第12話

 七竈がする嫌悪の表情には、妙な安心感があった。彼女が一人の人間であると、実感が持てた。そうでもしないと、この少女が生きているという感覚が無かったのだ。


「良かった。心配してたんだ」


 俺がそう呟くと、七竈は立てた膝に肘をついて、眉間に皺を寄せた。新調されたらしい白いワンピースの裾は少し短くなっていて、彼女が揺れる度、太腿の付け根が見え隠れした。俺が目を逸らすと、七竈は溜息を吐くと共に、俺の頭を掴んだ。唐突な頭部の揺れに、思わず声が出かけたが、その瞬間にもう一つの手で顎を固定された。


「薄々気付いてはいたが、お前、何か勘違いをしているな?」


 低くくぐもった声。それが一種の威嚇であることは理解していた。このまま首の骨を折られて殺されるのではないか。そう考えが過ぎる程度には、七竈の目は殺意に満ちていた。


「見ろ」

「な、何を」


 口答えをするよりも前に、七竈はワンピースの裾を捲り上げた。太腿の内側に目が行く。白い皮膚の奥、そこに見えるのは乱雑に塞がれた傷。黒い糸で縫われたそこが、痛々しく映った。そこには、七竈の「無性」があった。


「う、な、うん? え?」


 困惑している内に、七竈の膝が鼻頭を殴打する。白黒の輝く視界の奥、だらりと鼻孔を流れるのは血液だった。白い布に、血が点々と流れ出た。無言で蹲っていると、七竈はその血痕を中指で真っ直ぐ均した。赤い直線を辿れば、白く細い指先があった。更にその上を視れば、少女のような美貌を称える七竈の、人形染みた顔があった。


「僕は男だ。何を、どう奪われ、誰がどう言おうとも、僕は」


 彼女――――否、七竈祓という一人の『少年』が今見せているのは、誰がどう見ても、憤怒という感情であった。

 怒らせてしまった。その事実だけが頭に反芻する。彼の性がどうあるのか、男であったのなら何故それを剝奪されたのか、過去を考える余裕は無かった。


「お前が勘違いした理由も理解が出来る。だからこれで勘弁しておいてやる」


 譲歩を賜って、俺は七竈の顔を見上げた。下から見る彼の顔は、蛍光灯を後光に観かけて、本当に仏のように見えた。


「それに、お前は、そう、少し……少しだけ」


 七竈のくぐもった声が、揺れる。額の絆創膏を撫でる彼の指が、冷たくて心地よかった。その行為が、ただ俺の血を拭うだけの、単調な作業であったとしても、それを善いと感じた俺の精神はそれ以上動かなかった。


「……――――いや、良い。やっぱりやめた」


 糸切鋏で断つように、彼は言葉を切り落とした。そうして、ジッと戸の方を睨みつける。重心を背後に落として、布団の上に戻った七竈は、俺の肩を突き放した。

 トントン。木の戸を叩く音がした。


「幽冥君、ご飯持って来たよ!」


 静かに戸が開いた。桃家の視界が広がった瞬間、その瞳孔が激しく開閉する。それは、明らかに驚愕を表した目だった。眼球以外の全ては平静を装っている。しかし、彼女の隙間から滲み出ている感情は、一人の少年が目覚めたくらいで発生するようなそれには見えなかった。


「よ、よかった!」


 大げさな手ぶり身振りで、桃家は笑う。俺の食事を乱雑に床へ置くと、彼女は再び廊下へと消えて行った。誰を呼びに戻ったのかは明白だった。


「七竈」


 心配が先行して、俺は彼の顔を見た。俺の声を意図的に無視しているらしい七竈は、鼻に皺を寄せていた。

 暫くして、聞き覚えのある革靴の音が、耳に入った。次第に近づくそれに、何処か嫌悪というか、一種の恐怖心のようなものが湧いた。そんな俺の様子を察してか、七竈が自らの背後で指をトントンと鳴らした。彼の示すとおりに、俺は七竈の小さな体を盾に、澤との対面に臨んだ。


「ハラヤ君。目覚めたようだね」


 物知り気な顔を出して、澤はぎこちない足元でこちらににじり寄る。小さく「知り合いか」と七竈に問うと、彼は鼻で笑った。


「美也子先生からお話は聞いてました。澤先生ですね?」


 物怖じしない七竈の様子に、澤は少々目を丸くした後、ハハッと笑った。白く揃った歯が見えて、溶けた唇の中に再び納まる。七竈はいつの間にやら正座をして、澤と桃家をその真っ直ぐに伸びた背筋で迎えていた。


「ご存じだとは思いますが、僕の名前は七竈祓。少々事情がありまして、今朝から友人の……葦屋幽冥と山で遊んでいたんです。父にはずっと、何があるかわからないので屋敷から出てはいけないと言われていたのですが、どうしても、外の世界が知りたくて……川で倒れているところを保護して頂いたと聞いています。この度は大変ご迷惑をおかけいたしました」


 何処で身に着けたのか、七竈はそうやってつらつらと礼と嘘を吐いた。深々と頭を下げる彼に合わせて、自然と俺も小さく頭を上下させた。顔を上げた頃には、慌てた様子で澤が七竈の肩を叩いていた。


「そんな、迷惑だなんて思っていないよ。ハラヤ君は今年で十三歳だろう? 外に出てみたい、同じ年頃のお友達と遊びたいと思うのは健全なことだ。そこで危ない目にあったら助けるのが、私達大人の仕事というものだよ」

「先生の寛大さ、感謝いたします」

「そう畏まらないで。七竈君……いや、君のお父様とは長年懇意にさせてもらっているんだ。彼の息子である君とも、仲良くさせてほしいな」


 駄目かな。と、スポンジのように柔らかな声を、澤は七竈に吹きかける。上がった口角に沿って、目線を上げた。七竈が後ろ手に俺の手を握った。自分に合わせろという意思があった。


「では、お言葉に甘えて!」


 パッと表情を変える七竈の表情筋が心配で仕方が無かった。七竈祓という人間が満面の笑みを輝かせているという事実に、違和感と不快感があった。思ってもいない感情を見せなければならない苦痛は、俺もよくわかる。


「僕、とてもお腹が空いてしまって。夕食を頂けないですか?」

「私達は構わないが……屋敷に帰らなくて大丈夫かい?」

「屋敷に……帰りたくないんです。その、今、庭師のおじさんが来ていて……」


 可愛らしさを表面に押し出して、七竈はその身を捩った。その先を言葉にしないのは、作為的だったのだろう。実際、彼の思考誘導は成功しているようだった。


「あの……七竈を、ここで保護してくれませんか」


 その時点で、七竈がしたいことは理解していた。俺は小さく口を動かして、澤と目を合わせた。


「朝会った時も、辛そうで。それで、俺、連れ出したんです。その、母親が浮気しているのを見るのは、あまり、良い気分には、なりません、から」


 たどたどしく言葉が溢れる。嘘を吐くのが上手いとは思っていない。ただ、七竈の発言の後押しが出来ればと思った。同情心を煽る程度のことが出来ればと思ったのだ。

 お願いします。と、顔を上げてみる。七竈の顔こそわからなかったが、頭上に存在していた澤の、一瞬の無表情だけは視認出来た。俺と七竈が下を向いていたという油断か、彼は確かに感情を欠落させていた。それでもすぐに微笑みを取り戻したのが、不気味で、歯と歯の隙間に繊維が挟まったような違和感があった。

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