第42話

 何も言わなくなった母親を放置して、俺と桃家は粛々と浩太の治療にあたった。久美の桃家に対する懐き様は、信頼の証だった。彼女には裏表がない。それはこの二日間でよくわかった。久美の腹が鳴る度、浩太が痛みで激しく暴れる度、「ごめんね」と彼女は泣きそうな顔で己を恨むように呟いた。


「とりあえず、これで暫くは様子を見れるわ。後は隙を見て街に連れ出さないと」


 血膿の濃厚な匂いの中で、桃家はそう言って汗を拭いた。張り付く服の裾を掻きむしって、彼女は俺に笑いかけた。


「次はご飯探さないとね」

「もう夜になるから、別荘地のゴミは漁れませんよ」


 俺がそう言うと、桃家は肩をすくめた。考えがあるのか無いのか、彼女はやたらと軽々しく、俺の肩を叩く。


「……父親が帰って来るの、何時になりそう?」

「いつも夜中にならないと帰ってきませんよ」

「そう。なら猶予があるわね」


 何か、覚悟を決めたように、桃家が眉間に皺を寄せた。彼女は自分の顔をパンパンと二回ほど叩くと、立ち上がって廊下に出た。


「久美ちゃん、お兄ちゃん達と少し待っててね」


 ぎこちない笑顔で、桃家は外に走っていった。窓の外、赤い夕日の中に、彼女が駆けていく音が聞こえた。

 桃家が消えた数秒後、久美が俺の腕に縋った。心細くなったのだろう。俺は久美に水を飲ませて、眠るように言った。


「あの女、逃げた?」


 ふと、廊下から母が居間に顔を出した。彼女はジッと俺を見ると、枯れた声で笑った。


「浩太を街に連れて行くって? 無理無理。でも、食い扶持が減って良かったじゃない。お兄ちゃん」


 乱れた歯を見せて、ケラケラと母は笑っていた。その言葉の意味を理解はしていた。心のどこかで、彼女と同じことを考えている自分がいるのもわかっていた。


「桃家さんは逃げてもいないし、あの人なら這ってでも浩太を街に連れて行くよ」


 だが、そんな合理的な現実を、否定する自分も同時に存在していた。忌々しくも仄かに輝くあの良心を、信じてみたくなってしまっているのだ。お花畑に感化されたのか、それとも桃家のその献身が一種の信仰だと気づいたからだったのかは、未だにわからない。

 ただ言えることは、俺はこの母親の吐き出すものの全てを否定したくてたまらなかったということくらいだった。


「……そういや、寧々ねねの泣き声が聞こえないんだけど、寝かせたの」


 廊下に座る母を睨みながら、俺は末の妹の名前を唱えた。寧々。まだ一歳になったばかりの、その赤子は、いつもだったら常に泣き叫んでいて、俺が寝かしつけるまで静かになることはなかった。


「確かめてくれば」


 母はそう言って、細い指を家の奥に向けた。静かで暗い、硝子戸の向こう。かつて風呂場だったそこは、糞尿を垂れ流すしかない赤子の育児部屋として使われていた。

 嫌な予感はあった。俺がいない二十四時間の中で、赤子を世話出来るのは八歳になる浩太くらいなものだった。気弱な久美では、きっと怪我をした浩太を心配して、動けなかっただろう。母の乳はもう既に出なくなっていた。浩太がゴミを漁りに出る程なのだから、そもそも寧々に飲ませるジュースなども残っていなかった筈だ。


「寧々」


 蒸すような腐敗熱を掻き分けて、風呂場へと足を埋めていく。近付く程に蠅が増えていく。家の中を這う蟲達は、俺が『それ』に向かって歩く度、散っては集まってを繰り返す。心臓の鼓動と共鳴するように、思考が巡った。足先は変わらず冷えたままで、血は頭に上っていく。


「寧々」


 もう一度、声を上げた。風呂場の硝子戸を押し退けた。

 ――――ブーンブーンブーン…………

 聞こえるのは、赤子の声でもなく、息遣いでもなく、蠅が飛び交う音だけだった。壊れかけのシャワーから垂れる水滴のリズムで、息を整えた。


「ごめんな、暑かっただろ」


 茶色と黄色で彩られたタオルの中でひっそりと息を止める赤子に、俺はそう語りかけた。鼻は既に麻痺していた。柔らかかった赤子特有の関節は硬く動かなくなっていた。湿った風呂場の空気を、吸っては吐いて、溜息の代わりにした。昨日までは沸かなかった怒りが、憎しみが、今になってじわりと浮き出ていた。

 この風呂場で死んだ弟妹は寧々が初めてではない。久美と一緒に生まれた双子のもう一人の妹もここで死んだ。その後に生まれた三人の弟も、二人の妹も、母がここで産み落とした。そして一歳になる前に、死んだ。どうにか幼い死を超えて、学校に行けるようになったのは、久美と浩太と、今もキャリーケースに詰められている宵子よいこだけだった。

 淡々と超えてきた死を、今になって思い出す。寧々の前、ゴミの中に腰を落とした。短くなった髪を掻きむしって、叫びたくなる喉を抑えた。

 施設にいた子供達の顔が頭の中で響く。例え澤のような狂人のカモフラージュにしか過ぎなかったとしても、毎日腹一杯食べて、明日死ぬ心配を一切する必要がない彼らが、俺は羨ましかったのだ。三人をあの母の元に置いてきたことを、忘れたかったのだ。このまま七竈に着いて行って、街に逃げ出して、何もかも母と父が悪いということにして、一人で可哀想な子供として幸せになりたかったのだ。


 そうやって、風呂場で蹲って、何十分が過ぎただろうか。頭痛がした。蠅の羽音が脳の血管を震わせるようだった。このまま痛みの中で沈んで、死んでしまっても、良いと思った。


「幽冥君、大丈夫?」


 薄らとした意識の中で、一人の女性が俺を見下ろしていた。涙で赤く腫れた顔に、俺はハッと小さく笑った。


「お風呂場で何してるの。その、抱えてるのは、何?」


 青冷めていく桃家の言葉に、ふと、俺は両腕で抱いていたものに目をやった。無意識に強く抱きしめたそれは、ぐちゃぐちゃになって、腐った体液で俺の服を汚していた。


「末の妹ですよ。寧々って言うんです。少し前に一歳になったばかりだったんです。俺と違って目がぱっちりしてて、大人になったら、きっと、凄い美人だったんです」


 あやすようにして、両腕で寧々を揺すった。溢れる液体は、多分、組織液と呼ぶもの。目は合わない。桃家に腕の中を見せた。彼女は引き攣った頬を何とか治めて、俺と目を合わせた。


「他にもいっぱい、いたんですよ。ここに、いっぱい。俺の弟とか、妹とか、いっぱい」


 文章にすら出来なくなった脳の全てを、俺は桃家にぶちまけていった。その言葉を拾い上げるように、桃家は寧々を俺の腕から取り上げた。


「幽冥君、ご飯にしよ」


 バスタオルで包んだ赤子の亡骸を、桃家はまるで生きているかのように抱き上げて、小さく歌っていた。彼女のボロボロになった洋服の胸元に目が行った。

 居間に戻っていく桃家の背中が、酷く小さく見えた。

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