第30話
鳴り止まない洗濯機を置いて、一人、桃家は廊下へと通じる扉に手をかけた。濡れた裾に漂白剤の染みが見えた。一度、部屋の湿った空気を吸い込むと、プール臭い熱気に咳きこむ。
「ここから出て、どうするの? 澤先生達を警察に突き出す?」
顔も向けずに問う。未だ何も飲み混めていない彼女の精神は、やはり蠢いていた。
「さあ? 流れに任せるしかないな」
トメが繕うよりも早く、反射的に七竈がそう言った。考えているようで全く考えていない七竈の言葉に、一瞬、部屋が凍った。そこは嘘でも何か考えがあると言うべきだろう。愚鈍な俺でもそう思えるというのに、七竈はさして気にする素振りすら見せない。
その一瞬の後、ワンテンポ遅れて、桃家は噴き出し笑った。甲高い声が部屋に響く。廊下に漏れていたらどうしようかと、危機感が脳を埋め尽くした。
「オッケー、もうどうにでもなれ……ってね」
静かにそう息を吸って、彼女は扉を押し開けた。警戒心の薄い彼女の動きに、心臓が跳ね上がる。外の空気と中の空気とが交わった瞬間、視界が白く曇る。
「あ」
俺は、足元に落ちたタオルに気付けなかった。踵と床との摩擦を失って、天と地がひっくり返る。
床に背を付けた瞬間、バラバラと金属の棚から洗剤ボトルだのが落ちる。それらが床のリノリウムとぶつかる音と共に、七竈の舌打ちが聞こえた。
「桃家、とりあえず鍵を取りに行ってくれ。俺と二人のことは言わずに……何でもいい。洗剤と包帯の在庫を買いに行くとか、そういう言い訳で良いから。お前は俺と違って、何も知らないと思われているし、その分だけ、美也子に信用されてる。それで、エンジンを点けて待っててくれ」
「く、車の? 私、わからないわ。エンジンってどうすれば良いの?」
「運転席に座って、右手側に鍵穴がある。右足でブレーキ踏んで……そこに刺して何か回る方に回す」
「ブレーキ踏んで、刺して回す……な、何とかしてみる」
「オートマなだけ幸運だな。運転は俺がやるから、点いたら席は開けておけよ」
対話の最後、トメは桃家の背中を叩いた。「痛ッ」と小さく言葉を飲んだ桃家は、勢いのままに何処かへと駆けて行った。
「さて、こっちはこっちで、動かないとな」
そう言って、トメは未だに床で蹲っていた俺の腕を引き上げる。立てた音の割には痛みは少ないものの、ぎしぎしと後から痛覚が刺激される。ただ、それらは父親が殴りつける時のような、急所を的確に狙った故意の一撃ではないからか、波自体はすぐに引いて行った。
「トメさん? 何でここにいるんですか?」
ふと、強張った男の声が耳を通った。そちらに顔を向けると、先程俺達を見ていた青年が、一人、ゆっくりとこちらに歩み寄っていた。彼は不思議そうな顔でトメと俺を見ていた。
「ハラヤ『様』がズボンを履きたいって言うものだから」
トメはそう言って、部屋の扉をこんこんと叩く。その左手に、青年は目を向けた。
――――その瞬間、青年が「うっ」と呻いて、唾を吐いた。数秒遅れで、トメが右手の親指を、青年の喉仏に突き入れたのだと理解する。前へと倒れる青年の顔面を、彼は勢いのままに蹴り上げた。トメの脚の邪魔にならないようにと、七竈は彼の視界内に移動して、青年の足を払った。倒れる青年の頭を捻り、トメは一度、息を吐いた。
「ズボンの前に下着が欲しいんだが」
七竈がそう言うと、トメは「ちょっと待ってね」と呟いた。彼は青年の身体を部屋に引きずり込んで、その顔をタライの中に漬け込んだ。鼻と口から気泡が出なくなるのを確認する。それと同時に、乾燥機の傍に積み上げられた衣類の中から、一枚のボクサーパンツを引き摺り出した。
「ごわ――――」
「ごわごわするとか言わないでくれよ。パンツってそういうもんだから」
自分で所望しておきながら文句を垂れる七竈に、トメはそう声を刺し込んで、頭を撫でた。部屋の中に放置した死体を隠す様に、彼は扉を閉めた。廊下を何度か見まわす。七竈が下着を身に着けたことを確認すると、トメは俺と七竈の背を叩いて、歩くように促した。
「平然としていれば良い。大丈夫。まずはハラヤ君の母親の死体を回収しよう」
「場所はわかってるのか」
「安置室がある。シェルターを利用している母子の中に、子供を亡くした人もいるから、常に鍵は開錠されている筈だ」
そんな二人の言葉を流し聞きながら、その背を追った。意識していなくとも、自分の手足が上手く動いていない事はわかっていた。堂々としていれば良いと言われても、そうは出来ないのが人間というものだ。ぎくしゃくとする四肢を抑える。目の前にいる二人の、変わらない様子を見ていると、自分がおかしいのではないかと思えて来る。ただ、桃家がここにいれば、きっとおかしいのは俺ではないと背を押してくれただろう。淡々と進む中で、何度か、他の学生達とすれ違う。その度にトメの後ろへと反射に隠れてしまうが、共にワンピースを翻す七竈のおかげで「人見知りですか」と笑われるだけで済んだ。立ち話も無いままに、トメは進み続けるので、そのうちに俺と七竈は彼に追いつくのがやっとで、反応を起こすことすら億劫になっていった。
そうして、廊下の空気が冷たくなっていくことに気付いたのは、地下への階段を進んでいる時だった。日の入らない地下は、掃除はされているのだろうが、殺風景で、あまりいい気分になるような環境ではなかった。清潔な白が、全ての色を流し出すような異形の白に見えた。
「他の人はいないな」
そう言って、トメは一番奥の扉を引き開けた。冷えた空気が、足の指を舐める。視界に広がったのは、無機質なステンレスのロッカーが並ぶ壁だった。その一つ一つに死体が入っていたのだと気づいたのは、その数年後、俺が大学生になった後のことだった。
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