三章

第22話

 朧げなまま、俺は朝を迎えていた。多分、トメの話の途中で、俺は眠ってしまったのだろう。広いベッドの中心で、一人、赤子のように蹲って、目を開く。清潔なタオルケットがかけられていた。


「起きたか」


 目を擦っていると、トメの声が聞こえた。窓際、珈琲の入ったマグカップを机に置いて、彼は眼鏡をかけ直した。


「新しい服は用意したから。顔はここで洗っちゃいな。朝の洗面所は混むんだ」


 静かで清涼な風が、カーテンを揺らす。まだ薄っすらと暗い外の光に、トメが照らされていた。彼はおもむろにシャツを脱いだ。自分に合わせて着替えろということらしい。ベッドの隅に置かれた服を手に取る。いつ測ったのか、さっきまで着ていたものよりも、いっそう俺の身体に見合ったサイズだった。布に触れる肌の心地良さが、ふわふわとしていた脳を覚醒させる。キュっと音がして、そちらに目をやった。トメが捻った蛇口から、水が滴り落ちる。着替えた服が濡れないようにと、気を使いながら、顔に水を被せた。洗い終わった後には、すぐさまタオルを被せられた。乱雑に頭と顔を擦られる。開けた視界には、トメの顔があった。「少し待ってろ」と彼は言って、机の引き出しを開けた。そこから取り出したのは、トメが使っているものと同じデザインの眼鏡だった。彼はそのツルを開くと、俺の耳にかけた。


「どうだ、頭はくらくらしないか? 俺の読書用のやつなんだけど。度は控えめになってる筈だからさ、そこまできつくはないと思うんだけど」


 くっきりとした輪郭を見せながら、トメは言う。レンズを隔てた向こう、視界の全てに境界線があった。部屋の一部にあった小さな本棚には、小難しい文字が並んでいた。時計の針が六時を指していた。トメの目鼻立ちは、廃屋で触れ合った七竈のそれと似ていた。

 額から力が抜ける。俺はトメに向って、こくりと一度だけ頷いた。


「……眼鏡ってこんなに綺麗に見えるんですか?」


 無意識に頬が持ち上がっていたらしい。耳の周囲がぴくりと動いて、少しだけレンズがズレた。昨晩のトメの様子を真似て、ツルを耳にかけ直した。


「やっぱり君、近眼だったんだな。ずっとしかめっ面だったから、気になってたんだ」

「近眼なのは知ってました。学校の健康診断でいつも言われていたから」


 幼い時から、近眼なのはわかっていた。多分、小学校に上がった頃からだったと思う。その頃から、教科書にはりつかなければ、文字の判別がつかなかった。そのせいで背は常に曲がって、首が前に出るような姿勢を取るようになった。眉間には常に皺が寄って、いつだったか、まるで御伽噺に出るような、「鬼」のようだとクラスの少女に笑われたのを覚えている。


「だったらそれ、やるから。今日から着けておけば良い」

「でも、眼鏡って高いんでしょ?」

「値段なんて、ピンからキリまで色々だよ。それはスペアも兼ねた安いやつだし。それに、普通、他人の眼鏡って使えないことが多いんだよ。病院で診てもらって作るんだ。けど、君にはそれがたまたまピッタリだった。実に幸運なことに、だ。なら、その幸運を上手く使うのが、『善き生』というものだ」


 なあ、そうだろう。そう言って、彼は僅かに口元を綻ばせた。「餓鬼が大人の顔色を伺うな」と付け足して、トメはハンガーにかかった白いシャツを着こんだ。その一瞬、彼の背が見えた。その中心に広がった赤いケロイドは、澤の顔を覆うそれと同じ様に見えた。


「背、背中、それ」


 思わず出た言葉を、俺は必死に口で押えた。俺の言葉に気付いたトメは、サッとシャツの裾を翻した。振り返った彼の表情は、酷く冷めていた。見てはいけないものを見て、言ってはいけないことを言ったのだと、直感で理解した。目を瞑った。痛みが飛んでくるのを待った。

 けれど、何秒経っても、それは俺の何処を襲うことは無かった。粛々とボタンを留める音だけが耳に入った。薄い布の擦れる音がして、暖かなものが俺の頭を包んだ。


「まあ、こういうのも、見えるようになるからさ、視界が良くなると」


 俺の頭の上を滑って行ったのは、トメの掌だった。昨晩の冷たい指先とは違っていた。酷く熱を持ったそれは、夏の朝には暑かった。


「その眼鏡、今は読書用にしてたけど、本当は、俺が君くらいの時に使ってたやつなんだ」


 残りの珈琲を飲み干して、彼は言った。もう一つのマグカップに、ほんの少しの珈琲を注ぐ。流れるような手つきで、小型冷蔵庫から牛乳を取り出した。そうしてたっぷりの牛乳を珈琲と混ぜた。甘味の薄いそれを俺に差し出すと、彼は動かない表情のまま、口元だけ笑って見せた。


「そして、俺が『神様』と出会ったのも、俺が名前と存在価値を失ったのも、同じ頃だった」


 その口は、澤が七竈に向けるそれと似ていた。ただ、彼との違いは、それが今ここにいる誰にも向いていないことだった。トメの言葉に意味を見いだせないまま、俺はただ茫然と立っていた。差し出されたマグカップに手を付けられないまま、数秒が経った。


「……珈琲牛乳、あんま好きじゃないんだ。砂糖も入れてやるから、飲んじゃってよ」


 そう言われて、やっとのことで、俺の意識は両手を動かした。冷蔵庫の中に仕舞われていた砂糖をティースプーン二杯、マグカップの中に落とす。そのままスプーンで回すと、じゃりじゃりと音がした。溶け切らないそれを俺に手渡して、彼は自分のマグカップを珈琲で満たした。


「それを飲んだら、ハラヤ君を起こしに行こうか」


 トメはそう言って、まだ湯気の立つ珈琲を口に含んだ。

 溶け切らない砂糖を舌で舐める。香り程度の珈琲が、いやに苦く感じた。後から粘つく甘さが、ぎとぎとと舌を刺して、少し痛かった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る