外聞 祓
第35話
十年も前の、僕が覚えていない話を、幽冥は淡々と語った。何度か誤魔化す様にして隠していたのは、多分、その気色悪い感情だろう。僕の母親の死体にゲロをぶちまけたこと、白い神様とやらとの出会い。その合間合間で言葉を選んでいた時の彼の態度は、欲に過敏な僕の鼻を擽っていた。それには先生も気づいていたようで、「端折っても良い」と度々幽冥に指摘を入れていた。
どうにも落ち着かない幽冥の隣、僕は一口紅茶を含んだ。
「で、七竈の方はその時のこと、何か覚えていないのか」
ふと、先生がそう言って僕に話題を差し向ける。幽冥が神と出会っていた裏、僕は廃屋にいた筈だ。その記憶を引き出すようにして、僕は宙を見た。
「途切れ途切れにしか、覚えてません」
「なら、何を覚えている」
「地と泥に塗れた廃屋の風呂場、そこで拘束された女、怯えた表情――多分、アレは、幽冥の言う『春馬』の母親だったと思います」
混濁する記憶から一つ一つの情景を抜き取る。作為的にそれらを並べて構築し直すのは、客観的観測としてはあまり褒められたことではないだろう。ただ、僕にとっては、あの夏の日の思い出については、時系列すら曖昧だった。その全てが本当にあったことだと覚えてはいるのに、記憶に対する感覚的時間軸が欠損していた。その上、僕は幽冥以外の人間のことをあまり覚えていなかった。彼の言う「トメ」や「桃家」のことについては特に酷く、そんな人間がいたということすら、さっぱり忘れていたのだ。唯一その存在を覚えているのは、僕が美也子先生と呼んでいたあの女のことだけで、それも、屋敷で家庭教師をしていた時のことだけだった。
「窓硝子なんかは破られていたんだろう。なら、葦屋の声は聞こえなかったのか」
「聞こえていたのかもしれませんが、内容までは特に覚えてませんね」
そうか。と先生が言葉を落とした。新しい煙草を咥えて、彼はそれを上下に振った。あまりにも僕の記憶が使えないので、戸惑っているのだろう。幽冥一人の主観に頼るよりも、共にいた僕の目を取り入れる方が、幾分か情報としてマシだ。
ましてや、僕達が扱うのは、神だとか都市伝説だとかの、『怪異』と呼ばれるものだ。人間の認識の副産物であるそれは、人間の脳を介して存在を作られるが故に、オカルトでファンタジーな、信用ならない存在である。
神という名前で呼ばれる怪異は存在する。
現実は観測によって定義される。現実とは一つでは無いのだ。幽冥の認識した現実は、彼の口から先生に共有されて、先生の中の現実の一つとなるのだろう。口伝の現実など情報としての価値は低いが、それでも先生にとっては貴重な証言だ。
至る思考の中で、僕は幽冥の言葉を待った。はっきりしていない僕の記憶は、先生の思考を支えるそれには成り得ない。どんなに愚鈍で感情的であろうとも、今ここで価値があるのは、幽冥ただ一人だった。
だが、どんなに待っても、幽冥は口を開かなかった。彼は煙草の主流煙で肺を満たすばかりで、言葉を吐こうとはしなかった。先生も何を問うべきか悩んでいる様子で、宙を見て首を傾げていた。メモ係に徹する識は、次の話が始まらないことに呆けて、大きく欠伸をかいていた。
僕の中に生まれていた苛立ちは、少しずつ膨れ上がっていた。その苛立ちの理由は明白で、不明瞭な自分の記憶を、幽冥の言葉で補いたかったからだった。気持ちが悪かったのだ。断片的で時間の概念を持てなくなった記憶と、そこに並ぶ知らない人間の顔が。一つ一つは何処か繋がっているのに、僕の頭はそれらを縫い付けることを拒否していて、幽冥の証言でやっと並べることが出来た。
それが酷く不快だった。まるで十二歳の時のことを思い出すのに、幽冥の許可が必要だというような、そんな薄らとした上下関係が存在していることに、腹が立って仕方がない。幽冥の言葉を全て平らげることで、それらを解消出来るのではないかと、僕の中で淡い期待感が蠢いていた
「結局、その神様とやらは、その後どうなったんだ?」
次の記憶を話せと、僕は幽冥にそう言った。すると、彼は咥えていた煙草を口から離して、灰皿に擦り付けた。「うん」と一つ置いて、じっと僕の顔を見る。
「あ、ちょっと、返せよ」
「にらめっこなんてする歳じゃないだろ。喋るなら喋れ。気色悪い」
「どう表現するべきか迷ったんだよ」
「神と邂逅して、それが自分にしか見えていなかったと知って、それで、その次のことを話すために、何を考えると言うんだ?」
「色々あるだろ……何処から話すか、とか……廃屋の話の続きからか、神様と再会した時からか……」
「手っ取り早い方が聞きたい。お前の話は冗長なんだ。もっと簡潔にしろ」
「文句言うなよ……じゃあ神様と再会した時から聞くか? 村から出てった後の話になるけど」
眉間に皺を集めて、幽冥は言う。裸眼の彼はその巨躯もあって、正しく鬼のような形相だった。その口から吐き出される戸惑いは、彼の本性を表すように柔らかく、思慮に富んでいた。僕は小さく舌打ちをして、幽冥の前に眼鏡を置いた。彼はそれを装着すると、困ったように眉を下げていた。
「仕方が無い。何時間でも付き合ってやる。ロスした分だけ今度の休みに肉を奢れ」
「話聞く人間の態度か、それ」
「話を纏められない人間に付き合う人間の態度だ」
何だよそれ。と彼は笑った。僕が鼻を鳴らすと、ふと、先生が前のめりになって、僕達へ顔を向けた。
「私も村の様子が聞きたい。続きから順を追って、全て話してくれると助かる。それに……お前達の同行者だった留石と美也子、桃家がどうなったのかも……もし生きていれば、私の知る中に紛れ込んでいるかもしれない」
彼はそう言って、おかわりの珈琲を啜った。夜は明ける兆しを見せず、睡魔は何処にもいなかった。
幽冥が「それじゃあ」と言って、口を開いた。僕は再び記憶の断片を手元に置いて、現実を待ち構えた。
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