第29話
「桃家さん、一人?」
トメがそう言って、眉間に皺を寄せていた。桃家が頷くと、彼は後ろ手で戸を閉めた。洗濯機やらの音が反響して、脳を揺らす。あまり長居したいと思える環境ではなかった。
「他の連中は」
「え? いないよ? ほら、私、最初は二人の世話係やる筈だったから。手が空いてるならこっちやっておいて。ってね。言われちゃって」
さも当たり前のように、彼女は笑った。洗剤が傷口に染みるのだろう。その表情はぎこちないものだった。時々、奥歯を噛んで痛みに耐えているのが印象的だった。
こういった状況が、所謂いじめ的な何かであるということは、その時の俺には理解出来なかった。けれども多分、澤や美也子と同じ立場の学生達と、桃家のように何も知らない学生達とでは、決定的に何か上下関係があったのだろう。言い淀むような表情と、誤魔化しの中に、不当な扱いがあることくらいは、この時の幼心にも理解出来た。
「桃家」
ふと、トメが彼女の耳元で呟く。驚いたような表情で、桃家は体を彼から遠ざけた。濡れた手を前に出しながら、「何!?」と声を上げた。異性間での距離というのを、理解し切れていない俺は、急に二人がコントのような動きをし始めたので、首を傾げるしかなかった。それと時を同じくして、洗濯機が一つ、ピーッと音を立てて止まった。一瞬、部屋がピンと糸を張ったように静寂を飲んだ。隣で七竈が舌打ちしたのを聞きつけて、そちらを見遣る。彼は腕を組んで、外へと耳を立てていた。
「外にいた奴、どっかに行ったっぽい」
七竈がそう言うと、トメは唇に人差し指を立てた。そうして桃家に黙るよう指示をすると、止まっていた洗濯機のボタンを押す。再び洗浄されていく布を見ながら、桃家は口元を押さえていた。
「手を止めないで聞いてくれるか。他の連中が入って来たときに、庇えなくなる」
騒音に紛れ込む形で、トメが呟く。その表情がどんなものであったかは、桃家のみが知るところだった。彼女はこくこくと素早く頷いて、元の位置に手を戻した。擦り合わせる布を新しくして、作業を続ける。彼女は俺達二人を見ると、困惑の表情で笑った。
「何、ねえ、貴方達、急に、変よ。どうしたの?」
口元が震えていた。そのせいで上手く言葉を聞き取れなかった。桃家のゆっくりと動く唇から、事の次第を推測する。トメが傍にあった椅子へ腰かけたのを見て、俺達もその辺にあった椅子を引っ張り出して、顔が見える位置に座り込んだ。鉄壁の表情筋をわざとらしく動かして、トメは桃家に言葉を伝える。彼の静かな男声は殆ど水とモーターの音に掻き消されていた。
「この施設から出たいんだ。そのために車両の鍵を手に入れないといけない」
「外出届を出せば良いでしょ」
「それが、そうもいかない」
トメはそう言って、桃家に事の次第を羅列した。気の狂ったような澤の所業。廃屋のこと、消えた春馬の母親と彼自身のこと。今までにも消えた大人達のこと。己がそういった集団の一人であること。そして、七竈はその崇拝対象であるということ。その全てを一度に飲み干すことは出来ず、桃家は「何を言っているのか」といった怪訝そうな表情をしていた。救済者と信じていた澤が、七竈のことを崇拝しているということは、彼女にとって計り知れない程の衝撃だっただろう。
けれど、それが事実であることを、補足という形で七竈もつらつらと唱えた。
「昨晩、僕が澤にされたことを、話そう。まず、アイツは僕の素足を撫で回して――――」
彼の少しだけ息苦しそうな表情が、鳩尾に刺さるような感触を齎す。淡々と滑っていく口元の、その澱み。眼球は下を向いて、揺れ動いていた。話している七竈本人が、いつも冷徹な彼が、動揺していた。俺は彼の手を取って、それ以上喋らなくて良い旨を、無言で押し付けた。既に、目の前では桃家が吐き出しそうに顔を青くさせていた。
「桃家は、まだ澤に師事して一年経ってなかったな」
桃家にそう声をかけたのは、トメだった。彼は静かに彼女と目を合わせると、表情を崩すことなく、突如としてシャツを脱いだ。今朝も見た背中のケロイドが露出する。突然のことに、桃家は目を瞑るが、トメが「別に襲おうってんじゃないんだよ」と僅かに苦笑すると、彼女はゆっくりと目を開けた。
「俺はこの火傷を負った十三年前から、ずっとアイツに従っている。そうでなければ生きられないと、信じていたからだ」
爛れた皮膚は、やはり澤のそれと同じだった。指先で撫でる毛穴の無い皮膚は、彼の息に合わせて僅かに血色を変えた。
「十三年前に何があったの?」
「火事だ。ある男がこの近くの村で起こした騒動だ。そこでは夜咲母神という神を祀っていた。俺はそこで生まれて、事件のどさくさに紛れて澤に連れ去られ、神に仕える者として育てられた。正しく、七竈祓というこの少年を神にするという目的のためだ」
並べ立てられる言葉が、嘘であるか事実であるかは、そこにいる誰にも断じることは出来なかった。けれど、彼が言うならば、具体性が無くとも事実だろうと、根拠のない思考があった。
「彼を神にするためだからと、澤は俺に何でも出来るよう仕込んだ」
「何でも……って」
「何でもだよ。料理に裁縫掃除洗濯、育児と来て……拷問殺人解体窃盗……その他諸々、人間が禁忌とするもの全て、だ」
ゆっくりと細められる目は、そこに脅迫を含むことを意味していた。即ちは、「お前の目の前にいるのは、そういう奴だ」ということだ。俺は平然としているフリで、桃家がこちらに従うように祈ることしか出来なかった。七竈は、俺と出会った時とも似た、ゴミを見るような目線で桃家を見ていた。
「つ、つまり……ど、同情しろって、カルトから一緒に逃げようって誘って言ってんじゃないのね、アンタ達」
震える手で、布を絞る。ぽたぽたと雫を垂らす布を、彼女は空の洗濯機の中に放り込んだ。次々と手を動かす。それは、脅迫観念にも似た何かだった。多分、そうすることでしか、彼女は現実的な思考を保てなかったのだろう。目の前にいるのは禁忌をものともしない成人男性と、それを従わせる幼い美少年、そしてそれに黙って付いていく少年である。混乱と共に彼女の中には恐怖が芽生えていただろう。
そうして、その恐怖心を飲み混むように、桃家は大きく溜息を吐いた。それを反動にして、深呼吸を試す。上手く息を吸えなかったのか、彼女は一度咳きこんで、トメを見た。
「車の鍵が欲しいのね。美也子さんから貰って来れば良いの?」
覚悟を決めたような彼女の瞳は、動揺に揺れていた。
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