第5話 マイ・ファミリー【後編】
【7】
黒峰紫亜という少女と出会ったのは、新しい高校に赴任してようやく慣れてきた頃のことだった。
その少女は件の高校に在籍している生徒で、俺が顔を知る前からなにかと有名人だった。詳しい事情までは知らないが、過去に同級生と諍いがあったらしく、教師陣の間でも要注意危険人物として扱われていた。特に俺はその少女がいる二学年を担当することになっていたので、下手な接触は避けるようにと、耳がタコになるまで言い含められたものだ。
もとより、俺は黒峰紫亜と関わる気なんて毛頭なかった。それ以前に、彼女がいるクラスは受け持っていなかったので、最初から関わる機会なんてなかったのだが。
そんな些事よりも、俺は家族のことだけが気になって仕方がなかった。
こうしている間も、家族が俺の帰りを待ってくれている。前と違って家族も増えたが、妻も息子も俺がいなくて寂しがっているに違いない。想像するだけで自然と頬が緩む。
そのため、他のことになんてまったく眼中になかった。しばらくは新しい家族を迎え入れる気もなかったし、今の生活がこの先ずっと続けばいいと思っていた。
そんな時だったのだ。黒峰紫亜と、偶然廊下ですれ違ったのは。
初めて彼女を目にした時、俺は一瞬意識を掠め取られた。
それは噂に違わぬ美少女だったとか、周囲の空気が淀んで見えるくらいの不気味さとかいったものからではなくて、さながら滅多に会えない仲間を見つけた時のように、自分とまったく同じ生き物がいると思ったからだった。
それは見た目だとか雰囲気とかではなく、内面から溢れる禍々しい気配に、俺はシンパシーを感じたのだ。
きっと彼女はだれにも理解されず、まただれにも理解を求めずに、これまでの人生を歩んできたに違いない。
なんて孤独な生き方なのだろう。
そして、なんて孤高な生き方なのだろう。
俺にはわかる。俺だからこそわかる。彼女を真に理解できるのは、俺のような存在だけなのだと。
だから、そのあとすぐに黒峰紫亜に声をかけたのも、自然の成り行きとも言えた。
黒峰紫亜の人となりについては同僚からもよく聞かされてはいたが、話通りのリアクションの薄い──否、むしろ人形のように無反応で、生気といったものがまるで感じられなかった。普段から演技をして生きている俺ではあるが、演技をやめた時の自分と雰囲気が似ており、ますます親近感が湧いた。
その日、黒峰紫亜とは大した話はしなかったのだが、初めて会った同類の存在に高揚を感じていた。表面上の友ならばいくらでもいたが、これほどまでに仲間意識を覚えたのは、黒峰紫亜が初めてだ。
そのせいか、黒峰紫亜と対面してからというもの、彼女の姿をよく学校で探すようになっていた。ただ純粋に黒峰紫亜という少女のことをもっと知りたい、もっと話してみたいと思ったのだ。
それから俺は、彼女を見かける度にちょくちょく話しかけるようになった。同僚からはよく思われなかったが、気にならなかった。彼女と過ごす時間の方が大事だったからだ。
そうして彼女に抱いていた仲間意識めいたものが、恋という名の感情に変わったのは、そう時間はかからなかった。
これまで何度か女性と付き合ったことはあるが、妻以外の女性に……それも生きている状態でこんな気持ちを抱くのは初めての経験だった。それだけ、黒峰紫亜がありのままの姿を晒していたからなのだろう。嘘ばかり吐く口やかましい人間が嫌いな俺からしてみたら、彼女ほど魅力的な女性なんて他に知らない。
しかしながら、それで彼女をどうこうしたいとは──まして首を切って家族に迎えたいとまでは思わなかった。むしろ彼女を殺してしまうなんて国宝を壊すのと同義だ。黒峰紫亜を殺すなんて選択肢は端からなかった。
俺にとって、黒峰紫亜はそれだけ大切な存在ではあったのだが、不思議と彼女を独占したいという気にまではならなかった。たぶんそれは俺のような同類でありながら──否、俺なんかよりも気高い魂を持つ彼女に対して、一種の崇拝にも似た情を抱いていたせいなのかもしれない。たまに気持ちが抑えきれなくなって、匿名の手紙を彼女の下駄箱の中へと入れてしまったこともあるが。
とどのつまり、これは決して浮気という行為ではないということだ。たとえるなら、妻子を持つ身でありながらアイドルに熱中するものだと言えばわかりやすいだろう。それとこれとは別というか、大体そんな感じだ。
そもそも黒峰紫亜が好きだからと言って、それで家族を手放すという発想自体、俺にはなかった。ようやっと手にした理想の家族を切り捨てるだなんて、俺にできるはずもない。
要するに俺にとって黒峰紫亜とは、家族とはまた別の意味で大切な存在だということだ。
だから家には愛すべき家族が──学校に行けば愛しの黒峰紫亜と会って話ができるという日々が幸せでならなかった。人生の絶頂期だったと言っても過言ではないくらいに。
そんな幸せな日々を送る中で、不穏な影が暗雲のように忍び寄ろうとしていた。
ここ最近になって、警察の動きが急に活発になってきたのだ。
それもどうやら、俺の家族に関連したことで。
とは言っても、山中に埋めた死体がついに露見してしまったとか、そういったわけではない。しかしながら、相次ぐ近辺の失踪者騒ぎに警察も不審に感じて本格的な捜査を始めたようだった。それに追随するように失踪者の──つまり家族の顔写真などがテレビなどを通じて公開されるようになり、俺の日常が有象無象の輩に蝕まれようとしていた。
今のところ、失踪者の情報をニュースで流す程度で俺が犯人だということには気付いていないみたいだが、それもいつまで保つかわからない。一つとして証拠を残していないと言い切れないし、あの山に埋めた死体が見つかりでもしたら、捜査網はより広く、より強固なものとなるだろう。そうなれば、今まで通りの平穏な生活なんてできなくなる。常に周囲に対して警戒を払う、そんな神経を摩耗する日々を送ることになるに違いない。
俺にできることと言えば、警察に怪しまれないよう派手な行動を控えることと、せいぜい事件が発覚しないよう神に祈ることぐらいだ。
しかしながらそんな俺の祈りも虚しく、その日は想像していたよりも早く訪れてしまった。
半年前に山中で投棄してきた妻の体が、偶然崖下へと立ち寄った登山客にて発見されてしまったのである。
妻の体が白日の下に晒されて、一週間近くが過ぎようとしていた。
その後も、続々と家族の体が警察の手によって発見された。妻以外の体はちゃんと土に埋めておいたのだが、それもすべて掘り起こされてしまったようだった。おそらくは首のない妻の体を見て、ただの自殺や遭難者ではないと判断し、さらなる捜索を進めたのだろう。
こんなことなら、あれもバレないように埋めておくんだったと後悔したが、時すでに遅し。なんせ、四体もの首なし死体が発見されたのだ──捜査の目はこれまで以上に厳しくなるに違いない。
そしていつかは、俺のところにまで……。
そう考えるだけで、頭がどうにかなりそうだった。警察が俺の犯行だと気付けば、十中八九家族から引き離されることだろう。想像するだけで辺り構わず叫び散らしそうなほど気が狂いそうだ。
早急に対応しなければ。でないと、家族と離れ離れになってしまう。それだけは絶対に阻止しなければ。家族がいない人生なんて、俺にしてみれば無意味同然だ。
だがしかし、一向に良案が思い浮かばず、日々だけが無常に過ぎていく。
着々と迫ろうとしている警察の影に怯えながら、毎日が無為に過ぎていく。
俺は焦っていた。学校にいる間は平静を装っていたが、内心はいつも焦燥感に駆られていた。なにも打開策が浮かばない自分に苛立ちすら覚えていた。
本当なら学校になんて行かず、少しでも多く家族との時間を大切にすべきなのだろう。だが、それでも学校に行かなければならない理由があった。
それは急に休みなんて取ったら怪しまれるという理由もあったのだが、それ以上に気になっていることがあった。
黒峰紫亜という、俺にとって家族と同じくらいに大切な人が、どうしても気がかりだったのだ。
仮にこのまま警察に捕まってしまえば、当然俺は一生刑務所から出ることができず、黒峰紫亜とも永遠の別れになってしまうだろう。まだ密かに送っていた手紙(匿名)ぐらいでしか気持ちを伝えていないのに、これで終わりにだなんてしたくなかった。
ここにきて、黒峰紫亜への想いが、どうしようもなく抑えきれなくなっていた。
【8】
まだ始業時間から一時間以上も余裕があるという早朝。その男は閑散とした校舎の中を一人で歩いていた。
この時間に校内を歩いている人間なんて、運動部の部員か顧問、もしくは用務員くらいだ。けれど、その男がどちらでもないことを、僕は知っていた。
そして、その男が今からなにをするつもりなのかも。
男の足取りに迷いはなく、まるでルーチンワークでもこなすようにまっすぐ二年生の下駄箱を向かっていた。
そうして、男は黒峰が使っている下駄箱の前に立って、白衣のポケットから便箋のようなものを取り出して──
「やっぱり、木下先生が手紙の送り主だったんですね」
僕の言葉に、木下先生はギョッと双眸を剝いてこちらの方へと振り返った。
「君は……? いやそれよりも、どうしてここに間宮先生と黒峰さんが……」
面識がない僕に木下は訝しげに眉をひそめたあと、すぐにその横に立つ間宮と黒峰へと目線を移して、動揺したように声を震わせた。
「そこにいる碓氷にちょっと頼まれてね」
木下の疑問に、間宮は微苦笑を浮かべながら肩を竦める。
「けどまさか、碓氷の言っていたことが本当だったとは思わなかったよ。顧問もやっていないのにいつも出勤時間が早かったから疑問には思っていたけども、毎日こうしてラブレターを送っていたとはなあ」
「…………っ」
ぎりっと歯噛みする木下。ここに同僚がいるだなんて夢にも思っていなかったのだろう、表情からありありと狼狽が滲み出ていた。
しかし、ある程度して落ち着いてきたのか、木下は一度深呼吸して、
「一体なんの話ですか? 俺はたまたまここに来ただけですよ?」
と、白々しくとぼけてみせた。
「じゃあ、その手に握っている便箋は? 僕の目にはその手紙を黒峰さんの下駄箱に入れようとしていたように見えましたが?」
僕の言及に、木下は慌てて便箋を腰の裏に隠す。だが、すでに手遅れだ。
「先生が生徒に手を出そうとするなんて、かなり問題があるんじゃないですか? 間宮先生っていう証人もいますし、言い逃れはできませんよ?」
いつの時代も、教員と生徒との恋は禁断とされている。もしもこのことが外部に伝わりでもしたら、保護者からのバッシングは避けられないだろう。
果たして僕の指摘に、木下は露骨に目線を逸らした。木下自身、タブーに触れている自覚があったのだろう──ろくに反論もせず、口を真一文字に硬く閉じた。
そして、しばし時を置いたのち、
「……先生がなんだって言うんですか。生徒がなんだって言うんですか。人を好きになるのに理由なんて必要ですか。俺のこの気持ちが間違っているとでも言うんですか」
恨み言でも吐くように、木下が険のある表情で呟く。
「恋をする気持ちは別に間違ってはいませんが、差出人不明の手紙に黒峰さんが迷惑したのは事実です。こうして正体を暴く形になってしまいましたが、このまま手紙が続くようならなんらかの対応を学校に取ってもらうのも視野に入れていました。それだけ、木下先生の行為に不安を感じていたということです」
好きな相手だからって、なにをしてもいいなんて理屈は成り立たないですよね?
僕の問いに、木下が顔相を険しくさせる。そこにいつもの物静かな雰囲気はなく、さながら夜叉のように殺気を放っていた。
「黒峰さん、彼の言っていることは本当? 君が迷惑しているなんて、嘘だよね? 彼の妄想に過ぎないよね? 君からもなにか言って──」
「事実よ」
黒峰の端的な一言に、間宮の表情が凍り付いた。
「気味の悪い手紙を何度も送られてずっと迷惑していたわ」
「そんな……。だってあんなにも俺と話が合ったのに……」
「ああ、それなら木下先生の勘違いです。黒峰はただ適当に受け答えしていただけですよ。別にあなたの話に興味があったわけではありません」
「嘘だ……嘘に決まってる……」
僕の言葉を聞いて、木下は愕然とした顔で声を震わせる。
「嘘じゃありませんよ。木下先生はただ、自分にとって都合のいいように解釈していただけに過ぎません」
きっと、元から妄想癖の強い人だったのだろう。
だから、黒峰の本質がまるで見えていなかった。
始めから黒峰の態度に気付いてさえいれば、こんなことにはならなかったはずなのに。
僕に恋路を邪魔されず、こうして露見されることもなかったはずなのに。
やがて、木下はがくっと両膝を折った。よほどショックだったのか、目が虚ろで、まるで抜け殻のようだった。
「木下先生。こうして現場を見てしまった以上は、俺も教師として見過ごすわけにはいかないな。気は進まないだろうが、ちょっと職員室にまで来てもらっていいか?」
間宮に腕を取られ、木下はよろめきながらもゆっくり立ち上がった。
そして間宮に腕を掴まれたまま、木下は覚束ない足取りで職員室へと向かう。
「──俺、どうすればよかったのかな?」
十歩近く歩いたところで、木下は僕らに背中を向けたまま、独白するかのように訥々と言葉を紡ぐ。
「昔から家族や友人に恵まれなくて、いつも胸の中にぽっかりと穴が空いていて、どこにも居場所なんて無くて……。それでようやく俺の隣りにずっといてくれそうな人を見つけたのに、結局それも勘違いで……。何度も手紙を送ったのに、その気持ちすらまったく届いていなかったなんて……」
そこまで言って、木下は縋るような目で黒峰を見つめた。
「ねえ黒峰さん、俺はどうしたらよかったのかな? どうしたら君の隣にずっといられたのかな?」
「私を殺して、あなたも死ねばよかったんじゃないかしら」
木下の問いに、黒峰は寸分の迷いなく答えた。
「そうすれば、少なくともあなたの中だけでは、私は永遠になれるわ。だれにも邪魔されることもなく、ずっと」
「ちょ、黒峰さん……」
耳を疑うようなことを口走る黒峰に、僕は眉をしかめて苦言を呈した。
「いきなりなに言い出してるのさ。自分を殺せばいいだなんて、正気の沙汰じゃないよ」
「私は質問されたことに正直に答えただけよ」
僕の言葉にまったく意に介さず、しれっとした顔で言う黒峰。むしろ子憎たらしく思えるほどの平然とした様子に、思わず溜め息が漏れる。
幸い、木下は呆気に取られていて、黒峰の言葉を実行するつもりはなさそうだった。まあ間宮がずっと腕を掴んでいるし、いざという時は止めてくれていただろうけど、ひとまず無事に済んでくれてなによりだ。
「すみません間宮先生。下手すれば危険な目に遭うことをさせてしまって……」
「──え? ああいや、俺なら別に平気だから気にすんな」
一瞬反応が遅れたあと、間宮はすぐに真顔から陽気な笑みへと表情を変えて、僕の謝罪に応えた。
その反応に少し違和感めいたものを感じたが、追求するような真似は特にせず、再度「すみません」と僕は頭を下げた。
「ほら、黒峰さんも。自分の身も省みずに協力してくれたんだ。せめてお礼くらいは言うべきだよ」
その言葉に、黒峰はなんら反応を示さなかった。馬耳東風と言わんばかりにスルーしてくれやがってこのやろう。
「……なんかお前、黒峰さんの保護者みたいだな」
不遇な仕打ちを受ける僕を見て、間宮は微苦笑を浮かべる。こっちとしては不本意極まりないが、それほど間違ってもいない指摘に嘆息がこぼれる。
「──そっか。やっぱ俺は、黒峰さんのことをなんにもわかっていなかったんだな……」
と、それまで放心していた木下が、なにかを納得したように口を開いた。
「確かにここまで頭のおかしい子、俺の手には余る……」
黒峰さんとなら、ずっと一緒に歩いていけると思っていたのになあ。
そう漏らす木下の顔は、さながら抜け殻のように乾いた笑みを浮かべていた。
そんな木下を、黒峰は無機質な瞳で見つめていた。頭がおかしいとまで言われたのに、さながら木枯らしが吹いたとしか思っていなさそうな様子に、改めてこいつの異常性を実感させられる。今に始まった話ではないけれど。
「それじゃあ行こうか、木下先生。話なら職員室でたっぷり聞いてやるからさ」
力が抜けたようにうなだれる木下の腕を間宮が引っ張って、二人してひと気のない廊下を歩いていく。
やがて、後ろ姿が完全に見えなくなったところで、
「ひとまず、これでようやく一件落着って言った感じかな」
と、僕は呟いた。
「そうね。色々な意味で」
黒峰はそう含みのあることを言って、もう用はないと言わんばかりに踵を返した。
その意味ありげな発言が少し気がかりではあったが、追求するような真似はせず、僕も無言で黒峰の後に続く。
空いた時間をどう潰そうかと、ぼんやりと考えながら。
その日、木下は職員会議にかけられ、たったの二ヶ月という異例の早さで、他校への赴任が決まった。
その急な赴任に、学校中で色々な憶測が流れたが、詳細は僕と黒峰だけにしか明かされず、木下は諸々の準備が済むまで、自宅待機を命じられた。実質上、これで木下と会う機会は二度となくなったというわけだ。
そして、同日の夕方。
市内のマンション──その一室で火災が発生した。
火事は一室を焼いただけで済んだが、中からそこの住人と思われる死体が──間宮大己の焼死体が発見された。
黒焦げになった、四つの生首をそばに並べた状態で……。
一週間ほど前に発覚した、四体の首なし殺人事件。
その犯人が間宮大己……事件のあった市内に住む高校教師だったということは、あっという間に日本中に知れ渡ることとなった。
無論、その影響は僕らの日常にも容赦なく降りかかり──
「今日も、マスコミの数が凄いね……」
教室の窓から校門の様子を見やりながら、僕はそう感想を漏らした。
時刻は午後三時半を回ろうとしている頃だった。本日も天気に恵まれず、朝からずっと雨が降っていたのだが、そんな状況にもめげず、大勢のマスコミがカメラを手にして校門の前に張り付いていた。
「まあ、でもそりゃそうか。間宮が犯人と判明して、まだ二日しか経っていないし」
一昨日、とある火災によって発見された四つの首。
その首が山中に埋められていた首なし死体とそれぞれ一致したことにより、間宮大己の名が全国的に報道され、市内はあっという間に騒動の渦中に呑まれることになった。
しかもその犯人が自殺を図るという、なんとも消化不良な形で事件が終結してしまったため、真相究明も含めて、当分の間は収まることもないだろう。
特にうちの高校は、犯人が事件発覚後も勤務していた場所というのもあって、マスコミ各社が我先にと校門に大挙として押し寄せていた。おかげで、今ではどの報道番組でもうちの高校を見ない日はない。普段から見慣れている学校の校舎をテレビで鑑賞するというのは、奇妙な感覚ともになんとも言えない気分だった。
それでも休校にならなかったのは、世間から逃げたと非難されるのを避けるためか、はたまた単純に面の皮が厚かったからか。どちらにせよ困惑する生徒たちやその保護者たちを無視するわけにも行かなかったようで、昨日今日と臨時の集会が開かれ、今回の事件での学校側の責任や生徒の心のケアなどの対応に追われている。
そういった事情もあってか、今や全校生徒の約三割近くが体調不良などを理由に欠席する事態になっていた。特に間宮を慕っていた生徒のショックは大きく、中には自分の部屋にずっと塞ぎ込んでいる者も少なくないらしい。まあ、無理もない。あんな陽気で社交的な人物が、まさか世間を騒がせている殺人鬼だったとは夢にも思わなかったことだろう。僕だって未だに信じられないくらいだ。
ちなみに、授業は通常通り行われたが、言わずもがな、部活動は騒動が収まるまで無期限の停止状態となった。そのため、わざわざ学校に残る生徒もおらず、また、学校側から早々に帰宅するよう命じられたのもあって、そのほとんどがマスコミの取材を避けながら校門を抜けようとしていた。
今のところ、学校側から緘口令(学校のイメージを悪くさせないためだろう)を敷かれているため、表立って取材を受けている者はいないが、まあ裏でマスコミと密会している生徒もいるに違いない。きっと色んな週刊誌で、わが校の生徒のインタビュー記事があちこちに溢れ返ることだろう。
「これは、帰るのも一苦労だね。黒峰もそう思わない?」
その問いに、自分の席に座ったままでいる黒峰は一切言葉を返さず、ただ正面の黒板だけを一点に見つめていた。
黒峰の相変わらずの無反応さに浅く嘆息を漏らしつつ、僕は窓から離れて近くの椅子に腰かける。椅子を引いた時の床をこすった音が反響し、ここには僕と黒峰しかいないんだなというのを再認識させられた。外の騒ぎとは大違いだ。
他の生徒たちはすでにいないのに、どうして僕らは未だここに残っているのか。そう問われたら、僕が黒峰を引き留めた(もちろん、周囲には気付かれないように)からに他ならない。と言っても、いつもの笑顔教室を開くためではなく、至って個人的な理由からだ。それで、こうして二人きりでいるという次第なのである。
まあそれには、交換条件としてマスコミの盾になるという条件を呑む必要があったのだが。この後黒峰を守りながらマスコミにもみくちゃにされるのかと思うと、気が滅入って仕方がない。
とにもかくにも、こうして黒峰と二人になれたわけではあるが、じきに教師が巡回しに来るかもしれないし、取り留めのない話もここまでにしてさっさと本題に入った方がいいだろう。
そう考え、
「黒峰にここに残ってもらったのは、色々と訊きたいことがあったからなんだ」
と、僕は話を切り出した。
「一連の首なし死体事件の犯人が間宮だったって発覚したわけではあるけれど、黒峰はどこまで知っていたんだ? どこからこうなることを知っていたんだ?」
「どうしてそう考えたのかしら?」
ようやくこっちに視線を向けた黒峰が、逆に問い返してきた。
「この間の君の発言が気になったんだよ。ほら、この間『色々と終わった』なんて言い方をしただろ? まるで間宮が首なし死体事件の犯人だったことも、後々自殺することもわかっていたような口振りだったから、ひょっとして最初からこうなることを知っていたんじゃないかって、そう考えたんだ」
「別に、最初からなにもかもわかっていたわけじゃないわ」
どこぞの名探偵じゃあるまいし、と黒峰は冷めた表情で後ろ髪を掻き上げた。
「ただ、間宮先生が少しおかしな人だっていうのは、薄々勘付いてはいたけれど」
黒峰はどうでもよさそうに呟いて、毛先をいじり始めた。枝毛なんて一本も見当たらなさそうなほど綺麗な黒髪をしているが、それなりに気を遣っているのだろうか?
「じゃあその時から、間宮が殺人犯だったって気付いていたってこと?」
周りのみんなは言うまでもなく、僕でも間宮が殺人犯だったとは微塵も気づかなかった。ただの少しチャラい陽気な先生だと、だれしもがそう思っていたはずだ。
それなのに、他人に対して無関心である黒峰がどうやって気づくことができたというのか。
「正確に言うと、間宮先生が殺人犯だったって気づいていたわけじゃない。けれど、なにかしら犯罪に手を染めているかもしれないとは思っていたわね」
「どうしてそんな風に思ったんだ?」
「だってあの人、いつも私を同類でも見るような目をしていたもの」
こちらを一瞥もせず、依然として髪の毛をいじりながら、黒峰は無表情に言葉を紡ぐ。
「自分で言うのもどうかと思うけど、私を同類として見ている人間なんて、まともとは言えないでしょう? 普段他人の視線なんて気にもしないけれど、さすがに何度もあんな目で話しかけられたら私でも気付くわ」
「あー」
思わず、納得の声が口から零れた。失礼かもしれないけど、確かにそれは普通の人間とは言い難いものがある。
「でも、それならどうして間宮が怪しいと言ってくれなかったの? 他の人ならともかく、僕なら信じたのに」
「面倒だったから」
実に簡潔な答えだった。いかにも黒峰らしい返答だ。
「それに、確証もあったわけでもないし。根拠のないことをだれかに進言するわけにもいかないでしょう?」
「それはそうかもしれないけど……。けどなんだか、殺人犯だとは知らずに協力を求めた僕がすごく間抜けみたいだ……」
「そのおかげで面倒事が片付いたのだから、決して無駄というわけではないわ」
「そりゃまあ、間宮がいてくれたおかげで木下を学校から追い出せはしたけどさ……」
でも、心情的には複雑だ。間宮が犯罪者だと最初からわかっていたら、絶対に協力なんて求めなかった。下手すれば危険な目に遭っていたかもしれないわけで、自分の行いを素直に評価する気分には全然なれない。
付け加えるなら、僕はてっきり木下こそが首なし死体事件の犯人ではないかと疑っていた。黒峰から木下と首なし死体事件の話をよくしていたと聞いていたので、犯人でなくともなにかしら事件に関与していると怪しんでいたのだ。
だが蓋を開けてみたら、木下は首なし死体事件とは一切無関係だった。あとで担任である宝満から、僕らがラブレター事件の関係者というのもあって色々詳細を聞かせてもらったのだが、どうやら木下は単なる殺人事件マニアだったらしく、前の学校もそれが原因で追放されたのだとか。
それで、今度は同じ過ちを繰り返さないようにと、元々木下と遠縁であった宝満に預ける形でこの高校へと赴任したようなのだが、結果はご覧の通り。監督役を仰せつかっていた宝満にしてみれば、かなり頭の痛い話であろう。実際、相当困り果てている顔をしていた。
それはともかくとして、結局のところ、全部僕の思い過ごしでしかなかったというわけだ。我ながら恥ずかしいことこの上ない始末である。
「まあ、結果的にはよかったかもしれないけどね。木下が黒峰に告白する前に、なんとか阻止できたわけだし」
「そうね」
過去の後悔を取り払って、前向きに締めくくった僕に、黒峰はその艶やかな黒髪から手を放してそう淡泊に相槌を打った。
しかしながら、次に放った言葉に、僕は面食らうことになる。
「手紙の送り主をいっぺんに片付けられて、本当によかったわ」
黒峰の言葉に、僕は思わず「は?」と口を開けて呆けた。
「……いっぺんに片付いたって、どういうこと? まるで手紙を送ったのは木下だけじゃなかったみたいな言い方に聞こえたんだけど……」
「逆に訊くけれど、碓氷くんはあの手紙を見てなにも思わなかったの?」
一体なんの話だ? あの手紙に、木下以外の人物を示唆するようなものなんてあっただろうか?
質問の意味がわからず、首を傾げる僕に、
「よく思い出してみて。あの文面の中で明らかに奇妙な点があったでしょう?」
と、黒峰は続けた。
奇妙な点? そんなもの、あの手紙にあったろうか。僕には少し痛い恋文としか思えなかったが……。
「ダメだ。全然わからない」
しばらくして、僕は降参とばかりに両手を上げた。じっくり考えてみたが、一体どこが変なのか、さっぱりわからない。
「教えてくれ黒峰。あの手紙のどこが奇妙なんだ?」
「二人称の使い方よ」
僕の問いかけに、黒峰はあっさりとそう返した。
「いくつかある手紙の中で、一枚だけ二人称が違うものが紛れ込んでいたでしょう?」
言われてみて、僕は改めて手紙の内容を思い出してみた。
『貴女の気高い魂は、私の心を奪って離さない』
『君の孤高はその他のくだらない有象無象よりも遥かに魅力的だ』
『貴女ほど美しい人を今まで見たことがない』
『貴女は私にとって光だ。暗闇の中に灯る一筋の光だ』
あ。
ここにきて、ようやく黒峰の言わんとしていたことが理解できた。
「『貴女』と『君』……確かに一枚だけ二人称の使い方が違うものがある……」
どうしてこんなあからさまな違いに気づけなかったのか。今までスルーできていたのが不思議なくらいだ。
「でも、これってどういうこと? 木下って、確か黒峰を呼ぶ時は『君』って言い方をしてたよね? だったら木下が送ったのは、この『君』と書かれた一枚だけってこと?」
木下を追い詰めた時、何度か黒峰に手紙を送っていたようなことを口にしていた。これが事実だとするならば、木下は『君』という人称で何度も手紙を送り付けていたことになる。
しかし、実際は『君』と書かれた文章は一枚しかない。明らかな矛盾だ。
「仮にも教師が生徒である私に対して『貴女』なんて呼び方は立場上しないはずよ。それこそ、手紙でもない限り。だいぶ私に心酔していたみたいだし、心の内では『貴女』と呼んでいたんじゃない?」
「ああ、なるほど……」
そういえば、うちの男性教師が女子生徒に対して『貴女』と呼んだところなんて、一度たりともない。僕だって同じ立場だったら、そんな妙な呼び方はしないだろう。
黒峰の言っていた通り、手紙でも書かない場合は。
「じゃあ、この『貴女』と書いたのが木下で間違いないとして、もう片方の『君』と書いたのは一体……?」
「おそらく、間宮先生でしょうね」
間髪入れずにそう答える黒峰。そんな黒峰に、僕は一瞬声を詰まらせてしまった。
「……ま、間宮が? 確かにあの人、節操なく女好きなところがあったけど、さすがにそれは勘違いじゃあ……」
「そうかしら? この学校で私に好意を抱いてくれていそうな人なんて、木下先生を除けば間宮先生ぐらいしか思いつかないのだけれど? まあつい最近まで私も気付かなかったし、実際私を好きだったかどうかもわからないけど。今となっては確認することも不可能になってしまったし。少なくとも私を同類として見ていたようだから、仲間意識ぐらいは持っていたんじゃないのかしら」
別にどうでもいいようなことではあるけれど、と本当に興味もなさそうに呟いて、黒峰は流麗に足を組んだ。
最初こそ耳を疑ったけれど、言われてもみると、心当たりがないわけじゃない。
性格うんぬんを抜くにしても、間宮は黒峰に対して嫌悪感を抱いてはいなかった。いやむしろ、容姿に限って言えば文句なしにベタ褒めすらしていた。話を聞く限りはちょくちょく黒峰に声をかけていたみたいだし、それなりに好意は持っていたのかもしれない。
だとすると、確かに間宮ぐらいしか該当する人間はいなくなる。この学校のほとんどの人間は、黒峰に対して悪い印象しか持っていないのだから。
「けど、なおさらよくわからないな。なんで間宮は黒峰に気持ちを伝えないまま、自殺なんてしたのだろう……?」
どうせ死ぬつもりでいたのなら、せめて最後に気持ちを伝えようと思うのが自然ではないだろうか。木下というライバルもいなくなってくれたわけだし、黒峰も付き合っている人なんていないのだから、なにも気兼ねする必要なんてなかったはずである。
まあ、断れるぐらいならこのまま墓場まで持っていた方がマシとも考えたのもかもしれないが、間宮のキャラに合わないし、それに四人もの人間を殺害して首を持ち逃げするくらいの変態なのだから、なにも手を出さないなんて不自然だ。警察に追い詰められた末に、自殺を決行したという線もなきにしもあらずではあるが。
「気持ちならちゃんと伝えてあるじゃない。手紙という方法で」
「差出人もなにも書いていないのに? それに一枚だけしかないし、さすがにこれだけだと気持ちを伝えたとは言えないんじゃないかな?」
「だったら、その程度の感情でしかなかったということでしょう。さっきも言ったけれど、本当に私を好きだったどうかなんてわからないのだから」
ずいぶんと冷たい反応だ。心の底から間宮をどうでもいいと思っていないと、こんな発言はできないだろう。
しかしながら、黒峰の言うことも一理ある。どのみち僕らに間宮の気持ちなんてもう知ることはできないのだ。黒峰に恋をしていたかどうかなんて、推測でしか語れない。
「まあ、間宮が黒峰に対してどう思っていたかは保留しておくにしても、やっぱり自殺した理由がわからないままだな……」
それも、放火自殺なんて相当苦痛を伴う死に方をするなんて。
そこまで言うと、黒峰は不思議そうに小首を傾げた。
「一体なにがわからないのか、逆にわからないのだけれど?」
「え? いやだから、わざわざ放火自殺なんて方法を取ったのかだよ。自殺自体は百歩譲って精神的に追い詰められたせいだとしても、なにも焼死する必要まではないでしょ?」
「焼くこと自体に意味があるのだとしたら?」
僕の疑問に、黒峰はなんの迷いもなく答えた。
「自分だけじゃなく、それ以外の物を燃やしてしまうのに意味があるのだとしたら、少しは見方も変わるんじゃない?」
「部屋そのもの……?」
どういうことだ? 自分以外の物を燃やすことに、一体なんの意味がある?
それとも、一緒に燃やしてしまいたいほどの物が、現場にあったとでも言うのだろうか?
「あったでしょう? 最も大事にしていた物が、間宮先生の死体のそばに」
その言葉に、僕ははっと瞠目した。
「間宮に殺された被害者たちの──首?」
こく、と小さく頷く黒峰。
「でも、なんで? 大事な物なら、なおのこと炎に巻き込まれないようにするものなんじゃないの?」
「大事な物だからこそ、他人に奪われないようにしたのよ」
「他人に……?」
「ええ。間宮先生が自殺せずにあのまま逮捕されていたら、確実に被害者の首は遺族の元に返っていたはずよ」
だから自分自身と一緒に首を燃やしたのよ。永遠に自分の物にするために。
黒峰の言葉に、僕は眉をひそめた。遺族を他人と言い表すのに疑問を覚えたのもあるが、それ以上に理解できない部分があったのだ。
「だったらいちいち燃やしたりせず、どこかに隠しておけばよかったんじゃない? それなら首を燃やさずに済むし」
「それだと、だれかに見つかる可能性があるじゃない。それに間宮先生が望んだのは永遠に自分の物にしておくことよ。そのままにしておくのは本意でなかったはずだわ。どのみち頭蓋骨だけでも遺族に返されることになるでしょうから、結局本人の自己満足でしかないでしょうけれど」
「……ずいぶんと間宮の心情を詳しく語るんだね」
他人に対して──いや、ほとんどの物事に無関心な黒峰にしては、かなり珍しい。
「間宮先生とは、ちょくちょく話をしたことがあったから」
「間宮と? ああ、そういえば間宮って、君によく声をかけていたんだっけ? どういった内容までは聞いてないけれど、ひょっとして二人で事件の話をしたことがあるの?」
「いいえ。大抵世間話か、家族の話をした程度よ」
二人のサイコパスが一体どんな世間話をしていたのだろうかと色々興味が湧いたが、それよりも「家族」というワードが気にかかった。
「家族って、たとえばどんな?」
「つまらない精神論だったり、私や間宮先生の家族の話だったり、色々ね」
「そうすると、君の家族の話もしたの?」
「私は適当にはぐらかしたわ。根掘り葉掘り訊かれるのも面倒だったから」
「じゃあ、間宮の家族の話ばかりしたってこと? でもあの人、独身で一人っ子だし、両親とも離れて暮らしていたみたいだから、それほど話も広がらなかったんじゃない?」
「そうでもないわ。一緒に暮らしていた人がいたみたいだから」
「一緒に……?」
そんな話、今まで一度も聞いたことがない。間宮本人からはっきり一人暮らしだと言っていたし、テレビでも同居していた人間がいたという事実は報道されていない。意図的に黒峰だけ嘘を吐いたということになるのだろうか?
「だから、あの首のことでしょう?」
意味がわからず、頭の中に疑問符を浮かべる僕に、黒峰はわかりきった事実を語るように言う。
「私にしか話していなかったみたいだし、はっきり家族だと明言したわけでもないけれど、きっとあの首たちが、間宮先生にとっての『家族』だったのでしょうね」
「家族……」
間宮が一体どんな人生を送ってきたか、僕はよく知らない。
せいぜいが、報道番組で語られている程度の浅い情報でしか知らない。
でも黒峰の言っていた通り、首に対して特別な感情を──常軌を逸しているが、家族のように愛情を注いでいたのだとしたら、間宮が放火自殺を選んだ理由は──
「だから他の人に取られる前に、自分の手で『家族』を葬り去った……?」
「間宮先生自身も含めてね」
つまり、よくある一家心中ね。
そう退屈そうに付け加える黒峰。死んだのは間宮だけだし、世間一般でいうところの一家心中とは全然違うと思うが、おそらく間宮の中では黒峰と同じ考えを抱きながらこの世を去ったのだろう。
はっきり言って異常だ。まともな人間が考えることじゃない。
それこそ、黒峰みたいなサイコパスでもない限り。
だからこそ、間宮は黒峰に惹かれたのかもしれない。
数少ない同類として。
と。
僕はそこまで考えて、不意に怖気のようなものが背中に走った。
ちょっと待て。自殺した理由まではいい。黒峰の説明にも得心がいく。
しかし一体間宮は、いつからこんな壮絶な死に方をしようと考えていたんだ?
警察の発表では、現場はもちろん、この学校や間宮の自家用車にも遺書らしきものは発見されなかった。
さらに言うなら、現場は身辺整理をした痕跡が見当たらず、冷蔵庫の中には三日分の食材すら入っていたらしい。
あたかも勢いのまま自殺したかのような状況に、警察も首を傾げているようだが、もしもそれがとある人物の言葉が引き金になっていたのだとしたら?
その人物の思惑通りだったとしたら?
「もしかして、あの時君が木下に言っていたことって……」
あの時の言葉──『私を殺して、あなたも死ねばよかったんじゃないかしら』という、黒峰が木下に向けて言ったあの言葉が、実は間宮を破滅させるためにわざと口にしたものだとしたら……。
しかして僕の問いかけに、黒峰はただ黙って、その常闇のような黒い瞳で僕を無機質に見つめているだけだった。
言葉足らずではあったが、僕の真意が伝わっていないということはないだろう。
心当たりがないのであれば、僕の言葉になど耳を傾けるはずのないのだから。
今にしてわかった。黒峰が間宮と木下を見送りながら言った、あの「色々な意味で」という言葉の意味が。
始めから黒峰は、間宮と木下の両方を片付けようとしていたのだ。
木下は学校側に処罰されるように。
そして間宮には、自ら命を絶つように。
そもそも、前から奇妙には思っていたのだ。あの生粋の面倒くさがりな黒峰が、木下を捕まえるためだけに早朝から付き合ってくれるだなんて。
しかし、最初から木下と間宮を両方片付けるつもりでいたのなら、この疑問も解消される。
面倒くさがり屋な彼女ではあるけれど、面倒くさがり屋な彼女であるからこそ、自分にとって邪魔でしかない存在を最小限の労力で消したのだ。
僕という協力者を利用することによって。
そう考えると、黒峰の言動や彼女らしからぬ行動にも、一応納得はいく。
ただ、唯一理解できなかったのは──
「なんで間宮も……? 木下はともかく、間宮はまだ恋愛感情を持っていたどうかもわからなかったのに……」
「だってあの人、私を見かける度につまらない話をしてくるのだもの。鬱陶しくて仕方がなかったわ」
そういう意味では、木下先生もだいぶ面倒くさい人ではあったわね。
淡泊にそう言い捨てて、黒峰は「そろそろ帰っていいかしら?」と僕に伺いを立てた。
「君は…………」
続く言葉がどうしても出てこなかった。
この少女は、どこまで壊れているのだろう。
どうしてここまで非情になれるのだろう。
サイコパスを理解するために黒峰に接近した。そのことに後悔はないし、これからも彼女のそばに居続けるつもりだ。
だが僕は、果たして耐えることができるのだろうか。
黒峰の狂気に呑まれず、自分を保てられるだろうか。
このまま彼女といたら、いつしか僕は──
「……そうだね。帰ろうか」
腹の奥に渦巻く言葉と感情を呑み込み、僕は鞄を持って立ち上がった。
どのみち、今さら引き返す道なんてない。
僕には、やらなければならないことがある。
たとえ、そこに破滅しかないのだとしても……。
「あ。そうそう。一つ言い忘れたことがあったわ」
教室の戸を開けようと手を伸ばしかけた時、僕の背後にいた黒峰は、ふとなにかを思い出したように天井を見て、言葉を紡いだ。
「手紙の件、お疲れさま。これからも面倒なことがあったらよろしく頼むわね」
【9】
心は凪いだ海面のように静かだった。もうじき死ぬつもりでいるというのに、心臓の鼓動が嘘のように一定を保っている。気持ちがふわふわとしていて、なんだか自分の体でないみたいだ。
俺の部屋は今、辺り一面に灯油の臭いで充満していた。
学校から帰宅してすぐ、ポリ容器を持ってガソリンスタンドに向かった俺は、そこで灯油を手に入れ、自宅にばら撒いたのだ。
つまりは、放火自殺。
正確には、一家心中。
そう──今日この日、俺は家族と一緒に死のうとしていた。
前もって決めていたことでもなかったので、部屋の中は以前のままになっていた。綺麗好きなので整理整頓はある程度行き届いてはいるが、いかんせん急遽決めた心中だったので、溜め込んだゴミや食材、アルバムや趣味が丸わかりの書籍など気がかりな物が色々とあった。まあ燃えてしまえばどれも同じだとは思うが。
死ぬ時ぐらいは家族のそばで一緒に寝ていたいので、みんなの首は死に場所でもあるベッドの上に置いておいた。あとは俺が手に持っているライターをどこかに放りさえすればいいだけの状態だ。
枕元には、苦しまずに済むようにと、灯油を買った帰りに薬局に寄って手に入れた睡眠導入剤を用意しておいた。ひょっとすると熱さで目が覚めてしまうかもしれないが、火の手が回る頃には一酸化炭素中毒になっているだろうし、なんとかなるだろう。
俺がこんなことを考えたのも、すべては彼女──黒峰紫亜のおかげだ。
元々のきっかけは碓氷新汰という生徒から受けた相談からだった。なんでも同僚である木下が、あろうことか生徒である黒峰紫亜に何度かアプローチをかけていたらしく、それを止めたいと協力を求められたのだ。
アプローチと言っても、下駄箱に恋文を送る程度のものでしかなかったのだが、黒峰紫亜が差出人不明の手紙に気味悪がっていたらしく、その差出人が実は木下であるらしいとわかって、ますます困惑したらしいのだ。
前に一度、俺も黒峰に手紙を送ったことがあったので──ラブレターとも言えないような代物だが──それもバレているのだろうかと危惧したが、それは杞憂だったようで、そこまでは気付いていないようだった。たまたま木下が送った手紙と被らなかったというのも幸運であった。どうやら、毎日手紙を送っていたというわけでもなかったらしい。
なにはともあれ、腐っても教師である以上、協力しないわけにはいかず、碓氷新汰と黒峰紫亜と一緒に現場を抑えるという流れになってしまった。
あの何事にも動じなさそうな黒峰紫亜が、恋文ごときで動揺するものだろうかと疑問に思わなくもなかったが、まあ、どのみち彼女が困っているというなら放ってはおけないし、気も紛れるかとも思ったので、特に異論はなかった。
そうして、早速翌日の早朝から木下の動向を窺っていたのだが、一日目にして下駄箱の前へと姿を現した。毎日早朝から学校に来ていたのは知っていたので、相談を受けた翌日から黒峰紫亜の下駄箱の近くで張ろうと事前に決めていたのだが、こんなにも早く現場を抑えられるとは思ってもみなかった。
それと同時に、やっぱり黒峰紫亜に気があったのだなと納得する自分もいた。木下本人から黒峰紫亜の話題がちょくちょく出ることがあったから、もしかしたらとは心の隅で思ってはいたのだ。
だから木下がラブレターの差出人だったと判明して、少し気の毒に感じた。木下とはそれほど深い交流があったわけでもないが、あいつもあいつで孤独を抱えていた人間だったので、同情を禁じえなかったのだ。
それでも、木下が教師としてあるまじき行為をしたことには変わりない。俺は心を鬼にして(すでに人でなしみたいなものだが)碓氷新汰や黒峰紫亜と一緒に木下を取り押さえた。
そうして、木下が黒峰紫亜に縋ろうとした時、それはさながら天啓のように発せられた。
「私を殺して、あなたも死ねばよかったんじゃないかしら」
その一言に、胸に渦巻いていた闇が一気に晴れたような気がした。
そうだ。どうしてこんな簡単なことに気づけなかったのだろう。
警察に俺の家族を奪われるくらいなら、一緒に死ねばいいのだと。
簡単に死ぬと言ってはいるが、不思議と恐怖はなかった。どうせ捕まったら死刑に違いないと前もって覚悟していたのもあるが、それ以上に、家族と永遠にいられる方法があるのだという喜びの方が勝っていた。
その日は、ずっと一家心中の方法を模索していた。木下を職員室に連れ帰り、事のあらましを学校側に報告したせいで色々と忙しなかったが、正直上の空だった。そんな些事よりも、家族の方が俺にとって最優先に考えたかったのだ。
結局家族と共に死ぬ方法として、放火自殺を選ぶことにした。一家心中と言っても俺の家族は肉体的には死んでいるようなものなので、ナイフかなにか刺せばいいというものでもないし、なにより家族の顔に自ら傷を付けることに抵抗があった。
そうして選んだのが、家族と一緒に俺自身も燃やしてしまうことだった。これなら家族が傷つく様子を見なくて済む。これ以上の最適解なんてきっとない。
あとは先述で語った通りだ。心残りと言えば、黒峰紫亜にきちんと自分の想いを告げられなかったことぐらいだが、まあ、それはもういいだろう。
木下の件でわかったことだが、黒峰紫亜は他人の好意なんてなんとも思っていない人間だ。いや、むしろ疎ましく思っていそうな節すらある。そんな彼女に気持ちを伝えたところで迷惑にしかならない。俺への最後の記憶が嫌な形として残るのは本意でなかった。
家族に向ける愛情とはまた違う形ではあったが、黒峰紫亜を好いていることには変わりない。
だからこそ、彼女にはこれからもいつも通りの日常を過ごしてほしかった。
その何者にも染まらない、気高い魂を保ったままで。
そうこうしている内に、窓から見える夕焼け空が次第に闇に染まりつつあった。なんだかんだ準備を進める内にだいぶ時間が進んでしまったようだ。
夜になると炎の明かりで目立ってしまうので、早めにやってしまわねば。まだ細々と気になる点はあるが、今さら後日に伸ばすつもりはない。思い立ったが吉日。この勢いに乗ったまま家族と一緒にあの世へと逝きたい。
そう考え、一旦手に持っていたライターをベッドの上に置いて、枕元に準備しておいた睡眠導入剤を口の中に放り込んだ。そのまま水も無しに飲み込む。
さすがにすぐには効果が現れはしなかったが、時間の問題だろう。あとはこの部屋を燃やすだけだ。
そして、改めてライターを手にしたあと、火を点けたままで適当な場所に放り込んだ。
ライターの火が灯油をまき散らした床に着火し、めらめらと火の手が昇っていく。
次第に広がっていく炎の海を眺めながら、俺はその場で寝転んで、家族みんなの首を優しく抱き寄せた。
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