二章
第9話
ゆっくりと瞼を開ける。空っぽの腹を壁に叩きつけられず目を覚ますのは、久しぶりのことだった。見えるのは蛍光灯。白い視界が目に毒だった。白いカーテンと白い天井は、その時の俺には境界線がわからなかった。視界は変わらずぼやけていて、頼りになるのは耳からの情報だけだった。ギシりと金属の軋む音が聞こえて、自分が保健室にあるようなベッドの上に寝かされていることを知った。
数歩、靴底のゴムを滑らせるキュっという音が聞こえた。遠くには昼休みの学校にも似た子供の甲高い声があった。風は無い。窓も無いようだった。足音は反響していて、ここが密閉された部屋であることは理解出来た。
ふわりと、僅かな空気の流れが、頬を撫でる。必死に瞼を閉じて、寝たふりをした。瞼に力を入れた時、絆創膏が貼られていることに気付いた。鋏で切った、深い傷だったはずだ。ピンと何か張りつめる感覚があった。後で絆創膏を剥がした時、何針か縫われていたということを知った。
「目ぇ覚めてるねぇ」
ポツと、俺の鼻に息がかかった。女の声だった。聞き覚えはなく、恐らくは村の人間ではないだろうとはわかった。動揺を隠しきれていない自覚はあった。薄っすらと瞼を開けて、眼球を捩る。
「眩しい? 大丈夫?」
囁く女は、握っている白いリモコンを天井に向けた。少しずつ視界の明度が下がる。どうやら蛍光灯の光量を調整していたようだった。
「喋れる? 君、川で倒れてたんだよ。見えるところは処置したけど……まだ痛いところある?」
俺が意識を取り戻していることは、既にバレていた。抵抗の意識をそがれ、目を開ける。言葉を発することに問題は無かった。けれど、何処か喉に閊えるような感覚があって、俺はただ横に首を振った。
「そう。それは良かった」
そう言って微笑む女は、恐らくは二十代前半か、十代終わりくらいの若者だった。見た目にそぐわない程、その手先は丁寧で、子供の扱いに慣れているような素振りが見えた。無理に俺から言葉を引き出すことも無く、彼女は淡々と、けれど冷たくはない態度で、俺の額を撫でた。
「水中毒……えーっと、多分、君は喉が渇いて何度か水を飲んだんだと思うの。けど、人間の身体を巡っている水には、お塩とか水以外のものも必要なのね。そういうのは汗で水と一緒に出て行っちゃうの。それが足りなくなって、けど、この暑さで水を飲みたくなって。それで身体の中に色々足りなくなったんだと思う」
「……怪我は」
「傷は殆ど化膿してなかったから、感染症とかは大丈夫。ただ、栄養が足りていないから、傷の治りが遅くなってるんだと思う」
俺が想像を膨らませないように努めているということは、理解出来た。言葉の端をどうにか折ろうとしているのだ。治療の話とは違うことを聞きたいのだとは、直感で分かった。
「違う。いや、違います」
ただ、俺が聞きたいことも、彼女の言葉には含まれていなかった。交渉とも言えない対話を、俺は被害者面で続けた。
「女の子が、一緒にいませんでしたか。彼女は、今、どうしていますか」
七竈の容態は、素人目に見ても安心できるものではなかった筈だった。俺が意識を失った後、すぐに彼女等に助けられたのだとしても、彼女が無事である保証はない。
だが、俺の問いに、女は少し困った様に笑って見せた。軽薄な唇で、彼女は俺の頭を撫でた。
「大丈夫。ハラヤ君の方も、『先生』に診てもらって、薬も投与しているから」
女は七竈の名を唱えた。若干の違和感。情報が欲しかった。俺は散文的な問いを吐き散らした。
「何で彼女の名前を?」
「うちの『メンバー』の中に、知り合いがいてね。それより、君は」
「先生って誰ですか」
「えっ……えっと、この施設を運営している人だよ。お医者さんで、教師もやってるの」
「ここは何処?」
「ここは『第三実験地』……って言ってもわかんないか。先生が集めた学生と、私達の『実験』に協力してくれている家族が住んでいる場所だよ。今は夏の長期実験期間で……」
「実験、理科の?」
「あー……そう、だね。どちらかと言うと、社会の方かなあ。まあ、自然科学と言うよりは、社会科学だと思うよ」
言ってもわかんないか。と、女は頬を掻いていた。彼女は俺があまり学力を有していない人間だと理解しているようだった。見た目からして、それはわかるものだろう。襤褸切れを纏った栄養失調の子供なのだから、十分な教育を受けていないのは明白だった。だが、俺はその時になって、自分の着ている服が替えられていることに気付いた。白い半袖に、黒いズボン。新品ではないだろうが、洗濯はされていて、清潔そうに見えた。
「あぁ、服はちょっと汚かったから、洗濯してるよ。でも、流石にあそこまで擦り切れてるのは、もう着ない方が良いと思うよ」
「それじゃ着るものが無くなっちゃう……い、ます」
「えーと……そう、か。そうだよね」
そう言って、女は頭を抱えた。目の前の少年が置かれている状況について、そこまでは予測していなかったらしい。困惑に眉を顰める女は、そのまま十数秒、何も言えずに下唇を噛んでいた。
そうしている内に、また別の足音が聞こえた。今度は、スニーカーのような安物のそれではなかった。コツコツと少し重い、革靴の音だった。独特のリズムは、その人物が正常な二足歩行をしていないということを示していた。
「やあ、
柔らかな男の声に、目線を上げる。何処かで、優し気な若い男を期待していた自分がいた。けれど、その男の顔面を見た瞬間、ヒュっと喉が狭くなるのを感じた。
男の顔は、皮膚が溶け、髪は毛根から失われているようだった。黒い瞳がぎらぎらと光っていて、閉じ切らない瞼で、薄っすらと俺を捉えていた。足を引きずるようにしてこちらに迫るその容貌が、怪物染みていて、背中に冷や汗が伝った。醜悪さに、ある筈のない死臭を感じて、胃の上部に液体が触れた。口を抑えていると、男は眉があったであろう場所を、じっとりと下げて、口角を釣り上げて見せた。
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