第32話
可能性の話だよ。と付け足して、七竈は揺れる車窓を見つめていた。その澄ました顔に、容赦無くデコピンを入れたのは、誰でもないトメだった。
「痛いな! 何だよ!」
「……そういう重要なことは共有しろ」
「共有しても意味はなかった!」
「ある」
「ない!」
七竈の奔放さについぞ怒りを表したトメは、大人らしさを掻き消して、静かに七竈に説教を喰らわしていく。その様子に、何だか緊張が途切れて、俺は久しぶりに溜息を吐いた。
「仲良いわねえ」
一人機嫌の良い美也子は、そう笑ってアクセルを踏みこむ。慣性の法則に従って、俺は眼前の助手席に頭を打ちつけた。その衝撃で、やっと正気に戻った桃家が、振り返った。
「幽冥君大丈夫?」
「う……あ、大丈夫です。ちょっと顔をぶつけただけ……」
「鼻血出てるよ」
座席を跨いだ後ろへ、彼女は何とか腕を伸ばして、俺の鼻を摘んだ。片手間に美也子が手渡したティッシュで、鼻を抑える。そうして口を塞いだ俺は、ジッと美也子を見つめた。
「ちゃんと廃屋に向かってくれてるか気になってる?」
心配しないで。と、クスクス笑みを絶やさない美也子は、妙に楽しげに見えた。まるでこれからピクニックにでも行くのかとも思えるくらい、彼女の表情も、姿も、何一つとして敵意が無かった。
「美也子先生は澤に対して、既に見切りを付けていたんだ」
大きな溜息と共に、七竈がそう声を上げた。トメに首根っこを掴まれながら、彼は腕を組んで不快そうな表情をしていた。深い眉間の皺が上下していた。
「澤先生はもう、神様になんて成れないし、作ることも出来ないだろうからね」
ふと、七竈に合わせて、美也子は静かに言い放った。
「留石君はわかってるだろうけど……『私達』の目的は『神様』を
昨晩のトメが言っていたことを思い出す。考えてみれば、彼らの言う神様――人の形をした人でないものというのは、条件さえ揃えば、誰にでも成れる代物だった。俺にはその条件というのがイマイチわからなかったが、並大抵のそれではないことはわかっていた。
「……自分が成れないのをわかっていて、自分の子供を……とか考えてる奴らもいるけどな」
トメが付け足すようにそう呟いた。彼は美也子の背後に、突き刺すような視線を送っていた。
「そうねえ、今はそっちの方が強いんでしょうけど。でも、澤先生も、私も、留石君も……最初は神様に成るために生まれてきてるじゃない? まあ、昔の話だけど」
トメの視線をものともせずに、美也子はケラケラ笑う。彼女がハンドルを握る手に、僅かな火傷の痕を見たのは、必然だったのかもしれない。
十三年前の火事。そんなキーワードを思い起こす。恐らくはそれが原因で、彼らはバラバラの思想を持つことになったのだろう。現在に至るまでに起きたことこそ知れないが、美也子もトメと同じく鬱憤が溜まっていたのには違いがない。
「だからね、私、ずっと、神様に成りたかったのよ。そのために生まれたんだもの。それが『善き生』だって、皆言ってたんだもの。だからね、澤先生の言うことを聞いて、沢山頑張ったわ。でもね……ハラヤ君と、水恋さん――ハラヤ君のお母さんに縋る先生を見て……あぁ、これ、もう駄目だなって。この人、神様になんて本当は興味無いんだろうなあって、気付いちゃったの」
澤の本質というものを、美也子が濁したのは、七竈と俺に対する配慮だったのだろう。聞いたことを摘んでみれば、多分、澤は七竈の母親に対して情を抱いていたのだ。よく言えば愛情。悪く言えば、それは異性に対する情欲。同じ顔をして自分の手元に入り込んだ七竈にだって、そういった欲望を抱いていたことは、確かだった。
「……そういう理由で、美也子先生は早朝、部屋に入ってきて、僕に施設からの脱出を持ちかけた。というか、元の生活に戻るという提案だな。あの屋敷でまたいつもの生活をしよう、だと。父さんにはもう話をしてあるとか、何とか」
ボソボソと語る七竈は、痛んだ額を摩って、トメの顔を見上げた。彼の顔を見れば、腑に落ちていないことは明白だった。僅かな表情筋の機微が、トメの心情を表していた。
――――情報共有していればもっと安全に動けたじゃねえか。
そう声を荒げたいのだろうと、察してしまった。ピクピクと動く瞼を、トメは指で抑えた。眼鏡を外して、彼は眉間に皺を寄せた。疲労感の漂う肩が、スッと落ちる。
「美也子」
彼は肩を落としたまま、無気力に呟いた。「何?」と問う美也子は、穏やかにトメの言葉を待っていた。
「桃家をカッターで脅したりしたのは、何だったんだ」
「だって、突然車の鍵を貸してくださいなんて言ってきたのよ? 留石君が何かやってるんだろうとは思ったけど……もしもこの子が一般学生じゃなくて、澤先生の信奉者だったら、問題じゃない?」
杞憂だったみたいだけどね。そう美也子は付け足して、ブレーキを踏んだ。再び車体が大きく揺れた。気づけは俺達は見覚えのある風景の中にいた。車窓から見える古びた廃屋。割れた硝子は変わっていなかった。雑草をゆっくりとタイヤで均し、マンホール近くに車を停める。エンジンをかけっぱなしにしたまま、美也子はシートベルトを外した。
「着いたわよ。やることやってきて。ね?」
そう言って、彼女はドアロックを外す。誰よりも先に外に飛び出したのは、桃家だった。震えたまま、顔面を草の中に埋める。俺はそれを追うように裸足で土を踏んだ。
「だ、大丈夫ですか、桃家さん」
打ちつけた鼻を抑える彼女の肩を叩いた。彼女の手の中には、僅かな血が塊を作り始めていた。
「大丈夫じゃないよ! もう! 何よ! 私巻き込まれただけじゃん! 私意味なかったじゃん! 美也子さんいれば良かったじゃん! トメ君の馬鹿! 私先生に殺されたらどうすんのよ!」
わんわんと子供のように泣き出す彼女に、俺は何を言えば良いのかわからなかった。死にたくない死にたくないと言う桃家を横目に、トメと七竈が車を降りる。荷物置き場から引き摺り出した死体を抱えて、二人は俺の腕を引いた。
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