第44話

 家と繋がった小さな工場。そこでは、かつては祖父らが動かしていた機器類が、埃を被って錆び付いていた、それでも、ゴミ袋は一つもなく、空気は家の中で最も清涼だった。


「きったねえ。クソくらい洗っておけよ」


 父はそう呟いて、おもむろに寧々から布を剥いだ。くっついていた柔らかな皮膚が少しだけ剥がれて、ボロボロと床に溢れる。


「おい!」


 工場の入り口でそっと見ていた俺を、父は睨んだ。サンダルの裏で混凝土の床を擦ると、地団駄を踏むように下半身がうねる。


「掃除しとけ!」


 怒鳴り散らす父に、俺は返事をする気力すら無かった。ぶつくさと何か細かく文句を垂れるのが聞こえた。そんな父の前にあったのは、鋭さを失った金属刃がいくつも並んだ細断機だった。本来の用途は全くわからなかったが、次に父が何をするのかは理解出来た。同じ光景を、何度も見た。赤子が死ぬ度、俺はここで父と同じことをした。

 刃の並びの中に寧々を放り入れて、父はボタンを押した。細断機は腐敗した血と肉を裂き、骨を砕いた。撒き散らされる赤子の破片を眺める父の顔は、幾分かスッキリとした表情をしていた。ズボンのポケットから煙草とライターを取り出す。暗がりで光る煙草の先は、いつか見た蛍のようだった。


「片付けとけ。庭に埋めると面倒だ。夜のうちに山に捨てに行け。去年もやっただろ? 流石に一年経ってないんだから、それくらいは覚えてるよな?」


 ギリギリと奥歯を軋ませる音が聞こえた。それは煙草を咥える父が発するものでは無かった。自分の顎が、骨が、軋んでいることに気づく。どうやら七竈の癖が移ったらしい。俺は何故だか、ハハッと乾いた笑いを溢していた。


「なんだ、ついに頭がおかしくなったか」


 笑っている俺に、父は気まぐれに拳を叩きつけた。ブラウン管テレビを直す要領で、何度も俺の頭を殴りつける。思考が安定しない。自分が先ほどまで何を考えていたのか、わからなくなっていた。前後の記憶が飛ぶ。何か、大事なものを失ったことだけは、頭蓋骨の裏に刻まれていた。


「昨日の今日で生意気になったなお兄ちゃん。あれか、七竈のセガレのせいか? あいつに何か吹き込まれたか?」


 痛みと衝撃が止まった時、父はそう言って俺の首に両手を添えた。今にも首の骨を折られるのだろうと悟って、俺は目を瞑った。父がどんな妄想に取り憑かれていようと、俺にはもう、どうでも良かった。


「七竈も大変だよなあ。あんな父親が誰かもわからない餓鬼、さっさと殺して、次を仕込むのに。お前知ってたか? あの餓鬼をひり出した女はな、父親やら兄弟やらと寝てたんだぜ」


 父の妄想は止まらなかった。七竈とその家族を貶めるための語彙を『その男』は続けていく。俺はそれを黙って聞いているしか無かった。ただ、僅かに、手が震えて、四肢に力が入っていくことだけはわかった。


「澤も七竈も親父も……みーんな、おかしいんだ……餓鬼一人を崇めて育てて、神様だとか何だとか……あんな餓鬼の何が神だって言うんだ。先祖が神様を作った? 俺達もそれに続く? 既にこの世に神がいるなら、何で俺は、俺達は、必死こいて神様を作ろうとしてるんだ?」


 アルコールはとうに抜けているだろうに、父は震えながらそうやって、妄言を垂れ流していた。その言葉の背景を、当時の俺は何もわからなかった。聞けば聞く程に、父が狂っているとしか思えなかった。

 けれど、その隙間に見る父の苦しそうな顔が、何故だか、同情の琴線に触れてしまって。俺は。


「神様はいるよ」


 縋れるものの無い父の姿が、酷く哀れだった。呟いた言葉は父に刺さっていたらしい。彼は無表情のまま、俺の鼻を拳で砕いた。痛かった。けれど、それに反応することは出来なかった。


「そんなものがいるなら、今ここで祈って見せろ。助けてくださいって、呼んでみろよ」


 そう言って、父は静かに俺の顔面を殴り続けた。自分の血と、父の血が、混ざって、俺の顔を濡らす。痛みというよりも、視界が悪い方が不快だった。父の苦しそうな顔が見られなくなっていく。それが一番嫌だった。


 ――――神様、今、もしも俺を見ているのなら。

 ――――どうか、この哀れな父を、救ってやってはくれないだろうか。


 白いワンピースと黒く長い髪。赤い爪と六本の指。涼やかな彼女が夜を背景にした時、どう見えるのかが、気になって仕方がなかった。それを見た時に父がどんな反応をするのか、それだけでも目に入れて、死にたかった。

 震える手を前に伸ばす。赤くなった視界の中で、父の手を掴んだ。


「父さんが、救われますように」


 掴んだ手が振り解かれて、その拳は今までにない程高く振り上げられた。

 ――――あぁ、死ぬのだ。宵子と同じように、俺も、頭を吹き飛ばされて、死ぬのだ。

 よくここまで生きたものだと、頑丈な自分を労いながら、俺は目を閉じた。


 瞬間、顔の前に風が過ぎった。未だに動き続ける細断機の音で、何が起きたのかは理解出来なかった。俺の上から父がいなくなったことだけはわかった。

 ゆっくりと目を開けた。赤く塞がれた薄暗い視界に、二人の人間を見る。


「幽冥君! 逃げて!」


 桃家が、あの屈強な父を細断機まで押し飛ばして、抑えつけていたのだ。必死に俺に逃げろと叫ぶ彼女は、不意打ちで立ち上がることが出来ない父を、何度も蹴り付けていた。それをものともせずに、父は頭を振りながら立ち上がった。


「このクソアマ」


 そう言って、父は桃家の首を掴み、宙に持ち上げた。俺のことなど半分忘れて、暴れる桃家の首を折ろうと腕に力を入れる。空中で足を上げる桃家は、一度は父の腹部を蹴るも、成人男性の体軸はびくともしなかった。次第に弱くなっていく彼女の四肢の動きが、俺の心臓を逆撫でた。

 一歩、前に踏み込んだ。桃家の体を盾にして、俺は彼女ごと父を押し退ける。その頭が、丁度、細断機の頂点にあたることは、予想がついていた。頭を守る本能か、父は咄嗟に腕を後ろに向けて、金属刃の中に入れた。一瞬、腕の肉と骨が刃に絡んで、ギギギギギギと音を立てて、機械が止まった。右腕を裂かれた父は、その痛みに悶えるでもなく、息を荒くして、俺と桃家を睨んだ。形を失った腕を金属刃から引き抜くと、父は溜息を吐いていた。


「何がしたかったんだ、クソガキ」


 ごく当たり前の殺意を向けられて、俺は足を止めた。獣のような本能で、これに敵う筈がないと感じてしまったのだ。

 その隣で、桃家が、血走った目を父に向けていた。彼女はギチギチと音を立てて回り出した細断機を見つめると、再び獣のように父の懐へと向かった。不意打ちですらない体当たりでも、片腕を失ってバランスを崩した父を倒すには、十分だった。唾液を垂れ流しながら、桃家は歯を噛み締めて、父の頭を自分の腕ごと細断機の中に入れた。

 ――――叫ぶことも無く、ただ静かに、肉が散って、混ざる。父の上半身と、桃家の腕が混ざって、俺の顔にかかった。


 ゲラゲラと笑いながら、自分の失われた腕を誇る桃家に、俺はまた、微笑んでいた。

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