第13話
「それはそれは。ハラヤ君も大変だったね。お母様の状態からして、いつか起こりうるとは思っていたが……思春期の子供がいる前でそんなことするかね。全く」
無表情を取り繕うように、澤はべらべらと舌を回した。隣では安堵を漏らす桃家が、小さく冷や汗を拭っていた。
「確か、お父様がお帰りになるのは来週だったね。他の世話人へ向けた連絡は、私がしておこう。お父様の方へは……少し、考えた方が良いだろう。手順を踏まなくてはならない事だからね」
俺達が言葉を挟む必要もなく、澤は屋敷に人が入らないように手を入れてくれるようだった。どういうわけか、事が上手く運び過ぎていた。どうしても、この澤という男は、七竈がして欲しいことを先んじて選び取っているように見えた。
「お気遣いありがとうございます。でも……」
七竈はそのピンク色の唇で、弱さを誇張する。ちらりと送った目線の先には、桃家が居た。それを合図と言わんばかりに、澤は彼女の前に手を置いた。
「すまない、桃家さん。一度席を立ってもらえるかな。あまり他人に聞かれたくないことがあるみたいだ」
澤がそう言うと、何の引っかかりも見せないまま、桃家は当たり前のように俺の手を引いて、立ち上がった。「先に夕飯食べてようか」と言う彼女に、俺はどう答えるべきかわからなかった。正解がわからないまま七竈を見る。すると、彼は俺の服の裾を掴んで引き留めた。
「幽冥は行かないで」
出ていくのは桃家だけで良い。その意思表示を汲み取ってか、彼女は「あら、そう」と手を離した。少し強く握られた手首が、ほんのりと痛んだ。白い引き戸同士がぶつかり合う僅かな音を最後に、空間には静寂だけが残った。静けさが心音を引き立てる。頭に血が上っているのがわかった。鼻血がだらりと垂れ出て、口元に伝う。咄嗟にそれを手で押さえた。そんな一連の行動に、澤は何も言わず、目を向けることすら無かった。
「よく、いらっしゃいましたね。
溶けるような視線。それを発したのは、一転して地に這いつくばった澤だった。彼は俺のことなど眼中になく、ただ七竈を見上げていた。
「いらっしゃいました? 違うでしょ。アンタらがここに連れて来たんだ。僕はここに来たくて来たわけじゃない」
その思慕とも捉えられる感情を一蹴したのは、七竈本人だった。表情は嫌悪を表わにして、隠そうともしていなかった。眉間に皺が寄る。小さなそれを慈しむように、澤は曲がった指を七竈の顔に近づけた。
「表像意識は貴方自身の本意であるとは限りません。貴方は無意識にでも最善を選択し得る。そういう存在です」
黒い絹糸のような七竈の髪に、澤の指が通る。いつの間にか、俺の上半身は七竈に寄っていた。七竈の視線が、俺の意識の無い動きを止めた。すぐにでも、その指を叩き折ってしまいたかった。七竈だって、我慢しているように見えた。気色が悪い。成程、これが七竈の言う、自らを神と呼ぶ人間への嫌悪感かと、納得が行った。
「この黒髪、この皮膚、この目、この口」
恍惚の表情で澤は震える。これを前にして人形のように虚無に徹していられる七竈の精神力は凄まじいものがある。否、既に怒りだとかを通り越して、何も考えられなくなっていると言うのが正解かもしれない。
「やはり貴方は、神となるにふさわしい」
唱える言葉の意味は、俺にはさっぱりわからなかった。七竈の表面が神々しいという意味であるならば、理解は出来た。けれど澤の言う「神になる」とは、そのままの言葉なのだろう。彼は信じている。七竈が神になることを。それが本気であることは、根拠はなくとも、彼の表情でわかった
「それは僕が母さんとそっくりの顔をしているということですか」
噛み付くよりも前に、七竈は苦虫を潰したような顔でそう笑った。整った顔が、歪んでいた。その人間味に興が冷めたのか、澤は冷めた目で七竈を見た。手が離れる。彼が空けた距離は、多分、精神的な距離を表していた。
「あぁ……確かに、アレは、見目こそ、近かった。近かったけれど、アレは、夜咲の子を産むしか能の無い、ただの獣ですよ」
見目と言われて、ふと思い起こす。七竈と、七竈の母親の顔。彼ら母子が感性を失った時の顔。それはきっと、この部屋を覆う白い女の仏像と、同じ顔をしている。
「……澤さん、澤桔梗さん」
訝しげに七竈が声を濁らせた。それは問いただす子供の表情。不可思議を表に、彼は澤に白い犬歯を見せた。
「アンタ、僕と母の何を知っているんですか?」
問いの意味は、理解出来なかった。ただ、七竈にも知りたいことがあるということに、一種の親近感が湧いていた。
その答えを待つのには、一秒も掛からなかった。澤は反射的に指を口元に当てて、微笑んでいた。
「それは、貴方が知らなくても、良いことですよ」
その言葉は、七竈に対する神経が、忠誠でも信仰でもない、一種の独占欲であることを意味していた。七竈もそれは理解していただろう。それ故に、彼は「は?」と首を傾げて、澤を睨んでいた。
「貴方はただ、貴方のやりたいことをすればいい。そうするだけで、貴方は神になれる。そういう存在なのですから」
にんまりと上がる口角の隙間、白い歯が並んで見えた。七竈が、俺の手を握っていた。僅かに震えているのは、恐れによる身震いではなく、怒りで沸き立つ筋肉の痙攣だろう。ギリギリと奥歯を鳴らしているのが薄らと耳に届いた。嫌悪と憤怒が混ざり合って、手を圧迫する。数秒で指先の感覚が失われた。早く澤の口が止まってくれないかと、心から思った。
「だから貴方は、ここで暫くお過ごしになれば良い。ほら、お腹が空いたでしょう? もう夕食の配膳が終わる頃だ」
僅かに漂ってきたのは、香ばしい白米の香りだった。返答の無い七竈の口の代わりに、俺の腹が鳴った。咄嗟に胃を抑えるが、音は鳴り止まなかった。軽蔑するような七竈の視線が痛かった。
「幽冥君も私達が世話をさせて頂きますよ。朝になれば朝食を、お昼には昼食を。おやつには果物をたっぷり乗せたケーキやタルトを。お風呂だって、毎日入れる。以前に比べれば良い暮らしでしょう。そうですね、飽きれば別の子を宛てがうことも出来ますよ。ここには似たような子供が沢山おりますからね」
自分が軽んじられていることだけは、理解出来た。それに対して七竈がどうとも思っていないのも、肌で感じることが出来た。彼らは俺が考えているよりもずっと、別の価値観で物事を論じている。
そうして七竈が黙っているうちに、澤は小さく溜息を吐いて、立ち上がった。部屋の戸を開けると、俺達を見下ろして、実に朗らかな笑顔で口を開いた。
「今日の献立は変更出来ませんが……水恋の遺体は丁重に保管させて頂いております。うちの調理役は
喉の奥、胃の上部が、酸っぱい液で満たされる。七竈が手を引いたおかげで、意識が逸れた。彼は並び立つ仏像に紛れるように、口元だけを綻ばせていた。
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