第6話
不機嫌極まりない七竈は、ずっと、こちらに目を向けることもなく、割れた窓の表面を赤く染めていた。俺の口も、パクパクと動くばかりで、声が出ない。静かだった。泥水の中で張り付く睡蓮の不快な感触だけが、俺の五感を刺激する。目を瞑って、七竈の言葉を待つしか、愚鈍な俺に出来ることは無かった。
「さっき」
とん、と、硝子を突く。コンコンと音が響いて、俺は思わず七竈の指先を見つめた。俺の視線を操るように、七竈はその指を俺に向けた。彼女の大きな瞳と目が合う。黒くて綺麗な、光の通らない瞳。何も反射すること無く、ただ光を吸収する彼女の目は、ジッと俺を見ていた。
「……さっきの、僕が作った隙で、逃げることだって、出来たはずだ」
――――逃げる? 何から?
疑問が耳と耳の間を通っていった。七竈の言葉を咀嚼しても、俺の中に答えは出なかった。けれど、彼女は淡々と、その意味を説くように、俺に言葉を投げかけた。
「僕は今、武器を持っていない。包丁だって屋敷に置いてきた。硝子を投げるくらいしか、お前に抵抗出来る術はない。今だって、力尽くで僕を水の中に沈め殺すことだって出来るはずだ」
小さな唇が、動く。彼女は長い黒髪を白い皮膚に貼り付けたまま、首を傾げた。
「気色が悪いよ、お前。何を考えているんだ?」
何を考えているのか。そんな言葉を投げ込まれて、ふと、思考を巡らす。七竈を殺す、七竈から逃げる。この現状から逃れたいという考えが、そもそも今まで浮かばなかったのだ。七竈の残虐性に慄くことはあれど、それをあまり、不快だとも思っていない。
思えば、彼女は俺を言葉で虐げ刃物で脅しはしても、実際に切りつけたり、痛みを伴う行動には出ていない。その答えに辿り着いた時、俺は考えることもなく言葉を吐いた。
「君は優しいから」
俺は理由を置いて、目を丸くする七竈を笑った。
「君は、俺に飯をくれた」
「アイスクリームを口の中に突っ込んだだけだぞ」
「脅すけど、実際に刃物を刺したりはしてない」
「母さんの頭はかち割ったけどな」
「疲れているだろうに、倒れた俺を冷やそうと頑張ってくれた」
「まだあんまり冷えてなさそうだな。脳味噌」
会話にもならない対話の中で、言葉遊びに興じる。七竈の返答は何処か照れ隠しのようにも見えた。俺が彼女を害せると言うなら、それは彼女も同じだったはずだ。それをお互いにしていないのだから、言うも無駄というものだろう。何より、合理的で無感情なはずの七竈が、体格的に脅威である俺を労っているという時点で、やはり彼女は優しい人間なのだ。
故に、俺には一層、わからないことがあった。七竈が、自分の母親達を殺した理由が、あまりにも理解出来なかった。傷ひとつないように見える彼女が、あの美しい、生写しの母親に、痛ぶられているとは到底思えなかった。俺とは真逆の環境だったはずだ。なら、それはきっと、牢獄のような屋敷で外に出られないような生活でも、幸せではあったはずだ。俺とは違うのだから、幸せだったはずなのだ、彼女は。
「……埒が開かない。理解が出来ない」
威嚇する子猫のように、彼女は小さな牙を見せて俺を睨んでいた。七竈の善性に気づいたからか、その表情に小さく笑いかけられる程度の余裕が出来つつあった。俺は足先に硬いものを感じて、それを拾い上げた。それは俺が手遊びしていた銀色の鋏だった。小さな土の粒子が、刃先の上を滑る。
「散髪用の鋏だな。随分綺麗じゃないか。何でこんなところにあるんだ?」
先程までの話をズラしたかったのか、それとも意識が逸れたのか、七竈はそう言って、俺の手から鋏を奪った。俺がそうしたように、一度手の中でシャキシャキショキショキと金属同士を重ねると、水の中にその刃を漬けた。睡蓮を一輪切り取って、掌で揺らす。白い花弁が水を弾いた。それを俺に投げつけると、彼女は空いた手で自分の髪を握った。
「待って!」
思わず出た言葉は、制止を求めていた。七竈はその鋏で、自分の長い髪を乱雑に切り刻もうとしていたのだ。数本の毛髪が白い睡蓮の上に落ちて、水面を揺らす。俺は勢いのまま、彼女の手から鋏を奪い、その細い両手首を掴んでいた。あと少しでも力を入れれば、彼女の腕はぽきりと折れてしまいそうだった。それに気づいて、俺はそのまま動けずに、七竈の上を陣取っていた。
「……何をどれくらい待てと言うんだ?」
七竈の口が動いて、また目の前が白黒に光った。自分の頭の硬さに味を占めた彼女は、今度は俺の鼻を折らんばかりに首を伸ばしたらしい。落ちた鋏を自由になった手で弄び、七竈は悶える俺を見下ろしていた。
「鬱陶しいんだ、この髪」
「綺麗だよ。切るなんて勿体ない」
「綺麗? ただ長く伸ばしただけだ。どうせまた伸びるさ」
かつて人は髪に神性さを見出したというが、それが理解できる程度には、七竈の真っ直ぐで腰を覆うほどに長い髪は、美しかった。それを彼女自身はどうやら嫌っている様子で、嘲笑を絶やさないまま、彼女は俺を睨んでいた。
「結わうことも、切ることも、僕が避けたわけじゃない。母さんがさせてくれなかっただけだ」
そう静かに語る七竈は、やはり何処か、母親を憎んでいるようだった。その憎悪が何処から湧き出ているのかこそ、知る由も無いが、俺は口にするべきではないことを、彼女に放ったのだと。それだけは、確実に理解が出来た。
「お前もその邪魔な前髪を、切ったら良い。きっと、
鋏は、目前に刃を開いていた。七竈は何度も、それは脅す様に、俺に触れるギリギリで金属を擦る。
「――そうだね、切ってみようか」
俺は七竈の腕を掴んで、自分の額に寄せた。数ミリ、目の上の皮膚が滑らかな刃で切りつけられる。俺の精神を表す様にねじ曲がった前髪が、はらはらと泥水に浮く。次いで、瞼の上からはボタ、ボタ、と汚らわしい俺の血液が流れ出た。
広がってなお輪郭のハッキリしない視界。その中で少し泣きそうになっていたのは、鋏を持っていた七竈だったのか、それとも鏡に映った俺だったのかは、永遠にわからないまま、俺は僅かに痛む眉を下げて見せた。
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