第11話
唇が重かった。澤と女に、言葉を選ばず捧げる。手っ取り早く子供らしさを演出するには、その辿々しさが必要だった。
「七竈は、あの子は、今朝、出会って。塀に囲まれた屋敷で、ずっと出してもらえなかったって。それで、俺、七竈を外に出して、一緒に、山の中で……」
彼らは、七竈が監禁されていた事実を知っている。女は研究メンバーが七竈と知り合いだと言っていた。屋敷から出たことのない七竈のことを知るには、屋敷に出入りする機会が必要となる。ということは、善悪の有無を問わず、少なからず監禁に加担していたはずだ。
その発想を補填するかのように、ずっと黙って話を聞いていた女が、大慌てで口を開いた。
「ハ、ハラヤ君はね、生まれた時から体が弱くて、昔事故で大怪我をしたこともあって、学校に通えない体だったの」
「大怪我?」
「そう、えーと……」
濁る口に、俺は眉を顰めて見せた。どうも抜けたところのある彼女は、考え付く限りの言葉を整理して、再び俺の肩を掴んだ。
「本人から聞いた方が良いんじゃないかな。少し、デリケートな問題になるから」
そう言って、女は俺の背を押した。ベッドから降りてみろという意味らしかった。裸足に伝わる床の温度は、初めて触れるリノリウムの拙い熱伝導を示していた。
「歩けるならもう無理に横になっている必要はないだろう。ハラヤ君のところに行ってあげなさい。桃家さん、連れて行ってあげて」
静かに澤が言う。その表情には何処か諦めに近いものが含まれていた。それに気づいた時には、俺は部屋の外に出されていた。
施設の廊下は一方が西を向いているようで、西日が射しこんでいた。どうやら俺は数時間眠っていたようだった。脳の端に、妹と七竈の母親が浮かぶ。死体を置いてきてしまっていた。どうするか、七竈と相談できるだろうか。盗み聞きなどされないか。不安が次々に浮かんでいく。喉に小さな気泡が通った。胃は空っぽだった。だが、それを満たすだけの思考が、ずっと鳩尾の辺りから湧き続けていた。
「ハラヤ君? 起きてる?」
女――桃家が、白い扉に手をかけた。それは廊下で見せられたどの扉よりも、潔癖な程に白く、指紋の一つも許されない程に清浄な雰囲気を醸し出していた。特に何かそういう装飾があったわけでもないが、扉の向こうにある妙な圧迫感は、神聖さを醸し出していた。
音一つ立てずに、桃家は扉を横滑りさせる。そういえば、俺が寝かされていた部屋は、蝶番がギイギイと軋む開戸だった。しかしこの部屋だけは、所謂二つの戸で出来た引き分け戸で、雰囲気は神社や寺のそれと同じに感じられた。
そんな白い戸を開いた瞬間、俺の目に飛び込んで来たのは、部屋の白さに溶け込んだ「仏像」の大群だった。仏像は主に女性の姿をしているものばかりで、大小様々ではあったが、その美しい顔だけは皆一様に同じだった。後に知ったが、そういった仏像のことを曰く観音像と言うらしい。ただ、そんなことを知った後でも、アレは、あの女の仏像は、世に出回っている観音像とは全く違う風貌だった。白く色の一つもない立体だというのに、その仏像達は何処か色っぽく、艶めいていた。幾つかの開いた目には黒い真珠が嵌められていた。そのうちの一つと目があって、足裏が強張った。ずっと、何かに見られているような感覚。遠くから聞こえるクスクスという女の笑い声。
吐き気がして、思わず手で口元を覆った。平然としている桃家の後ろ姿を見て、何とか精神を現実に引き摺り戻す。
「ハラヤ君、お友達が来たよ」
桃家が膝をついた場所には、黒く長い髪が蛍光灯の白さを反射させていた。それが七竈だとわかった瞬間、足が動いた。半ば駆け寄る形で桃家の隣を陣取る。小さく鼻で息をする七竈は、長い睫毛を揺らすこともなく、静かに眠っていた。
「下半身の傷がかなり危険な形で化膿してたから、膿を排出する手術をしたの。麻酔がまだ効いているんだと思う。解熱剤に少し強い薬を投与しているから、体に負担がかかってるかも」
「手術なんてしたんですか、こんなところで」
「責任者も技術者も、設備だって一式揃ってるから、出来ないことはないよ。この辺りは近くに大きな病院も無いしね。ここでやるしかなかったの。大丈夫、心配しないで。容態は安定してる」
小さく息をするだけの細い体に、何を安心すれば良いのか、わからなかった。管にも繋がれていない少女の体は、まるで周りにある仏像達と同化するために置かれているようにすら見えた。
「そろそろ夕飯の時間だし、一回食堂でご飯食べない? 施設にいる他の子供達と話すの、楽しいと思うよ。ハラヤ君とは……お話し出来るようになったら、またここに連れて来てあげるし」
腕時計を指差して、桃家が言う。ベタベタと触れる彼女の手と自分の皮膚の間に指を滑り入れた。驚いた表情の桃家の顔を眼球の上部に写しながら、俺はどうにか口角を上げて見せた。
「すみません。夕飯、要らないです。七竈が目覚めるまで、ここで待ちたいです」
自然と目線が逸れた。わがままを言っている自覚はあった。それを許容してくれるかどうかは、ある意味で博打だった。何となく、彼女達は七竈を特別視していると、直感で理解していたからだった。治療をするだけなら、俺と同じ部屋でも良かったはずだ。あの部屋にだって、他にいくつか清潔なベッドがあって、恐らくは点滴なども施せる環境だった。それなのに、七竈は何故だかこんな異様な白い仏像の部屋に入れられて、まるで神様への供物のように寝かされていた。その異質さに、目を瞑ることは出来なかった。
数秒、俺と目を合わせた桃家は、少しだけ考えるように眉間に皺を寄せた後、俺の頭上に手を翳した。ついに殴られでもするのかと、目を瞑って身構える。しかし、その頭に降り注いだのは、女性らしい柔らかな五つの指。その優しげな動きで、目を見開く。
「そうだよねえ。心配だよねえ」
諦めか、或いは自然な好意か、彼女は俺を宥めるような言葉で笑った。
「一応先生に良いかどうかだけ聞いてみないとだけど……ここにいるのは大丈夫だと思うよ。夕飯も持ってきてあげるね」
桃家の口元はそうして綻んでいた。目尻は下がって、何処か太った猫のような顔をする彼女は、俺が頷いたのを確認すると、立ち上がった。俺達に背を向けて、部屋を出る。その一瞬、下を向いていた桃家の顔は、微笑みを欠落させていた。
背中に冷たい何かが這う。背筋が伸びた。息を止めて、耳を澄ます。扉の向こうに足音が消えていくのを確認して、やっと大きく息を吐いた。床に手をつけて、崩れた上半身を支える。緊張が解れて、声が漏れた。
「行ったか?」
俺がついた手の側、覚えのある声が聞こえた。ハッキリとした呂律は、彼女の意識が確固たるものだという証明だった。
「七竈」
黒い真珠のような瞳で俺を見る少女は、苦虫でも噛み潰したような顔で、白い扉を睨んでいた。
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