第40話
忌々しい程の晴天の中で、帰路を辿った。時折、畑や田を手入れする農家とすれ違ったが、誰も俺達と目を合わせなかった。本能的に俺達と関わったらどうなるのか、勘づいていた。桃家と俺の姿は、他所の村から逃げて来た母子のように見えていたことだろう。伸ばし放題だった髪を切っただけで、俺の印象は、実の父親が息子と認識出来なかった程に変わっていた。
そうして歩いているうちに、甘い死臭が鼻を突いた。懐かしさすら覚えるその匂いを辿って、俺は怖気付く桃家を引っ張った。数十メートル先に見える、平屋建ての屋敷。白い塀に囲まれた瓦葺きの美しいその表面は、銀蠅に包まれていた。門の外に漏れる白いビニール袋は、村の指定のゴミ袋だった。それらは腐敗ガスでパンパンに膨れ上がり、いくつかは烏と犬にその中身を与えていた。
「ただいま」
逃げようとする桃家の腕を掴んで、蠅の群衆の中に足を入れる。ブシュッと音がして、湿った空気と粘度のある液体が門壁を汚した。同時に、足の裏に何か小さなものが蠢く感触を覚えた。足を上げると、米粒が俺の足の隙間から溢れた。それは蛆と蠅の卵が混合したもので、蛆は俺の切れた足の傷口に潜ろうとしては、俺の体重で潰れていった。
「母さん、起きてる?」
ブーンブーンブーン――――蠅の羽音の中で、俺はいつも通り母を探した。玄関は開きっぱなしで、軒下の窓も開いていた。廊下に上がれば、埃と砂に塗れた板で、足が滑った。尻から倒れる時に、咄嗟に桃家の腕を離した。
「だ、大丈夫?」
頭こそ打たなかったものの、尾てい骨を痛めた俺は、その場に蹲った。桃家がそれを上から眺めていた。
「こ、ここが、幽冥君の家……で良いの?」
俺が首を縦に振ると、彼女は静かに周りを見渡した。同時に、俺は低くなった視界を眺めていた。手入れされていないトイレと、カビた襖が目に付く。その襖の隙間から、小さな手が出ているのに気づいて、上半身を起こした。
「
妹と弟の名前を唱えて、俺は居間の畳を踏んだ。我が家でその手の大きさをしているのは、二人のどちらかだった。他の弟妹はまだ幼く、もっと小さな手をしていた。
「お兄ちゃん? その頭、どうしたの?」
襖の隙間から、掠れた声が聞こえた。妹の久美の声だった。桃家を後ろに控えて、襖を開ける。そこに居たのは、青白い顔から大量の汗を流している浩太と、それを眺めながら力無く座っている久美だった。
「どこ行ってたの」
「昨日話しただろ。お姉ちゃんとお別れに行ってたんだよ」
「ご飯は?」
「ごめん、貰ってこれなかった」
「お腹空いた」
「そうだよな、悪い。もう少し我慢してくれ」
弱々しく駄々を捏ねる久美の頭を、ゆっくりと撫でる。カラカラに乾いた唇と、発疹の出た手足。脱水と栄養失調。俺がいない間、二人が何をしていたのかはわからなかったが、飲食がままならなかったのは見てわかった。
ふと、妙に静かな桃家に目を向けた。彼女は倒れた浩太の体を、明るい居間に引き摺り出していた。
「何してるんですか、桃家さん」
「少し黙ってて」
いやに真剣な表情で、桃家はそう言い放った。こちらには目もくれず、彼女は浩太の黒く腫れた足に触れた。時々、その黒くなった皮膚を指圧していた。彼女はそこに鼻と耳を近づけると、天井を見た。
「……ごめん、すぐに説明するから、電気点けてくれない? あと、沢山の水と出来るだけ綺麗な布と……包丁でもカッターなんでも良いから、錆びてない刃物も」
言われるがままに、俺は今の電気を点けた。てかてかと輝く浩太の脚が目に入る。赤く腫れたその脚は、もう一方の脚の倍以上に膨れ上がっていた。よく見れば、腫れた脚の中に見える黒い皮膚は、アーチの形を成して、その傷が犬に噛まれたものであることを示唆していた。
「水! 早く!」
怒鳴り声を上げる桃家の表情は、酷く焦っていた。初めて見る彼女のその顔と、父に似た声に押されて、俺は急いで台所に向かった。途中で見えた布を引っ張り出して、空いた缶ビールをかき分け水道に向かう。何とか掘り出した鍋に水を入れ、包丁を口で咥えて、居間に戻った。
居間では、浩太の太腿をビニールでキツく縛る桃家が、襖の向こうの久美にジッと見つめられていた。
「何やってるの」
「痛いのを取ってるの」
膨れ上がった浩太の脚を、桃家は何度も押していく。痛みに悶える浩太を見て、久美は眉を顰めていた。
「浩太、痛がってる」
「本当? 良かった」
「良くない! 痛いのは駄目!」
吠える久美は、近くにあった時計を桃家に投げつけた。それを額に受ける桃家は、咄嗟に浩太の体を守った。角が当たったのだろう。彼女の額からは一筋、血が垂れて、落ちた。
「あのね、浩太君の脚はね、犬に噛まれて大変なの。でもね、触って痛いって感覚があるってことは、まだ大丈夫かもしれないの。ここで応急処置をして、病院に行けば……」
「病院なんて行けないですよ」
その言葉の隣、俺は彼女のそばに鍋いっぱいの水と包丁、そして布を置いた。すると桃家は「ありがとう」と一瞬だけ微笑んで、顔を顰めた。
「病院に行けないって、どういうこと、幽冥君」
「そのままの意味です。この村には診療所も無い。街に出ないと」
「じゃあ、救急車を」
「電話は二年前に父が酔っ払って叩き壊しました」
「近所の人に頼んで」
「こんな家の人間に、誰が関わりたいと思います?」
周囲を取り巻く汚物。今にも死にそうな子供三人。そんな光景を眺めて、桃家は唾を飲み込んだ。彼女は未だ、これが現実であることを信じきれていない。否、自分の知る現実と地続きだと考えているのだ。認識外の現実が存在していることを、目の前のそれが争いようもない地獄であることを、理解していなかったのだ。
「……とにかく、その包丁をお湯で煮るか、お酒で洗うかしてくれる?」
「膿でも出しますか。無駄だと思いますよ」
一度腐った畳に置いた包丁を、桃家の前に突きつける。彼女はジッとその先を見つめて、パッと笑った。
「良いから、お願い。ずっと苦しんでいるのを見るのは、辛いから」
包丁の刃先を上に向けて、俺は立ち上がった。桃家の隣に、久美が縋り付いた。本能で、彼女が自分にとって利益になると感じ取ったのだろう。俺は彼女達に背を向けて、台所へと向かった。
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