最終章

第47話

 ――――記憶が煩雑なのは、七竈だけではない。母を精神を小突いてやった後のことは、俺もあまり覚えてはいなかった。ただ、記憶しているのは、山の中、工場から上がる火と爆音を浴びたことくらいだった。その後、俺がどう動いたのかは、本当に覚えていない。無意識だったのかもしれない。意識はあったけれど、その後、平穏に生きた期間で、蓋をしただけかもしれない。

 けれど、村が燃えて、多くの民家が灰燼と帰したのは本当のことだった。


 未稼働で手入れの行き届いていなかった工場の奥にまで火が届いたらしい。黒い煙を伴って夏の瑞々しい生木が、赤く燃えて輝いていた。輝く木々の隙間に、小さく動くものを見た。そこで俺はやっと、そこに七竈がいることを思い出したのだった。


「七竈!」


 口に手を当てて、吠えた。その動く物体が彼であるという保証はなかった。けれど、ただ、俺は必死だったのだ。喉から鉄の味が込み上げた。口の端に溜まった泡を拭って、村の中を駆けた。村中の人間が工場の火事に気づいていた。カンカンカンと鐘が鳴っていた。初めて聞く音だった。それが火事を知らせるものだとは理解出来ていた。


「工場から火が!」

「葦屋の倅は何やってんだ!」

「飲んだくれてたよ!」

「消防団! 消防団を呼べ!」

「警察が来るぞ!」

「葦屋のジジイを叩き起こせ!」


 見知った顔が何か、ずっと叫び散らしていた。村人達は揃いも揃って、父を探し回っていた。数名、我が家に向かう村人とすれ違った。誰も俺のことを葦屋幽冥だとは思っていなかったようだった。寧ろ、皆、不思議そうな顔で俺の顔を見ていた。夜の暗闇は髪を切り揃えた俺の姿を別人に見せて、服に張り付いた肉と血を隠してくれていたのだ。

 夜に隠された幸運に任せて、俺は農道を走った。七竈の名を叫んでも、彼の返事は聞こえなかった。足がギシギシと潰れるような感覚に襲われた。上がった息を整えながら、俺は周囲を見渡した。

 ――――七竈がわかる目印が、あれば。

 酸欠の脳は非情にも合理的に動いていた。もしも七竈の言う通り、俺が村に火をつけていたのだとしたら、この時だろう。知恵も思慮も足りなかった十二歳の俺は、確かにその時、熱を感じていた。


 上がった息を整えて、朦朧とした意識から目覚めた頃には、辺りは光り輝いていた。

 否、俺は、炎で覆われた村の中で、ただぼーっと立っていたのだ。大人達も子供達も、皆、何処かに消えていた。肉の焼ける匂いはしなかった。ニュースだとか事件記録だとかを見る限りでは、この火事で亡くなった人間は、一人も居なかったはずだ。家財の一切と、俺を縛り付けていた箱庭だけが燃えていた。

 赤く光る人工物は、いつか幼少に楽しんだ盆祭りのようで。俺は多分、微笑んでいた。


「幽冥」


 口角を上げたまま、声の方に顔を向けた。俺の顔を見て怯えた表情を見せるのは、白いワンピースを泥と血で汚した、少女姿の少年だった。


「七竈、良かった、山を降りられたんだな」


 そう言って一歩前へ出ると、彼は一歩後退りした。ワンピースの裾が翻って、足に吸い付いた山蛭と、擦りむいた関節が目に映った。


「怪我、してるんだな。水で洗わないと。前に硝子で切った手で山菜取りに行った弟がさ、ガタガタ震えて、舌噛んで死んだんだよ。傷に泥が入るとだめなんだってさ」


 拒絶されていることは理解していた。けれど震える七竈の手足が、心の底から心配で仕方が無かった。多分、母性だとか、庇護欲というものが、掻き立てられていたのだと思う。年相応の幼さを見せる彼を、どういても放っておくことは出来なかった。


「今の騒ぎに便乗すれば、誰も俺達を探さないよ。きっと逃げられるよ。だからさ、怯えないで。病院に行こう。山を超えたら、バス停がある。事情を説明して、乗せてもらおう」


 この頃の俺は、バスという乗り物がどんなものなのか知らなかった。とりあえず街に行くときには乗るものだという認識で、時刻表というものは言葉すら知らないでいた。


「バスは朝になるまで来ないだろ」


 俺の無知を、七竈は嘲笑した。いつも通りに見えて、彼は脂汗を流してその身を前後させていた。足元はふらついて、今にも倒れそうに見えた。


「朝? 朝ならもうすぐ来るだろ」


 炎で光る周囲を見て、俺はそう笑った。燃焼に薄れる空気で、思考は安定感を失っていた。支離滅裂で、論理を失った俺の口は、ただ笑うことしか出来ないまま、七竈へと向けられていた。俺は無意識に七竈の腕を掴んで、走り出していた。


「とりあえず、さ、山を越えよう。この農道を真っ直ぐ歩いたら、国道があるんだって。そこを歩いていくと、隣の村があって……」


 こくん、こくん。と無言のまま首を縦に振る七竈を引きずって、俺は光る村の中を歩いた。七竈の四肢は冷たく、握ると気持ちが良かった。

 その七竈の姿が、川で倒れた時と同じだったと気づいたのは、随分と後のことだったと思う。その時の俺は、気がおかしくなっていたのだ。それは確かだった。人生で一度あるかないかという程に、幸福感に満ちていた。父親が死んだということと、七竈が戻って来たということが、混ざって溶けて、麻薬のように作用していた。爛々と目に入る光に、脳を焼かれていたというのも、一因だったと思う。


「七竈、街に出たらさ」


 炎が背後で小さくなった頃、ようやく俺は背後に顔を向けた。正確には、やっと、色眼鏡を外して、彼の状態に目を向けたのだ。俺が立ち止まった瞬間、七竈は短く息を吐いて、俺の腕の中に倒れた。咄嗟に彼の上半身を抱き留めた。顔も肩も胸も、全て小さくて、冷たかった。


「七竈?」


 そこでやっと、俺は七竈の意識が無いことに気付いた。村はずっと遠くで未だ燃えていた。どれくらいの時間走り続けていたのか、検討もつかなかった。何より、体力の無い七竈を、どれだけ引き摺っていたのか。心臓に血液が溜まる。脳から血の気が引いていく。額が冷たくなっていく。朝日が目に入って、眩しかった。


「七竈、ごめん、気づかなかった。ごめん、無理させた。ごめん」


 ガクガクと彼の肩を叩く。彼は目を開けたまま、俺を睨むことすらせず、虚空を眺めていた。次第に息をする音が小さくなっていった。短い息がハッハッハッと続いていた。それが死に向かう者の肺の動きだということは、身をもって知っていた。


「頑張って、長く、息をして。俺に合わせて、息を」


 心臓が跳ね上がる。俺は口を開いて息をして見せた。けれど、七竈は、俺の向こう側を見ているばかりだった。

 そうして、太陽が半分顔を見せた頃、彼は眩しさに耐えかねたように、静かに目を閉じた。

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