第18話

 暖かな雑炊を差し出された頃、既に夜は更けて、廊下から母子達の声は聞こえなくなっていた。度々聞こえる足音は、俺達の方に近づくことすらせず、遠くに消えていく。桃家が言うことには、どうやら夜になると澤の教え子である学生達が、自分の作業を始めるのだという。桃家とトメは今日はそれが無いからと、俺達が寝るまで付き合うということだった。そうやってよく笑う桃家を見ていると、トメの無味無臭で平坦な動きが異質に見えた。どうすればこうも表現力を失うのか、十二歳の俺には理解が追いつかなかった。ただ、彼が桃家から信頼は置かれているというのが見てとれた。一見して無愛想だが、最低限のコミュニケーションは取れている。その様子が、何処か七竈と似ているのは、偶然か、それとも必然かは、この段階ではわからなかった。

 当の七竈は、誰よりも多くアイスクリームを皿に乗せることに躍起になっていた。子供らしさの演出か、それともこれが実際の彼なのかはわからない。ただ、無邪気にホットケーキを吸い込んでいく彼の姿は、十二歳の少年というよりも、もっと小さな子供にも見えた。


「桃家さん、二人が寝る場所って決まってるの?」


 ふと、トメがそう声を上げた。換気扇の下、口に咥えた煙草を揺する。撒き散らされる煙の臭いに、桃家はウッと顔を顰める。犬歯を見せたまま、彼女は俺達の方に目を向けた。


「私は聞いてないけど、寝る前に先生のところに行くことにはなってるから、そこで教えてもらえるんじゃない?」

「空き部屋あったっけ」

「あるけど……多分、今夜に限っては私か美也子さんの部屋で一緒に寝るんじゃないかな。セオリーとしてはそうでしょ」


 桃家は確認事項を唱えながら、七竈の口を拭った。どうやら俺達は、腹を満たした後、あの澤の下に行かなければならないらしい。一瞬、鳥肌が立って、匙が止まった。それと同時に、煙を吸い終えたトメが換気扇を止めた。その彼と目があって、何か、考えていることだけはわかった。


「でも二人とももう十二歳でしょ。流石に赤の他人の、女性と一緒はまずいんじゃないの」


 その言葉で、何となく、何がしたいのかは察することが出来た。それは七竈も同じだったようで、彼も眉間に皺を寄せると、口を開いた。


「……寝る部屋って、ベッド?」


 七竈が怪訝そうに問うと、桃家は不思議そうな顔をしながら頷いた。少し遅れて、彼女はハッと何かに気づいた後、肩を窄める。何を想像したのか、理解こそ出来なかったが、何か自分の過ちに気づいたのだろうということはわかった。


「その様子だと、俺が連れて行った方が良い感じかな」

「うん。その時にトメ君の部屋で預かって良いか聞いてみてくれる?」

「ん。了解。まあ大丈夫だと思うけどね。確認はしておくよ」


 言外で人を操るのが、妙に上手いなと思った。トメの指先、目の挙動の一つ一つが、桃家に自発的な協力を促していた。きっと俺達に都合のいいように動いているという自覚は、彼女にはないのだろう。七竈もそれを理解して動いているようだった。俺だけが、何も出来ないまま、状況を眺めていた。

 皿から何もかもが無くなった頃になって、自分の口が動いた。


「ご馳走様でした」


 俺がそう唱えると、桃家が躊躇なく頭を撫でた。彼女はパッと朗らかに笑っていた。


「お腹いっぱいになった?」


 頷いて見せると、桃家とトメの二人が俺の前から皿を取り上げる。隣では七竈が暇そうに足をバタつかせていた。ふと彼の腹部を見た。炭水化物と乳成分で膨らんでいる筈の腹は、細く引っ込んだままだった。


「トメ君、片付けは私やるから、二人を先生のところに連れて行ってくれる? 私が皿洗ってるって方が、説明しやすいでしょ」


 桃家がスポンジを手に、そう笑った。「助かる」と呟いたトメは、躊躇いの一つもなく、俺と七竈の手を取った。彼の「行こうか」という声で、椅子から降りた。背後から「おやすみ」という桃家の声が聞こえた。振り返る頃には、水の音が彼女の空間を作っていて、俺の返答は聞こえていないようだった。

 三人で冷たい廊下に出る。気温はそこまで低くはない筈なのに、いやに背筋が震えた。平然としている七竈に倣って、前を見る。進めば進むほど、静寂さはより磨かれていった。


 無言が数分続いた後、トメの足が止まった。


「先生、俺です。留石です。二人を連れて来ました」


 ギイと音を鳴らして、彼は扉を押し開けた。他の居住区と思われる部屋の戸と違い、この部屋の扉は、妙な重厚さが見えた。トメの背に隠れて、そろそろと部屋に入り込む。図書館のような香りが鼻についた。

 その部屋は立ち眩みがするほどに、『情報』で埋め尽くされていた。具体的に言えば、そこは図書館の一部を切り取った様になっていて、壁には古今東西の古びた書籍が埋め込まれていた。実際には、壁の殆どが本棚になっているようで、そこに何度も手に取ったのであろう、背表紙の擦り切れた本だとかが、並んでいたのだ。

 それらの中心、重厚な赤い木で出来たデスクに、澤は座っていた。飲食物の一つも手に持たず、重なった本のうちの一つを手にしていた。目線を上げて俺達を視認するのと、彼は確かに口を歪めて、笑った。


「お腹はいっぱいになりましたか? 粗末なものばかりで申し訳ない。明日の昼には馳走を用意しますよ」


 粘液染みた声色で、澤は言った。その全てが七竈に注がれているのは明白だった。彼はついでと言わんばかりに、トメと目を合わせずに「報告を」と呟いた。


部外者桃家が世話を継続するよりも、事がスムーズかと思いまして」

「君は変わらず身勝手だな。だがその判断は宜しい。彼等に失礼は無かっただろうね」

「それは俺が判断することでは無いので、解答不可能ですね」


 そう言って、トメは俺達を前に出した。既に閉じられた扉へと、彼は体重を乗せる。成人男性の体重で締め切られた扉は、恐らくは子供二人の力でこじ開けることは出来ないだろう。そんなトメの姿を見て、真っ先に眉を顰めたのは澤だった。


「君、もう戻って良いよ。いつまでここにいる気だい?」

「一つ、先生に許可を頂けるまで、ですかね」


 二人は秘密を共有しているのだろう。けれど、利害或いは性格が一致していない。それを隠そうともしないのは、それでも重要な立場をトメが澤に任されているのは、何か、理由くらいはあるように見えた。眼鏡の向こう側、トメは気怠げに目を開いていた。


「俺に、二人の世話係を拝命頂きたく」


 そう言って、彼は眼鏡を押し上げた。無表情とは異なる、威圧の態度。そんな顔も出来るのかと、一人、俺は驚くことしか出来なかった。

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