第39話
冷えた目線で俺を見る父の顔で、この先の未来はどうなろうが明るくはないのだと理解する。七竈は父が妹を殺した事実屋、俺に何をしたのかを知っていて、閉鎖的な村の中ではそれが公然の事実であったことも理解している。ただ、それが街の、一種常識的な司法の前に立たされたら、どうなるのか。これだけの会話が成り立つ父のことだ。わからないわけではないだろう。何らかの形で自分達を匿えと、七竈は言っているのだ。その対価として、父の虐待を隠すという提案をしている。その提案が成立した時、俺は父の下に戻されるのだろう。かと言って、このまま街に出たところで、澤から逃げ切れるとは限らない。俺達が確実に逃げ延びるには、澤桔梗を破滅させる必要がある。どう考えたって、俺は、この身を滅ぼすしか道は無いのだ。
乾いた笑いが口元から溢れた。その瞬間に、父が俺を睨みつけた。いつもの父の顔だった。
「お前の娘の死体は、ピンクのキャリーケースに入れられて、うちの屋敷で眠っている。多分もう変な汁とか出てるんだろうが」
全部知っているのだと、七竈はそうやって牽制する。父がここで暴力的な行動に出ないのは、多分、七竈がそれだけ特別だということなのだろう。彼の父親についても、父は知っている様子だった。もっと言えば、七竈が予想した通り、彼の父親は俺の父よりも上の立場にある。その上で、七竈はその存在にこそ価値があるのだ。それを傷付けることは、父ですら出来ないのだろう。
「……アンタを工場に隠せば良いんだな?」
七竈に向けて、父は言った。しかしその目線は、七竈ではなく、息子である俺の方に向いていた。
――――あ、死ぬんだ、俺。
諦観に徹するしかない俺の体を、ふと、誰かが包んだ。俺を自分の体に引き寄せながら、父を睨み返すのは、桃家だった。
「出来れば学生達もだ」
「ならそっちの男はうちの作業員に紛れ込め。うちは女を雇ってないんでね、他は無理だな」
「長丁場になったら困る。廃工場に僕を隠すなら世話係の一人くらいは必要だ」
「贅沢言うな……なら女のどっちか、ここに残れ」
自然と、美也子が七竈の側に寄った。桃家の腕が俺を締め付ける。その手が震えていることに気づいた。
「廃工場の方にも電気は通っている。トイレはいくつかあるし、動かせないわけじゃないだろ。飯はそこの男に運ばせる」
「食事付きか? 豪華だな」
「
父がそう言って目を向けたのは、桃家だった。その先については、想像出来なかった。年若い女性というものにどんな価値があるのか、思春期を越えていない俺には理解出来なかったのだ。
「随分とそれと仲が良いみたいだな? うちの女房は餓鬼をひり出すは上手いが、洗濯の一つも出来ん馬鹿でな。代わりが欲しかったんだ」
桃家の腕の力は一瞬緩んで、彼女はトメと美也子に目線を送っていた。一言トメが「すまない」と口を動かしたのが見えた。瞬間、七竈の目がしっかりと俺を見ているのに気づいた。彼は俺をジッと見ていて、何か言葉にしようとして迷ったのか、口を開いては、閉じて舌打ちをして見せた。
「好きにしたら良い」
七竈がそう言うと、父は俺と桃家に「立て」と短く唸った。廃工場へと身を翻した七竈は、もう目を合わせてはくれなかった。
腹の肉が震えているのがわかった。四肢は妙に冷えていて、夏だというのに薄ら寒さすら感じられた。
「立って歩いておうちに帰るくらい、何も言われなくとも出来るだろ」
「い……あっ……」
「あ?」
「ここここ、工場、来たこと、無い…………から、俺、こっから、帰り方、わかんな――――いッ」
桃家を足蹴にして、彼女から俺を引き剥がすと、父は俺の顔面を地面に擦り付けた。サンダルの裏で後頭部を何度も踏む。底の厚い靴でなくて良かったと心底思う。脳の揺れは、思考を奪うのに十分だった。
「来たことあるだろ? 五つの時に
理不尽を叩きつけられて、現実に引き戻された。そうだ、これが俺の日常だ。明日も明後日も、変わらない日々が続く。これが俺の現実で、遅かれ早かれ戻っていた世界だ。
「…………や! 山を下りれば村なんでしょ! そうしたら幽冥君も帰り道、わかるよね!」
そう言って庇いたいのか逃げたいのかもわからない桃家が、父の腕にしがみついた。彼女の柔らかな肢体に触れたせいだったのか、父は一度俺の頭から足を退いた。桃家を軽々と突き飛ばすと、ジッと俺を見た。
「逃げたらどうなるかくらいは、わかってるな?」
父の太く油で黒ずんだ手が、俺の頭を持ち上げた。ふらつく足を何とか立ち上がらせた。桃家が俺の身体を支えた。裸眼ではもう、彼女の表情などわからなかった。ただ、父の慣れた殺気がずっと、肌を刺して痛かった。
「ゆっくりで良いから、大丈夫」
桃家にそう言われて、俺は父に背を向けた。村へと下る舗装されていない山道は、足裏の皮膚を砕いていく。あの冷たい施設の廊下が、天国だったのではないかと思うほどだった。
「……ごめんね」
ふと、数分歩いた後、桃家が耳元で囁いた。歪む視界には彼女が何を意図して口を開いたのかはわからなかった。
「私がもっと強く何か、言えてれば、わざわざ工場なんかに向わないで、ずっと遠くに逃げてって、言えれば」
嘆くだけの彼女の言葉は、耳を突き抜けていく。今それを言っても、俺はどう応えれば良いのか。後悔を垂れ流す人間などというのは、過去の自分を慰めて欲しいだけだろう。自分が悪く無い理由を第三者に補強して欲しいだけなのだ、この女は。そうやって被害者ぶって顔を下げる彼女のことを、俺はどうも慰めてやる気にはなれなかった。
村の凸凹に舗装されたアスファルトが見えるまで、桃家はそうやって、ずっと、俺に慰みを求めていた。
山道を覆っていた木々が薄れ、青い青い、空が見えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます