第31話

 何処に七竈の母親がいるのだろうと、部屋を見渡す。そうしている内に、何か空気の抜けるようなプシューっという音が耳についた。音の方に目をやる。すると、トメがロッカーの内の一つを開けて、白い何かを引き摺り出していた。遅れて溢れた冷気が、足元に絡みつく。重く白い気体は、今思えば二酸化炭素か液体窒素か、そういったものだったのだろう。


「母さん」


 隣で、七竈がそう呟いた。トメが抱えたそれは、白い布に包まれた人間だった。布を透かして腐りかけた皮膚の、その向こうの血管などが見えた。黒く長い髪は毛先を整えられ、割られた頭はホッチキスで留められていた。その精巧さは、一瞬、生きているのかと見紛う程だった。眠りについたような彼女の顔は、やはり息子である七竈と瓜二つで、改めてその血の強さに感嘆してしまった。化粧でも施されているらしく、唇は赤く、頬は血色が乗っていた。

 七竈は布越しに母の手を取る。そうしてギリギリと奥歯を鳴らした。


「感情に浸っている暇は無いよ。急ごう」


 トメは淡々とそう言って、七竈を引きはがす。不快そうな顔をする七竈の隣に立って、先に進むトメを追った。彼があの美しい母親の、その死体に何を思ったのか、聞き出す勇気は無かった。

 自分達が死体を運んでいるのだということを忘れる程に、俺達はスムーズに廊下を進んでいた。たまに聞こえる足音も、多くは上の階からのものだった。時折、人とかち合いそうになったが、その度に俺がトメの服の裾を引いて、人の息が聞こえなくなるのを待った。どうにも俺はそういった人の息だの足音だのに敏感な質らしい。逆に七竈はそういったものに対して酷く鈍感で、俺が止める度に「何だ」と小さく唸っていた。それらが生来のものなのか、育ちによる差なのかは、俺にはわからなかった。

 暫く早足で進んだ後、窓を開けて建物の外に飛び出た。日差しは俺達の真上を通ろうとしていた。その太陽熱が皮膚を焼く。昨日の川歩きを思い出して、七竈の顔を見た。彼の顔は青白く、血色が薄いままだった。ただ、それが病的なものではないことくらいは、既に俺にも理解出来ていた。今一つ心配だったのは、トメが担ぎ上げる死体であった。腐りかけた死肉が夏の熱に晒される。それだけで、まず日常では味わえないような異臭を放つのは、目に見えていた。


「背を低くして。あぁ、ハラヤ君はそのまま走って問題はない」


 言外に七竈をチビと表現しつつ、トメは窓に写らぬよう身を屈めた。何とか黙っている七竈を前にして、俺も膝を曲げた。ひらひらと目の前で舞う七竈のワンピース。その布の向こうに、少女らしさの欠片も無い下着が見えたのは、何だか安心感があった。

 真っ直ぐに雑草の中を進むと、遠目に簡易に作られた倉庫が見えた。そのシャッターは開いていて、僅かにエンジンの回る音が聞こえた。ゆっくりと、車両全体が前に出る。白いワゴン車。それが目指す車両であることは、すぐに気付けた。


「桃家!」


 助手席に桃家の横顔が見えた。その途端に、俺達は前進する足をより深く踏みしめた。トメは後部座席の扉を開けて、死体を放り込む。指示を待たずに、七竈がその死体の隣に滑り込んだ。一歩遅れていた俺は、その様子を見て、後に続こうと足に力を入れた。けれど、その足は、一瞬の迷いで動くのを止めた。


「待って」


 俺がそう呟いた時、既にそのはこちらに笑顔を零していた。


「お急ぎのようね、留石君」


 運転席で笑う女。そこでハンドルを握っていたのは、美也子だった。


「ごめん、トメ君……やっちゃった……」


 引き攣って笑う桃家の首元には、カッターナイフが突き付けられていた。震える彼女を宥めるように鼻歌を挟みながら、美也子はトメと目を合わせていた。その傍で動けずにいる七竈が、俺を見た。


「幽冥、来い。乗れ」


 淡々と、何故だか、七竈はそう指示する。固まっていたトメも、その言葉に気付いて、眉間に皺を寄せていた。


「大丈夫だから。早く」


 しっかりと俺を認識して放たれた言葉に、自然と脚が動いた。困惑するトメの腕を、七竈が引いた。同時に「邪魔だなこれ」と言って彼は座席の後ろに自分の母親を投げ入れた。トメの身体を押し込んで、車の座席に足を付ける。反射的に、ドアを閉めた。すると、カチンと音がした。それはドアのロックがかかった証拠だったらしい。前を向くと、美也子がカッターナイフを桃家の手に握らせ、シートベルトを引き出していた。


「それで、街に行けば良いの? 村ならどれか指示して。ガソリンはちゃんと入ってるから、ずっと遠くに行ったって良いけど」


 溢れ出る疑問を余所に、美也子はそう言って車を発進させた。何の躊躇いも無しに「まずは廃屋に向ってくれ」と答えたのは、七竈だった。


「このドアのロック、運転席からじゃないと外せないのよ、桃家さん」


 助手席で懸命に脱出を試みていた桃家に、美也子はそう笑いかける。砂利道を走りながら、彼女は鼻歌を歌っていた。長く溜息を吐く七竈に、呆然とするトメ。甘い死体の臭いが漂う中で、森の緑に目を焼かれる。


「澤先生には色々と吹き込んであるから、とりあえず三時間は私達を探しには来ない筈。座って。廃屋ならすぐだから、今はシートベルトは要らないわ」


 俺が小さくなっていく建物をジッと見ているのに気づいたのか、一人意気揚々と美也子は言った。何が何だかわからないままに、俺は座席の弾力に身を沈めた。


「な、何が起きてるんですか! これ! ねえ!」


 唐突に、堪えきれなくなった桃家が、美也子にカッターナイフを突きつけた。薄い鉄の刃は、震えて何処を刺すか迷っていた。当の美也子はそれを横目に、笑うばかりだった。

 動く車両の中、思考が止まっているのはトメも同じだったらしい。


「美也子、お前」


 彼がやっとのことで絞り出した言葉は、あまり意味を成していなかった。その困惑の声を聞いて、美也子はやっとその表情を崩した。


「ハラヤ君、あのねえ貴方、もしかして何も説明してないの?」


 お互いに何か齟齬があるのはわかっていた。その中心にいるのが七竈であるというのも、些か予想通りと言えば、その通りだった。どうやら事の端を辿っていくと、何か七竈が俺達に伝え忘れていたか、説明を放棄したことが、この状況の根源らしい。


「説明? 何を説明すれば良いというんだ? 美也子先生が僕達になんて……可能性の話をすれば良かったのか?」


 悪びれることも無く、彼はそう言い放って、小さな首をコテンと傾げた。

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