第37話

 七竈のそれは、カリスマと呼ぶには致命的な程に、本人に熱がなかった。それが七竈の限界点であり、また不思議なところでもあった。多分、本人は誰かを熱狂させたり、自分を進行させようなどという気が全く無いのだ。どちらかと言えば、彼は相手に諭すように、または本人の内面的な動機を揺れ動かすように、言葉を選んでいた。一歩引いてみれば、彼の表情も、動きも、酷く拙いものだ。自然体ではないのが、一瞬で見てとれる。その姿が人形のようにも見えた。もっと正確に言えば、神が人の真似をする時のような。そんな、超常的なものが普遍的なものに擬態するように、七竈は瑠璃の前で弱々しい人間の子供を演じ続けた。


「……留石さん、よね、貴方」


 ふと、瑠璃が膝を地面につけたまま、そう呟いた。名を呼ばれたトメは即座に「そうです」と唱える。すると、彼と目を合わせた瑠璃は、しっかりとした視線で口を開いた。


「ここから施設には、歩いて帰れるかしら」

「大人の足で一時間半ほど。ですが、貴女の足だと、三時間くらいはかかると見積もった方が良いでしょう。そもそも、施設に戻るのはオススメしません。このまま街に出ましょう。そこで警察を動かせば良い」

「街に行って、警察に通報して、事情を説明して、それで、施設にいる春馬が保護されるまでに、何時間かかるの?」


 波瑠の睨むような目線を受けて、トメは「それは」と口を止めた。痛いところを突かれたとでも言うように、彼は鼻に皺を寄せる。

 滑稽な茶番に、俺は目を背けた。顔を横に向けた瞬間、七竈が俺の隣に立った。彼は俺を睨むと「黙ってられるな?」と小さく囁いた。俺が急いで首を縦に振ると、「良し」と犬に餌でもやるように、冷たく言葉を落とした。

 

「大丈夫、これでもね、昔、マラソンやってたのよ、私」


 自信満々に胸を張る瑠璃は、そう言って立ち上がった。ウッと声を挙げながら、足に埋まった硝子の破片を引き抜く。卒倒寸前の桃家の体を、トメが支えていた。「お手伝いします」と美也子が言って、跪いた。彼女は丁寧に透明なそれらを摘み上げると、廃屋の中に投げ入れていった。


「圧迫しましょう。多少は痛みが和らぎますし、バランスが取れれば走れると思います」


 そう言って、美也子はトメに目を向けた。すると、トメは桃家を俺に預けて、ワイシャツの両袖を引き千切った。丁寧に布を巻かれていく自分の足を見て、瑠璃は「ありがとう」と静かに笑った。美也子が立ち上がると、瑠璃はトントンと爪先で地面を蹴った。


「貴方達はこれから街に?」


 問いかける瑠璃に、美也子が「そのつもりです」と微笑んだ。口を一文字に結んで、七竈は俺の体に隠れる。申し訳なさそうな顔をしているのだろうと、予想はついた。


「二人とも、警察まで行けば安全な筈だから、そんなに怯えないで」


 どうも、瑠璃には俺が悲壮感溢れる子供のように見えるらしい。表情筋を動かしているつもりはなかった。どうにかして、引き攣った笑みを瑠璃に返す。彼女はパッと笑う。その表情は、どこか当初の桃家に似ていた。


「それじゃあ、皆さんも頑張って」


 瑠璃の背中は、少しずつ小さくなっていった。彼女は俺達が施設から廃屋に真っ直ぐ向かって来たことを理解して、その車輪の跡を辿ろうとしていた。

 

 数分、沈黙が過ぎた。瑠璃の体はもう何処にも見えず、山の木々の中に消えていた。


「あんなボロボロの女一人送り込んだくらいで、撹乱になるもんか?」


 唐突に、トメがそう呟いた。俺の隣で、七竈が一つ欠伸をかいていた。


「少なくとも、他の母親達が澤達を怪しんでくれれば良い。あのお綺麗な表面に亀裂が入る程度で十分だ」


 瑠璃にはもう聞こえていないだろうと、涼やかに七竈はそう言ってのける。少しの自信を前に、彼は俺と桃家を見て口を開いた。


「退路を断つんだよ。もう『僕』以外に縋るものが無いようにするんだ。僕を手に入れるしか、もう生きる術がないと思えるくらいが最良だ。追い込まれた人間は何だってするからな」


 俺と桃家が何もわかっていないだろうと察してのことだろう。その考えは、半分程は当たっていた。事実、薄らとした意識の中で「最低」と唸る桃家は、よろめきながら俺に縋っていた。その良心が、七竈達の行為を許せないのだろう。


「まあ、ああでもしないと、置いていく他なかったし……」


 俺がそう言って乾いた笑みを零すと、七竈は「わかってるなら良い」と俺に背を向けた。桃家を引きずって、再び車両に乗り込んだ。廃屋ですべきことは全て成した。それだけでも、七竈にとっては有意義だったのだろう。後部座席、彼は満足気な表情で俺の隣に座っていた。


「あ」


 ふと、七竈の白いワンピースを見て、思い出す。白い傘を廃屋の茂みの中に置いてきてしまったことを。その傘を持つ十二本の指のことを。赤い指の彼女の、一番小さな指は、確かに赤い紐で縫い付けられていた。その指さえ取れてしまえば、きっと、七竈と本当に変わらない姿をしているのだろうと、その姿が過ぎる。

 ――――隣にいるこの少年は、いつかあの神様になるんだろうか。本当は、神様が俺に合わせて少年の姿を取っただけなんじゃないか。

 ふわふわとした思考が、先程の七竈の姿と神様を重ねた。青白い皮膚は薄暗い車内で輝いて見えた。黒く長い髪は時々、俺の手指の隙間に触れた。


「腹減ってきたな」


 そう言って腹を鳴らす彼を見て、意識を取り戻す。空腹に訴えるこの少年が、母親を殺してマンホールに放り投げた彼が、あの女神様と同一な訳がない。悍ましさと美しさを兼ね備えた彼に、俺はいつの間にか笑っていた。ククッと引き攣るような感触が、気色悪くて仕方がなかった。

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