第15話

 春馬が耳打ちをしてくれて助かったと、心底そう思った。これを大々的に叫ばれたらどうなることかと、想像がつかなかった。幸いにして、七竈には彼を神様と呼ぶ声は聞こえていなかったらしい。その上で、ここには澤やそれに近しい人間が、確認出来る中では存在していなかった。ジッとこちらを見る七竈に肩が震えた。


「何で神様だと思ったの?」


 俺は春馬の耳に声を置いた。少しだけ考えるような素振りをした後、今度はもったいぶるような口ぶりで、彼は笑った。小さく、それこそ自分だけの秘密を打ち明けるように、春馬はその小さな唇を手で覆った。


「前にね、同じ顔の『神様』が、僕のお願いを聞いてくれたんだよ」


 こそばゆい程の囁き声で、彼はそう笑った。


「その時にね、同じ顔の男の子を見たら、その子も神様だから、連れて来た人もお願いを聞いて貰えるように、教えてあげてねって、神様が言ってたんだ」


 同じ顔の男の子。その言葉を反芻して、七竈の横顔を見た。春馬の言う神様が、どんな姿をしているのか、少しだけ想像が出来た。拙い少年の語り口では、その姿形以外に知れるものはなかった。けれど、その神様は、俺達が彼の前に現れることを知っていたということか。


「でも神様のことを知っている人はね、いっぱいいると駄目なんだって。だからね、神様のことはね、全部ヒソヒソ話しないといけないんだって」

「それも全部神様が言ってたの?」

「うん、神様が教えてくれた。幽冥さんは、神様を連れて来た人だから良いんだけどね」


 パッと口を開けて、春馬は笑った。彼の白く綺麗な歯が見えた。彼の語る話は、幾らか整合性が不足していた。前提となる知識が足りない。そもそも、その神様というのがどのような存在か明確ではなかった。ただ、神様とやらが提示した秘匿性は、今の俺には都合が良かった。


「ありがとう、春馬君。教えてくれて。でもその話は、ハラヤにも秘密で良い?」

「何で? ハラヤさんも神様なら、色々お話ししても良いでしょ?」

「彼はまだ、自分が神様だって知らないんだ。自分のことを人間だと思っている。もし急に『貴方は神様だから僕のお願いを聞いてください』なんて言われたら、春馬君だって嫌でしょ?」


 俺が説く言葉の一つ一つに、春馬はこくんこくんと小さく頷いていた。細い首と小さな顎で、判断を咀嚼しているようだった。彼は数秒考えるように沈黙を置くと、パッと大きく口を開いた。


「幽冥さんは優しい人なんだね!」


 良かった。と笑って、彼は俺から目を逸らした。春馬の視線の先で、七竈は突然の騒音に目を丸くしていた。一瞬、眉間に皺が寄った。拙いと思って声を上げようとした瞬間、春馬が口を開いた。


「そんなに不安そうな顔をしなくても良いんだよ、ハラヤさん。幽冥さんは良い人だから!」


 彼はそう言って、自分の机に戻って行った。脈絡の無い動きに、翻弄されていた手が宙を掻く。七竈がキッと俺を睨みつけるのも、仕方がないことだと思った。あの少年に苛立ちをぶつけたところで、何も解決しないことは、彼もわかっているのだろう。


「何だったんだ、アレ」


 文句を吐きたげな七竈の顔を見ながら、俺は「まだ小さい子だから、自分の世界があるんだよ」と答えた。それくらいしか、この場を治める方法が見当たらなかったのだ。ギリと七竈の歯が鳴る。俺は桃家が運ぶ料理を指差して、彼に笑いかけた。

 ふと、その桃家の背後、一人で食事を終わらせる春馬が見えた。他の名前のわからない子供達と見比べる。皆、母親の近くで甘えるようにして過ごしているようだった。名前を知ったからか、それとも顔を覚えてしまったからか、一人でいる春馬が嫌に目についた。何処かに母親はいないのかと、目を凝らす。彼を労わるような、彼の母親然とした女は、この部屋には一人として存在していなかった。


「お待ちどう様!」


 一切の躊躇もなく、桃家は俺と七竈の間に盆を置いた。彼女は何の悪気も無く微笑みを絶やさないまま、何処からか持ってきた椅子を置いて、俺達の間に座り込んだ。目の前に三つの食事が並んだ。どうやら彼女も俺達と夕食を共にする気だったようで、鼻歌混じりに箸を取った。


「二人ともお腹空いたでしょ! いっぱい食べて良いよ! あ、苦手な料理は残して良いから」


 流れるように手を合わせる桃家は、その体勢のまま数秒沈黙する。彼女はちらりと俺を見ると、少しだけ困ったように眉を下げた。


「オッケーオッケー。そこからね」


 溜息を交えて笑う彼女の向こうでは、七竈が手掴みで白米を掴もうとしていた。桃家はその手を素早く抑え、俺と七竈を交互に見た。唸る七竈に彼女は少しだけ頬を膨らませる。


「君、結構猫被ってたな? 澤先生にアレだけ言葉を選べるなら、いただきますくらい出来るんじゃないの?」

「下っ端に礼儀を向けても利は無い」


 ウッと矢に刺されたかのように、桃家は唸った。返せる言葉が無いのか、それとも、先に澤達から何か吹き込まれているのか、彼女はそのまま黙り込んだ。そうして、今度は俺の方に体を向ける。片方の腕で七竈を制止しつつ、彼女は俺の箸を取った。


「箸の使い方はわかる?」

「学校で、給食は食べていたので……汚いけど、持ち方くらいは」

「よろしい。学校でいただきますって言う時間無かった?」

「あったかもしれないけど、あまり、覚えていないです」

「じゃあ、私の真似をして? 手を合わせて、いただきますって言うの」


 そう微笑む桃家を見ながら、手と手を合わせた。渋々同じように動く七竈の姿が、少し、滑稽に見えた。内心笑っていると、鋭い目付きで七竈が俺に目線を送った。目を瞑って、視線を逸らす。七竈も腹が減っているのだろう。獣のような彼の視線は、見えなくとも痛かった。


「それじゃ、いただきます」


 いただきます。と、声を揃える。少し大きい箸は、使いにくかった。それでも喉を通る米と肉が、臓器に染みていくのがわかった。視界の外では、母子達の可愛げのある声が聞こえた。ふと、脳に過ぎったのは、高級な生ゴミを口に含んで笑う、妹のことだった。

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