第3話 マイ・ファミリー【前編】
【1】
俺には、昔から家族と呼べる存在がいなかった。
いや、便宜上の家族と呼べる者はいた。でもそれは、いわゆる仮面夫婦というやつで、家族間はさながら氷のように冷えきっていた。
いつからそうだったかは、もはや記憶にもない。ただ俺の幼い頃からすでにそんな関係になっていたことだけは覚えていた。
お互い、笑顔を向けることなんて全然なかった。会話すらろくになかった。それにも関わらず俺が社会人になるまで共に暮らしていたのは、両親が教育関係の仕事に就いていたからだ。
要は幼い子供がいる内に離婚してしまうと仕事に響いてしまうので、俺が独り立ちするまでは仲の良い家族を演じていようと、そういうわけだ。
ゆえに俺も、外にいる間はとても幸せな子供を演じるよう強制されていた。なまじ俺に厳しい家庭だったため、色々な習い事をさせられては、レベルの高い教育を施された。
お前は俺の子供なのだから、偉い存在になれと。
あなたは私の子供なのだから、しっかりした大人になりなさいと。
俺に愛情なんて微塵も抱いていなかったくせして、あいつらは自分たちの勝手な希望を押し付けてきてきやがったのだ。
すべては、自分たちの築いてきた地位と尊厳を守るために。
だから俺が成人して、その後予定調和のように離婚した両親から自立して離れることが決まった時、とても歓喜した。だれにもなにも縛られることのない解放感ある生活に、俺は幸福すら感じていた。
だが、そんな幸福に満ちた日々も、あっさり虚無なものへと変わり果てた。
仕事が終わり、一人だれもいない自宅へと帰る。そこに笑い声なんてあるわけもなく、人の温もりすらない。そんな生活に、俺は虚しさしか感じられなくなっていた。
過去三十年近く生きてきて、それなりに付き合いのあった女性はいたが、両親のこともあって結婚願望なんて抱けず、そのせいか、向こうから離れていくことの方がほとんどだった。
仕方がないことだと思う。学生同士ならともかく、適齢期にもなってその意思がない相手など、いつまでもそばにいられるはずもない。
結局俺は、両親の呪縛から未だ逃れられずにいるのだ。
きっとこの何重にもかけられた鎖は、永遠に解かれることはない。この身が灰になるまで、俺の孤独は一生癒えることはないのだ。
いつしか俺は、ただ惰性に……無為に無意味に生きるようになった。
あの日が訪れるまでは……。
【2】
「ここ最近、奇妙な手紙が下駄箱の中によく入っていることがあるの」
いつも通り、放課後の教室で黒峰と一緒にいる時だった。
今回はネットで得た知識(『これであなたもスマイル美人!』とかいうタイトルの)を披露すべく、黒峰に箸をくわえさせて表情筋を鍛えてやっていると、少し喋りにくそうにそう口火を切ってきた。
箸をくわえさせているせいもあって、少し発音が聞き取りにくいなと思いつつ、僕は読んでいた小説から顔を上げて「手紙?」と眉をひそめた。
「ええ。毎日というわけではないけれど」
さすがに喋りづらいと思ったのか、口にくわえていた箸を取って、黒峰は言う。相変わらず無表情のままなので、箸の効果があったのかなかったのか判断が付かない。あとでまた笑ってみるように指示してみよう。
それにしてもしかし、黒峰に手紙を送り付ける奇特な奴がいようとは。
脅迫か嫌がらせか。はたまた時代錯誤感はあるが、果たし状の類いか。なんにせよ、手紙の送り主も随分と思い切った真似をしたものだ。俄然、興味が湧いてきた。
「それって、どんな手紙なの?」
僕の問いに、隣りの席に座っていた黒峰は、無言で机の上に置いてある鞄を開けて、中から四つ折りにされたA4半紙程度の紙を取り出した。
そのまま手紙を広げて掲げて見せた黒峰に、僕は「どれどれ」と内容を確認する。
『貴女の気高い魂は、私の心を奪って離さない』
「……なんて言うか、うん。これはかなり痛いね……」
思ったことをそのまま口にする僕。
きっとラブレターでも送ったつもりなのだろうけど、文章が臭いというか、まるで恋愛小説に出てきそうな王子さま的なセリフに、うすら寒さしか感じなかった。ひたすら痛い。
しかし、まさか手紙の内容が恋文だったとは。まさか嫌われ者である黒峰にこんな手紙を送る奴がいるなんて、予想と違い過ぎて正直反応に困るものがある。
「これ以外にもまだあるの?」
「ええ」
頷いて、黒峰はさらに鞄から同じような用紙をいくつか机の上に広げた。
椅子に座りながらでは読めないので、僕は立ち上がって黒峰の前に回り、机に置かれた手紙を上から覗き見た。
『君の孤高はその他のくだらない有象無象よりも遥かに魅力的だ』
『貴女ほど美しい人を今まで見たことがない』
『貴女は私にとって光だ。暗闇の中に灯る一筋の光だ』
机の上に置かれた手紙は、どれも黒峰に愛を伝えるものばかりだった。
しかしながら、またなんとも一方通行な愛の伝え方だ。自分の想いを綴るだけで、一切黒峰の気持ちをまるで考慮していない。見るからに危ない内容である。
こんなものを読まされて、一体だれが喜ぶというのだろう。人によっては手紙を破り捨てたくなるような気色悪さだ。正直、鳥肌が立つレベルである。
「これって、差出人はわかっているの?」
「いいえ。名前もなにも書いていないもの」
なるほど。言われてもみると、痛い文章だけで、差出人の名前は書かれていない。試しに手紙を裏返してみたり、陽光に照らしてみるも、差出人を特定できるようなものは一切なかった。
「なにか、心当たりとかは?」
「私に、そんなものがあると思う?」
「あるわけがないね」
間髪入れず否定する僕。他人に無関心な黒峰が、だれかの好意に気付けるはずがない。それこそ、真正面から告白でもしない限りは。
それ以前に、黒峰に恋慕している奴がこの学校にいるのかですら、全力で疑わしいところではあるのだが。
「じゃあ本当に、差出人不明な手紙になるわけだ」
「そうね。だから奇妙なのよ」
まあ確かに、ラブレターを送っておきながら名前を書き忘れるなんて──それも毎回だなんて、うっかりにもほどがある。となると、意図的に書かなかったと考えた方が妥当だ。
「名前を書かなかったということは、黒峰にそれを知られるわけにはいかない事情でもあったのかな?」
「私に知られたらいけない事情って?」
「さあ。それは僕にもわからないよ。手紙を書いた本人でもないと。まあ一番ありそうな線で、イタズラってところじゃないかな?」
ラブレターと見せかけて、実はただのドッキリでしたなんて、学校なら珍しくもなんともないイタズラだ。昔からよくあるイタズラだし、きっとだれかが黒峰の恥を掻くところを見たくて送った物とかに違いない。
しかし、悲しいかな──こんなもので浮かれるほど、黒峰は普通の女子高生なんてしていない。こうしている今だって、面倒くさそうな目線を注いでいるのだから。その内手紙の主も、終始一貫して無反応な黒峰に飽きてきて、こんなイタズラなんてすぐにやめることだろう。
「イタズラ、ね。それにしては、随分と手抜きのようだけれど。こういうのって、待ち合わせ場所を書いて、ターゲットが騙されてのこのこやって来るのを陰から笑って待つものじゃないのかしら?」
私は、こういう遊びに興じたことがないから、よくわからないけれど。
言いながら、黒峰は机の上に広げた手紙を鞄に仕舞いだした。どうやら黒峰は、これを単なるイタズラとは思っていないらしい。よくよく考えれば、こんな奇妙な手紙を大事に取ってあるくらいなので、なにかしら思うところがあるのかもしれない。黒峰なら、イタズラとわかった時点でさっさと破り捨てそうだし。
まさかとは思うが、本気でラブレターだと信じている……とか?
「……それはないか」
「なにがないのかしら?」
なんでもないよ、と言葉を返して、僕は再び元の席に座る。黒峰自身、だれかの好意を持たれるようなキャラでないのは理解しているはずだろうし、ラブレターだとは考えていないだろう。見てくれは美人なので、学校外ならばまだあり得る話ではあるが。
だが、万が一……億が一この手紙が本物のラブレターだったとしたら?
本当に黒峰を好きな奴が、この学校の中にいたとしたら?
その時黒峰は、一体どんな反応を示すのだろう。
黒峰のことだから、きっとどうもしないと思うが、実際に手紙の主が現れた時にどう対応するつもりでいるのか、少し気になるものがあった。
「なあ、黒峰。仮にだけど、この手紙の主が直接会いに来たとしたらどうするつもりでいるんだ? そうなったら確実に告白される雰囲気になると思うんだけれど」
「なにを言っているのかしら、碓氷くん」
僕の問いかけに、黒峰は不思議がるように小首を傾げて、言葉を継いだ。
「そうなる前に止めるのが、あなたの仕事でしょう?」
「……は? 僕が?」
どうしてそこで、僕が介入する流れになる?
「当然でしょう? でなければ、わざわざこんな手紙を残してあなたに見せたりなんてしないわ」
恋愛だなんてそんな面倒なもの、考えるだけで疲れそうだわ。
いけしゃあしゃあとそう宣って、そのシルクのような柔肌が覗く足を惜しげもなく組み換える黒峰。スカート丈が今どきの女子高生と違って長めなので、きわどい部分はちゃんと隠されているが、なまじ見惚れるような脚線美なので、どちらにせよ目のやり場に困るものがあった。また本人は至って無意識にやっているのだから性質が悪い。
それよりも、どうして手紙を残しているのかと思っていたら、厄介事を僕に押し付けるためだったのか。道理で珍しく黒峰の方から話題を振ってきたわけだ。普段なら、黒峰から話題を持ち出すことなんて絶対にしないし。
「いや、なんで僕が人の恋路を邪魔しなきゃいけないの? 恋人ならまだしも、君とはそういった関係ではないし、相手を止める理由もない。だいいち、こういうのはちゃんと黒峰本人の口から断るべきだと思う。でないと不誠実だ」
「止める理由ならあるわ。考えてもみなさい。私に気があるということは、常に私を見つめている可能性があるのよ。もしかしたら、こうしている間だってどこからか私たちを見ているかもしれない。そうなった時、困るのは碓氷くんも同じじゃないかしら?」
「………………」
それは、確かにその通りではあった。
僕と黒峰の関係は、他の人には秘密してある。別にやましいもことなんて一切ないし、お互い利害の関係だけで成り立っているだけなのだが、それでも、黒峰の評判の悪さは相当なものがあるので、自分の学校生活をふいにしてまで広めるつもりはなかった。一応学校では気の利く優しい普通の人として通しているし、黒峰と二人きりでいるところをだれかに見られでもして、変人の仲間入りになるのだけは避けたい。
それに、黒峰の奇人さ加減を知った上で好きになる奴なんて、絶対まともじゃない。もしも黒峰と懇意にしていると知られたら、一体どんな目に遭うか。危害を加えてくる可能性を考慮するなら、黒峰の言う通り、どうにかしてトラブルが起きる前に止める必要があった。
止める必要があるのだが……。
「なんだか、君に都合よく利用されているようで、納得がいかない……」
「気のせいよ」
いや、気のせいなんかじゃない。こいつは間違いなく確信犯(誤用の方で)でやっている。それも、自分が楽をするためだけに。いい性格してやがる。
「それに、まだ本当にラブレターかどうかなんてわからないし、イタズラの線だって少なからず残っているわ。これはこれで鬱陶しいから、どうにかしてほしいところではあるけれど」
「それくらいは自分でどうにかしなよ」
厚かましいことを言う黒峰に、僕は半眼になって即座に却下する。どうして僕がそこまでして黒峰のために動かなければならないのか。
とりあえず、黒峰が受け取った手紙がラブレターなのかイタズラなのかを調べる必要がある。できればイタズラであってほしいところなのだが──黒峰が苦労する分には、別にどうだっていい──なにはともあれ、怪我もなく無事に済ませたいものだ。
と、そこで、午後五時を知らせるチャイムが鳴り響いた。教室の鍵は僕が適当な理由を言って預かっているので、暗くなり過ぎない内はいつまでもここにいることができるのだが、あまり長々と学校に残るわけにもいかない事情があったので、僕は鞄を手にして帰る準備に入った。
「そろそろ帰ろうか、黒峰」
「あら。今日は早いのね。いつもならもう少しいるのに」
「うん。君の助言に従って、手紙の主に見られない内にさっさと退散しておこうかと思って。それにほら、最近この町で首のない白骨死体が相次いで発見されているでしょ? だから事件が終息するまでは、なるべく早めに君を帰した方がいいかとも思ってね」
【3】
自分の中で抑えきれないほどの寂寥感が生まれたのは、一体いつからだろう。
記憶がある限りでは、やはり一人暮らしを始めてしばらく経った頃であろうか。たぶんその時は、職場の合コンで知り合った女性と交際していたような気もするが、いつも虚しさばかりが付きまとっていたように思う。だれかと同じ時間を過ごしていても、どうしても孤独感を拭えずにいたのだ。
それは決して相手側が悪いわけでなく、俺の内側の問題だった。目に映るすべてが色褪せて見えるというか、心がいつも乾ききっていた。
なるべくそういった部分を隠して人と接していたつもりだったのだが、一緒にいる時間が長いと向こうもなんとなく気が付いてしまうものなのか、恋人が出来てもいつしか会話は減り、そうして相手の方から別れを告げられることが多くなっていた。
そして俺も、去っていく彼女らを一度として追いかけることはなかった。好きという感情はあるにはあったのだが、きっとそれは「動物が好き」だとか「子供が好き」とか言ったものに近いものがあって、本気で彼女らを愛していたわけではなかったのだと、あとになって実感した。
結局のところ、俺は他人との関係に意味を見いだせなかったのだ。
俺の周囲は、いつだって虚構に満ちていたから。
好意、信頼、友情、愛……そのどれもが、俺にとっては信じられないものばかりだった。
嘘を嫌っている俺ですら、生活のために外面を取り繕うことが多いのだ。そんな嘘にまみれた世界の、一体なにを信じろというのか。
だから俺は、いつだって人との関係には一線を引いていた。友達はいるがたまに向こうに合わせて遊ぶ程度だし、恋人ができても長続きしなかったりと、どれも俺の心の隙間を埋めてくれる存在ではなかった。
一人は寂しい。
孤独は辛い。
だが、俺はいつだって一人だった。
だれのことも信用できない俺は、孤独でいることでしか生きる方法を知らなかった。
だからか、帰ってもだれもいない自分の家にいるよりは、公園などに出向いて賑やか喧騒に包まれることに微かな安らぎを覚えるようになっていった。
しかし、所詮気休めのようなものでしかなかった。公園で戯れている人たちを──特に家族が幸せそうにしている姿を見ていると、黒々とした名状しがたいなにかが、体の奥底から沸き上がってくるような、そんな感覚によく襲われるようになっていたのだ。
それは、ある種の羨望にも近いものでもあったのだが、純粋にだれかと結婚して子を成したいという感情とは、また違っていた。自分も家族を作りたいという気持ちがあったのは確かなのだが、だれかと一緒に愛を育みたいといった、そういう一般的な感覚のそれとは異なっていたのである。
俺は幼少の頃から家族が欲しいと──実の両親のような紛いものとは違う、本当の家族が欲しいと思っていた。
でもそれは、目の前に広がっている家族とは、まったく別物だった。
俺が理想とする家族は、自分以外とはだれとも会話をしない、目も合わせない、笑顔も見せない、そんな俺のためだけにいてくれる存在をずっと求めていた。
言ってしまえば俺は、自分にとってすごく都合のいい人間を欲していたのだ。
文句も嘘も言わない、自分を偽らずにいてくれるだれかを……。
しかしながら、なんでも自分の思い通りにいてくれる存在なんて、実際にいるわけがない。それこそ人形でもない限り、俺の思い描く理想の家族なんて作れやしないだろう。
とはいえ、本当に人形を用意しようなどとは思わなかった。俺に偶像性愛みたいなものはないし、人形なんかを愛でる趣味などない。
結局のところ、理想は理想でしかないということなのだろうか……。
などと諦観に暮れていたある日、その瞬間はやって来た。
その日はいつも通り夜遅くに仕事を終えて、帰路に着こうと車を走らせていた。
人通りがほとんどない田舎道を自家用車で走っていると、突然ヘッドライトの光の中から、人影のようなものが見えてきた。
よく見ると、それは二十代くらいの女性だったようで、酒かなにかに酔っているのか、不用心にも道端の電柱にもたれ掛かるようにして倒れていた。
特に助けるつもりはなかったのだが、どかさないと車が通らなかったので──田舎道なので、幅が狭いのだ──しぶしぶ俺は車を止めて、彼女にそばに寄り添った。
そこで気が付いたのだが、どうやら彼女は酔っ払っているわけではなかったようで、酒臭い匂いがしなかった。なので、なにかの事故か病で倒れている可能性が高かった。
大丈夫ですかと声をかけるも、反応はなし。いよいよ本当に意識を失っている線が濃厚だったので、俺は彼女の口に耳を寄せ、呼吸があるかどうかを確認した。
呼吸は……なかった。
試しに頸動脈を計ってみるも、指に躍動する感触がなかった。むしろ彼女に触れた肌が異様に冷たくて、生きているという感じがしなかった。
原因はわからないが、死んでいる──そう断じるしか他ない状態だった。
普通なら、ここで救急車を呼ぶなり通報するなり、だれかの助力を求めるものなのだろう。
だが俺は、そのどちらの方法も取らなかった。
周囲に人がいないのを確認したあと、俺は倒れている女の脇に両腕を入れて、そのまま車の後部座席の中へと押し込んだのだ。
その一連の行動に、一切の躊躇はなかった。まるで事前に命令を受けていたかのように、体が勝手に──そしてスムーズに動いていた。
自分が一体なにをしているのかという自覚はあった。どれだけ異常な真似をしているのかというのも。
だが、俺はその行為をやめる気にはなれなかった。
チャンスだと思っていた。自分の家族を作る絶好の機会だと。
彼女は死体だ。もう話すこともなければ、動くこともない。嘘を吐くこともなければ、演じることもない。自分の意のままにできる、人形のような存在。けれど決して人形などではない、俺が理想としていたもの。
まさか自分の中にこんな異常性があるとは思っていなかった。とはいえ、それほど動揺もしていない自分もいた。
あたかも、最初からこの黒く歪んだ部分を受け入れていたかのように。
俺は無言で車を走らせていた。後部座席には死体が乗っているというのに、終始落ち着いて車を運転していた。たまに対向車とすれ違った時などは、さすがにひやっとはしたが。
そうして死体を乗せた車を十四、五分ほど走らせたあと、俺は自宅マンションの駐車場へと停めた。そして、念のため死体をだれにも見られないよう後部座席の下に転がしたあと、自宅へ向かうために車を出た。
本音を言えば死体も一緒に持っていきたかったところなのだが、自宅は割と高層にあって、死体を担いでいくだけの腕力が俺になかったのだ。それ以前に、死体を運んでいる姿なんてだれかに見られでもしたら面倒だ。見た目は眠っている人を運んでいるだけと思い込んでくれそうだが、ニュースかなにかで彼女の顔写真が出回るようになった時、真っ先に疑われるはこの俺だ。彼女の全身を晒したまま、自宅まで運ぶなんて愚の骨頂である。家族を作る前に刑務所行きになんて絶対に御免だ。
なら、どうやって彼女を自宅まで運べばいいか。
簡単だ。解体してしまえばいい。
推理小説だと定番ではあるが、重い死体を持ち運ぶのにもっとも楽な方法は、一度バラバラにして鞄の中に入れてしまうことだ。これなら持ち運びも楽に済むし、なにより死体を見られる心配もない。一石二鳥だ。
解体するのに抵抗がないと言えば嘘になるし、どちらかと言えばそのままの状態で保存したいところなのだが、この死体もいずれは腐る。そうなれば異臭が近隣にも届きかねないし、最悪、通報されてしまう危険性がある。多少残念ではあるが、今後のことを考えれば、やはり解体して冷凍庫に入れておくなどしておいた方がいい。うちにはかなり大きめの冷蔵庫があるし、解体した人間ならば一人くらい余裕に入るスペースもある。しかし、できれば普段から家族の顔を見ていたいので、あとでちゃんとした保存の仕方を調べた方がいいだろう。だが今は、解体の方に集中すべきだ。
幸い、俺の家には牛刀包丁(前に同棲した彼女が料理好きで、別れた時に持ち運べなかった道具を置いていってくれたのだ)があったので、それでどうにかできるはずだ。人間の解体なんて無論初めてだし、予備知識すらないが、まあ、ここまできたらどうにかするしかあるまい。
自宅に戻り、一通り必要なものをボストンバックに入れて、再び駐車場へと向かう。途中、マンションの住人とすれ違うこともあったが、だれにも不審がられずに会釈だけで済んだ。まさかこのバックの中に、人間の死体を解体するための道具が入っているとは、夢にも思うまい。
そうして俺は、自分の車へ戻り、後部座席にボストンバックを置いてその下にある死体を確認したあと、車のキーを刺し込んで、エンジンをかけた。
車を一時間以上走らせて、市外にある山奥を目指す。これから死体を解体するのに、人目のつくところで作業をするわけにはいかない。できたら人のいない、あとの処理も簡単な場所がいい。それで考えたのが山の奥だった。
暗い山道を走り、舗装されていない砂利道を少し進んだあと、俺はヘッドライトを点灯させたまま、車を停めた。
車から下り、ボストンバックをヘッドライトの前に置いて、次に死体を運ぶ。死後硬直が始まっているのか、掴みどころがなくて持つのに苦労しつつ、死体をボストンバック同様、ヘッドライトの前まで運んだ。
一息ついたあと、俺はボストンバックを開き、中から上下黒のジャージを取り出した。返り血対策のための着替えだ。
今着ている服を脱ぎ、ジャージに着替える。そして、途中のコンビニで買ってきた軍手をはめて、牛刀包丁を手に取った。
普通の包丁よりも一回り大きい刃。まさか元カノの置き土産をこうした形で使うことになろうとは。彼女がいて良かったと思えるような瞬間なんてほとんどなかったが、この時ばかりは彼女がいたことに感謝した。
ありがとう。君のおかげで、俺は新しい家族を作ることができる。
抜き身に俺の邪悪な笑顔が映り込む。俺って、こんな顔もできたのか。人といる時以外は無表情でいることが多いので、なんだか新鮮だ。だれかに見せられるような笑顔ではないが、不思議と悪い気はしなかった。むしろ、どこか清々しい。
きっと、今の顔こそが俺本来の姿だったのだろう。これまでは腹の底に沈ませていた、黒く濁った感情。それをすべて曝け出したのが、今の俺だ。家族を得るためならば躊躇いなく手を血に染める。
罪悪感なんてまるで感じていない。それどころか、念願の家族を迎え入れることに、先ほどから高揚しっぱなしだ。
収まらない胸の鼓動を鎮めるように深呼吸したあと、俺はボストンバックから牛刀包丁を強く握りしめて、死体のそばに屈み込んだ。そして、刃先を首にあてがう。
まず最初に切るべきは、やっぱり首だろう。というより、首を切らないことにはなにも始まらない。顔がないと話しかけることもできないのだから。
緊張に喉を鳴らしつつ、俺は牛刀包丁の背に片手を添える。あとは力を込めるだけで、刃が肉に食い込み、首を切断できるはずだ。
そうして俺は、再び深呼吸を繰り返したあと、一気に力を込めた。
ずぶっ、と刃が肉に食い込む。刃が沈む度に血が溢れ、地面が赤く濡れる。生温い血が手にかかり、ぬめっとした感触が肌を撫でる。
途中、かつっと刃が硬いものに当たった感触がした。刃を少し離してみると、白い骨が微かに覗いていた。ここからが大変だ。肉はなんの支障もなく切れたが、骨となるとそう簡単にはいくまい。一層力を込める必要がある。
よしと気合いを入れ、のこぎりの要領で骨に刃を食い込ませていく。
ごりごりと骨の削れる音が夜陰に響く。木々のざわめきや虫の鳴き声が辺りを包む中、骨の音だけが異質に奏でられる。さながら、気分は山姥だ。こんな現場をだれかに見られたら、かなりのトラウマものになることだろう。卒倒する者がいてもおかしくない。
額に汗を滲ませつつ、何度も何度も牛刀包丁を押しては引かせる。やがて、骨を断ち切った感触がして、そのまま刃を押し込んだ。
ずぶずぶずぶ! とそれまでの苦労が嘘のように、いっそ軽快なほど刃が通っていく。そして、ようやく薄皮一枚といったところで、俺は地面に刃を当てないよう慎重に皮だけを切って、首と胴体を分断させた。
ごろっと、彼女の顔が俺の方に向く。額の汗をジャージの裾で拭い、牛刀包丁を地面に置いたあと、俺は切断したばかりの頭を持ち上げて、彼女の顔をまじまじと見た。
彼女の顔は、まさに死人といった感じだった。血に濡れたセミロングの黒髪。焦点の合わない空虚な瞳。ぷりっとした唇からほんのりと血が零れ、口の周りは赤黒く彩られていた。
その口の周りに付いた血を指で拭い、そのまま唇に塗り付けた。乱れた髪を手櫛で梳いて整え、正面からまじまじと眺めた。
綺麗だった。本当は血を洗い流した方がもっと綺麗なのだろうが、今でも十分魅力的だった。
彼女が一体どんな人だったのかは知らない。彼女の口から倒れた時の詳細を聞くこともできない。彼女の声すら聞くこともできない。
だが、これでいい。嘘しか言わない口なんて必要ない。これから彼女は俺のためだけにいて、俺のそばにだけいてくれればそれでいいのだ。今の彼女を愛せるのは、きっと世界中で俺だけなのだから。
彼女との生活を想像する。朝起きて、まず横に眠る彼女に「おはよう」と声をかける。俺が入念に手入れをした黒髪を一通り撫でて、彼女と一緒に起き上がる。
彼女をテーブルの上に置いて、朝食を一緒に取る。それから仕事の準備を済ませたあと、行ってきますと挨拶をしてから、外に出かける。
思わず口許が緩む。想像しただけで、心が幸福感に満ちていく。自分を偽らず、偽れることのない世界。今までの色褪せた世界に虹が広がるように、目に見えるすべてが彩られていくようだ。
これだ。俺はこれをずっと待っていた。今日まで生きて、これほどまでに魂が震えたことは一度もない。最高の気分だ。
と、我に返って、俺は足元にある首なし死体を見た。
真っ赤に染まる地面。血は未だに切断部から流れ続け、止まる気配がない。
こうして一番重要な部分を切り離したはいいが、残りの分はどうするべきだろうか。思っていたより時間のかかる作業だったし、これをバックに全部入るまで解体するとなると、かなり手間がかかってしまう。明日も仕事があるし、できれば手早く処理しておきたい。
ふと考えてみたが、頭以外の部分なんて持ち帰る必要なんてあるのだろうか。切り離してしまえば、もうそれはただの付属品のような物であるし、あるだけ邪魔な気がする。要は語りかける相手がいればいいだけで、頭さえあれば十分に事足りてしまうのだ。
それとこれから先、同じようなチャンスが巡った時、あまり余計な部分を持ち運んでは、次の新しい家族を迎えてあげられなくなってしまう。家族は多ければ多いほどいい。こんなチャンスがまた来るなんて保証はないが、家族を増やせる可能性があるのなら、ある程度スペースのことも考慮しておいた方がいいだろう。
となると、選択肢は一つ。
このまま、首なし死体を放置することだ。
いや、さすがにこのままはまずいか。車が通れるだけの道幅はあるし、ここに人が来ないとも限らない。本当は土にでも埋めた方がいいのだろうが、生憎と、そこまでの準備はしてこなかった。せめて、どこか一目ではわからない場所に隠した方が無難だろう。
ちょうどいいことに、ここは山奥だ。崖の上から捨ててしまえば、きっとすぐにはわからないはずだ。うまくいけば、そのままずっと見つからずに済むかもしれない。本当は持ち帰ってだれの目にも付かないところに隠しておきたいところだが、今回ばかりはやむをえまい。
そう思索を練ったあと、俺は念のため用意しておいた小型の懐中電灯を口にくわえ、首なし死体を担ぎ上げた。
それから、近くの崖まで死体を運んだあと、俺は真下を確認した。
急な斜面。その下は鬱蒼と木々が生えており、吸い込まれそうなほどの闇が広がっていて、奥の様子はまるでわからなくなっている。ここならば、死体を落としてもうまい具合に隠れてくれることだろう。
確認し終えた俺は、死体を下ろし、そのまま足で蹴って死体を崖下へと落とした。
しっかりと首なし死体が闇の中に消えたのを見届けたあと、俺は自分の車へと戻った。
愛しの家族が待っている場所へと──
【4】
ザーッと横殴りの雨が降っていた。雨で濡れた窓から見える空はどこも雨雲に覆われていて、どこの教室も昼前から照明を点けていた。今のところ各教室だけなので、他は暗いままなのだが。
そんなどこか薄暗い廊下を歩きながら、僕たち二年四組の面々は、次の授業先である音楽室を目指していた。
とは言っても、みんなで固まって動いているわけではないので、そこに統一性なんてものはない。みんな、それぞれ仲の良い者同士で集まって、楽しそうに談笑しながら音楽室へと向かっていた。
それは僕とて例外ではなく、向こうの方から声をかけてきた平坂と、これといって取り留めのない雑談を交わしながら二人で歩いていた。
ちなみに向島はというと、ここにはいない。本来ならばあいつも一緒に来ていそうなところではあるのだが、あいにくと今日は日直だったので、いの一番に音楽室の鍵を開けなければならない役割があったのだ。
平坂に気があるあいつのことだから、こうして二人を歩いているところを見られたら、なにかと邪推されそうだ。やましいことなんてなにもないし、たとえ話の内容をあれこれ訊かれたとしても、普通に答えるだけではあるのだが。
「そういえば、また新しいのが見つかったんだってねー」
と、それまでドラマやバラエティー番組の話をしていた中、平坂がふと思いついたようにそんな言葉を漏らした。
「新しいのって、なにが?」
「ほら、首なし死体のことだよ。よくテレビでもトップニュースで報道してるでしょ?」
平坂の返答に、僕は「ああ、そっちね」と言葉を返す。
確かに、最近のテレビはどこもかしもこの話題で持ち切りだ。市内にある山奥に遺棄されていた首なし死体。それも何体もの死体が警察の手によって発見されたのだから、マスコミ各社が揃って食いつくのも無理はない。
僕もこの事件が発覚した時から注目していたので、大体の概要は報道番組などで頭の中に入っている。そもそも事件が発覚したのは一週間近く前のことで、最初に発見されたのが成人女性の、それも白骨化した首なし死体だった。山菜採りに来ていた人たちが、偶然崖下に転がっていた被害者の白骨を発見し、それから警察が殺人事件として捜査を始めたのだ。
すると驚くべきことに、遺体はこれだけではなかったようで、二体目三体目と、土に埋まった状態の首なし死体(こっちも虫に食われてか、すでに白骨化していた)が続々と発見されたのである。
「確か、小学生くらいの男の子だっけ。昨日の夕方に見つかったのって」
「そうそう。これで四体目なんだってー。一体どれだけ山の中に隠したんだろうねー」
怖いよねー、と平坂は両腕の肌をさすって顔をしかめた。六月中旬になり、蒸し暑い日が続くようになって、僕らの高校では半袖でいるのが当たり前となっていた。けどこういう雨の強い日は、若干肌寒いかもしれない。
「最初の死体が成人女性で、次が六十代の男性。その次が七十代の女性で、そして今回の男の子……か。こうして改めて考えてみると、全然共通点がないよね」
「あ、本当だ。年齢も性別も見事にバラバラだね。でも、じゃあなんでこの人たちを狙ったりしたんだろう?」
首を傾げる平坂に、僕も「さあ?」と返す。
警察の調べでは、被害者同士に血縁関係はなく、また、互いに交遊していた様子も見られなかったらしい。つまり被害者たちは、互いにまったくの無関係だったというわけだ。
「少なくとも、強姦や強盗目的の線はないだろうね。ニュースだと衣服に目立った乱れはなくて、所持品もそのままだったみたいだから」
「う~ん。強盗とかじゃないんだったら、なにか恨みがあったとか?」
「それもどうだろう。まだ幼稚園児くらいの男の子に、親でもない人間が殺害するほどの恨みなんて持つものなのかな? それに怨恨があったのなら、わざわざ首なんて持っていかないと思うんだけど」
殺したいほど恨んでいる奴の首なんて、普通ならそのまま放置するはずだ。いくらなんでも、自宅に持ち帰ったりはしないだろう。
ならばなぜ、邪魔にしかならないはずの首を──それも四体もの数の首を犯人は持ち去ったのか。そこが謎でならなかった。
そこまで話すと、平坂は小難しそうに眉間を寄せて、
「首を持って帰った理由か~。確かに謎ではあるよね。あ、もしかして、犯人は美容師の見習いさんで、髪を切る練習がしたかったとか?」
「それなら、最初から練習用のドールを買うような気もするけどね。もしくは、知り合いとかに髪を切らせてもらうとか。なんにしても、リスクが大き過ぎるよ」
「それもそっかー。じゃあ、顔だけが好きな変態さんとかなのかな?」
「案外、そんなところなのかもね」
四人もの人間を殺害している時点ですでにまともじゃないが、頭部を全部持ち去るなんて、どう考えても異常だ。真っ当な理屈を付けるより、平坂の言っていた通り、変態の仕業とでも思った方がしっくりくる。
となるとこの犯人、サイコパスである可能性が非常に高い。
それもかなり下劣な、犯罪史上稀に見る類いのサイコパスである可能性が。
「変って言えば、どうして最初の死体だけ土に埋めなかったんだろうね?」
平坂の疑問に、僕は「たぶんだけど」と前置いて、言葉を紡ぐ。
「最初の死体だけ、もともと埋めるつもりなんてなかったんじゃないかな。突発的に被害者を殺してしまって死体の処理に困った犯人が、ひとまず山奥の崖にでも捨てたとか、そんな感じだったのかも」
「わー。なんだか碓氷くん、マンガに出てくる探偵みたい。名推理ってやつだね!」
そんな大それたものじゃないよ、と苦笑する僕。本当は僕が考えたものではなく、黒峰から聞いた推理だったのだが、わざわざ話すことでもないだろう。正直に言ったら後々面倒なことになるのは目に見えている。
実を言うとこの事件、黒峰から話を聞いてみたことがあったのだった。同じサイコパスである黒峰なら、なにか興味深い意見が聞けそうだと思って。
最初、この事件に関する話をした時、黒峰はあまり詳しい事情は知らなかったみたいで、一から説明する必要があった。あれだけ連日騒がれているのに、なにかの死体が見つかったとしか知らなかったと聞いた時は驚いたものだが、まあ、黒峰らしくはある。
そんなわけで、事件の詳細(テレビやネットで仕入れた情報ではあるが)を話してみたのだが、黒峰は始終面倒くさそうに嘆息しつつ、先ほど僕が平坂に話したのと同じ意見を口にしたのだ。
いや、正確にはまだ続きがあった。黒峰は、話の最後にこんなことも言っていたのだ。
「あるいは、単に漁夫の利に乗っただけかもしれないわね。最初の死体だけ、犯人が殺したというわけではなくて、たまたま始めから死んでいた被害者を見つけて、必要な部分だけを……つまり首だけを持ち去ったとか」
そう黒峰は言い切り、それ以降は、面倒がって事件の話をしようとしなかった。
これがどこまで真実を突いているかはわからない。けど前回の事件の時、犯人の動機を言い当てた黒峰ならば、それなりに信憑性はあるんじゃないかと僕は考えている。
事件が発覚したことで、この先犯人がどう動くかはわからない。日本の警察は優秀な方だし、すぐにでも逮捕されても不思議ではないが、できたらこの犯人がどういった心理でこの事件を起こしたのか、直接問いただしてみたかった。
サイコパスを完全に理解できるようになるために。
ひいては、僕の目的を少しでも早く果たすために……。
ちなみにその黒峰が今どうしているかというと、さっさと一人で音楽室に向かったため、すでにこの近くにはいなかった。黒峰の頭の中では、鼻からだれかと一緒に行動するという選択肢がないのだ。まあそれ以前に、周りにいる人が黒峰と共に行動するのを嫌がるだろうけど。
話変わって、黒峰に送り付けられた手紙の件になるが、調査は現在も続けているものの、正直言ってかなり難航している。というか、黒峰が深く関わっている案件なので、聞き込みがとてもしづらいのである。もしもの場合、黒峰に気があるのではないかと誤解でもされたら最悪だ。まだ高校生活も一年半以上残っているのに、こんなことで面倒な立場になるのは御免被りたい。
だからと言って、このまま放っておくこともできない。黒峰も懸念していたが、向こうは常に好きな人──すなわち黒峰を陰からずっと見ている可能性がある。それで放課後に黒峰といるところを見られようものなら、確実にあらぬ噂が出回るに決まっている。
そのせいで、今のところ放課後の特訓も休止してしまっているし、ここ最近は黒峰とも全然話せていない。まあ、どのみち首なし事件が解決するまでは、仮に笑顔の特訓を再開しても早めに帰すつもりではいるけども──黒峰を危険な目に遭わせるわけにもいかないし──今後、あの事件もなにかしら進展があるだろうから、ぜひとも黒峰の見解も聞いてみたいところだ。そのためにも、さっさと手紙の主を見つけて対処しなければ。
などと、思索に耽りつつ平坂の言葉にも不自然でない程度に相槌を打っていると、
「……あ。黒峰さんだ……」
ふと漏らした平坂の声に、僕は意識を前方へと戻した。
そこには平坂の言う通り、確かにだれよりも先に音楽室へと行ったはずの黒峰が立っていた。
それだけなら、別段注目するようなことでもない。なにかと目立つ存在の黒峰ではあるけれど、普段なら僕も平坂も、怪訝に思いつつ黙って横を通り過ぎていたはずだ。
それでも足を止めたのは、黒峰がとある男性教師と二人で話し込んでいたからだ。
あのだれからも恐れられる黒峰と、だ。
「……黒峰さんの横にいる人って、確か今年の四月に赴任したばかりの先生だっけ?」
「あ、うん。生物担当の木下先生だね。愛莉たちのクラスの生物は受け持ってないけど」
ああ、そうだ。確かそんな名前だった。地味というか、見た目の印象が薄かったので、どうにも記憶があやふやだったけれども、平坂の言葉でようやく思い出した。
黒髪に黒ぶちの眼鏡。顔はまあまあ整っている方ではあるが、その特徴の無さがより印象を薄くさせてしまっている。唯一目立つポイントがあるとするなら、ジャージの上から着ている白衣くらいなものだ。
そんな木下ではあるが、いつも通り仏頂面でいる黒峰に対し、時折笑顔を覗かせながら話しかけている。遠くからなのでどういった会話をしているのかはわからないが、木下だけは楽しそうに目元を緩めていた。
「木下先生って、あんな気さくに声をかけるようなタイプの人だったっけ?」
「んー、どうだろう。愛莉もほとんど話したことはないしなあ。でも他の人たちからは、真面目でおとなしい先生ってよく聞くよ。基本的に優しい人だし、聞かれたことには丁寧に教えてくれるから、別に評判は悪くないけど、人気だけでいうなら、ホスト先生の方が断然生徒受けはいいかな?」
ホスト先生とは木下と同時期に赴任してきた歴史科担当の教員で、名を
「それを聞くと、ますますびっくりしちゃうな。僕以外にも、黒峰さんに平気で話しかけられる人がいたなんて」
「あ、そっか。碓氷くんは知らないんだっけ? 木下先生、割とちょくちょく黒峰さんに声をかけたりしてるんだよ」
「え、そうなの?」
「うん。体育の授業の行き帰りに、たまに木下先生とすれ違う時があるんだけど、それで向こうの方から黒峰さんに話しかけているのをよく見かけるよ。男子たちとはいつも授業を受ける場所が違うから、碓氷くんは知らなかったかもしれないけど」
確かに、それは初耳だ。まさか木下と黒峰がそんな仲になっていたなんて、正直かなり意外である。
そうこうしている内に、話を切り上げたらしい木下が、軽く手を振って黒峰と別れ、近くの教室へと入っていった。黒峰もそれを見送ることなくすぐさま体の向きを変え、音楽室の方向へと歩いていく。傍から見ていると一方的に話しかけてきた木下に黒峰は仕方なく付き合っていたという風にも受け取れるが、果たしてどうなのだろう。本人に訊かないと真意は掴めそうになかった。
「碓氷くん、どうかしたの?」
あまりにもジロジロと黒峰たちのことを見ていたせいか、平坂が訝しげに眉をひそめて問うてきた。
「あの二人のことが、そんなに気になる?」
「ん? ああいや、別になんでもないよ」
「え~? 本当に~? 実は内心焦っていたりして~」
「そういうのじゃないって。ほら、早く音楽室に行こう」
どうやら余計な妄想を膨らませているらしい平坂の背中を押して、再び音楽室へと足を進める。
ひょっとすると手紙の主を見つけたかもしれないと、内心そう考えながら。
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