第19話

 教え子と学生と言うには何かが足りすぎている二人は、数秒睨み合っていた。その空気をものともせずに欠伸をかく七竈は、やはり化け物染みているように見えた。眠そうな彼に目を向けて、先に動いたのは澤だった。


「世話だけなら構わない。私なんぞよりも、君の方が相応しいのは事実だ」


 そう言って、彼は頬を掻いた。変形した爪がケロイドを引っ掻く。僅かに血が滲んでいるのが見えた。


「では、二人とも、今日は俺の部屋で寝かせますね」

「いや、それは拙い」

「何が拙いんです? 世話をするならそれくらい、当たり前じゃないですか」


 また少しの沈黙を挟んで、澤は薄っすらと口を開いた。生気の無い目。暗い瞳は、確かに七竈を映していた。


「特別なんだよ、七竈ハラヤという子供は」


 名を呼ばれた七竈は、怪訝そうな表情で澤を見ていた。澤はそれを笑顔で返すと、滑らかな動作でトメに言い放った。


「本来なら彼は私達のような俗物と触れ合ってはいけないんだよ。衣食の世話は良いとして、眠りまで手を出してはならない」

「そうですか」


 トメの表情は示し合わせたように七竈と殆ど同じ造形をしていた。澤という異物を見下す目は、彼の精神性が俺達のような一般的なそれと近しいことを示していた。それでも必要以上に澤へ対抗しないのは、彼なりの処世術だったのかもしれない。


「ということらしい。悪いね」


 七竈の頭をぽんぽんと軽く叩いて見せるトメのそれは、恐らくは澤に対する挑発か何かだったのだろう。七竈もそれを理解しているようで、「うん」と子供らしく頷いていた。ひりつく冷えた部屋の空気を飲んで、俺はずっと口を塞いでいた。夏だと言うのに、この部屋だけは、乾燥していて、目が痒かった。


「あぁ、でも、そうだな。幽冥君の方は君が預かってくれないか」


 瞼を痙攣させながら、澤は俺を指した。反った爪先で爪弾くように、彼は言った。


「ハラヤ様と出会ったばかりで、まだ何も知らない子供だ。教えておかなければならない事は沢山ある。寝話にでも、君が言い聞かせておいてくれ」


 調子に乗らないように。と、深く暗い瞳で、俺を見下す。視線で足が漉くんだ。一瞬、立っていられなくなって、足がよろめいた。その瞬間、トメが俺の襟首を掴んだ。


「それくらいであれば、頼まれましたよ。今夜は幽冥君だけ連れて行けば良いですね?」

「そうしてくれ。ハラヤ様はお残り頂きますよ」


 行くよ。と言って、トメは俺の背を叩いた。小さく「すまない」と口にしたのは、俺への力加減を違えたことへの謝罪だったのか、一人残される七竈へ向けての言葉だったのかは、わからないままだった。

 重々しい扉を引き開ける。こつこつと七竈に迫る澤の足音が不快だった。振り返り際に一瞬だけ見えた七竈の背は、酷く小さく見えた。後ろに組んだ小さな手が震えていることに、気付けていたのは、きっと俺だけだったように思う。


「そんな恨めしい顔をするなよ。そんな、幼馴染って関係でも無いんだろ」


 扉が閉まり切って、トメは無表情を貼り付ける。彼に指摘される程、俺の顔は酷いものだったのだろう。彼は乱雑に俺の頭を体に寄せた。それは何処かで観た家族ドラマのワンシーンに似た動きだった。


「話の続きは俺の部屋でしよう。澤の次に良い部屋なんだ。楽しんでくれ」


 肩を寄せながら、俺は黙って彼の言葉に従っていた。度々トメは俺に声をかけるが、どうもその末端には一種の気遣いというか、不慣れな世話欲があるようだった。その部分が、所々で桃家に似ていた。

 多分、悪い人ではないのだろう。それだけは、理解が出来た。

 否、澤だって悪い人間ではないのだ。今日一日、出会った人間の全て、『悪意』というものを感じていないことに気付く。七竈が当初俺に向けた脅迫だって、切羽詰まった子供のそれだった。奇妙な感覚だった。一気に気が抜けて、また足がもつれる。ついには、ひょいとトメが俺を抱き上げた。


「眠たいか。少し我慢してくれよ。話しておかないといけないことがあるんだ」


 朧げな脳の隅、トメは俺の耳元で囁いた。人間の心臓と、胴体の熱でどんどん目の前が霞んでいく。

 とん、とん、とん、かちゃり。扉が開く音。部屋についたのだとわかって、俺は自分の太腿をねじって、痛みで目を覚ました。


「おい、やめろよ。痕が付いたら、俺が虐待したと思われるだろ」


 開いた瞼の目の前には、トメの眼鏡があった。近づいた顔を離す。背中から転げて、自分がベッドの上へと落とされたことに気付いた。


「軽く茶でも飲もう。少し、長い話になるから」


 乱雑に、それでも優しいとわかる程度には丁寧に、彼は食器棚からマグカップを選んでいた。どうも、その殆どが俺には大きすぎるものばかりで、やっと見つけたそれは、棚の奥で埃を被っていた。部屋付の小さなシンクでそれを洗い、一口コンロに火を点けた。その上には細口ケトルが乗せられて、火の輪が外に広がるのが見えた。


「湯が沸くまで、少し、話を進めよう。時間が惜しい」


 トメは俺の隣に座ると、そう囁いて、眼鏡を外した。眉間を指で押さえると、再度眼鏡をかけ直す。目つきの悪い男だと、改めて思った。体格も相まって、あまり善人には見えない。けれど、その所作はやはり、悪い大人には見えなかった。


「話がわかっているなら、返事をしてくれないか。わからないなら、わからないなりに説明を変えるよ」

「え……あ、はい」

「緊張とか、今はする意味が無いから。大丈夫。毒を盛ったりもしないし、寝込みを襲ったりもしない」


 安心しろと繰り返すトメに、俺は都度頷いて見せた。首を四回ほど縦に振って、ようやく彼は鼻で溜息を吐いて、口を閉じた。そうして数秒待っていると、再度唇を僅かに歪ませた。


「順番に話そう。まず、この世には神と呼ばれる者が存在している」


 突拍子もないことを唱えながら、トメは俺を見ていた。相槌の一つも打たない俺に、「わからなくても仕方が無いかな」と少しだけ笑って見せた。

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