第17話
遠ざかる足音が途切れた直後、再び足音が迫る。聞こえてくる足の数は、二本から四本に増えていた。大人達の息遣いが煩わしい。そこでようやく、俺は自分の横隔膜が落ち着きを取り戻していることに気づいた。
「落ち着いたみたいだね」
未だ慌ただしい桃家を置いて、一人の男がそう口を開いた。白いマスクを直し、縁の厚い黒眼鏡の向こうから、彼は俺をじっと見つめた。その態度は酷く冷淡で、七竈とは別の、化物染みた空気感があった。唾液で濡れた俺の頬の上を、男の指が滑る。ゴム手袋を隔てても、ゴツゴツと骨張っているのがわかった。
「感染性の食中毒じゃなさそう。アレルギーでも無いね。急に固形物を食べて、胃がびっくりしたかな。桃家さん、冷蔵庫に俺の夜食入ってるから、それ使って、雑炊作ってあげて。繊維質は避けて、卵は必ず入れてね」
印象とは全く異なる口で、男は言う。淡々とした指示は、理路整然とした脳内を物語っていた。
「着替えは……全身ね、適当にここで脱いじゃいな」
「あの……隠したりとかは」
「あぁ、そうか。君、もう中学生なんだっけ。桃家さん、ごめん。一回出てって貰える?」
言い訳も、無駄な言葉も無く、男は俺にタオルをかけた。ゴム手袋を外して、俺の額に触れる。冷たい手が、心地良かった。
「熱は無いね。ほら、脱ぎな。全部吐いて、腹減ったでしょ」
熱の無い発言の数々は、成人らしい語彙に装飾されていた。自分がロボットだとわかった上で、人間味を上手く取り合わせたような、そんな無機質さがあった。それでもその精神に、悪意が無いことは見て取れた。桃家が厨房から出て行ったのを目で追って、俺は濡れた布を剥いだ。床に散らばるそれを、男は丁寧に取り上げていく。途中、チンと金属の軽い音がした。目線を上げると、むくれ顔の七竈がいた。机にスプーンを当てて、早くしろと無言で訴える。
「ほら、ハラヤ君が待ちきれなくて睨んでるよ。怖いね」
七竈本人には見向きもせずに、男は言う。手先は俺の周囲に向いていて、散った胃液を淡々と処理していた。空間の全てに気を配っているのがわかった。どうやらこの男は、俺や七竈のような特定の何かに注目を置くということを、していないらしい。所謂仕事が出来る人というのは、こういう人間のことを言うのだろう。自分の大人になった姿を想像し、比較してみても、きっとこうはならないだろうなと、鼻で笑った。
「ゲロ、鼻に入ってた?」
「あ、いや、違うんです。大丈夫」
「そう。なら良いけど。まだ上着てないなら、一回顔洗っちゃいな」
そう言って、男は俺の顔をシンクに向けさせる。大人らしい広い掌に水を溜めて、頭から被せる。冷たさが心地よかった。頭に熱が籠っているのがわかった。少しずつ、状況理解が進んでいく。恐怖だとか、不快感は洗い流されていった。
「――……成程、これは、警戒心が無さ過ぎるな」
ふと、そんな声が聞こえた。機械のような声。冷たさが、首元にまでかかる。男の掌が、俺の顔を覆った。十分すぎる冷水が、鼻に入り込んだ。肺に入りかけた水を、何とか咳きこんで外に排出する。胃液で荒れた喉と、鼻腔の粘膜が痛んだ。止まらない咳は、おそらく廊下に聞こえている筈だ。それでもあの桃家が男を止めないのは、それだけ彼が彼女に信頼されているからか。その思考がまとまるよりも前に、酸素が肺に戻った。目を開けると、男は俺の拘束を解いていて、鼻も口も、自由になっていた。蛇口から出る水を浴びながら、俺はゆっくりと男の手を見た。肘、肩、首、顎を見上げる。彼の目線は下を向いていた。俺ではない何処か。その先には、包丁を持った七竈がいた。
「冗談だよ」
心のこもっていない声。七竈の舌打ちが響く。ずるずると背中を滑らせて、腰を床に落とす。七竈が一歩、足を出した。その瞬間、彼の細い手首を男が掴んだ。男の瞳は動かない。ジッと彼は七竈を見ていた。
「寝込みの母親と間男を殺したくらいで、思い上がるなよ。自分より図体のデカい奴を殺す時はな、気付かれたらおしまいなんだぜ」
そう言って、男は七竈の手から、軽やかに包丁を取り上げた。シンクの隣、調理台にそれを置く。床に落ちたタオルを拾い上げて、そのまま俺の頭に被せた。
「桃家が戻る前に着替えな。大丈夫、誰にも危害を加えるつもりは無いよ。余興に使って悪かったね」
眼鏡の、その硝子の表面が、艶やかに光った。表情筋は動かないが、どうも、そこには悦楽の情が滲み出ているようだった。
「お前、何だ?」
小さく七竈は男に吐きつけた。男は一瞬、俺に目をやると、変わらない表情のまま、口を開いた。
「俺のことを端的に表すのなら、今の名前から語ろう。俺の名前は
幽冥君もね。と、男――トメは続けた。彼は俺が新しい布に躊躇っている姿を見て、「早く着なよ」と小さく呟いた。その華に少しの嘲笑が混じっていたのは、気のせいだったかもしれない。
「ここではね、桃家達のような学生達のリーダーみたいなことと……調理役。要は
調理役と言われて、ふと澤の発言を思い出す。再び喉奥がぎゅるりと鳴った。それらを全て飲み込んでも、俺は呆然とすることしか出来なかった。
「だがね、俺は君達が危惧しているような存在ではないよ。俺は澤桔梗のような考えは持っていない。それだけは、言っておこう」
中指を上唇に乗せて、トメは奥歯をギリギリと鳴らした。擦れるエナメル質の音は、微かだが、七竈のそれと似ていた。
「突然出て来て信用ならないというのが率直な感想だろう? その姿勢は素晴らしい。少なくとも今あるべき君達の脳の動きはそれだ。疑念を大切にしな。俺もそれは尊重する」
「……黙っていれば教師面か。気色悪い」
「悪いが、これが俺のスタイルでね。沸点の低さはどうにかした方が良いぜ、ハラヤ君」
トメの人差し指は、こめかみを二度叩いて、止まった。彼の目線が、七竈からズレる。その先には、廊下に出る扉があった。
「そうだな、少しでも君達が俺に信頼を寄せてくれるなら、少しだけ俺に合わせてくれよ。やりやすいように、俺も頑張るからさ」
よろしく。と、トメは目線を俺の上半身に移動させた。厨房の扉が開く。入って来たのは、桃家だった。彼女はそっと扉を押すと、俺達三人に目を配り、小さく声を上げた。
「まだ着替えてないの? 大丈夫?」
「あぁ、少し、追加でゲロっちゃって。顔洗わせてたんだ。今はまた落ち着いてる。ほら、幽冥君。顔拭いて。とっとと着替えちゃいな。ずっと上半身裸じゃあ、寒いだろ」
タオルで乱雑に顔を拭われ、新しい布を被せられる。襟から顔を出すと、ハラヤが座る椅子の傍、桃家が目を丸くして立っていた。
「ちょっとハラヤ君、アイス勝手に出しちゃったの? 全部溶けちゃったらどうするの」
「全部僕が食べるから大丈夫だ」
「大丈夫じゃないわ! って、そのスプーン、もう手を付けたの? ちょっと、トメ君も止めてよ!」
疲れた表情で、桃家は肩をすくめた。「ごめん」と呟いて、トメは困ったような顔をした。俺の頭に付いた水滴を指先で払うと、彼は桃家と目を合わせた。
「夏だし、良いじゃないか。俺も食えば、丁度良い量でしょ」
それが狙いか。と呆れる桃家は、一度アイスクリームを冷凍庫に仕舞った。自分が食べるのだと聞かない七竈と喚き合いながら、彼女は人数分の皿とスプーンを出していく。その隣では、トメが粛々とホットケーキの準備をしていた。使われなかった包丁を隠し、彼は鼻で溜息を吐いた。その吐息が俺の顔にかかる頃には、トメへの警戒心は、俺の中からすっぽりと抜け出ていた。
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