四章
第36話
震えを止めない桃家は、何故だか「大丈夫」と連呼していた。耳元で何度も同じ言葉を囁かれるのは、何だかこそばゆかった。鼓膜の震えと共に、肩が震える。それは桃家が俺の肩に置いた手が原因だった。細かい振動は多分、筋肉の硬直によるものだった。俺は彼女の手を取って、指先だけを包み込んだ。傷だらけの手は、桃家のあかぎれだらけの手によく馴染んだ。
「独り言です。気にしないで」
俺がそう言うと、桃家は何かに気付いたようにハッと目を開けた。何度かの深呼吸を繰り返す。次第に震えは止まって、桃家の指が蠢いた。
「そうだよね、幽冥君だって巻き込まれた側だもんね……おかしく、なっちゃうよねえ」
一人、俺の存在を歪めて認識している彼女は、己を納得させる言葉を呟いていた。何か盛大な勘違いをされていることには、気付いていた。ただ、それだけで彼女の昂った精神が沈静化するのであれば、悪いことではなかった。一般的な成人女性というのはこういうものなのだろうかと、無駄な思考で暇を持て余す。それまでの自分の知る成人女性というのが、父親に殴られてばかりで何もしない母親か、教科書に話しかけてばかりの国語教師くらいだったもので、女性という生き物はそういうものなのだと、思い至ってしまっていた。だから、勘違いに耽る彼女に対して、「せめて、泣くのをやめてくれれば有難い」くらいにしか思わなかったのだ。
「桃家さん落ち着いた?」
少し張ったような女の声が聞こえた。二人でそちらに目を向けると、廃屋の中から出て来た美也子が微笑んでいた。彼女の後ろには、トメとその肩に米俵のように抱えられた七竈と、ふらつく足を引いている見知らぬ女性が歩いていた。不服そうな七竈は、恐らく裸足で硝子の中を歩かないように強制的に運ばれているのだろう。
「あの、その人は……」
目元を擦る桃家が、見知らぬ女性を指差した。女は動かない表情のまま、反応のひとつも示さない。ふと彼女の足元を見ると、じんわりと赤い何かが漏れていることに気付く。よく見れば彼女の足には硝子の破片が刺さっていた。しかしその痛みに身もだえることすらせず、ボーっと地面を眺めていた。
「……
強張った口を抑えて、桃家が呟く。見知った顔なのだろう。彼女は女に駆け寄ると、無理やりに目を合わせた。
「瑠璃さんですよね。わかりますか、私です……桃家です!」
桃家がそうやって女の肩を掴むと、無反応だった顔はみるみる内に歪んでいった。瑠璃と呼ばれた女の表情は、喜びとも悲壮とも怒りとも取れた。途端にその視線を揺らして、女は牙をむいた。
「春馬! 春馬は何処!」
聞き覚えのある名前を、彼女は叫んだ。暴れて泥の詰まった爪を桃家の肩に食い込ませる。痛みに顔を歪めた桃家を見て、トメが女の両腕を掴んだ。
見たところ、春馬の面影は全く無い。色素の薄い髪と、暗い青色の瞳。ただ、その発言と狂気に染まった行動は、彼女が春馬の母親であることを示していた。だが俺の記憶では、彼の母は街の病院に行った筈だ。
ふと、空の真ん中で俺達を焼く太陽に目が向いた。そういえば、昨日、川で倒れた時も、こんな空だった。それに通じて七竈の言っていたことを思い出す。
――――どこぞのカルトが廃屋に人を監禁している。
昨日、俺達は廃屋への道の途中である川で保護された。廃屋への道を進んでいたとすれば、それは、誰かをここに閉じ込めていたのだという事実に帰結する。
何かがストン、と落ちて、四肢から力が抜けた。であれば、春馬は、今。
「落ち着いてください、瑠璃さん。桃家は春馬君が何処にいるのか知りません。それどころか、ここにいる全員が、今、春馬君がどうなっているのか、知りません」
無表情のまま焦りを見せるトメは、そうやって瑠璃に言い放った。どさくさに紛れて地面に着地した七竈は、彼の傍でジッと瑠璃の顔を見ていた。
「そうですね、今は、どうなっているのか、私達にもわからないのですよ」
便乗する美也子の困ったような顔は、何処かぎこちなかった。何となく胸騒ぎがした。春馬の、本当の『現状』を知らないのは事実なのだろう。だが、恐らくはトメと美也子は春馬の居所と現状を、推測はできている。そして、瑠璃の姿と言動に驚いていない七竈も、同じくそれを理解していた。
「春馬は昨日、元気に夕飯を食べていた。母親は病気で街の病院に行っているのだと聞かされて、一人で眠った」
トメの隣、七竈はそう声を上げた。わざとらしく、彼は瑠璃の注意を引く。動きを止めた彼女の眼を見つめながら、七竈は呪文を唱えるように言葉を続けた。
「多分、寂しさは我慢していたと思う。僕達が施設に来るまで年長だったからと、他の子供達を怖がらせないように、率先して僕達に話しかけていた。あの様子だと、僕達に話しかけるのも勇気が必要だったと思う。皆、母親がいるというのに、彼は一人だった。それでも、背丈も力も圧倒的に上である幽冥や僕に、笑顔で声をかけて来た」
それはおそらく、七竈が考え得る最大限の賞賛だった。心の底から感じているものではない。純粋な気持ちで語りかけているのなら、こんなにも饒舌になる筈がない。七竈の舌は、本心を垂れ流すにあたっては、恥じらいというものが大きく邪魔をして、固まってしまうものなのだ。
「落ち着いた?」
四肢から力が抜けた瑠璃は、ボーっと七竈の言葉に耳を傾けていた。こてん、と、可愛らしく首を傾げる七竈の姿は、自分を客観的に観て、その風貌を利用する役者のそれだった。
「貴女があの施設で何をされて、ここに監禁されていたのかはわからない。ただ、貴女が病院に行ったのではないということだけは、状況から推測出来た。
「施設から、脱出?」
「澤桔梗は僕を神様になる子供だと思っている。凄く怖かった。だから逃げて来た……本当は春馬も、って思ったけど、
子供らしさの演出が、相変わらず上手いと、感心してしまった。初めて出会った時も、似たような状況だった。客観的に観ればおかしいというのに、彼が語る言葉は、こちらの精神を震わせる。彼に従おうと思えてしまう。独裁者の才覚を見せながら、七竈は瑠璃の手を握った。
「ごめんなさい。だから、春馬が今どうしているか、僕達からは言えない。ごめん」
清廉な七竈の指は、祈るように組まれた。瑠璃はその手を泥で汚しながら、膝を地面につけた。桃家が何度もトメの顔を見る。桃家にも、七竈が嘘を言っていることくらいはわかっているだろう。「空気を読め」とトメが桃家の耳元で囁くのが見えた。
「……ありがとう、助けてくれようとしたのね、貴方も大変だろうに」
瑠璃がそうやって口角を上げる。七竈は薄っすらと眉尻を下げて見せた。
――――あ、堕ちた。
俺の頭に過ったのは、そんな、瑠璃という女に対する同情心だった。
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