第2話
俺の答えに、少女は暫くの沈黙を返した。息を吸う音が聞こえる程、山は静かだった。
「なら、こっちに来い」
少女はそうやって艶めく声を舌先で転がした。彼女の言うこっちとは、塀の向こうであることに違いはない。俺は再び塀にしがみついて、何度か転げ落ちながらも、塀の上に上った。有刺鉄線の針は見た目ほど恐ろしくはなかった。周囲を確認しないまま、俺は塀から飛び降りた。有刺鉄線で爪先を切ったが、あまり痛みは感じなかった。庭に落ちる。そこに少女はいなかった。
生白く細い手が、窓から出ていた。その手に誘われて、俺は芝生の上を歩いた。上等な青芝は足に纏わりつくようだった。窓枠に手をかける。冷房の風が外に漏れ出ていた。その冷気に混じって匂い立つのは、新鮮な鉄分だった。
部屋の中で、少女は「早く入って来い」と不思議そうな顔をしていた。軽やかな彼女の足先。その側にはピンク色の物体が飛び散っていた。赤い斑模様の部屋は、中心に女の形をした肉を飾っていた。その女は少女とそっくりの黒い瞳をひん剥いて、口は大きく笑っているようだった。長く艶やかな黒髪の束、その間から、肉とも脂肪の塊ともつかないモノが、ゴロンと外に漏れていた。それが人間の脳というのだとわかったのは、少女がそのピンクの物体を足先で滑らかに砕き始めた後のことだった。
「いつまでそうやって惚けているつもりだ?」
窓の外で口を開けているだけの俺に、少女が言う。彼女の表情は変わらない。この空間が異常だということは理解出来ていた。故に、足も手も、動かなかった。眼球だけが俺の意思とは別にギョロギョロと間取りを舐め回していく。部屋は所謂ビジネスホテルの一室を広くしたようになっていた。俺が目線を飛ばした先、少女は部屋の角にあった小さな冷凍庫の扉に手をかけた。
「やっぱりここに隠していやがった」
少女はそう言葉を吐いて、冷えたバケツを抱えた。中身が詰まっているのか、彼女は少しふらつきながら、窓辺に駆け寄る。
「ほら、おやつのアイスクリーム。おやつの時間になったら、厨房にあるやつをお姉ちゃんが取り分けるんだけど、いつも母さんに殆ど取られるんだ。母さんはいつもこれをここで食べてるのに、僕のおやつの分まで勝手に食べてしまう。でも、今日からは全部、僕のなんだ」
幼さを讃えた口元で、少女はバケツの蓋を取る。そこには白い塊が詰まっていた。漂う甘い香りがバニラの匂いだというのを知ったのは、高校生になった後のことだった。俺はアイスクリームの表面を指先で突いた。冷たさが割れた爪に響いた。少女は床に落ちていた包丁でアイスクリームを切り出す。一塊の乳固形分を手に取って、血液と溶け合うそれを頬張った。彼女を包む白と赤のコントラストが目に痛い。そうやってまるで獣か魔物のように振る舞う少女は、しかしそうすることでより美しさを増していった。
「ん」
唐突に、少女は溶けかけた白い塊を俺に差し出した。情報過多に脳が追いつかない。俺はそっと舌先を少女の手に近づけた。恐る恐る冷気を吸う。
瞬間、鼻先と唇、舌の全てに、痛みにも似た甘みを感じる。甘い香りと濃厚なミルクの味に溺れかけ、俺は口を精一杯に開けた。細く柔らかな指が俺の舌を掴んだ。引っこ抜きでもするのかと思う程の力で、髪を引っ張られる。俺の頭は丁度、窓を断頭台に見立てるような形で、少女の前に固定されていた。
「吐くな」
冷たく鋭い声が耳元に囁く。それは確かに少女の声だった。刃物こそ差し向けられていないが、アイスクリームで溺死させられるのではないかと、不安が過っていた。
「飲み込め。全部、僕の言う通りにしろ。でなければ、お前も母さんみたいに脳天かち割ってやる」
母さんと呼んで少女が視線を向けたのは、部屋の中央で赤い花を咲かさせる女の死体だった。
「いや、それとも、冷蔵庫だの金庫だの全部漁って、階段下に吊るしてやるか? 飢えた少年が屋敷に忍び込んで盗みを働くも住人に見つかって殺害。我に帰った少年は罪の意識から首を吊ってしまいました……悪くないシナリオだな?」
声は決して笑っていない。だがそこに嘲笑が含まれていることはわかった。俺は口の中身を全て飲み込んで、やっとのことで息を吸った。少女は俺が呼吸したことを確認すると、ズル、と俺の体を引き上げて、部屋の中に引き摺り込む。
床に落とされて見上げる少女の瞳は、新月の日の夜よりも暗く、蜂蜜よりも粘着質に俺の視線を絡め取った。
「お前は今、アイスクリームを食べた。協力の約束は覚えているな?」
「……あ、う」
「覚えているのかいないのか、はっきりしろ。それとも何だ、口を切ったか?」
「い、いや、いや、覚えている」
「そう。それなら良い」
協力という言葉に、違和感があった。彼女のやっていることはどちらかと言えば脅迫だった。ただ、そう口答えが出来る立場でも無く、俺は口元に残っていたアイスクリームを舐め取って、少女の言葉を待った。初めて食べるアイスクリームの味は、鉄分を含んでいて、苦々しくも甘ったるかった。
「まずは、端的に僕がして欲しい事を説明しよう。おかわりはいるか?」
俺は反射的に首を横に振った。「そうか」と呟く彼女は、残ったアイスクリームで口を汚しながら、一方的に話を続けた。
「山の少し奥に廃屋がある。そこの近くにあるマンホールに、死体を二つほど捨てに行きたいが、僕一人の体力では到底無理だ。よって、死体運びその他諸々を、手伝ってほしい。簡単だろ?」
死体を二つ。そう言われて、俺は部屋の中央を見た。これが一つ。では、もう一つは何だ。
「一つはあそこに転がっている僕の母親だ」
「……もう一つは?」
「意欲的でよろしい。ちょっと手伝え」
少女は俺の腕を引いて、部屋のベッドの側に誘導した。彼女の腕に導かれるまま、俺は床に這いつくばって、ベッドの下に腕を入れた。少女と共に触れた指の先に、冷たい人間の皮膚があった。少女の掛け声に合わせて、それを引っ張り出す。硬直した筋肉を無理に動かしたせいか、何処かがバキッと音を立てて折れた。
その死体の顔を、俺は村で見かけたことがあった。確か、別荘地の庭を管理している園芸店で働いている男だった。彼は額にポッカリと穴を開けて、脳漿を漏らして死んでいた。
「朝、母さんと寝ていた男だ」
「額に穴が……」
「寝ている間に電動ドリルで開けた」
死体と一緒に引き摺り出されたドリルを少女は指差す。肉片の付いたドリルの先は、確かに「穴」と同じ大きさをしていた。彼女の言葉を脳内で反芻しながら、部屋を見渡す。これだけの惨状を、この少女が一人で行ったというのか。この死臭纏う少女は、一体、何故こんなことをして、平気な顔をしているのか。
俺が狼狽えているのを理解していないのか、それとも俺の心情に興味が無いのか、少女は俺を置いて淡々と手を動かした。
「一気に持って行くのは難しい。一人ずつだ。まずは男から。体力があるうちに重いものを片付けてしまおう」
まるで引っ越し作業でもするように、少女は硬い男の腕を折り曲げていった。
その時になって、ふと、あることを思い起こした。「なあ」と口を開く。「なんだ」と睨む少女を宥めるように、俺は少ない語彙で当たり障りのない表現を選ぼうと必死だった。
「もう一つ、あるんだ。死体」
俺は正門の方向を指差して、震える口角を上げて見せた。
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