第14話
お互いに何も言えないまま、時間が過ぎた。無言が恐ろしかった。学の無い俺には、七竈が望まない将来を強制されつつあるということだけがわかった。そこに、数ミリグラムの共感を得たのは、理不尽という一点において、似たような経験を持っていたからだろうか。大人に振り回されるということを、知っていたからかもしれない。
「七竈」
少年の名を呼ぶ。彼が返事をするよりも前に、戸が開く音がした。
「先生とのお話終わったって?」
桃家がひょいと顔を出す。彼女の動きは、あの澤などに比べれば、何処か子供っぽく見えた。その態度を見る限り、彼女はきっと、何も知らないのだろう。桃家は朗らかに笑って俺達を見る。それは澤のような心酔とは異なっていた。
「二人とも、歩けそうなら食堂で夕飯にしない? 無理にとは言わないけど、暫くここで過ごすなら、他の子供達とか、お母さん方とも顔を合わせておく良い機会かなと思って」
それは唐突だが、確かな提案だった。健全な施設のあり方としては、そうするのが妥当だろう。俺は七竈の顔を確認した。彼は「そうですね」と頷いていた。それに続いて、俺も桃家の目を見て首を縦に振った。
「オッケー、じゃあ着いてきて。今日の献立はベーコンとナスを炒めたのとー……」
手慣れた様子で彼女は俺達を部屋の外へと導いた。桃家の言う献立や楽しげな遊びの話は殆ど理解出来なかった。ただ、歩く程に強くなっていく匂いと、甲高い声に、そこが表面上は愉しげな世界なのだと感じられた。
――――それらを構築しておきながら、あの男は。
澤の変に艶のある顔を思い起こす。ケロイド特有の赤さが、脳裏にこびりついて離れない。反射的に七竈の手を握っていた。痛みでもあったのか、彼は小さく舌打ちをして、俺を睨んだ。咄嗟にポケットの中へ手を突っ込む。手先が熱くなっていた。頭蓋骨の中身は今現在の自分にはどうしようもない現実問題が溢れかえっていた。それらが爪先まで巡って、緊張感を生み出していた。食堂の扉を開ける桃家の軽い足取りを見ても、それは収まるところを知らずにいた。
静まり返った広い部屋が、こちらを一斉に刺す視線が、心臓の鼓動を強くした。ストレスというものが、自然界における闘争本能への刺激だということが、よくわかった。一瞬では数えられない程度の子供の数と、それらに寄り添う女達。恐らくはそれらは全て母子なのだろう。子供の中には、まだ赤子とも言えるような者もいて、母親の腕の中にすっぽりと納まっていた。
「皆さん、お食事中に失礼します! 今日から暫くここで過ごすことになったハラヤ君と幽冥君です。二人とも今年十三歳になる男の子です。ここでは一番のお兄ちゃん達になりますね。お母様方も、どうか優しく見守って頂ければありがたいです」
コンマ数秒、氷とも思えるような冷たさが部屋を満たす。配膳された食事からは湯気が立っているというのに、痛みにも似た冷気が首を絞める。それらを隠すようにして、一斉に女達は目尻を下げた。「わかりました」とだけ言って食事を再開する者、子供を自分の体に寄せる者。誰を見ても、俺達を何処か警戒しているようだった。そのジリジリと焼くような目線は、俺に対する疑念というか、一種の憎悪のようなものが主立っていた。
「空いている所に座っちゃって。おかわり用に残してたやつ持ってくるね」
そう言って桃家が背を押す。そうすることで、やっと前に足が出た。誰とも目を合わせようとしない七竈の後を歩く。その間も近くを通る度、母親達は子供の腕を引っ張って、俺達から引き離すような素振りを見せていた。疑問を胸に残しつつ、空いた木の椅子に腰を下ろした。
部屋の隅、食堂全体が見渡せた。改めて見ると、母親達は皆、傷があるか、或いは古傷に塗れていた。濃い色の服で誤魔化してはいるものの、それらが自分についた傷と似たようなものであることは、理解出来た。
――――そうか、あれは、同情或いは恐怖か。
四肢に残る傷を指先でなぞる。父親に付けられたそれらは、ここに集められている母子の状況を考えれば、震え上がるのも無理はない。対して共に立つ七竈の姿は上流階級のそれである。その差に妄想を巡らすこともあるだろう。
願わくば、このまま何も知らないままで、彼女達がここを無事に出て行ってほしいと、祈るばかりだった。
「おい」
ふと、七竈が服の裾を引いた。数秒遅れで視線を送る。見下ろした先、彼は小さく眉間に皺を寄せて、口を真一文字に結んでいた。どうしたのかと問おうとした瞬間、七竈の指が俺達の間に向かう。その指の先で、ひょこひょこと動く物があった。
黒い髪がチラチラ跳ねる。揺れる灰色の瞳が目に付いた。
「こんにちは!」
有り余る体力を吐き出すように、その少年は俺達の耳元で叫んだ。彼は左手で七竈のワンピースの裾を握り締めていた。空いた右手で俺のシャツの裾を握る。その小さな手からは、少年が小学校低学年かそこらであることを示していた。不快そうな七竈を宥めつつ、少年の期待に満ちた顔を見る。俺には彼と同世代の弟や妹がいた。小さい子供に慣れていないわけではない。ただ、こんな目を向けられたことが、今までに無かったのだ。何を求められているのか、考えてもわからなかった。
「えっと……誰?」
絞り出した言葉を、少年はケラケラと笑って飲み込む。その甲高い声が鼓膜を突いた。
「
「春馬君か。いくつ?」
「七歳。お母さんに、ここで一番お兄ちゃんだねって、言われてたよ」
言葉を吐く度に、少しずつ跳ねるのを止めて、声を落とす。話を掴み取るに、彼がこの施設にいる子供の中で最年長であったということだ。故に、桃家の「お兄ちゃん」という言葉に反応したのだろう。その脳の機序に何があるかは、俺にはわかったことではないが、春馬が他の子供と少しだけ異なることはわかった。それは彼も同じだったようで、春馬は俺の腕を引くと、耳元で囁いた。
「お兄ちゃんがハラヤ?」
「え? あぁ、違うよ。俺が幽冥。葦屋幽冥」
そう。と息を飲んで、春馬は続けて俺に耳打った。その小さな息は、何処か真剣さを帯びていた。彼の早い鼓動が指伝いに聞こえた。
「あのね、ハラヤさんってね、神様なんだよ」
春馬はそう言って得意げに胸を張る。きらきらと輝くその瞳は、複雑な色彩を含んでいた。
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