第23話
身支度を整えるという作業をするのは、これが初めてのことだった。自分の服装を気にするという癖がなかったので、度々、トメに手を入れて貰いながら、よく乾いた布を身につける。時々、落ちる眼鏡が煩わしかった。「慣れるまではそんなものだ」とトメは声だけで器用に笑っていた。
廊下に出ると、見知らぬ男女が数名歩いていた。彼らはトメを見るとすぐに「おはようございます」と頭を下げた。その度、トメも反射的に「おはよう」と返す。多分、彼らは澤が集めた学生なのだろう。皆、十代後半から二十代前半頃の若者だった。何より、殆どの学生が昨晩の桃家と同じように、俺のことを同情の目で見ていた。恐らくは、彼らは俺のことを「虐待され逃げ惑っていたところを保護された子供」というふうに聞いていたのだ。『神様』の話を、殆どの者が知らないのだ。ただ、僅かに紛れている数名の視線は、一種の羨望と怒りのようなものを含んでいた。それらが澤に並ぶ狂信者か何かであるということは、直感で理解出来た。そんな目に入る情報の全てが、妙な異界感を放っていて、俺は必死にトメの足に縋った。そんな俺の行動に、彼は嫌がる素振りも見せなかった。故に、手の力は少しずつ強くなって、トメのズボンを引き伸ばしていた。
次第に、見覚えのある白い光景が目を緩ませていく。潔癖な程に白い廊下。人間が減っていく度、自分があの神聖な仏像の間に近づいているのだとわかった。そこに七竈がいるのは、予想出来ていた。と同時に、七竈がちゃんと眠れていたのか、少しの心配が過ぎった。自分と同じ顔の彫像が並ぶ部屋、自分を崇拝する男、母を殺した日の夜。彼を囲う全ては、刺すように痛々しい現実だった。非現実のように見える現実は、ただ一人に向かって刃先を見せている。それが彼の望みならまだしも、きっと、そうではないのだろうということは、友人関係二日目にして、俺は理解出来てしまっていた。
「ハラヤ君、俺だよ。トメだよ」
清潔な白い引き戸をコンコンと二度、小さく叩いた。二つの戸を結ぶ南京錠は、とうに開けられていた。挨拶を済ませると、トメは臆する事もなく戸を開いた。古い木材の匂いが鼻についた。開けた空間の中心では、七竈が上半身を起こしていた。
「あら、留石君。おはよう」
そんな七竈の隣、一人の女がニンマリと狐のような微笑みを湛えていた。彼女が着る白いワンピースは、七竈と揃いのように見えた。
「美也子か。早いな」
トメが美也子と示した女は、また口角を上げた。よく頬が攣らないものだと感心する。顔と四肢の張りからして、トメとは同い年か、少し上くらいのようだった。
「そっちの子が幽冥君?」
トメの後ろに隠れていた俺に、美也子は目を合わせた。その視線が、澤と似ていて、俺は目を逸らした。「恥ずかしがり屋さんなのね」と美也子はまた笑った。ずっと微笑みを絶やさないその顔が、酷く不気味だった。あの溌剌とした桃家のカラッとしたそれとは、どうもかけ離れていた。ドロドロとした、粘着性のある好意が、煩わしくて仕方がない。七竈が度々「家庭教師の女」と呼んで苛立っていたのが、彼女なのだろうと、妙に納得出来てしまった。
「二人の世話係は、俺になった筈だけど」
ふと、後ろ手に戸を閉めたトメは、そう冷たく言い放った。同時に、柔らかくトメの手が肩に置かれ、自然と俺は彼に身を寄せた。その様子を見た美也子は、僅かに七竈に身を寄せると、クフクフと空気を吐いた。ぽってりと丸い唇が、小さく動いた。
「それは聞いているけれど……でも、貴方、今日はお昼食の担当でしょう? 午前中は一緒に居られないじゃない。それに、私、この子の家庭教師をしていたんだもの。私の方が、ハラヤ君も慣れているわ」
垂れ流されていく美也子の言葉に、頭痛がした。当の七竈本人は彼女に向けて、不快感を露わにしていた。艶やかな肌の、その眉間に深く皺を刻み込んで、犬歯を剥き出しに唸る。図鑑か何かで見た狼の威嚇が、これに似ていた覚えがあった。それに美也子は気づいていないのか、それとも無視しているのかはわからなかったが、ともかく本人の意思というのは特に問題にならないようだった。
「その、昼食と世話係のことなんだけどね」
唐突に、低い男の声が背中を凪いだ。トメと共に振り返る。静かに戸を閉めるのは、澤だった。
「今日の昼食係は別の子に頼んである。それに今朝、母子が一組カウンセリングを所望しているんだ。美也子はそちらに行ってもらいたい」
「カウンセリングなら桃家さんとか、一般学生の方がお得意でしょう」
「美也子、気持ちはわかるが、担当の配分はこちらも効率を考えて行っている。ハラヤ様が君の世話を望むなら考えなくもないが、そうではないだろう?」
名を呼ばれた七竈は肌に触れる美也子の手を払って見せる。乗りかかった船だとでも言うように、彼は澤に同調の意思を見せていた。白いワンピースの裾を翻すと、七竈は駆け足で俺の隣に立った。そうして、俺の服の裾を掴むと、トメを見上げた。二人は目を合わせると、二度、瞬きをして、澤に目を向けた。
「桃家も二人のことを心配している様子ですし、俺が世話係やるって、あいつが他の連中に言いふらしちゃってるみたいなんで、もう、覆しようが無いですよ」
表情こそ虚無に等しいものの、トメは嘲笑を込めて澤に言った。少しの苛立ちを目元に携えながら、澤は溜息を吐いた。彼は背で塞いでいた戸を開けた。
「失礼の無いように。もうすぐ『祭り』があるからね、皆、気が立っている。問題を起こすなよ」
最後の語気が強まったのは、彼の素顔が露出した結果だったのかもしれない。そんなことを考えるよりも前に、トメが「はい」と小さく呟いて、俺達の背を押した。眼鏡がよれて、またかけ直した。輪郭を得た俺の目は、七竈の小さな唇に小さな血痕を見つけた。それが彼自身が下唇を何度も噛んだ痕跡だと知るのは、朝食のスープで彼が顔を顰めた時だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます