第7話

 嘲笑でもなければ、無情でもない。ただ驚いているというのが正しい。七竈は滴る血液をその指先で擦り合わせる。粘性に現実を見出したのか、彼女は二回の瞬きの後、鋏を俺の耳元に掲げた。


「お前は馬鹿なのか?」


 軽率に、七竈は俺をそう形容した。今まで大人らしくもあった彼女の語彙は、不思議と俺と近い、子供らしいものに移り変わっていた。


「馬鹿だよ。真面に字も読めない、学校だって飯を食うためだけに行っている。これだけ山を歩き回れる体力があるのに、村から、家から逃げようともしなかった。俺は馬鹿だよ」


 整合性の無い独白に、七竈は酷く呆れていたようで、臭いものでも見たように鼻に皺を寄せていた。その顔からは、言葉にせずとも困惑と一種の苛立ちのようなものが見え隠れしていた。


「……お前がアホ、馬鹿なのは理解出来た。そもそも僕に着いて来ている時点でお前はおかしい」


 そう言って、静かに彼女は立ち上がった。俺の肩を支えにして、七竈はタイルの上に濡れた足を置いた。その手には変わらず鋏が握られていて、先には俺の血液が僅かにこびりついていた。俺が立とうとすると、彼女は「待て」と言って、俺を浴槽の中に押し込んだ。鋏がしゃきしゃきと音を鳴らす。髪に触れられるというのは、初めての経験だった。小学校で配られた工作用の鋏でなら、自分で髪を切ることはままあったが、散髪用と名のついたものが毛髪を落としていくのは、不思議な感覚だった。硬い癖毛が肩の皮膚に刺さる。頭の軽さが次第に変わっていった。もやもやとした脳の霧は消えないものの、首への負担が全く違うのはわかった。


「意外と直毛だったのな、お前」


 金属の音が聞こえなくなった頃、七竈はそう言って、俺の頭を叩いた。舞ったフケと髪の破片が鼻に入って、くしゃみを放つ。鼻水を啜った後に見えたのは、鏡に映る自分だった。

 鋭利さを伴った目元は、母親にも父親にも似ていない。硬さばかりが目立つ頬骨と、切れた瞼の赤み。黒髪と暗い黒眼は七竈と同じだが、俺には圧倒的に、透明感が損なわれていた。拙い少女の手で整えられた頭髪は、所謂虎刈りだったが、伸ばしっぱなしのそれよりは幾分かマシだった。


「シャワーでも浴びて行くか?」


 死体を踏みつけながら、七竈は笑っていた。確かに口角が上がっていた。嘲笑に近いそれは、親しみを帯びて俺を貫いた。


「いや、すぐに汚れるから」


 そうか。と、彼女はすぐに口角を下げた。死体の上に糸鋸の刃を添えて、今度は俺に目を合わせた。無言の合図に、俺は糸鋸を受け取って、押し引きする。工具は肉を裂くのに向いていない。初めて触れた道具だ。そもそも、俺の使い方があっているのかすらわからなかった。もたついていると、俺の手に七竈の手が重なった。


「もう良い。これはここに置いて行く」


 少し疲れた様な、掠れた息を混ぜる。七竈は、湿った吐息を吐ききった後、黙って俺の腕を引いた。

 廃屋の外に出ると、日は真上に飾られ、頭皮に熱を感じた。虱が焼け死んでいるのか、じくじくと毛穴が痒みを発した。木陰に全身が包まれた頃、俺は急ぐ七竈を引き留めるように、立ち止まった。背側に重心がズレて転びかけた彼女は、足を後ろにかけて、体勢を立て直す。重心が前に戻ってすぐ、振り返って俺を睨んだ。肩が跳ねる。それでも、勢いのままに俺の口は滑り続けた。


「カルト、だっけ。死体がその人達に見つかるかも」

「見つかったところでどうもならないさ。あちらもマンホールに死体を流している。なら、通報などは出来ない筈だ。見知らぬ死体を見つけたところで、静かに自分達で処理をするしかない」

「もしも俺達がやったと知られたら?」


 髪を掻き上げて、七竈は俺を見上げた。彼女の視線が、今までになく痛かった。


「先に警察をぶち込んで潰す」

「お、俺達が隠した死体まで見つかるんじゃ」


 反論に、七竈は不思議そうな顔をした。目を丸くして、首を傾げる。それは多分、本当に困惑しているわけではないのだろう。「そんなこともわからないのか?」というジェスチャーを挟んで、彼女は再び口を開けた。


「割れた硝子窓の傍に、硝子コップの破片が三つ混じっていたところで、お前はそれを全て拾い上げて分類し、何故割れたのか、何故混ざっていたのか考えるか?」


 そういうものだよ。と、七竈は揺れる。踊るようにステップを踏んで、彼女は俺の前を進んだ。

 途中、俺達は靴を蹴り上げて捨てた。血のついた二つの足跡はそこで途切れ、草むらに消えた。裸足で進む草の上はこそばゆかったが、気分は悪く無かった。たしかに、これでは俺の靴を履いて歩く方が、七竈にとっては不快だったろう。夏の植物の冷たさに揺られながら、水の音を耳に注ぎ入れる。行きも通った沢の前、七竈は立ち止る。覗き込んでみると、彼女は額に汗を溜めてずっと虚ろに水の流れを見ていた。


「七竈?」


 声をかけると、一瞬、ピクリと手を震えさせ、目を瞑った。


「向こう側に血痕がある。あれを辿ると往復がバレる。少し沢を上がろう。そこに車輪の跡があるはずだ」

「よくわかるな」

「僕達が通って来たのは獣道だ。反抗的な人間を山の奥に連れて来るなら、車両は必須だろう。屋敷の傍を通る道は、沢の上に続いて、獣道とは交差していない」


 それなら。七竈は尻切れトンボにそう呟いて、沢を歩いた。足首まで浸かる水の中、流れに逆らうのは体力を削るようで、すぐに彼女は息を上げた。その短い息が、どうも死ぬ直前の妹と重なって、俺は七竈の前に出た。彼女の言う車の痕跡を探しながら、水の勢いを殺す。俺が前を歩くと、少しだけ七竈の歩く足が大きくなった。小さく「すまない」と声が聞こえた。それが感謝の意を示しているのだとは、その時に気付くことは出来なかった。


 多分、数百メートルは沢を歩いただろう。途中、俺は七竈の手を取って、少し引きずるようにして進んでいた。というのも七竈がそうしろと言うものだから、それに従った結果、そうなったのだ。当初は日を遮っていた木々は上流に行けば行くほど消えていき、白い石の反射が熱を生み出していた。時々水を飲んだが、それでも喉は乾いて仕方が無かった。七竈の手は何分握っても、氷のように冷たいままだった。

 ふと、目の前に白く平らな岩を見る。ぎゅっと額に力を入れると、それが混凝土で作られた簡易的な橋であることに気付いた。


「あれかな、車が通ってたのって」


 俺がそう呟いても、背後から声は聞こえなかった。否、何か言っていたのかもしれないが、それは水飛沫に混じって搔き消えたのだろう。


 ――――バシャン、と大きな音を立てて、七竈は前のめりに倒れ込んだ。顔面を水に漬けて、僅かな息が泡沫を作る。彼女の手はするりと俺の手から落ちた。


「七竈?」


 反射的に、俺は彼女の顔を水から引き揚げた。顔を太陽に晒す。背中を水に漬けた。彼女の四肢は氷のようだった。しかし、顔と胴体は触れてわかる程に熱を溜めていた。それでもなお七竈の口は青く、歯がカチカチと鳴る。

 思考は白く塗りつぶされて、纏りを失う。口元から流れる水が、七竈の体液なのか、それとも飲み込んでしまった川の水か、それだけが頭の中で反復する。


 どうしたら良い? どうするべきだ?


 その問いに答える少女は、今目の前で、空虚を見ていた。そうして時間が過ぎるうちに、脳が焼かれる。

 視界が暗くなっていく。温度感は既に無い。遠くに聞こえたのが、野犬の唸り声だったのか、それとも車のエンジン音だったのかは、定かではなかった。

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