第1話 また会う日まで【前編】


 【1】



 仮に、黒峰くろみね紫亜しあという少女を漢字一文字で表せと言われたら、僕なら迷いなく「無」だと答える。

 無口。無表情。無愛想。無関心。無感動。

 そのどれもが彼女──クラスメートである黒峰紫亜を端的に表した言葉だ。

 念のために言っておくと、先の言葉に一切の誇張はない。黒峰と接したことのある者なら──彼女を知っている者なら、必ずと言っていいほど同じように表現するはずだ。

 付け加えて言うと、ほとんどの時間を孤独に──しかも本を読むでもなく人形のように固まって自分の席で過ごすものだから、彼女の不気味さをより際立たせていた。

 そんな陰気な雰囲気を常時纏っているせいもあって、クラスメートのほとんどが黒峰を敬遠していた。別段いじめられているというわけではないのだが、まるで危険なものから遠ざかるように、だれも近寄ろうとはしなかった。

 黒峰と初めて同じクラスになってかれこれ一か月以上経つが、だれかと親しげにしているところを、未だに一度も見たことがないほどに。

 おそらく、黒峰と関わってはいけないという空気がすでにできあがっていて、一層ハードルを上げてしまっているのだろう。そのため、黒峰と積極的に関わろうとする人間なんて、僕が知る限りではだれ一人としていなかった。

 唯一、僕だけを除いては。

「黒峰さん。ちょっといいかな?」

 休み時間、クラスメートたちの賑々しい声が響く中、いつもと変わらずなにするともなく自分の席で黒板の方をじっと見つめていた黒峰に、僕は正面から声をかけた。

「この前出てた古典の宿題なんだけど、今日のお昼までに提出しなきゃいけないんだ。やってあったらでいいんだけれど、よかったらここで出してもらえないかな?」

「………………」

 笑顔で話しかける僕に、黒峰は一切表情を変えず、相変わらずの無表情で机の中から一冊のノートをそっと取り出した。

「ありがとう、黒峰さん」

「………………」

 礼を言ってノートを受け取る僕に、黒峰は一言も口を開くことなく、再び人形みたく正面を向いたまま静止した。

 そんな彼女に苦笑しつつ、僕は黒峰から離れる。

 そうして、教室から出たすぐの廊下まで来たところで、

「はい、小山こやまさん。ノート持ってきたよ」

 と、近くで待機していたクラスメートの女子に、黒峰のノートを手渡した。

「ありがとう碓氷うすいくん。助かっちゃった」

 ノートを受け取って安堵の笑みを浮かべる小山に、僕も「どういたしまして」と微笑み返す。

「ごめんねー。こんなこと頼んじゃって。本当なら日直の私がみんなの宿題を集めなきゃいけないんだけど、ほら、黒峰さんって近寄りがたいところがあるから……」

 周りの目を気にするように、小山が声をひそめて言う。大抵の人間は黒峰の陰口を聞いても共感するか気にも留めないかのどちらかだと思うが、比較的おとなしそうな女の子なので、そういった行為は好かない性分なのだろう。僕もそういった話題は苦手なので、気持ちはよくわかる。

「別に構わないよ。それより、時間は大丈夫? 早く職員室に行かないと、次の授業に間に合わないよ?」

「あ、そうだね。本当にありがとう、碓氷くん!」

 そう礼を述べて、みんなから集めた古典のノートを抱えながら、小山は足早に廊下を駆けていった。

 小山の後ろ姿を見送りながら、教室に戻ろうと戸に手をかけたところで、

「なんだよ新汰あらた。まーた黒峰の件でパシられたのか?」

 と、不意に横から声をかけられた。

 そこには同じクラスの向島むかいじま達樹たつきと、同じくクラスメートである平坂愛莉が二人並んで立っていた。二人ともジュースの入ったペットボトルを持っていたので、休み時間中に中庭にある自販機置き場まで行っていたのだろう。

「新汰ってほんとお人よしだよなー。イヤならイヤって言えばいいのに。でないとあいつら、これからもお構いなしにどんどん頼んでくるぞ?」

 向島が自分の坊主頭を撫でながら、呆れたように半眼になって言う。本人いわく、どこにも部活に所属していないらしいのだが、体格が比較的がっしりしているのと、肌が元から浅黒いせいもあって、見た目は高校球児みたいである。

「いや、僕なら平気だよ。どうせ暇だしね」

「まあ、お前がそれでいいなら、オレも別にいいんだけれどよー」

「でも碓氷くんって、本当に勇気があるよね」

 向島の隣りに立つ平坂ひらさかが、のほほんと口許を緩めて僕に言う。

 平坂は同い年とは思えないほど童顔な方なのだが、茶髪のボブカットに緩く着崩した制服という、いかにも今時の女子高生といった装いをしている。若干中学生が背伸びしている感も拭えないが、それも含めてなんだか微笑ましく思える外見だ。

 さらに言うと顔は可愛い方だし、背は低めだがスタイルもいい方なので、男子からの人気も割と高い。だが本人はだれとも付き合うつもりがないらしく、今まで告白してきた男子たちをすべて断ってきているのだとか。おそらくは、恋人と遊ぶことよりも友達との時間を大事にしたいというタイプなのだろう。

「ほら、黒峰さんってどことなく怖い雰囲気があるでしょ? 先生だって話しかける時によく顔が強張っていたりするし。たぶん、碓氷くんぐらいじゃないかな。平然と黒峰さんに話しかけられるのって」

「そうかな? というか僕からしてみたら、みんなの方が過剰に黒峰さんのことを怖がっているようにしか見えないけれど」

「そうかもしれないけど、でもやっぱり怖いものは怖いよー。なんだか生きた感じがしないっていうか、どことなく幽霊みたいというか……」

「それな。黒峰ってすげえ美人だけど、いつも無表情だから余計怖く見えるんだよなあ。呪いの日本人形みたいっていうかさ。夜中に突然現れたらだれでもビビるね、あれは」

 確かに、黒峰はかなりの美人だ。どのパーツも精巧にできた人形のように綺麗に整っているし、腰まで伸びる黒髪はとても艶やかで、難癖を付ける部分がなに一つとしてない。それこそ、テレビに出ているアイドルや女優にまるで見劣りしないくらいに。

 だがそれが原因で、向島みたいに恐怖心を抱いてしまっている人も多い。呪いの日本人形というのも、言い得て妙かもしれない。黒峰ほど幽鬼的な雰囲気を漂わせている女性なんて、そうそうお目にかかれるものではないのだから。

「そうは言うけど、二人とも用事がある時なんかはちゃんと話しかけているよね? それって、内心では嫌々声をかけてたりするの?」

「答えづらいことをストレートに訊いてくるね……」

 と困った風に苦笑する平坂。

「嫌々と言ったら語弊があるけど、でもやっぱり怖々と話しかけてはいるかな? どっちにしても、黒峰さんにしてみたら失礼なことに変わりはないんだろうけど……」

「オレもそんな感じだな。つっても、別に雰囲気だけで避けてるわけじゃないぜ? ほら、例の噂もあるしさ」

 噂。

 それは僕たち二年生ならば知らぬ者はいないぐらい、黒峰紫亜の名を広く知らしめることにもなった衝撃的な内容だった。

 具体的にどういった内容なのかと言うと、話は去年の夏頃にまでさかのぼる。

 去年の夏──つまり高校に入学して完全にグループも出来上がっている頃、その時からすでに黒峰紫亜は、周りから不気味な存在して距離を置かれていた。

 それは決して今ほどじゃなくて、なんなら何人かの男子に告白されたこともあるらしいのだが、大抵の人間から気味の悪い人間だと思われていたようだ。

 そして、そういった異質な存在は、えてして大衆の中だと爪弾きにされるものだ。その例に漏れず、黒峰もイジメに近い被害を受けていたらしい。

 イジメといっても、露骨に暴力を振るわれたり、面と向かって罵倒されるほどではなかったらしいのだが、それでも靴を隠されたりとか、黒峰だけに掃除を押し付けたりとか、そういった陰湿な真似をされたようだ。

 しかしながら、そういった嫌がらせにもまるで気にした素振りを見せず、それどころか平然と学校生活を送る黒峰を見て、イジメグループ(ちなみに全員女子だったとか)も次第に苛立ちを覚え、ついにとある暴挙を行ったのだと言う。

 それが、黒峰の机に大量の爬虫類や昆虫の死骸を投棄するというものだった。

 そこまでして黒峰を精神的に追い込もうとする執念に、噂を聞いた当時の僕は感心すら覚えたものだが、その悲惨とも陰惨ともいえる状況に、これまで静観するのみで外野に徹していた一部のクラスメートたちも相当ドン引きしたらしい。

 どうやらそのイタズラは、黒峰が登校する前に決行されたらしいのだが、イジメグループの陰湿なやり口に不快感を抱きつつも、だれも死骸の山を片付けようした人はいなかったそうだ。だれだって死骸なんて触れたくもなかったのだろうけど、それ以上に、イジメグループの報復を恐れたのかもしれない。

 さしもの黒峰紫亜も、これを見たら悲鳴を上げて逃げ出すことだろう。

 そんな密かに同情の声が囁かれる中、当の黒峰はみんなの予想を遥かに超えた行動を取ることになる。

 さて、彼女は一体なにをしたのか。


 黒峰は、なにもしなかった。

 教室に入ってすぐ、黒峰は眉一つ動かさず、少しの迷いなく自分の席に着いたのである。


 その間も、黒峰は机の上の死骸に一瞥もくれなかった。あたかも最初から死骸なんてなかったかのように、いつも通りの生活を過ごしていたのだ。

 そんな尋常ならざる黒峰の行動に、イジメグループを含めたすべてのクラスメートが絶句したのは言うまでもない。のちに勇気あるクラスメートが、どうして死骸を片付けるなり先生に報告しに行こうとしなかったのかを訊ねてみると、

『そのまま放っておけば、なにもしなくても、先生かだれかが勝手に掃除してくれると思ったから』

 などと返答したらしい。

 なんてことはない。単に彼女は「面倒くさい」というただそれだけの理由で、目の前の死骸の山を放っておいたのである。

 その後イジメグループは当然のように停学処分となり──クラスメートたちの密告もあったのか、あっさり学校側に悪辣なイタズラがバレてしまったのだ──そのおかげもあってイジメも完全に終息した形になったのだが、そんな話題が霞んでしまうほど、黒峰紫亜という異質な存在を強烈に印象付ける事件となった。

 そしてそれは別のクラスにもあっという間に広がり、黒峰紫亜とだけは絶対に関わるなという注意喚起が生徒間でなされる事態にまで至ったのだった。

 だから、向島や平坂のように、黒峰を怖がる人はとても多い。そんなわけなので、僕みたいな普通に黒峰と話せる人間というのは、どうやら周りの人間……特に女子からしてみたらかなり貴重な人材らしい。

 なので、先ほどの小山のように、僕が代行して黒峰に用事を済ませることも少なくはない。風の噂では、黒峰になにか用事がある時は、「黒峰係」の碓氷に頼めば万事解決だと言われているのだとか。どんな係りだ。

「黒峰さんの噂、ね。でもそれにしたって、ある程度誇張もあるんじゃないかな? どこまで本当の話なのかわかったものじゃないし」

「いやいや、これに限ってはマジな話だって。オレの知り合いが去年黒峰と同じクラスだったんだけど、現場を生で見たって言ってたからな」

 僕の言葉に、向島がいつになく真剣な面持ちでそう応える。クラスの中ではおちゃらけたキャラで通っているので、向島がこういった表情を見せるのは珍しい。それだけ黒峰の噂を信じているのだろう。

「うわあ、じゃあその知り合いって子も、虫とかトカゲとかの死骸を見ちゃったことになるんだよね? 愛莉だったら絶対気分が悪くなって早退してたよー」

「実際、保健室に行った奴が何人かいたらしいぜ。でもまあ、そのあとの黒峰のリアクションの方がよっぽどショッキングだったとは思うけどな」

 顔を引きつらせる平坂に、向島が買ってきた紙パックにストローを刺しながら言葉を返す。

「ぶっちゃけ、完全に犯罪者予備軍だよな。サイコパスっつーの? 将来なにかしら凶悪犯罪をやらかしそうだよな」

「サイコパス、か……」

「ん? どうしたの碓氷くん。なんだか急に神妙な顔をしちゃって」

 平坂が僕の顔を覗き込むように見つめる。いけない。サイコパスという単語に反応するあまり、顔面への集中が削がれてしまったようだ。

 慌てていつのように爽やかな笑みを作って「いや、なんでもないよ」と軽く手を横に振る。

 そんな僕に、平坂は訝しげに眉をひそめるも、すぐに「ふうん。そっか」と流した。

「まあなんにせよ、あんまり黒峰に肩入れ過ぎるなよ。でないと、いつか危険な目に遭いかねんぞ?」

 ストローを吸いながら忠告する向島に、

「心配ないよ。ちょっと変わってるところもあるけれど、別に悪い子というわけじゃないし」

 と、笑顔を崩さず僕は返答する。

「確かに今はまだ悪いことなんてしてねえけどさー。近い内にとんでもない事件を起こしそうな感じがするじゃん? だから、ちょっとぐらい警戒心を持っておいた方が身のためだぞ?」

「そうだよ碓氷くん。碓氷くん優しいから、愛莉あいりたちが止めてもどうせ聞かないんだろうけど……でもなにか困ったことがあったらすぐ愛莉たちに言ってね。友達なんだから」

「だな。なんだったら、俺が黒峰に用事を済ませたっていいんだぜ? あ、つってもたまにだけだぞ? さずがに毎回は嫌だぞ?」

「うん。ありがとう、二人とも」

 善意でそう言ってくれる二人に対し、僕はにこりと笑みを偽ってそう応えた。



 【2】



 正直なところ、黒峰のことは噂が流れ始めた頃から……つまり彼女と同じクラスになる前からずっと気にかかっていた。

 それは怖いもの見たさだとか、野次馬根性から来る安っぽい興味からではなく、まして恋心のような青臭い理由とかでもなくて、ただ純粋に黒峰のことを深く知りたいと思っていたのだ。

 もしも僕の想像通りなのだとしたら。

 黒峰という少女が、みんなの言うサイコパスなのだとしたら。


 僕はそんな彼女と、二人きりで話をしてみたい。


 しかしながら、それが実現したのは進級して黒峰と同じクラスになってからのことだった。

 というのも、どう黒峰と接点を持てばいいのかわからなかったのだ。今は当時と比べていくらか緩和した方であるが、噂が流れ始めた頃は黒峰を要注意危険人物として認識している者が圧倒的に多く、声をかけようものなら、もれなくその人も危険人物として見られかねない雰囲気だったからである。

 なるべく平穏な高校生生活を送りたかった僕は、自分のイメージを奈落の底に落としてまで黒峰に話しかけるだけの覚悟なんてなかった。黒峰が一人で下校するところを狙って声をかけるという作戦もあったのだが、自転車通学の僕とは違い、彼女はバス通学だったので、どうしたって一緒に帰ることなんてできそうになかった。

 それ以前に、ストーカーにでも間違われたりしたら最悪だ。なにかしら幸運が舞い降りない限り、黒峰と話せる機会なんてありそうもなかった。

 その幸運が今年、黒峰と同じクラスになるという結果で現れてくれたのだが、実は言うほど、黒峰と話せているわけではない。というか話しかけても「へえ」とか「そう」とか淡泊な返事ばかりで、場合によっては一言も発さずに会話が終わることもしばしばだった。最近では用でもないと声もかけられない始末である。

 なんというか、黒峰自体、こちらと会話をしようという気がまるで窺えないのだ。人間そのものに関心がないというか、ともすれば風が吹いているぐらいにしか思ってなさそうな黒峰の反応に、何度心が折れかけたことか。それでもめげずに何度も対話を試みる僕も大概ではあるけれど。

 向こうに会話をする意思がない以上、どれだけこっちから黒峰に声をかけたところで、僕たちの関係が進展することはまずないだろう。というより、このままただの同級生という間柄で卒業してしまう可能性の方が高かった。

 それでも、これといった打開策が浮かぶこともなく、もどかしい日々を送っていたある日、そのチャンスは当然降って湧いたようにやってきた。

 その日、僕は今日中に提出しなければならなかった現代文のプリントをうっかり自宅に忘れてしまい、新しいプリントをもらったあとに図書室(辞書がないと解けない問題だった)へ行って、放課後もしばらく居残っていた。

 そうして、どうにかプリントを終わらせて、職員室に行って英語担当教師に届け終えたあと、ふと担任教師である宝満ほうまんから「おお。碓氷」と突然呼び止められた。

「ちょうどいいや。ちょっとこっち来い」

 用も済んだので、さっさと帰ろうと戸口の近くまでいた僕は、なんの用だろうと首を傾げつつも、言われた通りに宝満の元へと向かった。

 字は違うが横にも豊満な宝満は、暑そうに額にハンカチを当てながら、

「おう、悪いな碓氷。お前、今から帰るところか?」

「ええ、まあ。特に学校に残る理由もないので」

「よし。じゃあそんな暇人なお前に、俺から任務を与えよう」

 暇だなんて一言も口にしていないが、僕は特に反論もせず、オレンジ色のファイルから用紙を取り出そうとしている宝満の様子を黙って眺めた。

「すまないが、今から黒峰にこれを渡しに行ってくれないか?」

 見ると、宝満の手に進路希望調査の用紙が握られていた。そこには達筆な字で「黒峰紫亜」と書かれていたが、肝心の進路が白紙状態だった。僕は三日間前に提出したが、どうやら黒峰はまだ書いていなかったらしい。

「あいつに何度も進路を書けって言っているんだが、毎回白紙で返されてなあ。今日も二人で話すつもりだったんだが、急な仕事が増えてなかなか手が離せなくてな。このままだと黒峰と面談する時間すら取れそうにないんだよ。だから俺の代わりに、これだけでも黒峰に渡しに行ってくれないか?」

「はあ。まあ、それは別に構わないですけれど、今の時間だともう帰っちゃってるんじゃないですか?」

 この高校の終業時間は午後三時十五分。現在時刻は三時五十分過ぎ。かれこれ三十五分以上経過してしまっている。いつもの黒峰ならとっくに帰ってしまっている時間帯だ。

「それなら大丈夫。俺が来るまで教室で待つよう言ってあるから。まだ帰るとも聞いていないし、たぶん今も待っているはずだぞ」

「なるほど。でもなんで先生が直接行かないんですか? 渡しに行くだけなら、大して時間もかからないと思うんですけど」

「それはそうなんだが、ぶっちゃけて言うと俺、黒峰がちょっと苦手でな。できるならあんまり関わりたくないんだよ」

 それは職務怠慢というか、普通に問題発言ではなかろうか?

 よく生徒から明け透けな性格だと言われているが、単純にバカ正直なだけなんじゃないかとすら思えてくる。こんなのでよく教師なんてやっていられるものだ。

「それと、碓氷なら上手いこと黒峰に話してくれるんじゃないかって期待してんだよ。お前と黒峰、この学校の中で一番仲がいいだろ? お前の方からも進路希望を書くように言っておいてくれねえか?」

「別に仲がいいわけではありませんけどね」

 言って、肩を竦める僕。むしろ無視される回数の方が多いくらいだ。

「とりあえず、用件はわかりました。進路を書いてくれるかどうかはわかりませんが、それとなく言っておきますよ」

「おお! そうかそうか! いやー、助かったわ~」

 バンバンと大仰に肩を叩いてくる宝満に、僕は笑みを引きつらせる。相手が肥満体系で腕も太い分、威力があってけっこう痛い。本人は至って気にした様子はないけど。

 個人的に黒峰の進路には興味があるし、進路希望調査を渡すのはいいが、ちゃんと先生として働いてほしいものだ。

 けど、こうやって安請け合いしてしまうから、クラスのみんなに黒峰係りとか言われてしまうんだろうな、と僕は苦笑混じりにそう思った。



 僕のクラス、もとい二年四組は、中央階段を二階に上がってすぐのところにある。職員室は一階の奥にあるので、自分のクラスに行くだけならさほど時間はかからない。せいぜい、階段を少し上るのが面倒なくらいだ。

 とまれかくまれ、宝満に頼まれた用事を済ますために、僕は階段を上がって二年四組の教室の前へと来ていた。

 廊下側の窓からこっそり覗いてみると、宝満の言っていた通り、だれもいない教室の中でポツンと自分の席に座っている黒峰の姿があった。しかもいつものようにまっすぐ黒板を見つめているものだから、傍目から見るとかなり奇怪な図だった。黒峰を知らない人間が見たら、すわ亡霊かと見間違えそうである。

 よくよく考えてみれば、黒峰と二人っきりで話すなんて初めてだなと考えつつ、僕は教室の戸を開けて彼女の元へと歩んだ。

「黒峰さん。宝満先生から伝言を預かってきたんだけど」

 僕の言葉に、黒峰はすっと目線をこっちに寄越した。

「急用ができたから、今回の二者会談はひとます休止だってさ。その代わり、進路希望調査だけでも書いとけって。はい、これ」

 言って、僕は進路希望調査を黒峰に手渡した。

「三日後にまた取りに来るから、できるだけそれまでに書いておくように先生が言ってたよ」

「そう」

 それだけ呟いて、黒峰は机の上に置いてあった鞄に進路希望調査を仕舞いだした。

 なんていうか、相変わらず薄いリアクションだ。特に面白い返答を期待しているわけでもないけど、もう少しなにかあってもいいんじゃないかとは思う。これじゃあ、近所の野良猫にでも話しかけた方がまだ有意義な気がしてくる。そんな趣味、僕にはないが。

 進路希望調査を仕舞って、そのまま鞄を手に取って帰ろうとする黒峰に、僕は「あ。ちょっと待って」と声をかけた。

「黒峰さん、ひょっとして進路に悩んでるの?」

「………………」

 僕の問いかけに、黒峰は視線をこっちに向けるだけで口を開くことはなかった。

 ただ、このまま僕の横を通り過ぎるのはさすがに憚れるものがあるのか、次の言葉を待つようにその場で静止していた。

「ええと、先生から黒峰さんだけ進路希望調査が出てないって聞いたからさ。なにか悩んでいることでもあるのかなって思ったんだけど、黒峰さんは進学か就職かで迷っていたりするの? あ、ちなみに僕は進学を選んだんだけど、なにか相談に乗れそうなことってある?」

 にこりと柔和に微笑んで、僕は黒峰に話しかける。

宝満から頼まれたという理由もなくもないが、それ以上に黒峰と込み入った話(おあつらえ向きに、周りにだれもいないことだし)ができるまたとない機会だったので、せっかくのこのチャンスをふいにしたくなかったのだ。

 よくよく、僕という人間は諦めの悪い奴らしい。あれだけ黒峰にそっけない態度を取られているというのに。まだこれでなにかを期待しているのだから、僕も大概である。

 黒峰のことを深く知れば、サイコパスについてなにかわかるかもしれない──だなんて。

 ご都合主義にもほどがある。

 そんな僕の心中なんて、もちろん黒峰が知るはずもなく、彼女はただ無言で直立するだけで、なんら反応らしい反応を見せなかった。ひょっとすると「なんでお前にそこまで話さなければならない?」と訝しんでいるのかもしれない。ごもっともな疑問である。

 だがそれを詳細に話すつもりはなかったので、僕としてはなんらかの返答を待つしかなかった。返答なんてなにも来ない可能性の方が高かったが。

 これは、またすげなくスルーされるパターンかな、と諦めの境地に至った、そんな時、


「私には、きっと未来なんてないから」


 と、葉擦れのような静かな発声で、そんな答えが返ってきた。

 正直、とても驚いた。黒峰が自分の考えを吐露したことなんて今まで一度もなかったので、思わず面喰らってしまった。

 しかし、未来がないとはどういう意味なのだろう。家族も財産もすべてを失った人間が言いそうなセリフではあるが、現状、黒峰にそんな悲観的な要素はなにも思い当たらない。小耳に挟んだ話では、黒峰は母子家庭だと聞いたが、金銭的な問題だろうか?

「……それってどういう意味? プライベートな話に踏み入るようで悪いけれど、この先生きていけなくなるような問題でも抱えているの?」

「そうじゃない。そういった人の手には負えないことや外部が起因することではないわ。至って個人的な問題なのよ」

 黒峰が一文以上の言葉を使うなんて初めてだな、などと軽く感動を覚えつつ、

「個人的な問題って?」

 と、僕は聞き返す。

「だから、個人的な問題よ。だれかに話すつもりなんて一切ないわ」

「けどさ、悩んでいることがあるならだれかに相談した方がいいと思うよ? 聞いた感じ、割と深刻そうではあるし。それに案外、だれかに話してみるだけであっさり解決するかもしれないしさ。余計なお世話かもしれないけれど」

「…………」

 黒峰が無機質な瞳で僕を見つめる。まるで爬虫類にでも観察されているかのようだ。黒峰が今なにを考えているのか、皆目見当も付かない。

 もとより、感情なんて読ませるタイプにはまったく見えないが。

「ごめん。ちょっとウザかったな? でも、困っている人を見ると放っておけない性分なんだ。ただのクラスメートでしかない僕にこんなこと言われても迷惑かもしれないけど、僕に悩みを打ち明ける気はないかな? 無理にとは言わないし、なんなら僕以外でもいいけれど、溜め込んでいるものを吐き出すだけでも気分が違うと思うんだ。ネガティブな考えばかりに囚われていると、まともに進路も決められないと思うし」

 依然として無言に徹する黒峰に、僕はさらにたたみかけるように言う。

「僕は君の助けになりたいんだ。だから、黒峰さんの心の内を聞かせてほしい」

 どうかな? と僕は最後にそう訊ねてみる。

 対する黒峰は、人形のように無反応だった。さっきまでの話を聞いていたかどうかも疑わしく思えてきた。

 それでも、辛抱強く返事を待っていると、

「碓氷くん」

 と、ややあって黒峰が僕の名前を抑揚のない声でそう呼んだ。

 よくよく考えてみると、黒峰に名前を呼ばれるのはこれが初めてだなと思いつつ、僕は笑顔を浮かべながら「うん。なに?」と訊いた。


「心にもないことを口にすべきではないわ」


 その言葉に。

 僕は思わず笑みを強張らせた。

「……えっと、なんのことかな? ちょっと意味がわからないんだけれど」

「そのままの意味よ。あなたの発言も態度もすべてが嘘くさいわ。助けになりたいなんて口実で、本当はなにか打算的な理由があって私に近づいたとしか思えない」

「は、はは……。ひどいなあ、僕は本気で黒峰さんの力になりたいって──」

「いい加減、私相手に無理して笑顔を作る必要なんてないわよ。他の人はそれでごまかせても、私には丸わかりだから。正直、見ているだけで疲れてくる」

「──…………」

 それを聞いて。

 僕はすっと、表情を消した。

「……どうしてわかったの?」

「別に確証があったわけじゃない。感覚でなんとなくそう思っただけだから」

「そんな曖昧な理由で、あんな断定的な言い方をしたの?」

 ええ、と首肯する黒峰。

「そっか。やっぱり普通じゃないよね、黒峰さんって」

 褒め言葉でないことを重々承知した上で、僕は思ったことをそのまま吐き出す。

 黒峰は普通じゃない。

 しかし、僕にとっては朗報だった。

 黒峰が普通から逸脱してくれている分だけ、僕の望みも近くなるのだから──

「このこと、みんなに言いふらしたりする?」

「しないわ。別に興味ないもの」

 だろうな。そもそも、黒峰が僕のことを吹聴し回る姿なんてまったく想像できない。

「もしかして、結構前から気付いてた?」

「いえ、ついさっきよ。そこまであなたに意識を向けてなんていなかったから。妙にしつこく声をかけてくるものだから、名前だけは覚えていたわよ」

「名前だけ……ね」

 つまり、そこらの有象無象よりは、ある程度印象に残っていたというわけだ。微々たる違いでしかないんだろうけど。

 が、名前だけでも覚えてもらっていただけマシなのかもしれない。今の言葉が真実なら、ほとんどのクラスメートの名前は覚えていないことになるのだから。

「……あのさ、君から見て今の僕ってどう思った? やっぱ表情がないのって気色悪いかな?」

「どうも思わないわ。他人だもの」

 他人だから……か。

 たとえるなら、道端に生えていた雑草がどんな種類だろうと、別にどうでもいいと言ったところだろうか。徹底した無関心ぶりだ。

「それに、そういった意味では私も同じだから」

「たぶん君と僕とでは、同じ無表情でも本質が違ってくると思うけどね。黒峰っていかにも無感情って言った風だけど、僕はそうでもないから」

 そこで呼吸を整えるように一拍置いて、僕は今までだれにもしてこなかった話を始めた。

「これでも僕、昔は普通に笑ったり怒ったりできていたんだ。今でこそみんなの前では愛想笑いでごまかしているけど、それもこの高校に入学してからのことだから。その前は作り笑いすらできなかったよ。今でも普通に楽しいとか嬉しいとか感じることができるけども、すぐにそれが無意味なように思えてしまうんだよ。意識していないと、すぐに無表情になってしまうくらいにね」

 さながら、もう一人の冷めた自分が上から見下ろしているかのように。

「たまに考えるんだ。その内、完全になにも感じなくなるんじゃないかって。こうやって不安に思う気持ちすら、いつか気付かない内に消えてしまうんじゃないかって。だから僕は、その原因を取り除きたいんだ。僕が僕であるために」

 そこで伏せていた目線を上げて、僕は黒峰をまっすぐ見据える。

「その答えがきっと君にあるんじゃないかって、そう考えているんだ」

「…………………………」

 黒峰は、なにも応えなかった。

 相変わらず無味乾燥な表情で僕を眺めて、幽かに佇んでいた。

 しかしながら、しばらく時を置いたのち、

「つまり、できるだけ私と同じ時間を共有したいという解釈でいいのかしら? 恋人になりたいとか、まして友達になりたいとか至極面倒なことじゃなくて?」

 友達作りを面倒だと言ってしまうあたり、黒峰の変人性を如実に表しているなと思いつつ、

「まあ、そんなところだよ」

 と、僕は肩を竦めて返答した。

「それで、私になんのメリットがあるの?」

 やはりそう来たか。確かに好きでもない男と一緒にいたいとはだれも思うまい。

 だからと言って、なにかしら黒峰の得になりそうなものなんて、僕にはなかった。金だって余裕があるわけじゃないし、成績は良い方ではあるが、黒峰はさらにその上──学年首位まで取る秀才なので、勉強を教えるという手も使えない。

 せいぜい、思い当たるものがあるとするなら──

「……上手に作り笑いを浮かべる方法、とか?」

 我ながら、なんて残念極まりない提案だ。もっといいのはなかったのかと自己嫌悪すら覚える。

 さすがに黒峰も、これには心底呆れただろうと、断れるのを覚悟して反応を待ってみると、

「わかった。交渉成立ね」

「──えっ。ほ、本当にこんなのでいいのか? 自分で言っておいてなんだけど……」

「ええ。だって──」

 目を丸くする僕に、黒峰は終始一貫して人間味を感じさせない、さながら能面のような顔でこう言った。

「いつでも笑顔を浮かべられるようになっておけば、なにかと便利そうだもの」



 【3】



 そんなわけで、黒峰のそばにいるのを許可してくれた代わりに、彼女に作り笑いの仕方を教えることになったのだが、その前にいくつか取り決めを作っておくことにしておいた。

 まず一つ目は、時間と場所の指定に関して。

 具体的には放課後、だれもいなくなったあとの教室でやろうという話になったのだが、理由としては、僕が普段から演技をして生きていることを悟られるわけにもいかないので、必然的にだれもいない場所で行おうという話になったのだ。

 それに学校なんていう場は、男女二人っきりでいるだけで恋仲だなんだと根拠もなく囃し立ててくるものだ。しかもそれがなにかと評判の悪い黒峰ともなると、その影響は想像に余りあるものがある。もしも黒峰と付き合っているだなんて根も葉もない噂が流れでもしたら、僕の評判がガタ落ちになることは確実だ。異常者である黒峰と関わろうとしている時点で、破滅に足を踏み入れているようなものなのだが、それでも、なるべく平穏無事な生活を送りたい僕としては、そこだけは妥協するわけにはいかなかった。

 傍から聞くと相手に対して失礼極まりない提案ではあるが、黒峰本人はなにも気にした様子は見えなかった。というより、向こうも周りから騒ぎ立てられるのは面倒らしく、特に反対もしなかった。

 二つ目が、期限に関して。

 これは簡単に、先に黒峰が作り笑いを習得するか、もしくは僕が先に答えを見つけられるかどうかで決まった。つまりどちらかの希望が叶った時点で、この関係は即終了というわけだ。

 最後は、保証に関して。

 なんせ、笑い方なんて初めて人に教えるのだ。勉強を教えるのと違ってノウハウなんてないし、まして指南書があるわけでもない。さらに付け加えるなら、相手はあの黒峰──あんな鉄仮面を笑えるようにするなんて、正直自信がなかった。

 なので、最悪きちんと笑えるようにできるかどうかわからないと、前もって断っておいたのだが、

「それでもいいわ。私も完璧に作り笑いができるとは思っていないから」

 生まれてこのかた、一度も笑ったことがないくらいだし。

 などと驚愕の発言を──先行きが不安になるような言葉を、黒峰はこともなげに吐いたのだった。

 そんなこんなで、三つの約束を取り付けたあと、さっそく翌日からレッスンを始めたわけなのだが──

 これがまた、予想を遥かに上回るほどひどいものだった。

 どうひどかったかと言うと、あの女、一切合切表情筋が動かないのである。

 試しにちょっとだけ笑ってみろと言っても、馬鹿にしているのかと疑いたくなるほど無表情のままだったし、笑みの形を覚えてもらうために指で口角を持ち上げてもらっても、手を離せばすぐに元に戻ってしまうのである。そのまま笑顔を保てと言っているにも関わらずに、だ。どれだけ普段表情筋を使っていないんだ、あいつは。

 それ以上に問題なのは、無理やり指で笑みを作らせてやっても、めちゃくちゃ歪で怖いのである。それこそ何十人と人を殺してきた殺人鬼のごとき壮絶なものがあった。あれならまだ、無表情のままでいた方がずっとマシなくらいである。

 さらに救いようがないのが、本人は至って真面目にやっているという点だ。本音を言えば、いっそ不真面目であってほしかったくらいだ。あれで本気とか、もはやギャグにもならない。

 いっそこのまま適当にやろうかと思ったが、向こうが先に笑い方を習得してしまえば、それで僕の目的が果たせなくなってしまうし、手を抜いてやろうかという卑怯な考えが頭を過りもしたが、直前に思い直した。いくら自分のためとは言え、それで相手に不誠実な真似をするのは最低の人間のすることだ。さすがに僕も、そこまで人として落ちぶれたくない。

 結局その日は、根気よく教えた甲斐もなく、なんの成果もなく一日が終わった。個人的には黒峰と取り留めのない内容だったけど色々話せたので、個人的にはまったく収穫がなかったわけではないが、前途多難な道に、溜め息が零れるばかりの一日だった。

 そうして、幸先の悪いスタートを切った僕の作り笑い講座であるが、悪いことは重なるもので、さっそくその翌日から、しばらく休止せざるをえない事態が起きた。


 黒峰の従姉妹に当たる人物が、何者かによって殺害されたのである。



 【4】



 黒峰の印象について、五つの「無」で例えたことがあったが、実はそれ以外にもあったりする。

 それが無遅刻無欠席という、彼女の数少ない良い点があったのだが、それも今日、欠席という形で皆勤賞の夢(本人が重要視していたかどうかはともかくとして)も潰えることとなった。

 親戚が殺されてしまうという、悲劇的な理由によって。



 朝のホームルームは、いつもより騒がしかった。

 僕が登校する前から、クラスメートたちはこの近くで起きた殺人事件の話で盛り上がっていたのだが、宝満から黒峰の欠席理由を伝えられた際、その勢いはさらに熱を帯びた。みんな、近場で起きた殺人事件のことはすでに知っていたようだが、それが黒峰と関係していたとはまでは聞いていなかったようだ。

 そうして、慌ただしく退出していった宝満を見送ったあと、見計らったようにいち早く僕の席へとやってきた平坂が、

「碓氷くん、さっきの話聞いた? 愛莉、すごくびっくりしちゃったよー」

 と、空いていた前の席に座って、そう声をかけてきた。

「うん。僕も今朝のニュースを観て殺人事件があったこと自体は知っていたけれど、でもそれが黒峰さんの従姉妹だったなんてね」

「そうそう。昨日の夜、会社帰りに一人でいるところを狙われたんだよね。パトカーのサイレンであちこちうるさかったから、一体なにがあったんだろうって不思議に思ってたけど、まさかこの近くで殺害事件を起きていたなんて思ってもみなかったよー」

「それなら、オレもニュースで見たぜ」

 と、僕らの会話に割り込む形で、離れた席にいた向島が不意に横から近寄ってきた。

「まだ犯人も捕まってないんだろ? 事件が起きたのもこの近くだって言うし、犯人も以外と身近にいたりしてな」

「やだ、怖いこと言わないでよ向島くん……」

 怯えたように自分の肩を抱く平坂。僕らみたいな力のある男ならまだしも、平坂みたいな女子にしてみれば怖くて仕方がないのだろう。無理からぬ反応だ。

 ここで改めて詳細を説明すると、事件が起きたのは昨夜のことだった。

 被害者は市内に住む黒峰の従姉妹で、年齢は二十五歳。広告会社に勤めている女性社員で、どうやら残業帰りに一人で路地を歩いているところを犯人に狙われたらしい。

 死因は、ナイフで胸部や腹部を複数刺されたことによる出血性ショック死。通りがかりの人が偶然倒れている被害者を発見してすぐさま救急車を呼んだらしいのだが、その時にはすでに息がなかったそうだ。その時点で、もはや手遅れの状態だったのだろう。

 すぐさま警察も駆け付けて、犯人を捕まるべく辺りをくまなく捜査したらしいのだが、結局犯人を逮捕するまでに至らなかった。

 そして、犯人は今もなお逃亡中。殺されたのが黒峰の従姉妹だと、朝のホームルームで黒峰の欠席の知らせと共に宝満の口から聞かされたばかりだけど、どうやらそれは他のクラスにも伝播していたようで、さっきからひっきりなしに別のクラスの人間が二年四組の教室を出入りしていた。噂の真相を探るべく、わざわざこうしてこの教室まで赴いているのだろう。

 中には「実は黒峰が殺したんじゃね?」などという不謹慎な発言も出ていたり、今やクラスにいるほとんどの者が、黒峰犯人説を面白がるように騒ぎ立てるという、異様な盛り上がりを見せていた。

 本人がこの場にいたら、一体どう思っていたことだろう。

 いや、黒峰ならどうも思わないか。陰口なんて興味ないだろうし。

「そういえば、強盗犯の可能性が高いんだってな」

 思索に耽っている間に、隣りに立つ向島が、何気ない調子でそう呟いた。

「ニュースだと、財布の中身が全部取られていたとかなんとか言っていたし、また強盗をやらかす可能性だってあるよな」

「どうだろうね。これだけ警察も辺りを張っていたら、おいそれと事件なんて起こせないような気がするけど」

 今朝登校する時も、そこら中にパトカーが走っているのを見かけた。こんな時に犯罪を起こそうものなら、どうぞ捕まえてくださいと主張しているようなものだ。

「それはわからないぜ、新汰。追い詰められた人間はなにをするかわからないって言うし、案外、次のターゲットを狙ってたりするんじゃね?」

「それが本当なら、外出はなるべく控えた方がいいかもね。自分が狙われないためにも」

「……そっかあ。今度友達と遊ぶ約束してたんだけど、愛莉たちもやめておこうかな~。楽しみにしてたから、すごく残念ではあるけれど」

「それって近場なの?」

 と、平坂に訊ねる僕。

「うん。近くにあるショッピングモールで友達と遊ぶ予定だったんだけど、犯人がまだうろついているなら、やっぱりやめておいた方が無難だよね……」

「じゃあじゃあ平坂、オレも一緒に付いていってやろうか? 腕っぷしには自慢があるし、けっこう頼りになると思うぞ?」

「ううん、いいや。恋人ならともかく、ただの友達にそこまでやってもらえるの、なんだか悪いし」

 あっさり断った平坂に、向島は「そ、そうか……」と笑みを強張らせてがくっと肩を落とした。一緒に購買や自販機に行くぐらいには仲がいいのに、平坂にしてみれば、ただの友達という認識でしかないようだ。この分だと、向島の気持ちに気付くのは、一体いつの日になるのやら。

「ところで黒峰さんっていつまでお休みなのかな? みんなは黒峰さんがいなくて嬉しそうにしてるけど、しばらく休むなら、だれか黒峰さんの授業の分のノートを取っておいた方がいいんじゃないかなって思うんだけど……」

 などと、平坂が黒峰を案じたようなセリフを吐いているが、言外に自分だけは嫌だとその目が雄弁に語っていた。まあ、黒峰の成績を気にする分だけ、周りの連中よりはマシなのだろうけど。ほとんどのクラスメートは、黒峰のことなんて気にしていないか、もしくはいなくて喜んでいる奴らばかりだし。

 それはそうと、確かにこのまま放っておいたら、黒峰だけ授業に遅れてしまう。学年トップの黒峰なら数日分の遅れなんて簡単に取り戻せそうな気もするが、如何せん、親類が無惨に殺されたわけだし、数日で戻ってくるとは思えない。司法解剖や通夜の準備なども考えたら、一週間以上はかかる可能性もあり得る。そうなれば、さすがの黒峰も成績を落としかねない。

 あれで黒峰も意外と真面目なタイプなので、成績に響くとなれば、気に病んでしまうかもしれない。黒峰のことなので平然としていそうな気もするが、少なくとも甘受できる件でもないだろう。

「ああ、黒峰さんのノートなら僕が引き受けるよ。書くのは早い方だし」

「えっ。いやでも、碓氷くんばかりに黒峰さんのことを押し付けているみたいで、なんだか悪いよ……」

「大丈夫だよ。それに、今までだって好きでやっていたことだし」

 気後れしたように言う平坂に、僕はいつも通り作り笑いを浮かべて応える。

 というか、ぶっちゃけて言えばこれも、単なる点数稼ぎに過ぎないのだ。

 黒峰と少しでも距離を縮めるための点数稼ぎ。

 こんなもので黒峰の深淵に迫れるとは思っていないが、やっておくにこしたことはないという打算的な行動でしかないのだ。

 だからそこに好意なんて──まして親切心なんてあるはずもない。

「……おお、さずがは黒峰係だな。頼りになるぜ」

 いつの間にか復活していた向島が、僕の肩を叩いて言う。だからそんな係りになった覚えはないのだが。

「ごめんね、碓氷くん。愛莉もできる範囲で協力するから、なにかあったら言ってね?」

 今度は平坂が、申しわけなさそうに眉尻を下げて僕の手を取った。

「うん。その時は、遠慮なく協力を要請するよ」

「オレもオレも! オレも協力するってマジで!」

 平坂が僕の手を握っているのを見て妬いたのか、向島が慌てて手を伸ばしてきた。

 重なる三人分の手。平坂の手はひんやりとしているけど、向島は緊張しているのか、熱い上に少し汗ばんでいた。

「……向島って、本当にわかりやすいよねー」

「う、うるせえ! 黙ってろ新汰!」

「えー? なになに、なんの話~?」

 僕と向島を交互に見ながら、平坂が心底不思議そうに小首を傾げた。



 ──と、まあ、そんなわけで黒峰の分の授業ノートを引き受けることになったのだが、そのノートもたった四日分だけで書き終わることとなる。

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