第45話
興奮は痛みを忘れさせるというのは、本当のことらしい。桃家は笑っているばかりで、痛みに顔を顰める様子は全くなかった。
「もう大丈夫、もう大丈夫」
そう言って、彼女は虚空を撫でるように、肘から上を動かしていた。
「そう、ですね」
俺はひっそりと、手を握るようにして、目を合わせた。虚無の手を握られて、彼女の目は虚ろに溶ける。ただ、その眼の虚無感は母のしているそれとは異なって、酷く満足そうに見えた。全てに満たされた人の、教科書か何かで見たような、信仰に満たされた人間の表情にも似ていた。
「手当しないと」
俺がそう言って、千切れた断面を撫でると、彼女は不思議そうな顔で笑っていた。表情筋は全て柔らかに彼女の精神を包んでいて、苦痛の全ては何処かに捨て去っているようだった。言葉こそ出ないが、恐らく彼女は、自分が両腕を失ったことすら理解できていない。正しい認識というものを失って、脅威が去ったということだけを楽しんでいた。
「手が、汚れてしまったから。洗いに行きましょう。立てますか」
赤い血を全て父のものなのだと偽って、俺は桃家の腕を掴んだ。彼女の妄想になら、付き合っても良いと思った。
声が詰まっているらしく、桃家は一瞬、何か言葉を吐こうとして、唾を飲み混んだ。細い彼女の腰に手を添える。息は静かで、安定していた。心臓のリズムはやや早く、それに伴って、僅かに血が腕の端から飛び跳ねていた。顔にかかった血を拭って、桃家を廊下へと押し出した。
眩い蛍光灯の光が顔にかかって、目が痛かった。白い視界に慣れるまで、数秒を要する。桃家の身体を盾にして、俺は目を瞑った。
そこでやっと、薄暗かった廊下が明るくなっていることに気付いた。俺は電気を点けていない。桃家が父を体当たりで吹き飛ばした時も、こんなに家内から光が発せられている様子は無かった。
やっとのことで慣れた目を、桃家の前にやった。明るい空間の中で、白いゴミ袋が目立った。その中身のビール缶やら酒瓶やらの鮮やかさが目に毒だった。
そんな視界の中に、人影を見た。
「久美?」
騒動の音に驚いた久美が加工室まで歩いてきたのかと、その人影に焦点を合わせた。汚らしい皮膚と割れた爪。細い足は、確かに久美と似ていた。だがその息使いに耳を澄ませてみると、崩れた歯の隙間から吐息が漏れる音と、そこから垂れる唾液を吸い戻す音が聞こえた。
「何やったの、アンタ」
ハッキリと聞こえたのは、震える母の声だった。枝のような指で錆びた包丁を握って、母は俺と桃家を揺れる瞳で見ていた。
「お父さんは。さっきの音は何」
虚無の瞳は揺れて、それでもその焦点は俺に向いていた。母は俺だけを見ていた。俺が盾にしている桃家のことは見えていないかのように、俺を真っ直ぐと見ていた。
「頭をぐちゃぐちゃにして、死んでしまったわ」
交わらない視線を母に向けて、桃家はそう笑った。「だからもう大丈夫なの」とケラケラ笑った。何がそんなに愉快なのか、桃家は横隔膜が痙攣するまで、笑い声を止めなかった。内臓の痙攣で咳きこむ桃家の腹に、母が飛び込んだ。錆びた包丁の先が、背後にいる俺の腕の表面を切った。
「私、私、殺すなら、私が、したかったのに!」
駄々を捏ねるように、母は泣きじゃくりながら桃家に何度も刃を突き立てた。逃げ出す様にして、俺は桃家の影から体を退いた。失われた手を俺に伸ばして、彼女は血を吐いた。馬乗りになって桃家の腹を裂いていく母を見下ろして、俺は桃家の『手』を離した。母が何を言っているのかは、最早わからなかった。それが言葉であると信用出来なかった。
桃家は俺を見つめたまま、一筋、涙を流して、笑った。引き攣った口角のまま、彼女の眼球は動かなくなった。
ゴミ溜めの中、手動で挽肉を作っていく母を眺める。何も出来ないまま、俺は血と肉で汚れた服を握っていた。
――――そんな俺の顔にはねた肉を、六本指の手が拭った。
「神様?」
振り返り際、その名前を呼んだ。だがそこには、血の匂いで充満した加工室しかなかった。気のせいか。そう思って、俺は延びた血の痕を腕で拭った。
「お前もか!」
唐突に、母の叫び声が意味を成す。視線を元に戻すと、立ち上がった母が俺に包丁の先を向けていた。最早、その姿に反応することも出来なくなっていた。俺は口を開けたまま母を見つめた。
「お前もカミサマなんて言うのか! 皆してカミサマカミサマカミサマカミサマカミサマ……もううんざりよ!」
母の言葉に、俺は長い溜息を吐いた。
「俺もだよ。神様を作ろうとか、そういうのが無ければ、こんな家に戻ってこなかった」
自分でも驚く程に、俺は冷静に、母へ笑いかけていた。
「皆、桃家さんのような人だったら、良かったのにね。そうすれば俺は一人でここから逃げて、アンタはネズミみたいにぽんぽん子供を産んで、久美も浩太も全員死んで、全部、死んで」
己の言葉に責任のせの字も無いことは理解していた。支離滅裂なその思考を、俺は止めることが出来なかった。必死に何もわからない子供を演じながら、何もかもを悟った老人のふりをした。
「そうすれば、ほら、もう、苦しくなかったのにね」
俺は笑いながら母の持った包丁の刃を握った。錆びついた刃先は、俺の垢で分厚くなった手を切るには不十分だったらしい。カタカタと震えるばかりの母の筋肉の音が伝わるばかりで、一向に俺の手は血を滲ませなかった。
「このまま刺しちゃえよ。俺のこと嫌いなんだろ? 殺せよ。それとも、俺が言わないと、何も出来ないのか?」
何も出来ない母に、俺はそう言って、鼻で笑った。人間を蔑むことがどれだけ楽しいことなのか、ここに来てやっとわかった。
自分がこの生物よりも上だという自信は、チョコレートを舐めた時のように甘美だった。
ついぞ床に突っ伏して泣き始めた母の顔を、蹴り上げてみる。落とした包丁はゴミ山の中に埋もれてしまっていた。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
母という女の中身のない謝罪は、柔らかなゴミ袋の中に吸われていった。
――――可哀想に。
同情に近い精神で、俺は彼女を見下ろした。桃家の死体の前で土下座して見せる女の、その背骨の凹凸が醜くて仕方が無かった。
「謝っても何も解決しないよ」
「ごめんなさい」
「アンタは俺に何をすべきだったんだ?」
「ごめんなさい」
「父さんよりも痛かった? ごめんね、慣れてなくて」
「ごめんなさい」
応答の面白みの無さに、俺はまた溜息を吐いた。蹲って口を動かすばかりの母の背を跨いで、俺は家の玄関を目指した。硝子を避けながら、腐った肉の上を歩く。
それは、秀樹。それは、未来。それは、壮真。それは、佳代。それは、文子。
かつて細断され、既にガビガビに乾いた弟と妹を踏んで、俺は彼等の短い人生に価値を見出した。兄の足を守るのだ。良いものじゃないか。死してなお、ただデカいばかりで処理に困る父よりも、何倍もその死には価値があるのだと、俺は笑った。
ゴミを分けながら玄関に出るのが面倒で、俺は庭に続く窓を叩き割った。外の空気は籠った家の中よりも涼しく、風が気持ちよかった。芝生が茂っていた筈の庭の地面に、足を乗せた。土が心地良くて、俺は天を仰ぎ見た。
家の庭からは、我が家の運営する工場が見えた。そこだけが赤くて、明るくて。空の星はその光に掻き消されて、暗かった。
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