第41話

 再び訪れた台所には、換気扇が回る軽快な音が響いていた。ほんの数分の間に、煙草の匂いが充満していた。水場の側、煙を吐く女が、虚な目で立っていた。


「母さん、起きてたんなら、返事してよ」


 俺の言葉を全て無視して、下着姿の母は床に座り込んだ。言葉の代わりに吐かれていく煙が、足にかかる。彼女の後ろにあるコンロに火をつけて、水を入れた鍋を置く。


「料理なんて出来んの、アンタ」


 気怠げな声で、母が呟く。足元に目を向けたら、きっと俺はこのままこの女を蹴り殺してしまっただろう。だから、俺はそのまま前を向いて、口を開いた。


「違う。包丁を消毒するんだ。煮沸消毒。それくらいわかるだろ、アンタだって」


 火にかけた鍋の中に、包丁を放り投げた。足元ではまた母が煙を吐いていた。近くのゴミに引火させないかだけが気掛かりだった。以前、母の煙草が原因で、小火を起こしたことがあった。その時は母が殴られて顔の形もわからなくなった他、同時に止められなかった俺の足が折られた。


「綺麗にするの? それ、一回も使ったことがないから、綺麗よ」


 そういうことではない。と声に出しかけて、俺は溜息を吐いた。熱湯から包丁を取り出して、頭に叩きつけてやりたかった。破壊衝動はずっと、それこそ数年抱え込んでいた。

 ――――七竈も、似たような感情だったんだろうか。

 遠く、工場にいるだろう彼のことを思い出して、気を紛らわした。自分を産んだ母親への憎悪。きっとそれは、中身や動機は違えど、形としては同じだったに違いない。


「幽冥君、ごめん、布もう少しあったら……」


 廊下から桃家が駆け込む音が聞こえた。振り返ってみると、台所の入り口で、顔面蒼白で立ち竦む彼女がいた。彼女の目線はしっかりと母に向いていた。その視線にも関わらず、母はいつも通りの姿で、二本目の煙草に火を点けていた。


「……貴女、幽冥君の母親……?」


 震える手を押さえつけて、桃家は母を睨んでいた。


「そうよ。てか貴女、誰? 他人の家に勝手に上り込んで何やってるの?」


 悪びれもせずにそう唱える母に、桃家は顔を赤くして、力強く歩き出した。一歩一歩を踏みしめながら、母に近づいていく。足先が触れた瞬間、桃家は母のブラジャーを掴む。そうして母を立ち上がらせると、そのままもう片方の手で平手打ちした。崩れる母を見下ろして、桃家が牙を剥いた。


「煙草買う金があるなら子供にご飯食べさせてあげなさいよ!」


 肋の浮いた母の腹を見ながら、桃家は叫ぶ。彼女の言い分を、俺は理解出来なかった。それは母も同じだったらしく、何故見ず知らずの女に殴られたのかも、何を言われているのかも、わかっていないようだった。


「久美ちゃんから聞いたわ。浩太君の傷は、お腹が空いて外で生ゴミを漁ってて、野犬に噛まれたんだって。子供がお腹を空かせて生ゴミ漁るって何? 有り得ない。母親として何やってたの。本当に貴女、子供三人も産んだの? 何で養えもしない子供産んだの? 食べさせられないなら他所に預けるとか出来るでしょ?」


 きっとそれは正論だったのだろう。桃家が知る常識での正しい答え。だが俺達にとって、それは正解でも現実でもなかった。知らない世界の知らないルール。それを桃家はずっと、長ったらしく母に吐きかける。しかしその響き共鳴する良心も常識も無い母は、ずっとキョトンと目を丸くするばかりだった。


「桃家さん」


 俺が声をかけると、彼女は上がった息を整えて、振り返った。その表情は今にも泣き出しそうで、まるで駄々をこねる子供のようだった。


「母も俺も、貴女の常識を知らない。母親がどう振る舞うべきなのかを知らないんです。俺にとって母親とはそういうものだし、父親だって、ああなんです」

「でも」

「俺達は、村の外を知らない。本の向こうの、御伽噺のことを、何故知らないんだと責め立てられているようにしか、思えないんですよ、俺達には」


 苦し紛れに吐き出すような、絞り出すような。そんな声が、俺の喉から垂れ流されて、床に落ちて、ゴミと混ざる。沸騰した湯が跳ねて、腕を熱しても、俺にはそれが熱さだとわからなかった。


「煮沸消毒したら、鍋ごと持って行きます。布も、探してきます。弟を診ていてください。お願いします」


 ――――これ以上、俺に夢を見せないでくれ。母親が子供を愛し、父親が子供に慕われる。そんな世界が、正常だなんて、

 歯を食いしばった。歯茎が痛かった。多分、血が出ていたと思う。「わかった」とおどける桃家を見送って、俺は母を見下ろした。ぼーっと桃家を目で追う彼女は、その足音が聞こえなくなった途端に、口を開けた。


「アタシだって」


 鼻と口を震わせて、彼女は舌を回した。赤く腫れた頬を歪ませて、俺を睨んだ。


「アタシだってアタシだってアタシだってアタシだってアタシだって」


 煙草の灰をかき集めながら、母は地面に這い蹲った。


「アタシだってご飯貰えなかったもんアタシだってお金貰ってないもんアタシだって産みたくなかったもん子供なんてもう産みたくないもん体あっちこっち痛いしもう嫌でもやらないとご飯貰えないんだもんアタシだって子供の時に兄さんがご飯くれなかった兄さんが悪いんだあいつにアタシを売った兄さんがそうだ兄さんが悪いアタシ悪くないアタシだって被害者だもん全部兄さんが悪い男なんか全部死んじゃえ死んじゃえ死んじゃえ死んじゃえ死んじゃえ死んじゃえ」


 俺の足元で、その女はずっと、誰に向けるでもない恨み言を叫んでいた。俺という男を睨んで、ずっと、血眼を向けて、ずっと。

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