第43話
妙に綺麗な風呂敷が、居間に広げられていた。その中心にはまだ温かさの残る握り飯が数個積み上げられていた。その近くには、浩太を治療した時と同じ鍋が置かれていた。その中身は白い粥に代わっていて、米粒の形もわからない程、丁寧にすり潰され煮込まれていた。
「農家さんに頼んで貰ってきたの。幽冥君はゆっくり噛んで食べてね。久美ちゃんはお粥の方を食べて」
「お腹いっぱいにならない」
「でも急に食べると、お腹痛くなっちゃって、危ないから」
そう言って、桃家は寝ぼけている久美に、ひと匙、粥を舐めさせた。久しぶりに食べた綺麗な米の味だったからか、彼女はもっともっとと粥をせがんだ。
「綺麗なお米って、良い匂いなのね」
拙い舌で、久美がそう笑った。彼女にとっては初めての経験なのだ。「そうだよ」と俺が笑って見せると、その視界に眉を顰める桃家がいた。人差し指を口元に置いて、甘える久美に見えないように、桃家の言葉を止めた。すると、桃家は俺の耳元に顔を寄せて、囁き始めた。
「初めて、なの?」
「久美が物心つく頃には、父はあんなだったので」
「……その前は?」
桃家に問われて、自分の記憶を思い起こす。かつての父母の姿。俺の記憶が芽生えた頃は、まだこんな家ではなかった。祖父母もまだこの家に住んでいた覚えがある。山の中にある工場の他に、家の隣には曾祖父の時代まで使っていた小さな
「さあ、どうだったか」
自分の声が震えていることに気付いた。桃家が何か言葉を吐こうと口を開いた。しかし、唐突に、くんっと腕の袖を引かれて、そちらの方に二人で目をやった。背後で浩太が薄らと目を開けていた。
「浩太」
俺が名前を呼ぶと、すぐに桃家がその汗だらけの顔を拭った。このゴミ山の中でよく機敏に動けると、感心すらあった。
「浩太君、お水飲める?」
そう言う桃家に、俺は水の入った器を渡して、その手が行く先を見ていた。いつの間にか久美も俺の背中に抱きついて、浩太の姿を見ていた。静かに過ぎる時間の中、ゆっくりと浩太が水を飲んで、差し出された匙についた粥を舐めた。僅かに桃家の頬が緩んでいるのがわかった。彼女は浩太に少しずつ粥を舐めさせていった。
もう何も俺に出来ることは無いと悟って、抱きつく久美に粥を飲ませた。片手間に握り飯を口に入れた。それと同時に、壁にかけてあった時計が目に入った。既に時刻は九時を回っていた。
思えば、飯の臭いがするというのに、あの母が何処にもいなかった。襖の隙間、棚の間、空間の断片に母の痕跡を探した。そうやって頭を振ると、僅かに汗が耳の中に入った。不快感が嫌な予感と共に脳を巡った。
「桃家さん、全部隠して」
「え?」
「早く!」
枯れた喉を絞って、居間に広がった米を傍にあったゴミで覆った。外からエンジン音が聞こえた。ピーピーピーという、家の裏口の簡易テントの中にバックで車を入れる音。荒々しいブレーキと車両の駆動音に心臓を捥がれるような感覚を覚える。事の重大さに気付いた桃家が、浩太と久美を襖の奥に隠した。
裏口からゴミを押しのけて歩く男の足音。床に穴でも開けたいのか、駄々でも捏ねているのか、それは異様に力強かった。時々よろけるような音が聞こえ、酒の匂いが僅かに漂った。
窓が開いているのを見つけて、急いで庭に出た。床下に入り込んで、横になる。土と埃の臭いと皮膚の湿り気。息使いを悟られないように、口を手で塞いだ。心臓と肺の動きが明確に早くなっていく。どんどんうるさくなる。
ふと、父とは違う足音が聞こえた。それが桃家の気配であることは明白だった。軒下から顔を出して、居間に目を向けた。襖の向こうに久美達を隠した後、俺を探しに戻ったらしい。そこには、足を震わせて立つことすらままならなくなった桃家が、泥酔した父に睨みつけられている姿があった。
「……昼からこの時間まで、掃除の一つもせずに何やってたんだ、お前」
呂律の回らない父は、そうやって部屋を見まわしていた。桃家は今にも泣き出しそうな表情で、父を睨んだ。震える手足は俺と同期するようだったが、それでも彼女はゆっくりと立ち上がった。
「子供達にご飯を食べさせてたのよ」
「そんなの何処で手に入れた」
「近所の人から分けてもらったの」
ハッと父は鼻で笑った。
「向かいのジジイの機嫌が良かったのはそれかぁ!」
何を言っているのかは、理解出来なかった。何故父が笑っているのか、桃家が静かに泣いているのか、想像が及ばなかった。ただそれが、桃家という女性を侮辱しているということだけはわかった。
「……アンタみたいなのがいるから!」
ゴミの下に隠されていた鍋を、桃家は父に投げ付けた。ぬるくなった粥が父の頭を汚した。笑い声が止んで、静寂だけが耳を支配した。興奮する桃家の息使いだけが聞こえた。心臓がドンと強く動いた。
拙い拙い拙い。父の静かさに気付いて、無意識に体が出た。窓から居間に飛び込んで、桃家の前に転げた。父の目線が俺に向いた。殺されるのだと、直感した。
気が付いた時には、父の強靭な足が俺の顔面を吹き飛ばしていた。身体がひっくり返って、壁と床に体を打ち付ける。頭が何か液体のようなもので冷えた。
「くっせーな、何だよ、それ」
父が示した先には、俺と、寧々の死体があった。俺の体重で、寧々の身体が潰れたのだ。異臭を放つ体液が、俺の身体に染みついていった。
「何だよ面倒だな。また死んだのか? 死んだらどうするか、ちゃんと決めてたよな、お兄ちゃん?」
赤子の形をした肉を、父は摘まみ上げて、溜息を吐いた。片手間に桃家の顔面を殴りつけると、彼女の身体を邪魔だと言って、そのまま家の奥に向かった。
――――寧々の肉をどうするのか、何をするのかはわかっていた。
気絶する桃家を置いて、俺はぼやけた視界の中の父の背を追った。
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