行っているみたいだから、どのみち助けを呼んでも声が届きそうにもないし、あなたがなにもしてくれない以上、少なくとも足の捻挫が治るまではここにいるしかないわね。まあ、あとで手足を縛るつもりなのでしょうけど」
それはその通りではあるのだけど、こんな状況で怒りもしなければ悲観もしない黒峰さんを見て、背筋に冷たいものが走った。
「……な、なんで? なんでそんなに冷静でいられるの?」
「だって、私を殺そうとしているわけじゃないのでしょう? お世辞にも環境のいいところとは言えないけれど、あなたの言動から察するに食事の用意もしてくれそうだし、どのみち身動きも取れないのだから、ここにいるしかないわ。抵抗なんて面倒な真似もしたくないし」
「面倒って……。ずっとここにいるんだよ? ひょっとした変な病気になって死んでしまう可能性だってあるかもしれないんだよ? それなのに、怖くはないの……?」
盗人猛々しいにもほどがあるセリフだけど、そんな私に黒峰さんは怯んだ様子もなくこう答えた。
「別に怖くはないわ。私にとって、死なんて身近なものだもの」
言っている意味がわからず、私は「身近……?」と聞き返す。
「ええ。幼い頃から、死は常に私のそばにあったわ。私の近くではね、よく人が死ぬのよ。それも他殺や自殺といった、人の意思が絡んだものが。だから死なんて見慣れたものだったし、私自身、生に執着があるわけでもないから、死ぬかもしれない状況にいても、特に思うことはないわ」
まあ、別に死にたいと思っているわけでもないのだけれど。
黒峰さんはそう注釈を入れて、なおも話を続ける。こんなに黒峰さんが喋るところなんて見たことがないので、なんだか不可思議な現象にでも遭遇した気分だ。
「でも、だからこそこんな私に未来なんてあるはずがない。だれかに殺されそうになっても、きっと私は無抵抗のまま死ぬのだと思う。最近、殺人犯に目を付けられたこともあるし、存外早くこの世から去ることになるかもしれないわね。できたら楽に……眠るように死にたいところではあるけれど」
平然とそう宣う黒峰さんに、私は思わず全身の肌が粟立った。
この子は異常だ。前々からおかしいとは思っていたけれど、私がこれまで感じていた以上の狂気じみたものが、黒峰さんの言動から漂っていた。さながら、瘴気のように。
こんな子が今までなに食わぬ顔で日常生活を送っていたなんて、正直恐怖でしかない。それは死に対して無頓着なせいというのもあるけれど、他人の殺意や絶望といったものにも等しく興味がないといったところが、より怖さに拍車をかけていた。
そしてそういった人は、えてして周囲に悪い影響を与えやすい。それは単純に嫌悪感を抱かれやすいというのもあるけど、黒峰さんはなんていうか、人の内に秘めた黒い部分を刺激するなにかがあるのだ。私がそうだったように。
だからこそ黒峰さんは、死を招きやすいのだと思う。確かに黒峰さんの言う通り、まともな未来が訪れる気なんてまるでしない。
でもだったら、なおさら碓氷くんは黒峰さんのそばにいない方がいい。
この子のそばになんていたら、いつ凶悪な事件に巻き込まれるとも限らない。碓氷くんが危険な目に遭うなんて絶対あってはいけない。
どちらにしろ、私はもう後戻りできないところにまで来てしまった。あとはもう、自分の矜持を最後まで貫き通すだけだ。
「黒峰さん、私、そろそろ行くね?」
私の言葉に、黒峰さんはなにも反応を示さなかった。一人ぼっちで置いていかれるというのに焦りもしないなんて、相変わらずなにを考えているのか皆目見当もつかない。
このまま帰るのに一抹の不安と罪悪感を抱えながらも、私は迷いを振り切ってその場を後にしたのだった。
翌々日。
結局昨日も一睡もできず、眠い目をこすりながら、私はいつもより早めに学校へと向かった。今日も黒峰さんの様子を見るためだ。
学校に到着してみると、運動場や体育館の方から朝練に励む生徒たちの声が聞こえてきた。中学生の時は私もバスケ部だったので、どことなく懐かしい。
校舎の方にもほとんど人はいなかったけれど、だれかに見られるわけにもいかないので、周囲を気にしつつ黒峰さんのところへと向かう。
校舎裏へ行き、フェンスを越えて森の中に進む。道順は覚えているし、わかりやすく大木のところへ置いてきたので、迷うこともなく黒峰さんのところに到着した。
黒峰さんは昨日と変わらず大木に背を預けたまま地面に座っていた。今は足を負傷しているせいで逃げる心配はないけれど、いつか縄かなにかで縛る必要があるなと思案しつつ、私は黒峰さんの元へと歩み寄る。
近づいてみると、黒峰さんはまだ眠っていたのか、瞼を閉じて静かに呼吸を繰り返していた。よくこんなところで眠れるものだと変に感心してしまう。
「黒峰さん」
声をかけると、黒峰さんはゆっくり瞼を開けてこちらを見据えた。そして相変わらずの無表情で、
「あら。今日も来たのね」
と、黒峰さんは挨拶でも交わすような軽い口調で声を発した。
「死なれでもしたら、寝覚めが悪いから……」
言いつつ、私は黒峰さんのそばで腰を下す。そして持っていた鞄から菓子パンと紙パックの牛乳を取り出した。黒峰さんの朝食だ。
「その割には、よく眠れていないようね。目の下に隈がくっきり出ているわよ」
言われて、私は目の下を指で撫でた。確かにここ二日一睡もできていないので、朝鏡を見た時も隈ができていたのは知っていた。両親や知り合いには夜遅くまで勉強しているせいだと誤魔化してはいるけど、それもいつまで通用するかはわからない。
いつかこの不安もなくなって、ゆっくり熟睡できる日が訪れてくれるのかな……?
溜め息をついて、私は菓子パンの袋を開けて黒峰さんに手渡す。小遣いに余裕があるわけではないので、コンビニで買ってきた安いパンではあるけれど、黒峰さんは特に不満を漏らすこともなく菓子パンを受け取った。
「昨日今日とご苦労なことね。拘束されている身ではあるけれど、まるで介護を受けているような気分だわ」
「……お姫様の間違いじゃなくて?」
「お姫様って柄でもないし、こんなに汚れていたら様にならないでしょう?」
確かにその通りかもしれない。黒峰さんはどちらかと言うと魔女と表現した方がしっくりくるし、私のせいだけど見た目も砂や血で汚れているので、お世辞にもお姫様っぽいとは言えなかった。自分で言っておいてすごくバカな発言だった。
「ご、ごめん。気が付かなくて。女の子だし、体くらい洗いたいよね。さすがにお風呂は用意できないけれど、今度来る時はウェットティッシュとか持ってくるよ」
「私としては、そんな物よりもさっさと助けを呼んでほしいところなのだけれどね」
「それは……」
「わかっているわ。言ってみただけよ」
言って、黒峰さんは菓子パンを食べ始めた。小鳥がついばむように食べるので、時間がかかりそうだ。
味なんてまるで感じていないかのように淡々と菓子パンを食す黒峰さんを視界に入れながら、
「足はまだ痛むの……?」
と、私は訊ねた。
「安静にしていればそうでもないけれど、動かすと痛いわね。一昨日に比べたらマシな方ではあるけれど」
一旦咀嚼していたパンを呑み込んで、黒峰さんは右足をさすりながらそう返す。見ると確かに前と比べたら腫れは引いたようだけど、それでもまだ痛々しく肌が赤黒く変色していた。本当なら整形外科とかに行くべきなんだろうけど、連れていくわけにもいかないし、申しわけないけど我慢してもらうしか他ない。
「頭は? キズは塞がっているみたいだけど、もう痛くはないの?」
「触ったら痛いわよ。たんこぶみたいなものあるし。ただそれほどひどいものでもないから、一週間もすれば勝手に治るでしょうね。それよりも」
そこで言葉を切って、黒峰さんはじっと私を見据えた。
その常闇のような黒い瞳に萎縮しつつ、私はごくりと生唾を嚥下して次の言葉を待つ。
「私よりも自分の心配でもしたらどう? 警察も昨日から動き出しているのでしょう?」
その通りだった。いつまで経っても帰ってこない黒峰さんに家族の人が通報したみたいで、昨日からあたりから警察があちこちで動いていた。もちろん、私たちの学校にも来た。
でも幸いと言っていいのか、有力な情報は未だ得られていないようで、ここまでは嗅ぎ付けられていないみたいだった。
「今のところはまだ大丈夫。たぶんだれも、黒峰さんがこんな森の中にいるなんて思っていないんじゃないかな。目撃証言自体も少ないみたいだから」
それは黒峰さんが学校中の人間から嫌われているせいもあるのだけど、本人はそれを知ってか知らずか、
「そう」
とだけ淡泊に相槌を打った。
「ごめんね。だからしばらくは──だれかに勘づかれるまでは、ここにいてもらうことになると思う……」
「まあ、当然そうなるわね。犯人であるあなたからしてみたら、だれかにこの状況を見られるわけにはいかないのだから」
犯人という言葉に、私はびくっと肩を跳ねさせた。
そうだ、私はもう犯罪者なんだ。未成年だから実名を公表される心配はなくても、捕まればちゃんと犯罪者として裁かれることになる。どれだけの罪に問われるかはわからないけれど、決して軽いものではないだろう。
「見つからずに済むといいわね。その間にあなたの精神が壊れずに済んだらという話ではあるけれど」
まるでどっちでも構わないと言いたげな口調でそう呟いて、黒峰は再びパンを食べ始めた。
そんな黒峰さんに改めて形容しがたい恐怖を感じつつ、私は自分の鞄を手繰り寄せて、腕の中で力強く抱きしめた。
大丈夫。だれにも見つかりなんてしない。心配する必要なんてないんだ。
そう自分に何度も言い聞かせるも、胸の中の不安はいつまで経っても消えはしなかった。
その日の放課後だった。すべての授業が終わり、だれよりも早く教室を出た私は、学校から徒歩十五分のコンビニに赴いていた。黒峰さんの夕飯を買うためだ。
黒峰さんには悪いけれど、時間と金額的な理由で昼食の用意まではできなかった。本人は小食みたいで、昨日もお昼を抜いた状態なのにけろっとしていたけども。
コンビニで適当な夕飯を買い、また学校へと戻る。途中で同じクラスの子たちとすれ違うことがあって、内心とても焦る時が何度かあった。これからもずっとこんな毎日が続くのかと思うと、暗澹とした気分にさせられた。悪い夢なら早く覚めてほしい。
などと願ったところで現実が好転するはずもなく、重い足取りで道を進む。
学校に戻ると、校内に残っているのはほとんど部活動をしている人達ばかりになっていた。黒峰さんのところに行くにはちょうどいい時間帯だった。
それでも一応周囲に気を配りつつ、校庭裏に向かう。
「…………?」
フェンスのところまで着いたところで、なにか奇妙というか、違和感めいたものを不意に感じた。
あくまで勘でしかないけど、さっきまでここにだれかがいたような、そんな気配の残り香とでも表現したくなるようななにかが──
「……っ」
嫌な予感に私は肩を震わせつつ、フェンスをくぐって森の中へと入る。
そんなはずない。黒峰さんのことはだれにも話していないし、気づかれるような素振りだって一切見せなかったはずだ。大体こんな森の中に用もなく入る物好きな人なんているわけがない。だから、絶対大丈夫。
そう暗示をかけるように心中で呟きつつも、胸の中に渦巻く暗雲は一向に晴れなくて。
やがて見えてきた目印の大木のところで、私はがくっと全身の力が抜けたようにその場で膝を着いた。
「どうして? どうしてよりによってあなたがここにいるの……?」
黒峰さんのそばにいた男の子の姿を見て、私は愕然とした思いでか細く声を発する。
「碓氷くん──」
碓氷くんは。
つい先ほどまで続けていた黒峰さんとの会話を止めて、背後にいる私の方へとゆっくり振り向いた。
「残念だよ。まさか、君がこんなことをしていたとはね──平坂愛莉さん」
【8】
「大体の話は黒峰さんから聞かせてもらったよ。不慮の事故とはいえ、救急車も呼ばずにこんなところに連れ込むなんて、さすがに言い逃れできないよ、これは」
僕の言葉に、平坂は茫然自失といった表情で地面にへたり込んでいた。その双眸は極限まで剥かれていて、僕がここにいることに相当驚きを隠せない様子だった。
「さっきの質問に答えるとね、少し前に向島が校舎裏の方に行く黒峰さんの姿を見かけたことがあったみたいで、それで近くを調べていたら、穴の空いたフェンスを偶然見つけたんだよ」
平坂は心ここにあらずといった風に放心したままだが、構わず僕は言葉を紡ぐ。
「ちょうど人が這いつくばって入れる程度の大きさだったからね、それでなんだか怪しいと思って、穴をくぐってみたんだよ」
でもまさか、その先で行方不明中だった黒峰を発見できるとは思ってもみなかった。それもこんな森の中の──街灯もなにもない薄暗い場所にいるとは想像もしていなかったので、最初は声も出ずに驚いたものだ。傷だらけの状態で大木に寄りかかっている黒峰を見た時なんかは、死んでいるんじゃないかと最悪の結末を想像したくらいである。
だが幸いにも命に別状はなかったようで、僕が来たことに気付いた時も、
「あら、碓氷くん。こんなところでなにをしているの?」
と、緊迫感もなにもあったもんじゃない軽い調子で、黒峰はそう声をかけてきたのだった。
その時の脱力感と言ったら、あんなに必死になって黒峰を探していた自分がバカバカしく思えるくらいだった。こいつには危機感というものがないのだろうか。
呆れ返りつつもこうなった経緯を訊いてみると、どうやら放課後に校庭裏まで来るよう平坂に手紙で呼び出されたみたいで、それで指示通りに行ってみたら、そこで脅迫まがいなことを言われたみたいで──詳しい内容まではまだ聞いていない──それでも無視して立ち去ろうとしたら、こけた平坂に巻き込まれる形で地面に倒れてしまい、そのまま意識を失ってしまったそうだ。
そうして目を覚ましてみれば、この森の中へと連れ込まれていたのだと言う。しかも足を捻挫していて身動きが取れず、今日までこの森の中で過ごしていたそうだ。道理で二日が経っても一向に帰宅しなかったわけである。普段から携帯を持ち歩かない奴なので、ここまでややこしい事態になったせいもあるが。
それ以前に、もっと早くに平坂が助けを呼べばそれで終わった話でもあるのだけど、一体なにを思ったのか、だれにもこの事態を知らせることもなくこんな森の中へと黒峰を連れ込んで、今日になるまで彼女の食事の世話をしていたらしい。そこまでして黒峰を隠そうとするなんて、僕には理解不能だ。そういうことをする人間にも見えないので、なおさら不可解である。
「平坂さん、理由を訊いていい? どうしてこんなことをしたの? 黒峰さんから脅迫もされたって聞いたんだけど」
「………………」
僕の質問に、平坂は顔を伏せるだけで一向に口を開こうとはしなかった。
それでも、しばらくそのまま待ってみると、
「……怖かったの」
平坂は囁くような声で言って、ゆっくり目線を上げた。
「最初から黒峰さんを傷つけようとなんて思ってなかった。ただちょっと愛莉の……私の言うことを聞いてもらうだけのつもりだったの。でもうまくいかなくて、それで慌てて呼び止めようとしたら、私のドジで黒峰さんを転倒させてしまって……」
震える指先を抑えるように両手を組みながら、平坂は言う。少し前から目元にはくっきりと隈が出ていて気になってはいたのだが、周りのみんなには夜遅くまで勉強しているせいだと話していたので、僕もてっきりそうなのだと思い込んでしまっていた。隈の原因はこれのせいだったのか。
「額から血が出ている黒峰さんを見て、てっきり死んじゃったのかと思った。それで怖くなって、とっさにフェンスの穴を思い出して、この場所に連れて来たの。結局黒峰さんは気を失っていただけで死んでなんかなかったんだけど、それでも黒峰さんを隠そうとしたのには変わりないし、この先のことを考えたら、助けを呼ぶ気なんてなれなかった。それになにより、黒峰さんと碓氷くんを会わせたくなかったの……」
「僕と黒峰さんを……?」
僕の問いに対し、平坂は目元を翳らせたまま頷いた。
「なんでそんなことを……」
「だってあのまま黒峰さんと一緒にいたら、碓氷くんが遠いところに行ってしまうと思ったから……」
「遠いところ……?」
よくわからない比喩に、僕は眉をひそめる。なぜ黒峰と一緒にいたらダメなのかわからないし、そもそも人目の付くところではそばにいること自体少なかったと思うのだが……。
「彼女、放課後に私たちが会っていたところを偶然見てしまったみたいよ」
と、僕の疑問に答える形で、黒峰がそう説明してくれた。なるほど、それで僕と黒峰が親密な関係であるかのように話していたのか。実際はただの利害関係でしかないのだが。
「でも、それが僕と黒峰さんが一緒にいたらいけないと理由とどう繋がるの?」
「それは本人から訊いたらどう?」
そう淡泊に返す黒峰。なぜそのまま教えてくれないのかわからないが、黒峰がそう言うのなら、その通りにさせてもらうとしよう。
「平坂さん、詳しい理由を訊いても?」
駄目元で訊ねてみると、平坂はしばし逡巡するように視線を泳がしたあと、
「……碓氷くんは、黒峰さんのことをどう思っているの?」
逆に訊ね返されて、僕は再び困惑した。
「どうって……まあ他の子より変わっているなっていうぐらいかな」
本人の目の前でもあるので、なるべくオブラートに包んで忌憚のない意見を述べると、
「でも、それだけじゃないよね? 正直に言って、すごく危険な子だって思ってない?」
それまでの怯えたような表情を引っ込ませて、平坂が僕の真意を探るように眼光を凄ませた。
「みんなが黒峰さんのことを犯罪者予備軍とかサイコパスとか色々言っているけれど、私もそう思っている一人なの。むしろこうして黒峰さんと一緒にいるようになって、私たちが思っている以上に危険な子なんじゃないかって考えるようになったんだ」
そう言って、少し気まずそうに黒峰を見やる平坂。よく本人を前にしてそんなことが言えるものだ。まあ、当の黒峰はどうでもよさそうに聞き流してはいるが。
「そんな黒峰さんと仲が良さそうにしているところを見ちゃったら、友達ならだれだって心配するでしょ? それに碓氷くん自身も黒峰さんの危うさをわかった上で積極的に関わろうとしているみたいで、余計不安になったの。まるで黒峰さんの深い闇にどんどん吸い込まれていくようで、それで無理やりにでも引き離そうと思ったの……」
ああ、それで黒峰を脅迫したのか。おそらくは、僕から離れないと酷い目に遭うとかなんとか言って。だが予想と違ってすげなく対応されて、こんな事態を招いてしまったと。
だが。
「心配してくれる気持ちはありがたいけど、正直戸惑いしかないよ。なんでこんなバカな真似をしたの? いくら友達のためだからって、いくらなんでもこれは度が過ぎてるよ」
「……………………」
僕の言葉に、平坂は表情を曇らせるだけで口を開こうとはしなかった。どうしても言えない事情があるのだろうけど、さすがの僕も平坂の気持ちに気付けないほど鈍くはなかった。
きっと平坂は、僕のことが好きなのだろう。
それも友達としてではなく、異性として。
だがそれを、殊更ここで言及するつもりなんてなかった。それは平坂を辱めるような真似をしたくなかったというのもあるが、それ以上にここでなにかしら答えを明示したら、さらに状況が混迷しかねないと憂慮したのだ。
はっきり言ってしまえば、平坂に対して好意どころか友情すら感じていなかったのだが、そのことを彼女に伝えてしまったら、一体なにをするかわかったものじゃない。今のところおとなしくはしているが、僕や黒峰に危害が及ぶようなことだけは全力で避けるべきだ。
なので、現状でもっとも安全にこの状況を脱する方法は。
「平坂さん、自首しよう? 今ならまだ引き返せるよ」
極力優しい声音で言って、僕は説得を試みる。平坂は躊躇うように視線を逸らしていたが、僕の言葉に心が揺れ動いているのは明らかだった。
「でも私、黒峰さんにケガをさせてしまったし……」
「故意じゃなかったんでしょ? 事故を隠蔽しようとしたのはさすがにまずいけど、未成年だしそこまで重い罪にはならないよ。社会的には辛い立場になるとは思うけれど、平坂さんならきっと乗り越えられるよ」
「そう……かな?」
「うん。僕が保証する」
根拠もなくそう進言する。乗り越えるかどうかなんて結局は自分次第だとは思うが、平坂を追い詰めるようなことは言うべきではない。ここは少しでも平坂の気持ちを軽くさせて、さっさと撤収するのがベターだ。
「でも、碓氷くんと同じ学校に通えなくなるのは、やっぱり辛いな……」
「それは……」
さすがにそこまでは、どうにもしてやることはできない。どのみち退学は免れないないだろうし、平坂のために一緒に辞めるつもりもない。結局のところ、自業自得でしかないのだ。そこは甘受してもらうしか他ない。
「わかってるよ。私のしたことは許されるようなものじゃないって。罰を受けるのも当然だと思ってる。けど、やっぱり残念だなあ。もっと別の方法で黒峰さんと話をしていたら、碓氷くんとも今まで通りに生活できていたのかなあ……」
いつしか目尻に溜まっていた涙を頬に流して、平坂は嗚咽混じりに言う。
「ただ碓氷くんに、普通の人生を歩んでもらいたかっただけなのに、どこで間違えちゃったのかなあ……」
空虚な笑みを浮かべながら、平坂は懺悔するように心情を吐露する。それを見て、特に思うところはなかった。表面上は同情的な目線を送ってはいるが、内心これで無事に終われそうだと胸を撫で下ろしていた。
「普通、ね……」
などと、ほっと息をつく間もなく、黒峰が不意になにやら含みのある呟きを漏らした。
「これほど曖昧な言葉もないわよね。見方によってどうとでも変わるもの」
「……黒峰さん、それってどういう意味なのかな?」
「碓氷くんが普通に見えるかどうかは状況によりけりということよ」
気になって真意を訊ねてみると、黒峰はそんな婉曲的な表現を用いて返答した。
「それだとまるで、僕が普通の人間じゃないみたいな言い方だね」
「少なくとも私は普通だと思っているわよ、ただ、彼女の方はどうなのかしらと思って」
「どうもこうも、さっきまでの話を聞いていたらどっちかなんて明白だと思うけど?」
「それは、すべてを知った上でも?」
黒峰が僕をまっすぐ見据える。非難するでもなく猜疑の目を向けるわけでもなく、ただいつも通り、死人のような深い闇を湛えた瞳でもって。
「あの……二人とも、さっきからなんの話をしているの?」
話の矛先が自分にも向いてきたせいか、平坂は少し戸惑った顔でそう訊いてきた。唐突のよくわからない展開に呆気に取られてか、それまで流していた涙すら引っ込んだようだった。
「一応確認しておくけれど、あなたは碓氷くんを普通の人間だと思っているのよね?」
「え? う、うん。そうだけど……」
黒峰に突然訊ねられ、平坂は少し困惑気味に言葉を返す。まあ普段から優等生を演じているし、今まで学校で問題を起こしたこともないので、当然と言えば当然の反応だろう。
が、次の黒峰の一言で、その反応も一瞬にして霧散することとなる。
「碓氷くんが、過去に人を殺そうとしていたことがあったとしても?」
「えっ──?」
黒峰の言葉に、平坂は表情を凍らせて声を詰まらせた。まったく予期していなかった言葉に、脳内の処理が追いついていないように見えた。
それよりも気になったのは、黒峰の言い方だ。なんだかさも僕の過去を知っているかのような口振りだったが、一体黒峰はなにをどこまで把握しているのだろう。
「なんだか、僕が殺人未遂を犯したことがあるみたいに言ってくれるけれども、一体なんの証拠があってそんな突拍子もない話をしたの?」
「証拠なんてないわ。ただそこにいる彼女から碓氷くんの昔の話を聞いて、なんとなくそうなんじゃないかって思っただけよ」
「昔の話……?」
なんで平坂が? という意味で視線を送ってみると、
「……ごめんなさい。黒峰さんとの関係を調べている内に、少しだけ碓氷くんの過去を調べさせてもらったの……」
申しわけなさそうに顔を伏せて謝る平坂。色々言ってやりたいことはあるが、一旦保留にして黒峰に向き直る。
「そっか。じゃあ僕の両親や妹のことも?」
「ええ。あなたの妹が実の両親を殺害したのでしょう? 碓氷くんが第一発見者だったというのも聞かせてもらったわ」
その通りではあるが、一体どうやって調べたのだろう。当時は未成年犯罪というのもあって、両親や妹の名前も報道規制がかかっていたはずなのに。
もしかすると、先生かだれかが暴露してしまったのだろうか? 学校側はすでに知っているし、どこかで情報が漏れてしまったのかもしれない。まったく、口の軽い奴もいたものだ。
それにしてもしかし、平坂はどこまで当時の事件を知っているのだろう。察するに虐待を受けていたことや事件後の僕のことまでは把握していないようだが、とまれかくまれ、色々掘り探れる前にさっさと話を進めた方が得策だろう。
「それで? よくわからないけれど、僕の過去と君の言う殺人未遂容疑と一体なんの関係があるの? もしかして妹が人殺しをしたのだから、同じ血を引いている僕だって殺人鬼の素質があるに違いないとか、そういったくだらない妄想をしていたりするわけ?」
「まさか。碓氷くんが無差別に人を殺すほど愚かな人間だとは思わないわ」
そう言って、黒峰は緩く首を振った。
「あなたはもっとクレバーな人間だわ。人並みに犯罪を嫌悪しているし、自ら進んでトラブルを起こすような人間でもない。至って合理的な考えを持つ人……それが今まで私が受けた、碓氷くんの印象よ」
黒峰の言葉を聞いて、僕は内心驚いた。僕のことなんて笑顔の作り方を教えてくれる程度の奴でしかないのだろうなと思っていたので、黒峰がそんな風に見ていたとは考えもしなかったのだ。これまで黒峰と一緒にいる時間が増えたことで、それなりに関心を持たれるようになったということなのだろうか。
「だから碓氷くんが殺人を犯すとしたら、正当防衛とかやむをえない場合か、もしくは感情のセーブが利かなくなるほどの憎悪に苛まれていたかのどちらかだと思うわ。今回の件だと、たぶん後者ね」
「ちょ、ちょっと待って黒峰さん! 碓氷くんがむやみに人を殺すようなタイプじゃないなら、一体だれを殺そうとしていたって言うの? 私には碓氷くんが人を殺そうとしていたなんて、どうしたって信じられないよ!」
平坂が意義を唱える形で黒峰に食ってかかる。どうやら平坂は黒峰と違って、僕のことを清廉潔白な人間と信じて疑わないようだ。
だが。
ここに来て、僕には黒峰がなにを言おうとしているのか、なんとなく察しが付いた。
そしてそれが、みんなが持つ僕のイメージを完全に崩壊させてしまうだろうことも。
「そうね。確証があるわけじゃないけれど、おそらくは」
そう言って、黒峰は。
機械的な抑揚のない口調で、あっさりこう告げた。
「おそらくは、家族の内のだれかを殺そうとしていたんじゃないかしら」
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