第16話

 食事を終えて、食器を眺める。隣では桃家と七竈が小さく論争を繰り広げていた。舐め腐った態度の七竈に対して、桃家が叱る。話の端をまとめるに、最低限の人間的な生活というものを教えたいのだという。それら全てに反抗する七竈は、少し楽しそうに見えた。決して怒鳴りつけない桃家も、何処か七竈を可愛がっているようではあった。綻ぶ口元に気づく。俺は笑っていた。


「幽冥君食べ終わった? 食器そのままにしてて良いよ。私がまとめて運んじゃうから」


 繊細な箸捌きで七竈の口に乾いた米粒を運びながら、桃家は笑っていた。俺は首を縦に振って、七竈の食事が終わるのを待った。桃家に監視され、食べ散らかした肉や野菜の破片を口に入れていく。文句を垂れつつも従う七竈は、年齢相応の少年にしか見えなかった。


「よし、全部食べたね。嫌いなら残せって言ったけど、食べたいなら全部綺麗に食べる。汚く食べるのはマナー違反だからね」


 そう言って、桃家は七竈の頭を撫でた。皿を重ねる。桃家が七竈の皿に手をつけようとした時、七竈は小さく声を上げた。


「もっと食べたい」


 恥ずかしげに、七竈は言う。それが聞こえた瞬間、桃家は再び七竈の頭に手を置いた。


「オッケー。おかわりは……この時間だと他の子達が食べちゃってるかもね。お皿持って、一緒に厨房においで。特別に何か作ってあげる」


 幽冥君もね。一言そう置いた彼女は、俺の背を摩って立ち上がる。七竈が椅子から腰を上げたのを見て、俺もそれを真似た。七竈と俺とで、一つずつ主菜の大皿を手に取った。飽くまで手伝いの体を成して、桃家に着いて行く。途中、すれ違った母子が、桃家に笑いかけた。皆一様に「おやすみなさい」だとか言って、自分の部屋に戻るようだった。


「桃家先生、おやすみなさい」


 目を擦りながら歩く中に、覚えのある顔を見る。春馬は小さな体を引きずって、桃家に小さく言った。


「春馬君、おやすみなさい。今日は一人で眠ってもらうけど、大丈夫?」

「うん。大丈夫」

「朝になったら、お母さんに会いに行けるからね。じゃあ、おやすみなさい」


 無言で手を振る春馬にそっと桃家は呟いた。過ぎていく少年の小さな体が、妙に見窄らしく見えた。


「春馬君のお母さん、一緒じゃないんですか?」

「そうそう。ちょっとここでは対応出来ない病気があってね、街の方の大きい病院に行ってもらってるの」


 そうですか。と、納得を飲み込んだ。すると、七竈が息を吸う音が聞こえた。


「……いつから?」


 そっぽを向いていた割に、七竈は春馬に興味を示しているようだった。否、その表情は、何処か訝しむような、澤に向けた拒否感にも近い感情が混じっているようだった。


「今朝急にお腹が痛いって言って、今日の午前中にね」


 そう言って、桃家は足を止める。七竈が問う頃には、厨房独特の金属音が耳に聞こえていた。換気扇の音が神経を逆撫でる。蛍光灯を反射させるステンレスの集まりが目を焼いた。


「お、ラッキーラッキー。他の人がいないなら、結構好きにやれるわね。冷蔵庫の中身を見てくるから、少し待っててくれる?」


 簡易椅子を二つ置いて、彼女は壁に手をかけた。それが巨大な冷蔵庫であることに気付いたのは、中身のキャベツだのベーコンだのが目に入ってからのことだった。


「ホットケーキ作ろうか。メープルシロップと、アイスクリーム乗せてあげる」


 卵と牛乳、道具類を出していく桃家は、軽やかにステップを踏む。アイスクリームと言われて、一瞬、七竈のベタベタになった手の感触を思い出す。血と糖分が混ざった口。喉の奥に酸っぱい液体が滲んでいた。

 卵が目の前で割られていく。割れた女の頭蓋骨が網膜に再現された。咄嗟に、シンクに向かって飛び出す。椅子が吹き飛んで、清掃用具か何かが倒れたらしい。ガシャンガシャンと立て続けに床で硬い物が跳ねる音がした。

 背後で悲鳴に近い声を上げる桃家がいた。びたびたと音を立てて排水管に投げれていく胃液と夕食の残骸。それを勿体無いと思ってしまうのは、骨にまで染みた飢餓のせいか。


「だ、だ、大丈夫? アレルギーとかあった? もしかしてお腹いっぱい食べ過ぎた?」


 慌てる桃家の声が、はっきりと聞こえた。意識は飛んでいない。意外にも理性を保っている自分を褒める。今更やって来た死体への嫌悪感と、それに対してまあ仕方が無いかと思える自分の精神。相反する己の中身に、少しだけ嫌気が刺した。分離した意識で、桃家への言い訳を思案する。死体のことを思い出しましたなどと、誰が言えよう。

 視界に入った蛇口を捻って、水を出す。カルキ臭さの残るそれを口に含んで、吐き出した。息を整える。唾液と吐息が混ざって、唇を濡らした。何度も水を被るうち、服が汚れていることに気づいた。


「ごめんなさい」


 口から溢れた言葉は、桃家に向けた謝罪だった。染み付く自分の胃液は、黄色い斑点となって綿布に広がっていた。唖然とする桃家は、ハッと意識を戻して、意味もなく手を振る。数秒、返す言葉を探して、彼女は滑稽に踊っていた。


「だ、大丈夫! 服は汚れるもんだから! 着替えれば良いよ! 替え貰ってくるね! お水飲んで休んでて!」


 踵を返す桃家は、大きな足音を立てながら、廊下を走っていった。そんな彼女の背を眺めながら、俺は濡れた床に尻をつけた。

 輪郭の薄い視界の中、動く物体を睨む。汚物と水に濡れた俺を見下ろしながら、七竈が冷凍庫を漁っていた。どさくさに紛れて彼が取り出したのは、二リットルのアイスクリームだった。プラスチックの蓋を開け、金属のスプーンでコツコツと表面を叩く。スプーンが入りそうもなかったのか、七竈は机の上にそれらを置くと、椅子に戻って、スプーンを舐めた。


「何を見ているんだ?」


 彼の目には、嫌悪も嘲笑も無かった。ただ彼は、不思議そうな表情で俺を見ていた。

 その表情が、彼の示す興味の先が、七竈祓という存在の異常性を物語っていた。決定的な生物としての違いを知って、再び俺の胃は流転する。既に全てを吐ききって、俺の口からは何も出なかった。ひっくり返りそうな内臓を抱えて、俺は七竈を仰ぎ見た。

 舌先で金属を舐める彼の姿は、人の姿をした、人では無い何からしかった。

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