外聞 祓

第21話

 僕が血筋というものを調べるようになったのは、かれこれ一、二年前のことだ。僕が自分の血筋について触れたのは、十年前の、幽冥と出会った日のことだったように思う。けれど僕は、その時の出来事を、断片的にしか覚えていなかった。否、覚えていなかったのではなくて、必死に押し込んでいたのかもしれない。あの夏の日々は、初めてのことばかりで、楽しいこともあったけれど、不快なことも多かった。実に都合の良い脳をしていると、常々思う。その証拠に、澤桔梗という男のことは、今でもあまり思い出せないでいる。幽冥には「思い出さなくて良い」と言われたが、その焼け爛れた顔だけはハッキリと覚えていて、その記憶のちぐはぐさが未だに気持ち悪くて仕方が無かった。


「七竈の方は、その留石という男について覚えていることは無いのか」


 止まっていた思考を揺するように、『先生』が言った。眉間に皺を寄せる先生の隣では、彼の甥であるさとるが懸命にメモを取っていた。

 駅の中にある喫茶店。閉店しているはずの深夜の店内には、古いレコードの音が鳴り響く。出会いから十年経った幽冥は、その巨躯を縮こませて、僕の隣で静かに煙草の煙を揺らしていた。先生の問いはここ暫く、幽冥の方に向いていた。彼の方が僕よりもあの夏の出来事をよく覚えていたからだった。僕が観測していなかった部分についても、隠すことなく言葉にしていた。幾分か感情的でも、その発言の全てが先生にとっては、貴重な資料になるのだろう。

 ただ、僕の脳は未だ霞がかかっていて、彼を満足させるようなことを語ることは出来なかった。先生の記憶を問う言葉には、全て首を横に振った。その度に幽冥が、仕方が無いのだと言った。


「澤桔梗も留石丹樹も、偽名というか、少なくとも本名ではないでしょうね」


 ふと、そんな声と共に、テーブルの端が揺れた。声の発端となったのは、識だった。彼はメモ用紙に書いた名前を指でなぞりながら、薄い唇を震わせた。


沢桔梗サワギキョウと言えば、トリカブトと並ぶ強力な毒草です。留石丹樹も……これは多分、柘榴をもじってるんじゃないですかね。丹って、赤って意味でしょう?」


 識はパズルのピースをはめ込んだ時のような興奮を、その頬に湛えていた。先生をそっくり幼くしたような顔は、まだ酒も煙草も飲めない子供らしさに包まれていた。


「偽名だってことくらいはわかってるんだよ。夜咲の人間は植物の名前を好むしな。今更何を言ってるんだお前は。先生と似ているのは顔だけか?」


 僕がそう言うと、途端に識は黙り込んだ。濡れたゴールデンレトリーバーのような彼は、何処か幼い頃の幽冥にも似ていて、つつきがいのある青年だった。


「七竈や葦だって植物だしな。その村自体、元々、夜咲の傍系が作った集落だったんだろう」


 そう言うと、先生はテーブルの表面を指先で二度叩いた。リズムを立てる。僕らがそこに注目してすぐ、彼は再び口を開いた。


「だからこそ、神を見たという証言があったのは、興味深い」


 先生は手で顔の下半分を隠すと、そう笑った。鋭い目で僕と幽冥を見る。黒い手袋の表面が、淡い店内のライトを反射させる。神を見たという証言は、幽冥の言っていた「春馬」という少年の言ったことだろう。そして、その神が僕と同じ顔をしていたということ、僕が忘れた仏像の顔。薄っすらと繋がったそれらに、先生は興味を示していた。


「その春馬という少年が願ったことだとか、神様についてのことはもっと何か、語っていなかったんですか?」


 次の煙草に火を点けようとしていた幽冥に、識が言った。すると幽冥は一度、煙草を箱に戻して、仄かに笑った。


「その後、彼とは会えなかったから、それ以上は」


 出来るだけ優し気に言葉を吐こうとする幽冥の、その表情が気に入らなかった。ハッキリ言ってしまえば良いのにと、もどかしさが募った。おそらくは、先生はわかっているのだろう。その後、春馬という少年がどうなったのか。午前中にいなくなった彼の母親と、僕達を見つけた廃屋に向かう澤達の車両。翌日の朝に母親の下へ向かおうと言う少年。翌日の昼には出るという馳走。特別なものが食えるという留石の言葉。識はまだ知らないのだ。夜咲という血筋がどれだけの禁忌を平気で踏み荒らすのか、子供の頃の僕達と同じで、理解していないのだ。


「でも、俺は同じ神様に出会いましたよ。七竈と同じ顔をした、その神に」


 識に向けた笑顔を、床に叩きつけて、幽冥は冷たい息を吐いた。煙草に火を点ける。先程とは違う銘柄だった。以前同じものを吸った時、メントールが鼻に付いて、最後まで吸えなかった記憶がある。その主流煙を、眉間に皺を寄せながら吸い、口で転がしては、言葉と共に吐きつける。


「神様と呼ぶには邪悪で、母と呼ぶには少女のようで、夜咲と呼ぶには人間として出来ている方でしたが」


 詳しく。と急ぐ先生に向けて、幽冥はへにゃりと笑って見せた。先程までの鬼気迫る鋭さは消えて、彼の人柄をそのまま表した様な表情が浮かぶ。黒い縁の分厚い眼鏡を押し上げて、彼は「じゃあ、続きから話しますね」と呟いた。


「俺達が出会った日の話……その翌日。俺が夜咲母神に出会った日の話をしましょう」


 煙草の灰を落とす。僕はいつもの銘柄を箱から一本取り出した。長い話になりそうだったので、三本、僕は紅茶のソーサーの上に同じ煙草を置いた。マッチの本数は十分だった。ただ、夜が明けるかもしれないという、時間に対する焦燥感だけが、脳を炙っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る