第48話

 空が赤かった。足の裏が、ジクジクと痛んだ。風は朝焼けの冷たさを伴って、七竈の髪を漉いた。

 また、どうすればいいのかわからなくなった。答えを持っているだろう七竈は、今目の前で、息をすることすら止めてしまっていた。


「神様、七竈は神様じゃ、なかったんですか」


 ふと口に出たのは、反省でもなく、七竈に対する謝罪でもなく、そんな恨み言のような何かだった。耐え難い理不尽だと、思っていたのだ。子供らしい突飛な思いつきを、誰に聞かせるでもなく、俺は口にするしかなかった。頭のどこかでは、神などいないということは、理解していたのだ。あの六本指の女は、七竈とそっくりの顔をしたあの神は、春馬の妄言と現実の異常さに生まれた幻覚だったのだと、脳は勝手にわかっていた。


「いつかは神様になるよ。君の前で神様になるんだ、この子は」


 だから、目の前で俺に影を映す女は、きっと、俺の求めた幻覚だったのだ。

 涼やかな声で、彼女は赤い朝日を後光にして、そこにいた。長い髪を艶やかに乱しながら、薄い唇を三日月の如く浮かばせる。


「神様なんていないんだ」


 俺はそうやって、現実を吐きつけた。すると、女は少しだけ眉を下げた後、俺の顔を両手で包んだ。


「そんな悲しいことを言わないでよ。私は確かにここにいるじゃないか」

「見えているものが現実だという保証はない」

「認識が現実を肯定するんだ。君は私を認識している。つまり君は神様を肯定している」

「幻覚だ」

「幻覚だって立派な君の現実だ」


 幻覚如きが傲慢な口振りだと思った。十二歳の俺が知る筈もないような言葉を、よく使うものだと、感心すらした。その口元はやはり、七竈とよく似ていた。


「私が幻覚ではないという証明が、欲しいかい?」


 女の指先は、俺の首筋を伝った。肩にかけての曲線を、丁寧になぞる。六本の指が徐々に七竈に迫った。彼の瞼を撫でた後、女はジッと俺の目を捉えた。


「お願い、叶えて欲しい?」


 クスクスと笑う彼女は、そうやって俺に息を吹きかけた。


「君は優しいからね。何でもしてあげる。君は頑張ったからね。これからも頑張れるようにしてあげる」


 七竈の唇を、彼女は指先でなぞった。綺麗に揃った白い歯を、一本ずつ摘んでは、その唾液を拭った。


「君はこの子がいれば、頑張れるんだろう。そうじゃなきゃ、君はここまで必死になって、走ることはできなかった筈だ。この子と出会ったから、君は今まで守ってきた家族の全てを捨てることが出来た」


 神様がかける言葉の意味は、理解出来なかった。けれど、浅慮な言葉で労われているのだとは、その言葉の柔らかさで感じ取ることはできた。

 ふと、心臓の高鳴りが治まっていることに気づいた。俺の血は冷めていた。その中で僅かに蠢いているのは、一種の喜びと呼ぶものだった。

 今まで誰も俺に投げかけなかった言葉。僅かな労いだけで崩れる程に、俺の精神は甘く脆かったのだと、現実を突きつけられる。

 多分、俺は泣いていたんだろう。神様は七竈の唾液で濡れた指先で、俺の頬を拭った。彼女の指はより濡れて、朝日をキラキラと反射させていた。


「だから、この子を生き返らせてあげる」


 にっこりと微笑む神様の顔は、少女のようで、可愛らしかった。彼女は七竈の頭を両手で持ち上げて、口元に寄せた。長い睫毛を二度瞬かせると、また微笑んで見せた。


「ただし」


 ストンと、神様の表情が落ちた。地面に叩きつけられた感性は、俺の皮膚に鳥肌を立てた。朝日が暑い。背に冷たいものが伝うのがわかった。

 

「これは頑張ってきたご褒美なのだから、君は、これからも努力し続けなければならない」

「努力っていうのは、その」

「この子の人生を支えるということだ。この子がここで死ななかったことで、撒き散らされる不幸がある。君だって、この二日間、この子の性質を嫌というほど浴びせられただろう」


 神様の言っていることは、何となしにわかっていた。七竈と出会ってから、全てが破滅の方向を向いていった。彼と出会ったから、俺は澤と関わってしまって、父が巻き込まれて、桃家が死んだ。そもそも、七竈が生まれたから、狂信者が生まれた。

 本当なら、七竈祓はここで死ぬべきだ。その方がきっと、何もかも綺麗に収まるのだ。

 七竈祓は邪悪だ。生まれた時から人の道を外れるように望まれた、不幸を撒き散らす存在だ。


「生とか死とか、そういうのはね、人間という生き物の認識の産物だ。その中にある彼は、未だ人間だ。人間には人間の法がある。この子はその中において、一人で生きていくことが難しい。精神ばかりが人を逸脱してしまったものだから、誰かがそれを噛み合うように調整してやらなければならない」


 その不幸を、悪性を、人の世で成り立たせるために。神様が唱える言葉。その意味の全てを理解出来なくとも、俺がしなければならないことはしっかりと伝わっていた。

 要は、俺に、七竈を支える消耗品になれと。彼のために全てを捧げろと、言っているのだ。


「人の願いを神様が叶えるなら、神様の願いを誰が叶えるのか、と、君は言っていたよね」


 転じて変えた題目は、俺の背を推す為のものだった。神様はジッと俺の顔を覗き見て、飲み込むように言った。


「私の願いはね、この子が私のようになって、苦しんで、泣きながら私に救いを乞うことだ」


 暗い瞳の奥に見えたのは、彼女の澱んだ願望だった。


「幸福とは、自分と同格の者の不幸を見ることでしか得られない、相対性の産物だ」


 とんと、その時の俺には、その言葉の意味を理解出来なかった。ただ、彼女が望むのは、生きた七竈の救いを乞う姿だということだけは、頭の中で整理がついた。

 単語の意味を理解出来たのは、大学生になってからのことだった。要は、彼女も、幸せになりたかったのだ。他人の不幸に縋って、自分が神様になっても幸せだと感じたかったのだ。


「そして君は今、七竈祓が生きることを望んでいる。私も彼が生きて、神様になることを望んでいる。これが確かな利害一致というものだ」


 いつか、出会った時の七竈と似たような口振りで、彼女は笑った。ただその表情や言語には、人としての枠を逸脱した何かがあった。俺の麻痺した脳でさえ、その現実感の欠如に警報を鳴らしていた。


「とは言え、何も人の身でそれを成し遂げろと言っているわけではない」


 そう言って、神様は俺の唇を撫でた。彼女に吸われた唇だった。神様の指先は、唇よりも弾力が感じられた。


「前、君に、をあげただろう。上手く使え。君が言ったことは、君の周りでなら、になる」

「……俺の周り、以外では?」

「ならない。現実と真実は違う。けれど、殆どの人間は君が零した言葉の全てを本当のことだと疑わない。君が言えば、嘘ですら現実になる」


 現実と認識の関係性を、その時の俺には理解出来ていなかった。故に、神様が何をくれたのか、よくわかってはいなかった。

 それが認識を歪めるということなのだと、大人になってから知った。俺の口は、他人の認知を歪に加工して、何でも誤魔化せるようになった、ということだった。


「神様なんて嘘で塗り固められた偶像だ。人間の願望の奴隷だ。人間が吐いた嘘が人の形をして歩いているだけだ。願いが叶ったように見せるだけの詐欺師だ。君も同じようにすればいい。君の言葉は強い。それで彼を、君が望む神様にしてみろ」


 これからも頑張るんだよ。そう言い残して、神様は風に溶けた。結局、彼女が俺の妄想だったのか、本当に神様だったのか。その時の俺には、わからないままだった。

 思考を空に溶かしていると、七竈の寝息が、心音が、手に伝わった。それを子守唄にして、俺は田んぼと田んぼの間で、眠った。

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