第4話 マイ・ファミリー【中編】



 【5】



 首を持ち帰ったあの日から、俺の生活は劇的に変わった。

 劇的にだなんて言うと少し大袈裟に聞こえるかもしれないが、少なくとも、それまで感じていた空虚感のようなものは、次第に薄れていった。

 朝起きて、まず同じベッドで寝ている女性を──いや、もう家族になったのだから妻と呼ぶべきか──とまれかくまれ、その妻の顔を最初に見てから、俺の一日は始まる。

 首を切り取ったあと、丹念に汚れを取ってホルマリン漬けにされたその顔は、初めてあった時よりも一層美しく、どれだけ眺めていても飽きなかった。惜しむらくは、仕事がある日などはずっと見ているわけにはいかないところだ。できたら妻の顔を見つめながら延々と語りかけていたいのだが、あいにくと、仕事を無断で休むわけにはいかない。所帯を持つ者として、そこはしっかりけじめを付けるべきだ。

 その代わり、仕事から帰ったら、べったりと妻に付き添う。離れていた時間を埋めるように、彼女のそばに居続ける。最高のひと時だ。

 本当は直接妻と触れ合いたいのだが、外気に触れさせるわけにはいかないので、ずっと瓶の中にいる彼女としか話ができない。歯がゆい限りである。

 だがそれも仕方がない。方法の一つとして冷蔵する手もあったのだが、それでは常に彼女の顔を見ることができない。死蝋化させるにも時間と手間がかかり過ぎるし、彼女を腐らせない方法としては、瓶の中にホルマリン漬けにするのが一番無難だった。今後、時間と費用に余裕ができたら、死蝋化やそれ以外の防腐処理の方法を検討しておこう。

 しかしながら、たとえ瓶越しでしか妻に語りかけることができないのだとしても、家族がそばにいるというだけで、俺は十分に満足感を得ていた。

 こういう日を、ずっと待ち望んでいた。家族が常にそばにいる生活……かつての俺なら、きっと想像すらしていなかっただろう。幼少期、両親と共に暮らしていた時にはなかった幸福に満ち足りた日常がそこにあった。

 そう、俺は幸せだった。今までで一番幸せなひと時を得ていた。そこに一片たりとも嘘は入っていない。

 しかしながら、完全な理想を体現していたかというと、そうでもなかった。

 彼女が家族の一員となってくれたおかげで、それまでにない幸福を得ていたのは事実だ。しかしあくまでも一員となってくれただけであり、すべてではない。彼女との二人きりの生活も良いものではあるが、やはり俺は、もっと家族らしい家族を作りたかった。

 そのためにもまず、彼女以外の家族を迎える必要があった。妻ができたのなら、次は息子か娘が欲しいところだ。俺や妻の年齢を考えるなら、やはり六、七歳あたりの方が自然だろうか。

 とはいえ、妻の時のような出会いは期待できない。あれはたまたまラッキーが重なったおかげで出会えたようなものだ。今後家族を増やそうと思ったら、直接自分の手で殺す必要があるだろう。

 その決心は、とうの昔からできていた。一度は首を切断する作業までしたのだ──今さら人殺しくらい、なんの躊躇も覚えなかった。むしろ、新しく家族を迎えることに高揚感すら抱いていた。

 以前と違い、準備は万端に済ませた。殺しの道具はもちろん、前回は雑に死体を捨ててしまったため、シャベルもちゃんと用意しておいた。首なし死体を土に埋めておくためにだ。

 その次に、我が家族に迎えるのに相応しい人間を探した。子供が欲しかったので、休日はもっぱら幼稚園の周りか公園に赴いた。

 そうして、何度か近くの公園に通ったある日、俺はとある男の子に目を付けた。

 その男の子は六歳くらいの見た目で、近所に住んでいるのか、一人で公園に来ていた。このなにかと物騒な世の中に、随分と不用心なことだ。親はこのことを知っているのだろうか。

 しばらく様子を見ていると、その子は同年代の友達と群れるでもなく、終始一人で遊んでいた。持参したボールを、どこか寂しそうな顔をして蹴り回りながら。

 ひょっとすると、昔の俺と同じように、家族にも友達にも恵まれなかったのかもしれない。そう思うと、とても親近感が沸いた。

 あの子にしよう。俺はすぐにそう思った。俺の家族に迎えてあげよう。あの子の寂しい思いを払拭させてあげよう。

 都合のいいことに、その子の親は夕方になっても現れなかった。周りのいた人間も薄情なもので、気にしたように目線を送りつつも、声をかけようとはしなかった。現代社会の希薄な人間関係を如実に表したような光景である。まあ、今の俺にとってはありがたい話ではあるが。

 周りに人がいなくなったのを確認してから、俺はそれまで読んでいた本を閉じ、座っていたベンチから腰を上げた。

 そして、柔和な笑みを浮かべながら、俺はその男の子に話しかけた。最初、男の子は困惑したように俺を見上げていたが、流行りの玩具を見せると、その子はすぐに懐いた。もともと、人の温もりに飢えていたのかもしれない。

 それから少し一緒にボール遊びをして、完全に男の子と打ち解けたあと、俺は草むらの中にその子を誘って、周りからは見えない位置で二人きりになった。

 男の子は、これから俺に殺されるとも知らず、屈託ない笑顔を浮かべていた。そのことに多少の罪悪感を覚えつつも、俺はポケットに忍ばせていた紐を取り出し、男の子の首を思いっきり絞めた。

 男の子は苦しそうに泡を吹いて喘いだが、思っていたよりあっさりと死んでくれた。相手が子供だったからというのもあったと思うが、手間のかからない子で本当に助かった。

 男の子を殺したあと、俺は近くに停めてあった車に一旦行き、幼児くらいの体ならすっぽり入る大きめのバックを取り出し、男の子の元へと戻った。

 小さな死体をバックの中に入れたあと、車へと運んで、俺は妻の体を捨てた時と同じ山へと向かった。

 本当は、このまま自宅に行ってもよかったのだが──死体をバックに入れた状態なら、マンションの住人に気づかれる心配もなかろう──どのみちこれでは冷蔵庫に入りきらないし、妻のようにホルマリン漬けにするなら首だけが必要になるわけで、その他の部位なんて邪魔にしかならなかった。なので、山でいらない部位だけ土に埋めようと思ったのだ。

 今度の場所は、同じ山奥でも少し離れた場所にしておいた。特に深い意味はないのだが、万が一あの時の体が残っていて、ハエや蛆が沸いていたら嫌だなと懸念したのだ。

 目的地に着いた俺は、車から死体を出し、首を切り取る準備を始めた。今回は事前に入念な準備をしていたので、前回のような牛刀包丁ではなく、ちゃんと鋸を数本購入しておいた。これで骨を断つのに手間はかからないだろう。シャベルもちゃんと持ってきたので、死体を隠蔽するための手はずもばっちりだ。

 着替えを済まし、鋸を手にした時には、外はとっくに暗くなっていた。作業しやすいよう、前回同様死体をヘッドライトの前まで運び、そのそばに屈み込む。

 緊張は一切していなかった。川のせせらぎのように、胸の鼓動は一定のリズムを刻んでいた。前回は全身に汗が滲んでくるほど緊張していたというのに。

 一度人の道を踏み外すと、こうも非情になれるものなのか。心に氷が張ったように、眼前の死体になんの憐憫も感じない。

 あるいは、もともと俺の中にこういった狂気が眠っていたのかもしれない。

 目的のためならば人殺しも厭わない、そんな黒く滾った狂気が……。

 ちょっとだけ待っていてね。あともう少しだけしたら、君も俺の家族になれるから。

 心中でそう呟いて、俺は鋸を男の子の首にあてがった。そして躊躇いなく、鋸を引いた。

 ぐちゅぐちゅぐちゅ! という音と共に、血飛沫が舞う。転々と飛び散った血が俺の顔にかかり、生温い感触が肌を撫でる。

 そのまま血潮が噴き出る中、俺はほとんど無我の境地で作業に没頭した。

 今回は鋸を使ったおかげか、思っていたより早く切断できた。少し断面が粗くなってしまったが、まあ、それはまたあとで考えるとしよう。ひとます、切断した首を丁寧に布で巻き、袋の中へと入れた。あとは、死体を埋めるための穴を掘るだけだ。

 そうして俺は、鋸からシャベルへと持ち替え、地面に付着した血痕を隠すように、穴を掘り始めた。



 それからも俺は、順調に家族を増やしていった。

 新たに息子を迎え入れた俺は、その次に祖父母にするに相応しい人物を探し回った。

 最初は父と母にしようとも思ったが、どうにもその気分にだけはなれなかった。おそらく俺の中で両親という存在が忌避する対象としか映っていないからなのだろう。たとえあれらを思いのままに殺したとしても、この心に残ったわだかまりは一生消えることはないと思う。それだけ、両親という存在は俺にとってトラウマなのだ。

 それはそれとして、祖父母の件であるが、こちらに関してはほとんど時間をかけることなく、条件に当てはまる人物を見つけた。なんせこの高齢化社会だ──老人なんてそんじょそこらにいるし、最近だと孤独に老後を過ごす人も多くいる。そういった相手はなにかと懐柔しやすいし、また、急にいなくなっても周りに気づかれにくい。近年では老人を狙った犯罪が増えていると聞くが、確かにこれほど与やすい相手もそうはいないだろう。

 事実、短期間に二人の老人を殺したのだが、さほどの手間はかからなかった。

 方法としては、まず孤独を抱えていそうな老人の元へ訪問販売を装って訪ね、徐々に俺への警戒心を解かせる。それから、家の中まで招かれるようにまでなったあと、隙を見て殺害する。

 そうして、死体をあらかじめ用意していた大きめの段ボールにでも入れて車で運搬してしまえば、周囲に怪しまれることなく無事に済む。実際、近所の住人にも何度かすれ違ったが、リサイクル業者かなにかと思い込んでくれたようで、猜疑の目を向けられることは一切なかった。もしも近所の住民と密接な関係を築いていたら、こうもうまくはいかなかっただろう。あるいは、だれが出入りしたところで気にもしないほどどうでもよかったという場合も考えられるが。現実にありえそうで笑えない。

 いずれにせよ、いつかは異変に気づいただれかが警察に通報するのだろうが、行方不明事件として扱われるまで時間はかかるだろうし、変装もばっちりしておいた。ゆえに、警察が俺のところまで捜査を伸ばす心配もいらないはず。

 あとは手馴れたものだ。首を切断し、残った死体を埋めたのち、切り取った首を自宅へと持ち帰る。それから首を綺麗に洗い流したあと、事前に用意しておいたホルマリンの入った容器の中に入れるだけだ。

 こうして今や、俺は妻と息子、そして祖父母を加えた五人家族となった。

 これで、念願だった理想の家族を作ることができた。これからはもう、寂寞とした思いを抱えることもない──以前よりもいっそう幸福に満ちた毎日を、俺は過ごしていた。

 そんなある日のことだった。

 黒峰紫亜と名乗る、俺と同類の少女と出会ったのは。



 【6】



「手紙の件だけど、だれが送り主かわかったかもしれない」

 放課後のひと気のない校舎裏──そこで僕は、横に立つ黒峰にそう短く切り出した。

 午前中に降っていた大雨は午後になってだんだんと陰を潜み、頭上には薄暗い曇天だけが広がっていた。そのため、周囲は少し薄暗く、僕と黒峰以外に人影は見当たらない。もともと、こっちは人通りが少ないというもあり──近くに林が生い茂っていて虫が多いのだ──梅雨時という状況も重なって、今ここには僕と黒峰ぐらいしか人はいなかった。

 そんな静まり返った校舎裏で、黒峰はそれまで見上げていた雨雲から僕へと目線を移し、

「そう──」

 とだけ、言葉を返した。

 いかにも興味がなさそうな反応ではあるが、実はそうでないことを僕は知っていた。

 ここ最近気付いたことではあるが、黒峰が心の底から興味を示していない時は、そもそもこっちに視線を寄越したりなんてしない。反応こそ淡泊だけど、関心がある時はちゃんと話し手の方を見るのだ。面倒事が嫌いな黒峰にしてみれば、それとなく経過が気になっていたのだろう。でなきゃ、黒峰がわざわざこんなところまで足を運ぶはずもない。

「あくまで推測だけどね。だから確証が欲しくて、こうして人のいないところにまで来てもらったんだ」

 手紙の主はもちろん、同級生にも黒峰と二人でいるところを見られるのは芳しくない。そのため、いつもの教室は使えず、ここぐらいしか落ち合う場所がなかったのだ。

「確証? つまり、私の知っている人の中にいるっていうことかしら?」

 ご明察、と人差し指を立てる僕。

「一応訊いておくけれど、なにか心当たりはあったりする? 君の知り合いで、好意を持ってくれていそうな人って」

「ないわね」

 間髪入れず否定した黒峰に「……まあ、そうだろうね」と僕は苦笑する。他人にまったく無関心な、実に黒峰らしい返答だ。

「じゃあ、あまり時間もかけたくないから端的に言うけれど、僕は木下先生が怪しいと思っている」

 果たして僕の言葉に、黒峰はなんら反応を示さなかった。

 つまりは、安定の無表情。ここまで極まると、いっそ清々しいものすら感じる。

「ちなみに、木下先生がだれかは黒峰も知っているよね?」

「知らないわ」

「…………………」

 木下が聞いたら号泣しそうな返答だった。さすがの僕も同情して言葉が見つからない。

 ていうかこいつ、もしかしてクラスメートの顔と名前もろくに覚えていないのではないだろうか。そう考えると、僕の名前を早い段階で覚えてくれていたことに奇跡のようなものを感じる。そんなに喜ばしいことでもないが。

「……ほら、今日音楽室に行った時に、黒峰と話していた男の先生だよ。平坂の話じゃ、何度も向こうから話しかけたことがあったらしいぞ」

 呆れつつ僕がそう説明すると、黒峰はようやく思い至ったようで「ああ、あの人ね」と頷いた。

「そうね。確かに何度か話しかけられたことがあったわ。正直、相手をするのが面倒くさいとしか思わなかったけれど、あの人が手紙の主だったのね」

「まだそうかもしれないという段階ではあるけどね。でも、最有力候補ではあると思う」

 というより、今のところ木下ぐらいしか思い当たらない。黒峰に好意を抱いている物好きな人間なんて木下ぐらいなものだろう。

 それに、手紙に名前を書かなかったのも、差出人が教師だとしたら合点がいく。教師が教え子に恋をするなんて、倫理的にあってはならないものだ。もしもこの件が学校に表沙汰になってしまったら、おそらく厳重注意だけでは済まされない。すぐに別の学校へと異動か、最悪停職処分を受けることだろう。だから黒峰に相手が教師だと知られるわけにはいかなかったのだ。

 とはいえ、その状態がいつまで続くかは定かではない。いつか自分の気持ちを抑えきれなくなって、黒峰に告白する日もそう遠くない日にやってくるかもしれない。もしそうなれば、黒峰もその気持ちに応えざるをえなくなる。それは黒峰が最も忌避する事態だ。だからそうなる前に、どうにかして木下に諦めてもらうしか他ない。今後の僕と黒峰の利害関係を保つためにもだ。

「それで、黒峰にも訊きたいことがあるんだけど、木下先生とはいつもどんな話をしているの?」

「内容なんてほとんど覚えていないわ。どうでもいいようなことばかり言っていたから。でも、やたら熱っぽく語っていたことだけは印象に残っているわね」

 それは傍から現場を見ていた僕にもよく伝わってきていた。どう見ても興味がなさそうにしている黒峰に、よく心が折れずに長々と語れるものだと、一種の尊敬の念にも近いものを抱いたものだ。

 それにしても、やはり内容なんて覚えていなかったか。黒峰のことだから予想はできていたけれど、これでは全然参考にならない。いざ木下が手紙の主だと判明した時に備えて、色々と対策を練りたかったのに。この分だと、木下に話しかけられるようになったきっかけすら記憶になさそうだ。

「ああでも、一つだけ覚えているものがあるわ」

 と、落胆で嘆息をつく僕に、黒峰はついさっき思い出したような口振りでこう続けた。


「最近騒ぎになっている首なし死体事件について、その木下先生と二人で話し合ったことならあるわね」


「あの事件で……?」

 まさかここで首なし死体事件の話題が出るとは思わなかったので、僕は怪訝に眉をひそめた。

「木下先生と、一体どんなことを話していたの?」

「内容はあまり覚えていないのだけれど、そうね……この事件についての感想を、妙に熱っぽく訊かれはしたわね」

 それこそ、自慢の作品の感想を求めるかのように。

 黒峰はそう言って、未だ空を覆う鼠色の雲を仰ぎ見た。今のところ雨は降っていないが、さっきよりも少しばかり雲の色合いが濃くなっていた。またひと雨来そうな気配を漂わせているので、バス兼徒歩通学の黒峰も気になっているのかもしれない。

 それはそれとして、なぜ木下は黒峰に事件の感想なんて訊いたのだろう。いや、確かに黒峰の特異性を知れば、そういったことを訊こうとしたがる気持ちもわからなくはないが、けどあくまでそれは、僕のように変わった人間だけの話だ。黒峰の狂気的な内面を知れば、普通なら声すらかけられないし、ましてあんな常軌を逸した事件の感想なんて訊ねないはずだ。

 一度黒峰の深淵に触れた僕にならわかる。あれは人間が奥底に秘めている狂気の集合体だ。禁忌とも言っていい。あれに一度でも触れると、なんだか落ち着かなくなるのだ。内に隠れる狂気を刺激されているようで、とても不安な気分にさせられるのである。

 そんな黒峰の深淵に触れてもなお近寄ろうとするなんて、はっきり言ってまともな人間とは思えない。それも嬉々として事件の話をするなんて、尋常ではない。

 ひょっとすると木下は、一連の首なし死体事件に、なにかしら関与しているのかもしれない。

 憶測でしかないが、ここに来て木下という人間に俄然興味が出てきた。

 木下も黒峰と同じサイコパスかもしれないという興味が……。

「それで、黒峰はどういう風に答えたの?」

 木下のことも気になるが、とりあえず僕は黒峰に問うてみた。一度は黒峰の考えを聞いたこともあったのだが、あまり深くは話せなかったし、改めてあの事件の感想を知りたかったのだ。

「そうね。確か……」

 果たして黒峰は、記憶を掘り起こすように視線を遠退かせて、やがてぽつぽつと降り始めた雨を無表情に見つめながら、実に彼女らしい言葉でこう続けた。

「いちいち死体の首を切ってから埋めるだなんて、とても面倒くさそう──みたいなことを言ったような気がするわ」



 翌日の学校。今日も今日とて梅雨らしく大粒の雨が延々と降っており、時たま鳴り響く稲光に周囲の生徒がざわつく中、僕は外の景色に目もくれずにまっすぐ廊下を走っていた。

「先生──ホスト先生!」

 僕の呼び声にホスト先生──もとい間宮は、はたと足と止めて後ろを振り返った。

「おお、だれかと思えば碓氷かー。いきなり声をかけるもんだからびっくりしたぞ」

 間宮大己。

 二年歴史科担当の教師で、通称ホスト先生。

 曲がりなりにも教師ということもあって身だしなみはきちんとしているが、顔立ちが派手で、いかにも「遊んでます」といった雰囲気を醸し出している。ホスト先生と呼称されるだけあって軽薄な性格をしているが、存外生徒たちの人気は高く、また、見た目のチャラさに反した真面目な授業内容で、教師陣の信頼も意外と厚いらしい。

 そんな間宮ではあるが、僕に対して少年のような屈託ない笑顔を浮かべて、

「それで、なにか用か? お前が走って追いかけてくるなんて、めちゃくちゃレアじゃんか。あ、もしかして俺になんか相談事でもあるのか?」

 間宮の質問に、僕は「いえ」と首を横に振る。間宮は僕のクラスの授業を担当しているわけではないのだが、その明朗快活としたキャラで色んな生徒たちと交流を持っており、僕とも何度か話したことのある間柄なのである。

 また、その接しやすい性格からか、生徒から悩み相談を受けることがちょくちょくあるらしく、それでいつになく急いだ様子の僕を見て、なにか相談があると思い込んでしまったのだろう。

「ちょっとホスト先生に訊きたいことがありまして」

「訊きたいこと? 可愛い女の子の落とし方なら企業秘密だぜ?」

 そんなもの、別にどうだっていい。

「あはは。それはまたの機会にでも」

 いつものように間宮の軽口を適当に笑い飛ばして、僕は話を続ける。

「僕が訊きたいのは、木下先生のことです」

 木下先生? と間宮は僕の言葉に目を白黒させた。

 間宮と木下は同時期にこの学校へと赴任して来たという境遇もあって、教師陣の中では一番親しい間柄みたいだと、今日の休み時間に平坂から情報を得ていたのだ。

 なので、木下のことを詳しく知ろうと思ったら、この学校の中では間宮が最適だと考えたのである。

 状況から言って、木下が手紙の主で間違いないとは思っているのだが、今後の対策も含めて、より詳しい情報を仕入れておきたかったのだ。

「なんで木下先生のことで俺に質問なんてしてくるんだ? 訊きたいことがあるのなら直接本人のところに行った方が早いぞ」

「ああいえ、木下先生には少し訊きづらい話でして……」

 間宮のごもっともな疑問に、僕は苦笑を浮かべつつ前もって考えておいたセリフを囁くような声で呟いた。

「実は木下先生のことが好きな女の子がクラスメートにいまして、それでその女の子から木下先生のことを色々調べるように頼まれてしまったんですよ」

「ははーん。それで態よくお前がパシられたってわけか」

 僕の言葉に、したり顔で頷く間宮。

「碓氷って、いかにも女の子から都合よく使われそうな感じだもんなあ。お人好しも大概にしておかないと、いつか絶対痛い目に遭うぞ? 特にこういった恋愛系は話がこじれやすいんだから」

「ご忠告痛み入ります」

 肩を竦めて、僕は応える。まったくのデタラメなので、痛い目を見る心配なんて微塵もないのだけど、ここは話に合わせてリアクションを取るのがベストだ。でないと、間宮に怪しまれてしまう。

「まあいいや。恋する女の子のためならば、男として一肌脱がないわけにはいかないな」

 言って、間宮はにかっと破顔した。仮にも教師なのに、教え子の先生に対する想いを応援していいものなのだろうかと疑問に思わなくもなかったけれど、まあ協力してもらえるのなら、こっちとしてはありがたい限りだ。ノリが良くて非常に助かる。

「ひとまず、歩きながらでも話そうか。一旦職員室に戻らないといけないし」

 そう言って歩き出した間宮の隣を、僕も歩調を合わせて付いて行く。休み時間中に声をかけてしまったので、次の準備をしなくてはならないのだろう。そういった点を考慮して、職員室で待っているべきだったのだろうけど、万が一木下にでも聞かれたりしたら面倒なことになりかけないので、間宮が授業を終えて他のクラスから出てくるタイミングを図るしかなかったのだ。間宮には悪いが、僕と黒峰のためにも甘受してもらう他あるまい。さすがに真実まで明かす気はないが。

「それで、まずはなにを訊きたいんだ?」

 言っておくが、俺の知っている範囲でしか答えられないぞ?

 そう前置く間宮に「もちろんです」と僕は愛想笑いで頷いて、その先を紡ぐ。

「ではまず、木下先生ってだれかお付き合いしている方か、もしくは好きな人っているんでしょうか?」

「……初っ端から核心を突いてきたなー」

 僕の問いに、間宮は苦笑を浮かべつつ、

「恋人はいないって、前にはっきり言っていたな。好きな人は……どうなんだろうな? 俺も訊いたことがあるんだが、なんか曖昧に誤魔化されたんだよなあ」

 なるほど。確かに同僚である間宮に、一教師である木下が生徒に恋情を抱いているなんて、正直に言えるはずもない。ますます木下が手紙の主説が濃厚になってきた。

「じゃあ、ホスト先生から見て、木下先生ってどんな人に見えますか?」

「良い先生だとは思うぞ? 真面目で謙虚だし、物腰も穏やかだし。けど気が小さいところがあるからなあ。優しいと言えば聞こえはいいが、もっと積極的になった方がいいとは思うな。まあ、そういったところを含めて、その女の子も好きになったんだろうし、俺もそこは理解できるけども」

 概ね、平坂や他の生徒から聞いた印象と同じだ。正確にはちょっと根暗そうという意見もあったが、それほど悪いイメージを持たれているというわけでもない感じである。

「それって言い換えると、恋には奥手ってことですか?」

「まあ、俺から見た印象ではそうなるな。あ、でも最近、黒峰ちゃんとよく話すみたいな話はしてたっけなあ。現に、黒峰ちゃん本人からも聞いたことがあるし」

「え? ホスト先生って黒峰さんと話したことがあるんですか?」

 話の内容が気になったけれど、その前に間宮が黒峰と接触したことがあるみたいな口振りに、僕は思わず聞き返さざるをえなかった。

「そりゃ、あれだけの美人だからなあ。こっちに赴任した時から他の先生方に『黒峰とだけは極力関わるな』って忠告されてはいたけど、そんなこと言われたら余計興味を持ってしまうのも無理なくね? 実際変わった子だけど、目の保養にはなるし、見かけたら声をかけないわけにはいかないっしょ」

 さすがは間宮。女好きというか、節操ない部分も含めてマークを入れるのがやたら早い。教頭や校長が知れば、確実に激昂すること間違いなしだ。ま、僕には関係ない話ではあるけれど。

「話を戻しますけど、その黒峰さんと木下先生がどんな話をしていたか、ホスト先生は知っていますか?」

「うーん、なんか生物関連の話をよくするとは言っていたな。ほら、木下先生って生物担当だろ? 詳しくは知らんが、黒峰ちゃんとすごく話が合うらしいんだよ。他にも時事ネタの話をするとも言っていたなあ」

 木下には残念な話ではあるが、確実にそれは適当に相槌を打っていただけだ。黒峰本人から言質を取っているので、疑う余地もない。

 それはそうと、どうやら木下は首なし死体事件についての話だけは口にしなかったようだ。それはそうか。教え子と事件の話を嬉々として語り合っていましたなんて、どう考えても木下の立場を危うくする案件だ。他の人間には隠して当然である。

 しかしながら、これでは木下が首なし死体事件に関与しているのかどうかがいま一つ判断できない。少々話が脱線してしまうが、もうちょっとだけ突っ込んでみるか?

「……ホスト先生。最近の木下先生の様子で、なにか変わった点とかありませんでした? たとえば、少し前から急によそよそしくなったとか」

「木下先生がか? あの人はいつもよそよそしいのが標準みたいなものだしなあ。俺から見る分には、特におかしなところなんてなかったと思うぞ?」

「そうですか……」

 事件を起こした張本人ならば、なにかしら行動に変化があるはずだと思って質問してみたのだが、見事に予想を外してしまったようだ。

 となると、木下はあの事件とは無関係なのだろうか? 黒峰から首なし死体事件の話を楽しげにしていたと聞いていたものだから、てっきりなにかしら関係があるとばかり考えていたのだが……。

「それよりもお前、そんな話を聞いて一体どうすんだ?」

 木下のはっきりとしない人物像に頭を悩ませていると、間宮が訝しげに眉をしかめて疑問をぶつけてきた。

「普通こういう時って、好きなタイプとか趣味とかを訊くもんだろ? その木下先生が好きな女の子からどう頼まれたかは知らんが、関係ない話ばかりしていいものなのか?」

「それは……」

 まずい。間宮に不審がられている。少し話が横道に逸れ過ぎてしまったか。

「つーか、さっきから妙に黒峰ちゃんの話もするよな。ん? なあおい、まさかと思うが、その木下先生のことが好きな女の子って、黒峰ちゃんだったりするのか?」

「………………」

 なにやら、盛大に勘違いしていらっしゃる。

「そのガチっぽい反応、さては図星だな? うわー、マジかー。あの恋なんて微塵も興味なさそうな黒峰ちゃんがなー。これはかなりのビックニュースになるぞ~。ぜひとも黒峰ちゃんに話を訊きに行かないと」

「あー。いえ、それは完全に誤解なんですが……」

 面白半分で余計なことに首を突っ込もうとしている間宮に、さすがに看過するわけにもいかず、僕は訂正を入れる。というか、教師としてその態度は少々問題があるのではなかろうか。

「誤解、ねえ。その割に、やたら黒峰ちゃんの話題に食いついてたじゃん。本当に黒峰ちゃんとはなにも関係ないのか~?」

 猜疑の視線を向ける間宮に、僕は「あはは……」と空笑いを上げて場を誤魔化す。

 さて、一体どうしたものか。思いついたような嘘では、きっと間宮は納得してくれない。完全に木下と黒峰との関係を疑っているみたいだし、放っておけば本当に黒峰の元へと赴きそうだ。なまじ何事にも物怖じしなそうなタイプの人間なので、なおさら性質が悪い。

 物は試しに、ここは思い切って本当の話をしてみるのも一つの手かもしれない。教師である木下が教え子の黒峰に本気の恋情を──しかもすでにアプローチを仕掛けていると知ったら、さすがの間宮も放置しておけないはずだ。どのみちもうすぐ職員室に着いてしまうし、その前に答えを出さねば。

 そうして、しばし逡巡したあと、

「──ホスト先生」

「ん? なんだ、急に改まって」

 それまでの緩い笑みを潜めませて、真剣な面持ちになった僕を見て、間宮も真面目な雰囲気を感じ取ってか、顔を引き締めて歩行を止める。

 そんな間宮の正面に立ち、周囲の人間を気にしつつ、僕は耳打ちするようにこう告げた。

「実は、折り入って相談が……」

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