第10話

「あれま。目を覚ましていたんだね。すまない。急にこんなのが現れたもんだから、驚いただろう」


 見た目よりは流暢な口元で、男は言った。見た目と言葉選び、声色の、その雰囲気の違いが脳の機能を弱らせていた。ベッドから落ちそうになる俺の身体を、素早い動きで女が支える。そこでやっと、俺は心臓の鼓動が早くなっているのを理解した。


「私はさわさわ桔梗ききょうという。ここは私が運営している実験施設だ。家族の繋がり……特に母子の関係性だね。それが母と子のそれぞれの健康状態、子供の成長にどんな影響があるか……有志のご家族に協力してもらって、調べている」


 澤はそう言って、隣のベッドに腰を下ろした。女の態度からして、恐らくはこの男が「先生」なのだろう。彼は微笑みを絶やさないまま、ケロイドに覆われた手を差し伸べた。


「君は、葦屋鉄工さんのところの、幽冥君だろう?」


 俺の名を呼んで、澤は満足気に微笑んだ。

 何故俺の名前を? うちの工場のことを知っているのか? 知っていて、何故――……

 そう尋ねるより先に、彼は俺の頭を撫でて、その清潔なワイシャツの裾を汚した。


「可哀想に。こんなになるまで、よく頑張ったね」


 動かない目元に、幾許かの同情が含まれていることは、理解していた。隣にいる女も、俺と澤の様子を見て、何処か涙ぐんだような顔を手で覆っていた。


「ここのところ、葦屋さんの工場がうまく行っていないというのは聞いていたが……跡取り息子に手を上げる程とは、私達も認識出来ていなかった」

「……うちの、何を知っているんですか?」


 俺が首を傾げて見せると、「いや、これは失礼」と澤は身を引いた。どうも感情的になる癖があると、本人は語るが、何か、関節に砂が混じるような違和感があった。肘を摩っていると、澤は俺に上着をかけて、目を合わせた。


「前提と過程から話そう。ここは私が運営する実験施設だと、そう言っただろう? だが、この施設自体は、私が建てたわけではない。元々は、夜咲家という、この近辺で有力な名家が作った、救護所だったんだ」

「救護所?」

「最初は不治の病を患った貧しい人々を迎え、死ぬまで世話する施設だったと聞いている。けれど、私が施設を受け継ぐまでは、母子シェルターとして運用されていた」

「母子……何?」

「母子シェルター。まだあまり浸透していない概念だからね。とても簡単に言えば、父親やその他の親族に傷つけられた母親が、自分の子供を連れて匿ってもらう施設だ。この辺りにある村々は、男性中心の社会が構築されていて、女性が子供を産む機械のように扱われることも、そう珍しくはない。しかも、村はそれぞれが山に囲われていて、母となった人が子連れで街まで逃げるのは難しい」


 そして。澤は長ったらしい語りに接続を置いて、俺の頭をくしゃくしゃと撫でた。


「まだ少年だった頃、母親と共にここに保護された。君と同じ歳くらいの歳だったか。母はその後、父から受けた暴行が原因となって、病で亡くなった。それから私はここで成人するまで暮らし、大学まで行かせてもらって、数年前に医者になって帰って来た」

「それと、俺の名前を知っていたことと、何が関係して来るんですか?」


 俺が問うと、澤は目を見開いた後、肩をすくめて笑った。

 

「これは、ふふ。すまない。前提が長くなった。母子シェルターとしては十三年前に閉鎖されたが……建物を受け継いだ私は、その後も研究という名目で似たようなことをしている、ということだよ。だから近辺の村々の家族について調査は広げていたんだ。危なくなれば運営メンバーを派遣して、ここに避難させている」


 調査という単語に、一瞬、噛み合わない何かがあった。言いたいことは予測出来た。村の調査をしている中で、俺と俺の家族のことは知っていた。だが、中々保護にまでは踏み切れなかった。その理由は幾つかあるだろう。彼らを好意的に見れば、村の誰かがこの施設を良しとしておらず、妨害していた可能性すらある。逆に見れば、本当は善意など微塵も無くて、俺達を保護する利益が無かったから保護しなかった。


「……うちは祖父母も近所に住んでいるから、優先順位が低かった?」


 餌を投げ入れる。好意と疑義の中間を言葉にした。嘘では無い。そういう考えもある。父方の祖父母は隠居した身で、実家の近所の、小さな日本家屋で暮らしていた。辿り聞く限りでは、近所からは優しい老夫婦として有名で、祖父はかつて工場を発展させた腕利きの経営者として、今でも近所の若者から頼られる存在だという。ただ、一度だけ、飯を貰いに行こうとした時、母親がやめろと泣いたので、それ以降頼ることが出来ないでいた。


「……――そうだ。いや、それは理由にはならないけれど、より急がねばならないご家庭も、他の村にいてね。それに、施設の部屋や、運営資金も無限では無い」

 

 納得はいった。大人になってからこの言葉を聴いたとしても、俺は彼らを罵倒することは無かっただろう。

 そもそも、うちの村では、子供が失踪することはよくあることだった。十代の家出もそうだが、恐らくは親に殺されたのだろうと思える話も耳には届いていた。そうやって納得出来る程度には、うちの村は、地域は、異常だったのだ。子供が消えた程度で警察が動かないくらい、普通のことだった。だから俺は七竈があの屋敷に監禁されていたという事実を知っても、特に驚きはしなかったのだ。まあ、そういう子供もいるだろうな、という認識だった。


「そうですか。それなら、仕方がない、ですね?」


 けれど、それでも、何か、言葉に出来ない違和感は、拭い去れなかった。一応の筋は通っている。彼らが俺に同情しているのも、嘘ではないだろう。しかし何か、ほんの数ミリのズレがある。どんなズレか、何が違うか、それはわからない。

 ――――演技臭い? 

 七竈と話した影響か、俺には既に人を信じるという要素が掻き消えていた。現実とは、説明が出来なくてこそ、現実だ。七竈のように、全てを隠そうとする人間がいるうちは、推測でしかモノは語れない。


「……七竈」


 俺はその名前を唱えた。過ぎった少女の名前を、俺は思い起こした。


「七竈は、どうして?」


 澤に遮られた質疑応答を、懐に手繰り寄せる。まるで思い出させないように避けられていた名前。それを口にした瞬間に、一瞬、澤の眉間に皺が寄った。その一瞬を目に焼き付けて、俺は再び口を開いた。

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