第20話

 小さな挙動を取ってみれば、彼は何処か人間らしさを含んだ人形のようだった。その口からは、神だとか、そんな非実在性の存在のことばかりが飛び出していく。俺がわからないと口にする前に、トメは一度「少し待ってくれ」と考えるような素振りを見せた。

 そうして数秒が経った頃、ヤカンの口から湯気が勢い良く飛び出した。ピィと高い音がする直前で、トメが火を止める。熱湯を二つのマグカップに注ぐと、冷蔵庫の中から牛乳を出して注ぐ。甘い香りがした。茶と聞いて、その時の俺が考えていたのは麦茶だとかだったのだが、実際に手渡されたのは、甘いココアだった。


「そうだな、一方的にわかるかわからないで問いても、理解には及ばないよな。なら、俺からも聞くべきだな」


 俺が一口ココアを飲むと、今度は俺の前に小さな椅子を出して見せる。そこに座ると、彼は自分のマグカップに口を付けた。そのカップからは苦みのある酸っぱい匂いがした。それが珈琲であると知ったのは、村を出て、大学に入った後のことだった。


「幽冥君は神様って、見たことがあるか」

「神様……道によくいるお地蔵様、とか?」

「ん。お地蔵様は神様じゃないんだが、まあ、そうだな。俺達が考える神というのは、確かに、仏に近いものか」


 仏と神の違いを知らない俺は、ただ首を傾げるしか出来なかった。「どう言ったら良いかな」と言葉を選ぶ素振り。それが数回続いた後、意を決した様子でトメは再び俺と目を合わせた。


「俺や澤の言う神様ってのは、人の姿をした人ではないものなんだよ」


 薄暗い部屋で、彼の黒い瞳だけが光って見えた。考えてみれば、何を当たり前のことを言っているのだろうと、脳に引っかかりが出来ただけだった。大抵のおとぎ話やなんかで出て来る神様は皆、人の姿をしている。この施設にあった仏像だって、特定の女性を模ったそれであった。


「それは……神様ってのは、皆、人の姿をしているものじゃないんですか」

「異形の姿、獣の形をしたものを神と呼ぶこともあるけれどね。あぁ、いや、そんな、文化の話をしたいわけじゃない。要は、何故俺達が思い浮かべる神というのが、人の姿であることが多いのか、という話だよ」

「その答えが、人の姿をしているというのが、条件だからって、いうこと?」

「そう、ニワトリが先か、卵が先か。俺達の先祖は考え付いた先、そう捉えた」


 珈琲を一口啜ると、トメは「馬鹿だろ?」と首を掻いて見せた。問われたところで、俺は返答出来る脳を持っていなかった。口を歪ませて、「そうですね」とだけ唱える。困っているのを理解してか、トメはそのまま続けた。


「とにかくさ、俺達の先祖の中に、そういう神様を作ろうって考えた人がいたんだよ。そうして、その馬鹿は、本当に神様を作ってしまった。人の姿をした人ではない者を、生み出してしまった」


 首を掻く手が止まる。彼は俺の鼻頭を指で突くと、ハッと鼻で笑った。薄暗い部屋の中で、表情はわからなかったが、その息は珈琲の苦みを交えていた。


「そうして生まれた神の名を、夜咲母神よざきぼじんと呼んだ。彼女を生み出した夜咲一族は、それから今に至るまで、彼女を崇めて来た」


 夜咲という名は、澤からも確か、聞いた覚えがあった。あの仏像の中で唱えられた名。この施設を作った最初の家。何処となく、澤とトメがその夜咲という一族に名を連ねているのだろうということだけは、察することが出来た。そして、七竈に至っては、その夜咲母神に近しい何かだと、少なくとも澤は考えているのだろう。だがそれを苦々しく語る目の前の男だけは、そこに何か嫌悪のようなものを含んでいた。トメは唾棄するように口を濁した。


「でもな、それだけでは飽き足らず、自分達も神になろうと、考えた馬鹿がいたんだよ」


 眉間に皺が寄っている。それは視線を上げなくともわかった。


「神は人間の手に届かないから神だと言うのに、夜咲家は、彼女を見て、自分達も神に成り上がれると勘違いしたんだ」


 声は怒気を孕んで、当てもなく放たれる。俺にその感情を向けられても、相槌を打つことさえ出来なかった。それは、きっとトメもわかっていただろう。長く吐いた息。整えた論調を口に含んで、彼は再び珈琲の香りと共に俺に問う。


「外道って言葉、わかるか?」


 俺が首を横に振ると、トメは「ん」と声を絞った。言葉を噛み砕くようにして、彼は口を歪ませると、息を吸った。


「人の姿をしたまま人間を外れるってことはさ、人間がしてはいけないことを、自らやっていくってことなんだよ」


 溜息と共に吐き出された言葉は、何処か掴みどころのない悪態だった。


「要はさ、悪いことを沢山すれば、神様になれると、信じたんだ」


 それを成程と言えるほど、俺の精神は成熟していなかった。そんな子供染みた発想で、神など作れるわけがない。

 ――――「悪いこと」をして神になれるのなら、俺だって。

 ふと、自分がその稚拙さに飲み込まれようとしていることに気付いて、口を塞いだ。マグカップを口に付けて、ココアを口に入れる。思考を甘さと一緒に胃へと落とし込む。そんな様子を見て、トメはハハッと笑った。


「だから夜咲は……俺達は、沢山、悪いことをしてきたんだよ」


 沢山ね。と、彼は呟いて、一度、口を閉じた。それから数秒、沈黙に耐えきれなくなった俺は、絞り出した声をトメにぶつけた。


「七竈は、これからそれをさせられるんですか? その、悪いことを」


 俺がそう問うと、トメは一瞬、奥歯を擦って、ギリギリと音を鳴らした。それが聞こえるくらいには、部屋は静かで、跳ねる自分の心臓の音がうるさく感じられた。


「するんだろうな。澤のことだから」

「何を、されるんですか」

「色々だよ」


 その色々というものを、聞いてはいけない気がした。態々、隠す様にして言葉を選んでいるのだから。それでも俺は、好奇心と七竈への情で、口を制御出来なくなっていた。


「その色々って、何ですか。人でも殺させますか」


 それくらいなら、もう十分ではないですか。そう俺が言う前に、トメは大きく溜息を吐いて、眼鏡に手をかけた。彼の顔には少しの心労があるように見えた。仕方が無いという素振りで、トメは俺に顔を近づけた。息がかかる程に近く、それでいて、静かだった。トメの首に空気が通る。その様子が、目についた。


「そんな甘いもんじゃないさ。その程度を禁忌と呼んでたまるかよ」


 トメはそう吐き捨てて、手元のライターに火を点けた。カチンと軽快な音が鳴った。僅かに明るくなった手と顔に目が行く。彼はいつの間にか煙草を咥えていた。独特な煙の香りが、妙に心地よかった。


「どんなことをするのか、知りたければ、明日、彼と昼食を摂ると良い」


 ――――特別なものが食えるぜ。

 彼はそう言って、紫煙を口の中で転がしていた。その口元は少しだけ歪んで、ほんの数ミリグラム、哀楽を湛えていた。

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