第5話

 ――――俺の目の前にいるのは、七竈祓だよ。

 人殺しという単語で装飾するよりも前に、俺はきっと、そう言ってやるべきだったのだろう。けれど、俺が答えを迷っているうちに、彼女は草木の中に「穴」を見つけて、手を振っていた。


「ここだ」


 小柄な彼女の体は、夏の太陽を受けて生い茂った草の葉に隠れてしまっていた。俺はそれらを薙ぎ倒しながら、男の死体を引き摺って、七竈の元に急いだ。彼女の前には黒くポッカリと口を開けた鉄の穴があった。ジリジリと焼き付ける太陽光で、蓋の無いマンホールの縁は、周囲の草の葉先を焼いていた。


「とりあえず、頭から入れてみよう。肩が入れば全部入……っ…………臭い」


 濃厚な腐った卵のような臭いが、俺達の顔面を襲った。下水の臭いだろうか。生ごみの臭いとは違っていた。眉間に皺を寄せて悶える七竈は、きっと鼻が良い方なのだろう。俺はそれを笑いながら、死体の頬を鉄で焼いた。足を持って、男の頭を穴に押し込む。だが、七竈が懸念した通り、どんなに体を折りたたんでみても、太い骨を持ったその男はマンホールの入り口で詰まってしまった。


「仕方が無い」

「その辺に捨てる?」

「いや、切り分ける。そうすればマンホールに入れた後も下水管に詰りにくいだろうし」


 短絡的に七竈は来た道を戻った。切り分けると言われて思いつく方法は無かった。死体というものを、バラバラにするという発想が無かったのだ。


「道具なんてあった?」

「風呂場に糸鋸があったのが見えた。まあ、出来ないことはないだろ」


 七竈の指がくいくいと俺を呼んだ。

 ――――その糸鋸を押し引きするのは俺じゃないのか?

 ふと、そんな文句のようなものが喉奥に垂れる。反射的な心のありように、七竈が気づいていたかはわからない。ただ、その時の俺は、既に七竈への恐怖心のようなものは失っていて、彼女を「友人」というような関係に落とし込んでいた。それが七竈の言葉に蝕まれた証拠だったのか、それとも俺自身が俺の口に侵されたのかは、わからなかった。

 引き摺った死体は既にあちらこちらが擦り切れて、頬に至っては骨の白さが浮き出ていた。筋肉の硬直は未だ解けず、玄関から運び込むのは難しかった。それがわかった瞬間に、七竈は近くにあった木の枝で風呂場に張られた硝子窓を破り、男の死体を押し入れた。その動きは淡々としていて、実に合理的に見えた。

 だが、流石に割れた硝子の上を歩くのは無理だと判断したらしく、彼女は俺を置いて、玄関に走り去った。「靴を取りに行く」と言うので、俺は頷くだけ頷いて、一足先に風呂場へと入り込んだ。途中、指を硝子の破片で切って、ぷっくりと丸くなる血液を眺めた。心臓の動きと合わせて出る体液は、俺が生きた人間であることを示していた。死んだ人間であれば、硝子で皮膚を切ったとしても、どくどくとは出ないものらしい。それを理解出来たのは、割れた硝子の上を転がった死体が、俺の方を見て、僅かに血液を滲ませていたからだった。

 一息吐こうと、浴槽の縁に腰を下ろした。風呂場は俺がよく知る日本風のそれではなく、何処か西洋風と言うべきか、どちらかと言えばシャワールームと呼ぶのが正しいような間取りをしていた。洗面台とトイレ、浴槽が一つの空間に押し込まれて、別荘と言うには窮屈にも感じられた。ふと、その洗面台に、鈍く光るものを見る。ヒビ割れた鏡に自分の顔を写しながら、俺はそれに触れた。形からして、恐らくは鋏だった。あまり見たことの無い、裁ち鋏とも違う、刃先の長い鋏。それをかちゃかちゃと動かして、手遊びに興じる。玄関の方から音がした。多分、七竈が靴を選んでいるのだろう。次第に、脳が霞の中に溶けていった。


「おい」


 無意識に風呂場のタイルを数えていると、七竈が風呂場の戸を開けた。埃を被って劣化したスニーカーが、彼女の白く細い足を覆っていた。白いワンピースに似合わない、黒く汚れた白いスニーカー。それは土で汚れるよりも酷く不恰好に見えた。「早くここから出て、足を拭いてあげよう」と脳の隅に思想が落ちていった。


「何で僕を待っていた」


 七竈にそう言われて、ぼんやりとしていた思考が、僅かに晴れる。そうだ、七竈がいなくても、俺はこの男の一部を切り取るくらいは出来たはずだ。だというのに、俺は自分で動かなかった。七竈が愚鈍な俺を睨むのは、当たり前のことだ。


 ――――何故自分で考えられない? 何も出来ないのか?

 過ぎった言葉は、今までに何度も降りかかった、母親に対する父親の言葉だった。一人では育児ひとつままならない愚鈍な母親に、父親はいつもそう言って、命令を下していた。

 

 息が上がる。横隔膜は動いているのに、酸素が吸えなかった。汗が伝っているのか、それとも七竈が水をかけたのかはわからない。けれど、その体が濡れて、それが、酷く、寒いとは、理解出来て――――

 ――――体が、ずっと、細かく震えて。筋肉はその繊維の一本一本が俺の意識を拒んでいた。


「――――……か……くり……かくり……葦屋幽冥!」


 声が聞こえた。俺の名前を呼ぶのは、芯の通った少女の声。七竈は、俺の両耳をその小さな手で覆っていた。その手先の冷たさは、俺を冷やすには不足していたらしい。意識が朦朧としている間に、俺は泥水の入った湯船の中へ収められていた。きっと、苦労して俺を入れたのだろう。七竈の手足には何処かぶつけた痕もあって、風呂場の床には俺を引き摺ったらしい汚れた跡があった。廃屋という名前には相応しくなく、新鮮な水が浴槽付きのシャワーから溢れる。温い水は錆びたパイプを通って、俺と、七竈を濡らしていた。浴槽の泥水には、何処から種が入ったのか、小さな睡蓮が浮いていた。


「ごめん、俺、眠ってた?」


 目の前で眉間に皺を寄せる七竈に、俺はそう笑った。焦ったような七竈の顔が、何故だか新鮮に思えて、少し頬が綻んでしまったようだった。

 表情を動かさないまま、七竈は俺の額に自らの額を打ちつけた。意外にも彼女は石頭だったらしい。脳が揺れるような感覚と共に、目の前が白黒に瞬く。


「過呼吸を起こして倒れたんだ。体も熱くなっていた。軽い熱中症と……何か、トラウマでも、掘り起こしたんだ。僕が」


 ポツリポツリと七竈は、俺から目を逸らしてそう言った。浴槽から見えるヒビ割れた風景を眺める。俺が目覚めない間に、死体を刻んでいたのか、汗と水に混じって、七竈の手は赤く濡れていた。

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